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【学長通信】柳田國男と折口信夫

学長通信

先月に続いて、日本民俗学創世期の話をもう少し。柳田國男を語るとき、どうしても外せないもう一人の巨人に折口信夫がいます。折口は、民俗学、国文学、芸能史などを領域とする研究者としての顔、釈超空という筆名の歌人、詩人、作家としての顔、さらには性的少数者としての顔をもつ豊かで複雑な人格の人物でした。

このため、折口については、これまで民俗学だけでなく、様々な視点からの検討が行われてきました。門下生の回顧として、池田彌三郎、加藤守雄、岡野弘彦、西村享らの著作があり、文学者たちの評伝や研究として、山本健吉、山折哲雄、藤井貞和、吉増剛造、持田叙子などがあり、さらに、富岡多恵子や安藤礼二による新しい折口像の提起などもなされています。そして、そうした探求は、現在も続いています。ただ、ここでは、直接、民俗学に関わる領域に絞って、折口と柳田の接点をみていくことにします。

先月の学長通信にも書きましたように、日本民俗学の出発点は、柳田國男の『遠野物語』や『後狩詞記』、『石神問答』にあったといっていいでしょう。そして、この柳田の初期の関心が、柳田と折口を結びつけたように思われます。柳田との出会いを、のちに折口は次のように回顧しています。「私は先生の学問に触れて、初めは疑ひ、漸(ようや)くにして会得し、遂には、我が行くべき道に出たと感じた歓びを、今も忘れないでゐる。この感謝は私一己のものである」(『古代研究』「追ひ書き」全集3)。

とはいえ、柳田と折口の関係は、学者の師弟関係としては、当初から、一貫してかなりの緊張関係を孕(はら)んだものでした。折口の柳田との初対面は、大正4(1915)年6月の「郷土会」の席と推定されていますが、それより2年前、折口は、柳田が創刊した雑誌「郷土研究」に原稿を投稿しています。大正4(1915)年には「郷土研究」に2号(大正4年4月、5月)にわたって「髭籠(ひげこ)の話」が掲載されます。髭籠(ひげこ)とは、竹で編んだ籠の編み余りを髭のように回りに残したものをいいますが、だんじりなどの祭りの際に長いひげのような装飾を高い柱の上部に周り一面に垂らしたものも「ひげこ」といいました。折口は、これを太陽神の依代(よりしろ)と考えたのです。

これが神樹論を検討した柳田の「柱松考」(大正4年3月)と相まって、初期の日本民俗学の方法となったといえます。柳田は、「柱松考」を発表する前に、折口の「髭籠(ひげこ)の話」を受け取り読んでいたと考えられますから、『遠野物語』につながる関心を共有できるものの出現として意を強くしたかもしれません。しかし、この「幸福」な関係は、早い時期に失われます。それは、柳田の関心が、『遠野物語』の頃の「山人」から、その後、「常民」へと転換したためです。「常民」とは、一般社会における普通の人々であり、その普通の人々が営んでいる日常生活、そこでの生活習慣や生活意識こそを解明すべきとしたのです。

それゆえ、同じ日本の神についてみる場合も、柳田にとっての神は、祖先神=産霊(うぶすな)神であったのに対し、折口にとっての神は、異郷から訪れるまれびと神でした。関心の対象となる人々も、柳田は、定住者すなわち自作農や自営業者であったのに対し、折口は、非定住者、非農民、漂泊民であり続けました。

折口は、自らの学問を『古代研究』として世に問います。民俗学編1、民俗学編2、国文学編の3冊からなるこの著作が、最初に出版されたのは昭和4(1929)年東京大岡山書店からでした。折口は、この国文学編の冒頭に、まれびと論(「国文学の発生」第三稿)を掲げます。しかし、この論考は、最初に、柳田の主催する雑誌『民族』へ投稿され、柳田はこの掲載を拒否しました。

折口のいう「まれびと」とは、来訪する神をいい、「神が時を定めて、邑々(むらむら)に下って、邑の一年の生産を祝福する語を述べ、家々を訪れて其家人の生命・住宅・生産の祝言を聞かせるのが常である」、巫祝(ふしゅく)あるいは語部に取り付いて呪言を述べる異界ないし異郷の神でした。「私は折口氏などとちがつて、盆に来る精霊も正月の年神も、共に家々の祖神だらうと思つて居るのである」、「折口君は直感が早すぎる」。柳田は、このように折口を批判するようになります(西村亨「まれびと」『折口信夫事典 増補版』大修館書店、1998年)。

日本民俗学が解明すべき課題、そのための研究対象・対象分析の方法が、柳田において、早期に転換したことが、そうした折口との緊張関係を高めたのでしたが、そこでのキー概念は「常民」でした。柳田自身は、第二次大戦後、常民について次のように語っています。「庶民を避けたのです。‥‥常民と庶民をおのずから分って、庶というときはわれわれより低いもの、インテリより低いものという心もちがありますし、常民というときには、英語でもコンモンという言葉を使う。コンモンスという言葉は卑しい意味はないのだということをイギリス人はなんぼ講釈したかわからない。フォークというのでもそれ自身が見さげたことではない」(『近代文学』新年号、1957年)。

しかし、仔細に見ていくと、この「常民」概念は、柳田自身においてもかなりの変遷を経たようです。第一段階は、日本人の先住民としての山人と里方の常民という把握で、里人=常民は研究対象ではありませんでした。『遠野物語』の時期です。第二段階は、上層の人と区別した大衆や庶民、凡人に近い用法で、「所謂民間伝承を保持する人々」が常民となりました。これらの人々が研究対象となり、そのために柳田は膨大な資料収集を行います。昭和戦前の時期です。第三段階は、単に普通の人々ではなく普通のことをしている人々が常民であるというもので、「文化概念としての常民」というような把握がなされています。第二次大戦後に、自分の研究を総括する時期で、上述の『近代文学』での座談会がそれを示しています(鳥越皓之「常民と自然」『国立民俗博物館研究報告』第87号、2001年)。

これに対し、折口は、遊民であり、漂泊者であり、少数者であるという立脚点を生涯保持しつつ、日本人の精神生活の原点を追求し続けたのでした。折口が現在まで多くの人々に言及され、研究され続けるのは、この故でしょう。

学長  伊藤 正直