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学長通信

2021年度

5月 公文書管理のあり方をめぐって

先月に続いて文書館の話をもう少し。文書館のなかで大きな位置を占めているのは公文書館です。公文書とは、国や地方自治体などの行政機関が行う諸活動やその結果として生まれた歴史的事実の記録をいいます。このうち国や独立行政法人の記録を管理・保存・利用するための施設が国立公文書館で、「行政文書等の適切な管理、歴史公文書等の適切な保存及び利用等を図り、もって行政が適切かつ効率的に運用されるようにするとともに、国及び独立行政法人等の有するその諸活動を現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにする」(「公文書管理法」2009年7月法律第66号)ことが、その目的とされています。

公文書館は、現在、世界の多くの国に設置されていますが、日本の公文書管理法が規定するような意味での公文書館が誕生したのは、近代に入ってからのことでした。欧米で最も早かったのはフランスで、フランス革命の翌年1790年に開設されました。自らの施策の民衆への告知と、施策の保管・維持が設立の目的でした。イギリスの公文書館(The National Archives, TNA)設立はフランスに遅れること約半世紀の1838年、そこには11世紀以来のイギリスの内政と外交に関わる膨大な公文書類が保管されています。ロンドン郊外の王立植物園(キュー・ガーデン)の一角に建つ白亜の建物が現在のTNAで、その保有資料は、政府関係者、研究者だけでなく、広く一般に公開されています。

アメリカでは1934年に公文書館法が制定され、公文書館(National Archives and Records Administration, NARA)専用のビルがワシントンD.C.に設置されました。ここには、「独立宣言書」のほか「権利章典」、奴隷売買契約書、移民記録、従軍記録、外交文書、連邦各省庁の記録が保管・管理されています。その後1994年にワシントンD.C.郊外のメリーランド州カレッジパークに新館が設置され、新館には、第一次世界大戦以降の諸資料や、占領行政関係資料、写真や映像フィルムなどが保管・管理されることになりました。日本占領期のGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官)文書もここにあります。

アジアにも公文書館は広く存在します。中国では歴代王朝が、前代王朝の正史を編纂(へんさん)する役割を負うこととされてきたため、政府文書の系統的保管が伝統となっており、近代中国の公文書館もそうした枠組みを引き継ぐ形で発足しました。現在、中華人民共和国には、明清代の公文書を保管する第一歴史档案(とうあん)館、中華民国期の公文書を保管する第二歴史档案館、1949年以降の公文書や中国共産党関連文書を保管する中央档案館の3館が、公文書館として設置されています。韓国では、1969年に政府記録保存所が開設され、植民地時代の旧朝鮮総督府文書と韓国政府文書を系統席に整理・保管する体制が整備され、2004年に国家記録院と改称され、現在に至っています。

東南アジアの公文書館も独立以後続々と開設されました。1945年に独立したインドネシアは1950年、1957年に独立したマレーシアは1957年、1965年に独立したシンガポールは1968年に、それぞれ国立公文書館を開設しています。また、唯一独立を維持してきたタイでも1952年に国立公文書館を開設しました。長い植民地統治とその後の南北分断、ベトナム戦争を経験したベトナムでは、1963年に、国立公文書センターがフランス植民時代のハノイ中央文書館を引き継ぐ形で開設され、その後、第二次大戦後の南べトナム政府文書や1976年以降の南部地域公文書を保管する第二国立公文書センターがホーチミン市に、同じく第二次大戦後の北ベトナム政府文書や1976年以降の北部地域文書を保管する第三国立公文書センターがハノイ市に開設され、この3館で公文書の保管・管理が行われています。

こうした世界の公文書館の歴史と比較すると、わが国の公文書館が開設されたのは、かなり遅くなってからで、1971年のことでした。国立公文書館設置の要望は、1959年の時点で、日本学術会議会長から内閣総理大臣に勧告が出されていたのですが、設置まで12年かかったのです。国立公文書館は、1987年に公文書館法、1999年に国立公文書館法が制定され、国の各機関が所蔵している公文書などの保存と利用(閲覧・展示など)に関する責務を果たす施設として、正式に位置付けられるようになりました。また、1998年にはつくば研究学園都市内に、つくば分館を設置して、書庫等の拡充を行い、公文書収集の条件を拡張しました。さらに、2001年には、国立公文書館の組織としてアジア歴史資料センターを開設し、国立公文書館および外務省外交史料館、防衛省防衛研究所図書館などの国の機関が保管するアジア歴史資料をデータベース化し、インターネットなどを通じて情報提供を行うようになりました。

2001年の情報公開法、2011年の公文書管理法の施行により、日本の公文書管理体制は、21世紀に入って、制度的にはようやく一定整備されました。しかしながら、上に述べた欧米やアジアの公文書管理体制に比べると、いまだにかなりの立ち遅れがみられるといわざるを得ません。例えば、職員数だけを見ても、日本の国立公文書館(188人)は、アメリカ(3112人)の17分の1、ドイツ(790人)の4分の1、イギリス(600人)、フランス(501人)の3分の1、韓国(471人)と比べても半分以下ですし、公文書の収容能力でも、日本(64㎞)は、アメリカ(1400㎞)の22分の1、韓国(367㎞)の6分の1、フランス(350㎞)、ドイツ(330㎞)の5分の1、イギリス(200㎞)の3分の1にすぎません(2018年現在、国立公文書館「アーカイブズ」69号)。さらに、情報公開の面でも、重要公文書の公開ルール、例えば、作成後30年経てば公開するという「30年ルール」が、多くの国で定められ、期間短縮が進められているのに、わが国では、この原則は全く定着しておらず、公文書移管の権限も公文書館側ではなく、作成官庁側にあります。

じつは、ここにあげたほとんどの公文書館に、私は過去何回も、資料収集を目的として訪問しました。また、各国公文書館加盟NGOのICA(国際公文書館会議)の世界会議(ICA世界大会)、これは4年に1回開催されているのですが、この2008年世界大会(クアラルンプール)に参加し、報告をしたこともあります。毎回、2,000人以上が集まる大規模な大会です。こうした個人的な体験からも、日本の立ち遅れを痛感しました。

情報公開法は、「行政機関の保有する情報の一層の公開を図り、もって政府の有するその諸活動を国民に説明する責務」(情報公開法総則)が政府にあるとしています。公文書管理法は、公文書は「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」であり「主権者である国民が主体的に利用し得るもの」(公文書管理法総則)と規定しています。この間、これらの原則から背馳(はいち)する事例が多々見られる現状を一刻も早く克服し、法の精神に沿った運用がなされることを期待したいと思います。

学長  伊藤 正直

4月 図書館・博物館・文書館

記録媒体としての「紙」の役割、その歴史について触れたことがあります(『学長通信』2020.10、「『紙』はどうなる?」)。さまざまな出来事を記録した記録媒体が現在まで残されてきた、そして、そのことを論じた調査・研究が数多くしるされてきたからこそ、『学長通信』でそうしたエッセイを書くことができたのですが、では、どうして、そうした記録媒体が残されてきたかといえば、それを保存し、管理し、整理する場所、あるいは組織・機関が歴史的に存在してきたからです。図書館(library)、博物館(museum)、文書館(archives)といった組織がそれです。

現在は、この3者はそれぞれ別個に存在し、その役割も区別されています。図書館は、日本の「図書館法」では、「図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資することを目的とする施設」とされています。図書館は、利用者の種別によって、国立図書館(national library)、公共図書館(public library)、大学図書館(academic library)、学校図書館(school library media center)、専門図書館(special library)、その他の施設に設置される図書館に分けられますが、あらゆる人々が自由に図書館を利用できるようになったのは、この公共図書館の成立によってで、それは19世紀後半のことでした。公共図書館では、「図書館資料の選択、発注及び受け入れから、分類、目録作成、貸出業務、読書案内などを行う専門的職員」として司書を置くことが義務付けられています。

博物館は、日本の「博物館法」では、「歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関(社会教育法による公民館及び図書館法による図書館を除く)のうち、地方公共団体、一般社団法人若しくは一般財団法人、宗教法人又は政令で定めるその他の法人が設置するもの」をいうとされています。「博物館法」は、その業務を遂行するために、博物館に館長と学芸員を置くことを義務付けています。もっとも、日本では、博物館は、これまで展示施設ないし教育施設、レジャー施設として位置づけられてきた側面が強かったため、図書館とは異なってその多くが利用料を徴収しています。

文書館のうち公文書館については、「公文書館法」では、「歴史資料として重要な公文書等を保存し、閲覧に供するとともに、これに関する調査研究を行うことを目的とする施設」であって、「公文書館には、館長、歴史資料として重要な公文書等についての調査研究を行う専門職員その他必要な職員を置くものとする」とされています。2009年には、「公文書管理法」も施行され、公文書管理の基本事項が定められています。もっとも、実際にこの法律に基づいて、適切に公文書の管理が行われているかどうかについては、近年、「モリカケサクラ」などとも絡んで、多くの疑念や批判が提出されています。公文書館以外に民間の文書館も数多くあります。企業の内部資料を保存・管理する企業アーカイブ、大学や研究機関の資料を保存・管理する大学・団体アーカイブも数多くあり、最近では、ウェブ上で史資料を保存管理するウェブ・アーカイブも登場しています。

このように、今日では、この3者は別個に位置づけられ運用されていますが、もともとは、この3者は未分化で、同じような性格を持っていました。歴史的には、文字資料を保管し、情報資源として利用したであろうという最初の施設は、紀元前3000年頃のメソポタミアにあったといわれています。考古学上明らかとなっている最も古い図書館は、古代アッシリアのアッシュール・バニパル王の設立した王立図書館で、粘土板の図書約3万枚を集めていたとされています。その後、紀元前3世紀にできたアレクサンドリア図書館の蔵書は40万冊といわれていますし、ルネサンス時代には、多くの都市に大学図書館が誕生し、メディチ家のような裕福な権力者も個人図書館を設置します。20世紀初めには、カーネギーが、アメリカに3,500もの公共図書館を設置します。

アジアのほうに目を向けると、中国では、周・漢以降、古代各王朝の政事記録が档案(「とうあん」あるいは、「たんあん」と読む)館に保管され、これは現代のアーカイブにほかならず、図書館施設の起源ともいうことができます。日本では、大宝元(701)年に国の蔵書管理組織としての図書寮(ずしょりょう)が設けられ、奈良時代末には、公開利用ができる私的図書館として芸亭(うんてい)がつくられました。その後も、綜芸種智院、金沢文庫、足利学校、紅葉山文庫など、各時代を代表する図書施設、資料集積拠点が発展しました。

近代的な図書館思想を日本に初めて紹介したのは、福沢諭吉『西洋事情』でした。「西洋諸国の都府には文庫あり。『ビブリオテーキ』という。日用の書籍図画等より古書珍書に至るまで万国の書皆備わり、衆人来りて随意にこれを読むべし」とあります。こうして、明治政府により、1872年、湯島聖堂の地に文部省書籍(しょじゃく)館が設置され、これが紆余曲折を経ながら、帝国図書館となり、戦後の国立国会図書館へとつながっていきます(高山正也『歴史に見る日本の図書館 知的精華の需要と伝承』勁草書房、2016年)。

この帝国図書館の始まりから終焉に至る過程でのいくつかのエピソードは、中島京子『夢見る帝国図書館』(文藝春秋、2019年)という小説で知ることができます。物語の主人公、戦災孤児だったという喜和子さんと<私>との交流の時々を主軸とし、その間に、上野の森に建設され、現在では国際子ども図書館となっている帝国図書館をめぐる歴史的エピソードが挟み込まれるという形式をとったこの小説は、「真理がわれらを自由にする」という国立国会図書館図書カウンター上部に刻まれている言葉で閉じられています。

現代の図書館、博物館、文書館は、そのいずれもが、知識・記録・文化資源を扱い、これが人々(一般公衆)の「教養、調査研究、レクリエーション」に資することを目的としています。国際図書館連盟(IFLA)は、2008年に、この3者の戦略的連携に必要な「報告書」を発表しました。英国や米国では、すでに図書館法と博物館法が統合されていますし、カナダでは国立図書館と公文書館が統合されました。文化の多様性、地域発展、社会教育の推進のために、この3者の協同・協力関係を強化していこうというのです。世界的には、デジタル・ライブラリー、デジタル・アーカイブスへの動きも急速です。図書館、博物館、文書館のそれぞれの機能を見直し、より有益な組織として機能するようにすることが求められていると思います。

学長  伊藤 正直

2020年度

3月 「生きづらさの質」をどうとらえるか

昨年末12月29日夜に、NHKBS1でイッセー尾形の一人芝居「ワタシたちは ガイジンじゃない!日系ブラジル人 笑いと涙の30年」を観ました(今年2月11日、NHK総合で再編集のうえ再放送されました)。1989年の出入国管理及び難民認定法(以下、入管法と略記、施行は1990年)で、「定住者」在留資格が日系3世まで与えられ、日系外国人が労働者として日本で働くことができるようになりました。これにより、多くの日系外国人が来日し、とくにブラジルでは「デカセギブーム」とも呼ばれる現象が起きました。番組は、夢を抱いて日本にやってきた日系ブラジル人の青年たちが、30年間日本で見た光景をえがいたものです。一人芝居の脚本は宮藤官九郎。

一人芝居の舞台は、日系ブラジル人が多く居住する名古屋市港区の団地広場。観客席は広場に設えたパイプ椅子で、団地住民の日系ブラジル人の人たちも多く座っていました。番組はドキュメンタリーと芝居を組み合わせたとても心に刺さるものでした。イッセー尾形は、明治時代にブラジルに移民する日本人を激励する老人、団地自治会の自治会長、日系ブラジル人とともに働く女性、同じく施設工事の現場監督、日系ブラジル人ロベルトなどを演じ分け、幕間では、一人芝居を観劇した日系ブラジル人の人生、脚本のモデルとなった団地や工場でのエピソードが、ドキュメンタリーとして紹介されていきます。番組プロデューサーの板垣淑子さんによれば、「エピソードは全て実話に基づいています。観客も実際に出来事を体験された方たちです。その反応も含めて一つのドキュメントにし、観客も出演者になっていただきました」とのことです。

1989年の入管法改正以降の在日日系ブラジル人の動向や推移、抱えてきた課題と困難については、これまでかなりの調査や研究があります。日系ブラジル人の集住地域、愛知県の豊橋市、豊田市、名古屋市、静岡県の浜松市、群馬県の太田市、大泉町などが調査対象地域でした。この番組の名古屋市港区九番団地もその一つです。

入管法改正時には5万人程度だった在日日系ブラジル人は、法改正後急増し2007年にはピークの31万人を数えます。しかし、リーマンショック後には減少に転じ、現在では21万人ほどです。その背景には、文化的社会的差異・分断がありますし、より根底には日系ブラジル人労働者の大部分が非正規労働者、派遣労働者として就業し、不況とともに真っ先に解雇されてきたことがあります。番組は、こうした事実を淡々と時にユーモアを交えて語っていきます。

在日日系ブラジル人の抱える困難については、「多文化共生」、「社会的包摂」といった文脈で検討されることが多く、それはそのものとして重要とわたしも考えます。ただ、この番組を観ながら考えたのは、少し違ったことでした。じつは、この番組で、もっとも心に刺さったのは、芝居の最後に日系ブラジル人ロベルトに扮したイッセー尾形が団地広場のベンチで隣の若い女性と交わした会話でした。30年の日本生活で孤独死に追い込まれるロベルトに対して、若い女性が「私のほうがつらい」と語るのです。

30年間のロベルトの「つらさ」を実感できない若い女性。一人芝居の最後にこの女性を登場させたことの意味をどう考えたらいいのでしょうか。この女性の語る「つらさ」、家庭や学校や地域で彼女が直面する「つらさ」があるのに、なぜロベルトの「つらさ」を実感できないのか、ロベルトに共感できないのか。先に引用した番組プロデューサーの板垣淑子さんは、「我々はまだまだ外国人の方に壁を作っています。壁の向こうに追いやられている外国人の方々にとって、それがどれほど残酷なことかを知り、日本社会の一員として受け入れる覚悟を、30年目にして持っていただくきっかけにしていただければ」とも語っています。この壁を象徴するものが最後に登場した若い女性だったのかもしれません。

ただ、私の感想は、もう少し違ったものでした。番組プロデューサーの板垣さんに倣っていえば、ロベルトも若い女性も、ともに壁の向こう側に追いやられている存在ではないかという思いです。番組を観ながら連想したのは、津村記久子の一連のお仕事小説でした。津村のお仕事小説には、働く若い女性がしばしば登場します。ただし、大企業でバリバリ働くキャリアウーマンは全くと言ってよいほど登場しません。多くは派遣や契約の非正規社員、あるいは、いわゆる一般職の事務補助社員です。男性もほぼ同様です。

『ポトスライムの舟』、『ポースケ』には、食い扶持のために、「時間を金で売る」虚しさをやり過ごす工場勤務の29歳女性、前の会社でパワハラにあって退社して睡眠障害に苦しむパートさん、会社の不条理な配置転換をしぶしぶ受け入れたOLなどが主人公となります。『この世にたやすい仕事はない』では、きつい仕事に燃え尽きてしまった36歳の女性主人公が、1年で異なる5つの仕事を経て、自分と仕事との関係を見直す過程を描きます。『ウエスト・ウイング』では、設計事務所のOL、絵が得意な小学生、土壌解析会社の若手サラリーマン、この3人の人生が雑居ビルの物置場で交差します。『エヴリシング・フロウズ』はこの後編で、前者で小学校5年生だったヒロシが中学校3年生となって登場します。いずれも、企業、地域、学校、家庭での「生きづらさ」を描いており、そこでの同質化圧力の強さと、それにどうしても同調できない人々のもつ違和感を、丁寧にすくい上げています。

夫婦プラス子供2人といった日本型近代家族、夫は会社、妻は家事育児といった性別役割分業、日本特有の女子M型雇用、総合職・一般職といった職務区分。こうした特徴がほぼ消滅した現在ですが、同質化圧力はむしろ強まっているのではないでしょうか。ロベルトが抱えてきた「つらさ」と現在の若い女性が抱える「つらさ」は、「経済的つらさ」という面では異質であっても、「精神的つらさ」という面では共通性をもっています。壁のこちら側にいる人々が、壁に穴をあける努力が必要なのはもちろんですが、壁の向こう側にいる人々が、向こう側内部にある断絶・分断を、自分自身で解いていくためには何をしたらいいのか。このことを深く考えさせられた番組でした。

学長  伊藤 正直

2月 赴日留学生予備学校の思い出

四半世紀前の1994年、3カ月弱中国東北部の長春に滞在したことがあります。初めての中国訪問でした。長春の東北師範大学に付設されている中国赴日留学生予備学校で、日本留学を予定している中国人留学生に「専門日本語」(私の担当は経済学でした)を教えることが、訪中の目的でした。

中国赴日留学生予備学校は、日中両国政府の合意に基づいて1979年にスタートしました。きっかけは、前年78年に鄧小平が清華大学で行った演説といわれています。下がその演説の一部です。

「留学生派遣数の増加、そして自然科学を主とすることに賛成する。10人とか8人を派遣するのではなく、幾千幾万人を派遣しよう。教育部は検討してほしい。いくらお金を使っても無駄にはならない。これは5年以内に成果が現れ、科学技術水準を高める重要な方法となる」(王雪萍『華僑華人研究』6号より引用)
この演説に基づいて、中国政府は西側諸国への留学生大量派遣政策を決定し、西側諸国に相当数の留学生受け入れを要請します。これに日本政府も協力することになり、中国赴日本留学生予備学校が設立されました。

予備学校が日本ではなく、また、北京や上海でもなく、長春に設置されたのは、次のような理由からとされています。第一に、当時の中国の学制のままでは、留学予定者が日本の大学に必要な12年の中等教育の修了という要件を満たしておらず、要件を満たすために準備教育を行う必要があったこと、第二に、日本に予備学校を設置すると、中国政府や留学生に膨大な費用負担を強いること、第三に、当初予定されていた北京、上海には、日本語のできる中国人講師が十分存在しなかったこと。こうして中国全土から留学希望者を長春に集め、1年間の予備教育を行い、最終試験に合格したものを日本の大学に派遣するという予備学校がスタートしました。

欧米諸国には、主として研究者の受け入れが要請されたのに対し、当初、日本に要請されたのは学部学生の受け入れでした。しかし、中国側のこの方針は5年ほどで転換され、その後も、さまざまな変遷を経たのち、1990年からは、日中両国政府の合意に基づいて、日本の大学院博士課程に派遣する留学生の準備教育が柱となりました。

私が派遣されたのはこの時期で、長春で受講生と対面すると、①受講生の圧倒的多数は自然科学系、とくに工学系で、それぞれ研究課題を持ち、日本の大学院でそれを発展・深化させようとしている、②そのために日本語を学び始めたものが大多数、③実際には、すでに中国の各大学で助手、講師、助教授の身分を有しているものが相当数いる、などがわかりました。この年度の受講生は80人、全員が学寮での寄宿生活で、家族を故郷に残している者も結構いました。受講生の研究領域を見ると、金属・無機材料、土木、建築専攻が22人、機械、電気、情報科学専攻が21人、生物、医学、化学専攻が27人、文科系が10人でした。

当時は、基礎日本語前期派遣教員は国際交流基金が、基礎日本語後期・専門日本語派遣教員は文部省が決めており、前期6カ月の基礎日本語は、中国人講師と国際交流基金派遣講師が担当し、後期6カ月の基礎日本語は東京外国語大学の教員3人、並行して開かれる2カ月強の専門日本語は、理系は東京工業大学の教員8人、文系は、東京大学の教員2人が担当しました。その後、派遣教員の決定方法については、さまざまな変遷を経たようで、2019年の同校設立40周年記念式典のウェブを見ると、2015年からは、岡山大学が幹事校となっているとのことです( 岡山大学ウェブページ)。

予備学校でのプログラムがすべて修了し、帰国した後、『1994年度予備学校報告書および1995年度ガイドライン』を作成して、文部省に提出しました。当時は、一方で、1989年の天安門事件の余波が残っている反面、1992年の鄧小平の「南巡講話」によって市場経済化の促進、開放政策への舵切りが急速に進展している時期でもありました。そうはいっても、外国人は原則友諠商店でしか買い物ができなかったり、人民元と兌換元が並行していたり、公園や劇場への出入りは中国人料金と外国人料金の二本立てであったり、現在の中国とは異なっている部分がかなり残っていました。

だからこそ、というべきか、にもかかわらず、というべきか、こうした環境の中でも、受講生たちの勉学意欲は極めて高く、毎日の講義は熱のこもったものになりました。上に見たように、大部分の受講生が理科系でしたから、私の担当した「経済学」は、一般教養とならざるを得ませんでしたが、それでもほとんどの受講生は、熱心かつ意欲的に講義を受け、質問も活発でした。この状況は現在まで続いており、赴日留学生予備学校の受講生は、2019年の40周年までに15,000人を超えたと記されています。

こうした中国の動向と比較すると、21世紀に入って、日本は内向きの傾向を強めているようです。日本人の海外留学生数、特に学位取得を目的とした長期留学が減少を続けているからです。文科省調査によれば、6カ月未満の短期留学者は増加傾向にあるものの、1年以上の留学者数はずっと横ばいです。正規の大学在籍者数を基準とするOECD調査では、日本人留学生数は2004年の約83,000人をピークに減少に転じ、最近では約55,000人と30%以上の減少を示しています。
コロナ禍という状況の下で、今、留学問題を語ることは難しいかもしれません。しかし、四半世紀前の中国人留学生の明るい意欲に満ちた顔を思い出しながら、より多くの若い人たちが世界に目を向け、社会や文化の多様性を知り、研究する喜びを知ってほしい、そうした想いを強くしました。

学長  伊藤 正直

1月 オンライン講義の使い方・使われ方

世界的に蔓(まん)延しているコロナウイルス感染症COVID-19は、現在も収束の兆しを見せず、日本も第三波のただ中となっています。全世界での感染者数は7,100万人を超え、死者数も160万人をこえるなど未曽有の事態となっています(2020.12.14時点)。ワクチンが開発されたというものの、歴史的な経験からみる限りは、今回の感染症が短期間で収束するとは必ずしも考えられません。コロナ禍の波は、人々の生活様式、行動様式を大きく変化させました。大学も同様で、この状況は現在も続いています。ほぼすべての大学で、さまざまな対処が図られてきましたが、前期・後期の講義がほぼ完了するこの機会に、本学での対応を振り返っておきたいと思います。

他の大学と同様、本学でも、昨年は、2019年度卒業式、2020年度入学式の中止に始まり、緊急事態宣言の発出に伴う前期開講の延期、オンライン講義への全面移行、クラブ活動・課外活動の禁止、留学派遣・受入れの中止・延期などを決定せざるを得ませんでした。そして、こうした事態への対応として、年次当初に、危機管理対策本部、オンライン対策委員会を設置しました。教育・研究の場、仕事の場で、できる限り迅速かつ適切な対処を図ること、オンライン講義、オンライン会議、在宅勤務・テレワークなどの円滑な遂行を図ることが、設置の目的でした。

なかで、もっとも緊急の対応が要請されたのが講義への対処でした。ほぼすべての講義を、オンライン、オンデマンドで遠隔授業として行うことは、本学では初めての試みでした。ですので、この実施に際して、相当量の検討作業・対処作業を短期間で行わなくてはなりませんでした。検討は、教員、学生、教務事務すべてにわたって、必要でした。

教員サイドでは、①教員のICT活用スキルの向上、②新しい講義スタイルによる事前準備・講義運営、学生の出席管理・レポート管理、成績評価など教員負担増への対処、③実験・実習・実技系科目への対処などが課題となりました。①についてはオンライン対策委員会を軸に、「オンライン授業実施ガイド」「オンライン授業マニュアル」などの作成、オンライン授業講習会の開催などを行いました。②については、各学部にオンライン対策委員を配置して、教員のさまざまな希望や要請を学部・学科で共有できる体制を作ることに努めるとともに、従来からあるmanaba(授業支援システム)、学内ポータルサイトUNIVERSAL PASSPORTなどの学生用ネットシステムを利用して、講義の内容に対応したいくつかのタイプのオンライン講義形式を選択できるようにしました。③については、コロナに対する安全衛生対策の徹底を前提とした対面授業と、オンラインも併用したハイブリッド型の実施を試行しました。

学生サイドでは、①学生の情報通信環境の確保、②オンライン講義への学生の適応への配慮とプライバシー保護、③新入生対策と経済的・精神的支援などが課題となりました。①については、通信環境整備の補助としておよそ8,000人の学生全員に一律5万円の学習補助を給付するととともに、希望する学生に対してノートパソコンの貸与を行いました。②に関しては、対面型の授業とは異なった双方向実現の工夫、オンライン講義のなかでの学生プライバシー保護の徹底(画像を出さない、個人情報を出さないなど)を図っています。③に関しては、実験・実技・実習系授業と同様に、安全衛生を徹底しつつ、9月に改めて対面でのオリエンテーションを開催し、また、基礎演習などを対面でも開催するようにしました。

教務事務サイドでは、①時間割調整、②学内インフラの整備などが課題となりました。とりわけ困難を極めたのが、時間割調整です。小中等教育は、学習指導要領があり、単元毎に授業が進むようになっています。クラスの人数もほぼ一定です。カリキュラムは、学年単位で構成され、クラスごとの各科目の進度もおよそ同様です。これに対して、大学は、授業によって参加人数は、大きく異なります。ひとケタの実験系授業、10人レベルのゼミ、数十人レベルの実技系、数百人単位の大教室講義が混在し、さらに、カリキュラム登録はすべて個人単位でなされます。講義の学年配当はありますが、多くは複数学年にわたって受講可能です。ですので、対面とオンラインを混在させた形のカリキュラムを組むことは、著しく困難です。仮に、対面とオンラインが混在しないように時間割が作成できたとしても(例えば同一日の2限が対面、3限がオンライン)、登校したすべての学生が学内でオンラインを受講できるよう学内インフラ(学習スペース、Wi-Fi環境)を整備しなくてはなりません。こうした困難の中で、なんとか円滑なオンライン講義を実施する努力を、これまで本学でも積み重ねてきました。

本学では、前期講義が終了した時点で、学生と教員に対してオンライン講義についてのアンケートを取りました。学生からの反応は、二極分化はあるものの、想定以上にオンライン講義に対する評価は高いものでした。学生の理解度も成績も対面に比べてむしろ上がったと評価する教員も多くいました。他面、教員からは、事前の準備にかなりの時間を要し、研究時間がほとんどとれなくなった、対面に比べ学生のダイレクトな反応がつかみにくい、講義に遊び(のりしろ)の部分を取りにくいといった意見も出てきました。学生からも、どんどん進むので疲れるという意見もありました。オンラインならではのメリットもみえましたが、対面で議論する、意見交換する、共同作業するなど、実験・実習・実技系に限らず、対面でなくてはできないことが数多くあることも自明です。

こうしたオンライン講義については、国立情報学研究所における「4月からの大学等遠隔授業に関する取組状況共有サイバーシンポジウム」の連続開催(2020.3.26~2020.12.11、22回)によって、全国の大学や中高の教育機関の取り組み、MITなど海外大学における取り組みが紹介され、経験の共有が図られてきました(https://www.nii.ac.jp/event/other/decs/#22)。また、多くの大学で、オンライン講義の実施例がウェブなどで公開されています。本学も、これらの経験・教訓をできる限り共有したいと考えています。

じつは、本学では、前期講義を開始した時点では、9月からの講義は可能であれば、対面講義を軸とするものに戻したいと考えていました。しかし、7~8月の第二波によって、それがほぼ困難となり、後期もオンライン主軸の講義が続いてきました。現在の第三波の推移によっては、次年度もオンライン主軸を検討せざるを得ないかもしれません。

とはいえ、対面で人と接する活動は、人間の生活にとって不可欠のものです。ともに考え、議論し、知を創造することは、教育機関にとって不可欠です。コロナ禍が収束の兆しを見せない現在、これからもウィズ・コロナを続けざるを得ませんが、学生の皆さんが、大学で学び、習得し、自らの能力を発揮できる、そうした教育を継続し、実現することを最大限の課題として、今後の方針を策定していきたいと思います。

学長  伊藤 正直

12月 鉄道旅の話

コロナ禍がいっかな収束しないなかで、Go Toトラベルといわれても、「それでは」と、遠くの旅に出る気にはなかなかなれません。で、旅に出る代わりに、ネットで各地のブログやインスタグラムやユーチューブを見たり、旅の本を読んだりすることになります。旅の本といってもさまざまで、例えば、紀行文ですと、芭蕉『奥の細道』、金子光晴『マレー蘭印紀行』、沢木耕太郎『深夜特急』などがすぐに思いつきます。あるいは、もう少し冒険っぽい、カヌー旅の野田知佑『日本の川を旅する』とか、オートバイ旅の浮谷東次郎『がむしゃら1500キロ』、辺境徒歩旅の高野秀行『幻獣ムベンベを追え』などが好みの人もいるでしょう。

旅の手段もやはりさまざまで、船もあれば、飛行機もある。自動車やオートバイもあれば自転車もある。でも、やはり旅といえば、まず鉄道ではないでしょうか。しかし、鉄道旅に限っても、世に鉄ちゃん、鉄子は数多く、鉄道旅の本も山のようにあります。人は誰でも何らかの趣味を持っています。趣味にはまると、だんだんその度合いが高じてきます。最初はファンで、大部分の人はこの段階にとどまっています。次の段階がマニア、オタクと呼ばれることもあります。最後がマッドで、普通の常識では推し量れない行動や思考に突っ込んでいくことになります。そうしたマッドの鉄道旅の本、おすすめを3冊。

1冊目は、内田百閒『阿房列車』。現在はちくま文庫で読むことができます。ちくま文庫版は、昭和26年から28年にかけて『小説新潮』に連載されたものを収録しており、ここでは極め付きの汽車好き、百閒先生の汽車旅が飄々(ひょうひょう)と語られます。

始まりは東京・大阪間の特急「はと」で、「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪に行ってこようと思う。用事がないのに出かけるのだから、三等や二等には乗りたくない。汽車の中では一等が一番いい」。しかし、この旅費のあてがなく借金をすることになります。百閒先生の理屈は借金についても独特で、「そもそもお金の貸し借りと云うのは六(む)ずかしいもので‥‥一番いけないのは、必要なお金を借りようとする事である。‥‥そんなのに比べると、今度の旅費の借金は本筋である。こちらが思いつめていないから、先方も気がらくで、何となく貸してくれる気がするであろう。ただ一ついけないのは、借りた金は返さなければならぬと云う事である」。こうして無事借金ができ、国鉄職員ヒマラヤ山系君を道づれに大阪まで出かけ、何をするでもなく、そのまま東京まで帰ってきます。

東北本線の汽車旅でも、「盛岡へ行くには、上野駅を朝九時三十五分に出る二〇一列車がある。‥‥ところが朝の八時だの九時だのというのは私の時計にない時間であって」、「上野を出るのは朝が早過ぎるからその汽車に乗らないで、盛岡に著くのはその汽車の時間がいいからその汽車に乗っていたいと云うにはどうしたらいいかと考えた」。「矢張り夕方に著きたい。しかしその汽車に朝乗るのはいやだ。お午頃又は午後になってから乗りたい。わけはない事で、そう云う時刻にその汽車が出る所まで行っていればいい。そこで一晩泊って、そこから乗れば著く時間はこちらの思い通りになる」というのです。

この本の最後は、山陽本線「銀河」と鹿児島本線「きりしま」の旅で、一等車に乗ってくる人々の顔付きの品定めで終わります。最初から最後まで、役に立つこと、ためになることを一切しない汽車旅が続くのですが、皮肉とか諧謔を超越した百閒先生独特の思考回路が随所にあらわれ、とても愉快な気持ちになれます。

2冊目は、宮脇俊三『時刻表2万キロ』。こちらは河出文庫で読むことができます。文庫の裏表紙には、「時刻表を愛読すること四十数年、汽車の旅に魅せられた著者は、国鉄全線の九十パーセントを踏破した時点で、全線完乗を志した。しかしそれからが大変、残存線区はローカル線ばかりで、おまけに接続の悪い盲腸線が大部分である。寸暇を割いて東奔西走、志をたてて三年後、ついに二六六線区、二万余キロの全線完乗を達成した」とあります。

著者は、もともとは『中央公論』の編集長で、美術や音楽の出版も担当してきた人でした。趣味はモーツァルトと鉄道に乗ることだそうですが、裏表紙の解説にあるように、鉄道といっても時刻表マニア、いわゆるスジ屋で、楽しみは「時刻表」を走破することにありました。ですので、1975年に一念発起してからは本当に大変で、時刻表をためつすがめつして、急行列車を追い抜く鈍行列車に乗ったり、列車の遅延で乗り損なった区間を乗るためにタクシーをチャーターして延々列車を追いかけたり、到着先の町で宿が満室でどこも取れないため全面鏡張りのラブホテルにひとり眠ったり、種々の悲喜劇が著者を襲います。

ただ、記述には気負いやてらいがまったくなく、涙ぐましい完乗までの過程が淡々と語られていきます。自分がやっていることがある意味では「愚行」といわれても仕方のないことだということを十分承知したうえでの叙述がユーモアを含んで苦笑とともに語られており、無用の趣味こそがもっとも典雅であり高尚であると知らされます。本書は、新線に乗りたい、という著者の言葉で閉じられています。鉄道の路線廃止が表明されるコロナ禍の現在、この言葉を読むと切ない気持ちになります。

3冊目は、アメリカ人作家P.セルー『鉄道大バザール』です。現在は、講談社文芸文庫に入っているようです。紙幅がなくなってきたので内容は省略せざるを得ませんが、ロンドンを出発して、オリエント急行、テヘラン急行、ラージダーニ急行に乗ってインドに至り、その後、東南アジアの鉄道を乗り継ぎ、日本の鉄道「ひかり」や「はつかり」や「おおぞら」に乗ったのち、シベリア鉄道を経てロンドンまで戻るというユーラシア大陸汽車の旅を綴ったものです。この本は、どちらかというと正統的な紀行文に近く、鉄道旅を通して、異文化発見、西欧文化批判を行っていくというものです。これはこれで鉄道旅の面白さが満喫できます。以上、おすすめの3冊でした。

学長  伊藤 正直

11月 俳句という愉しみ

俳句というとまず何を連想するでしょうか。芭蕉、蕪村、一茶でしょうか。子規、漱石、虚子でしょうか。種田山頭火、尾崎放哉の自由律俳句、新興俳句、プロレタリア俳句を連想する人もいるかもしれません。俳句に親しんでいる人なら、戦後の前衛俳句運動、金子兜太などを思い浮かべるでしょうか。あるいはもっと若い世代の黛まどかなどでしょうか。

今また俳句がブームのようです。今回のブームの火付け役は、MBS/TBSのバラエティ番組「プレバト!!」でしょう。若手アイドル、お笑いタレント、俳優などの芸能人が、水彩画や生け花や料理や切り絵を製作し、それをプロの専門家がコメントを加えつつ査定し、ランク付けするという番組です。なかで、もっとも人気のあるのが「俳句」で、俳人・夏井いつきの辛口コメントに対し、添削を受けた芸能人たちが、嘆き、喜び、時に反論する、その応答がこの番組を盛り上げています。このほかにもTVやラジオにかなりの俳句番組があり、毎週おびただしい投句が紹介されています。

それだけではありません。近年の俳句ブームが若い人たちに牽(けん)引されていることも見逃せません。高校生たちが学校単位でエントリーする「俳句甲子園」(全国高等学校俳句選手権大会)は今年23回目を迎えましたが、年々規模を拡大し、北は北海道から南は沖縄まで、全国100校前後のチームが競ってきました。本学でも、春の大妻さくらフェスティバルのイベントの一つとして「俳句大賞」を実施しており、小学生から社会人まで、毎年1,000を超す作品が、全国各地から寄せられています。審査は、小学生以下の部、中学・高校生の部、一般の部の3つに分けて行いますが、この区分にみられるように、ここでも若い人たちの参加が多いことが特徴です。

俳句は世界で最も短い韻文、定型詩です。原則として、5・7・5という17音からなり、そのうち何字かは季語を含むため、作者の思いを表現するのはとても難しいはずです。ところが、そうした作業に数百万人とも一千万人ともいえる人々が、喜んで参加しているのです。このような一見すると参入の容易さが、俳句や短歌は芸術ではないとする『第二芸術』(桑原武夫、1946年)を、かつて生み出したのかもしれません。

そもそも俳句は、連句の発句が独立したものです。連句とは、何人かの人たちが集まって、575・77・575・77とつなげていって、一つの長い歌を作るというものです。『芭蕉七部集』の「冬の日」とか「炭俵」をみると、その具体例を知ることができます。連句は、いろいろな約束事があるのですが、最初の575を受けて77が付けられ、次の575はその前の77を受けてつくられるという連続性が一番の基本です。この出自そのものから、コミュニケーションの手段、共同体における共同性の担保という性格が俳句にはあるということになります。若い人たちが、俳句に取り組む一つの要素がここにあるのかもしれません。先に述べた「俳句甲子園」の全国大会会場では、審査員の講評とともに、対戦するチームが相互に相手の句を批評するコーナーがあります。

小林恭二『実用 青春俳句講座』(福武書店、1988年)は、共同性、コミュニケーションの手段という点に焦点を絞って、俳句を論じた本です。「もし、あなたが俳句をはじめたいとするならまず何をなすべきか?俳句の入門書を読んでみようみまねで俳句を書く前にひとつすることがある、と僕は思います。それは仲間を集めるということです。俳句とは、句会という共同体における『言葉』です。言葉は使う相手がいてはじめて覚えられ、また上達していくものです。俳句も言葉と同じように、いろいろな人にもまれながら、練り上げられていかねばならないのです」。そして、この句会の最初の頃の経験をつぎのように語ります。「四月、仲間内で題詠が盛んになる。毎週金曜日夜、駒場の喫茶店チャンティックを根城とする。全員落第生だったせいか、意識が急速に先鋭化する。毎週四時間ほども粘り、店主からあからさまな嫌味を言われたがへいちゃらで句会を続ける。はじめのうちは有季定型であったが、すぐに優季へ、無季へと移行する」、この句会は「ただひたすらに楽しかった」というのです。

こうした意味での句会を小林は組織者として実践します。この試みは『実用 青春俳句講座』にも「新鋭俳人の句会を実況大中継する」としておさめられているのですが、小林が理想とする句会の姿は、『俳句という遊び』(岩波新書、1991年)、『俳句という愉しみ』(岩波新書、1995年)で実現されます。前者の句会参加者は、飯田龍太、三橋敏雄、安井浩司、高橋睦郎、坪内稔典、小澤實、田中裕明、岸本尚毅の8人、後者の句会参加者は、三橋敏雄、藤田湘子、有馬朗人、摂津幸彦、大木あまり、小澤實、岸本尚毅、岡井隆の8人です。俳句に多少とも親しんだ人なら、ここに名前の挙がっている俳人たちが(岡井隆は歌人として著名ですが)、流派を別としながら、当代一流の俳人であることが直ちにわかると思います。俳句が何よりもコミュニケーションの手段である、言葉を通して、その意味ではなく感性がどこまで共有できるかが、丁々発止のやり取りのなかから生き生きと伝わってきます。ぜひ、手に取ってもらいたいと思います。

最後に、僕の好きな俳句をいくつか。長谷川の句については、僕の願望か自戒かも。

一月の川一月の谷の中(飯田龍太)

ぢかに触る髪膚儚し天の川(三橋敏雄)

三月の甘納豆のうふふふふ(坪内稔典)

五千冊売って涼しき書斎かな(長谷川櫂)

学長  伊藤 正直

10月 「紙」はどうなる?

「毎日、本や新聞を読んでいますか?」、「手紙や葉書、あるいはFAXは日常的な連絡手段ですか?」。こう聞かれたとき、どう答えますか?

2019年10月に公表された文化庁『国語に関する世論調査』によれば、1カ月に1冊も本を読まない人が約47%、1~2冊の人が約38%だそうです。この調査は、16歳以上を対象としており、日本の学生や社会人の約半数は、まったく本を読まないようです。また、2019年9月の総務省『情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査』によれば、新聞を読んでいる人は年代による差が著しく大きく、10代、20代では10%以下、30代、40代も10~25%で、若年層、中年層は、ほとんど新聞を読んでいないとのことです。

コミュニケーション・ツールとしての手紙や葉書も同様です。若い人たちの日常の連絡手段はLINEですし、会社の業務連絡や友達とのやり取りはe-mailです。手紙が届くのは、納税通知書などの役所からの通知、内容証明郵便、あるいは企業からのDMくらいです。多くの人は、情報の取得やコミュニケーションを、もっぱらSNSから得ています。そうだとすれば、これから「紙」の需要はどんどん減っていくのでしょうか。オンラインで全てがやり取りされ、「紙」の世界は消滅していくのでしょうか。

「人間は記録する唯一の動物である」といわれています。言葉を生み出し、文字を作り出すなかで、人間は、文字を記憶=記録として定着させることを試みるようになりました。粘土板に、石板に、パピルスに、木簡・竹簡、帛(はく)に、文字を刻みました。そして、その過程で、紙が誕生しました。紙は、記録媒体としてはとても優れたものでした。

紙を発明したのは漢の蔡倫、西暦105年のこととされていますが、最近の考古学調査では、中央アジアや中国の湿地帯で、数多くの紙の破片が発見され、それらは105年よりも1世紀ないし2世紀さかのぼることができるそうです。いずれにせよ東アジアで紙が発明されたのは間違いないでしょう。その後、筆と墨の発達に伴い、紙の種類も豊富化していきます。朝鮮半島や日本にも製紙技術は早く伝わり、平安時代には、全国40カ所の製紙場が稼働していました。西の方へは、イスラムを経て、11世紀にはモロッコのフェズが紙の主要な生産地となり、12世紀にイタリアに伝わったといわれています。しかし、ヨーロッパでは、紙はなかなか普及せず、シチリア王国は1145年に「すべての行政文書の書写を羊皮紙で行う」ように命じ、「紙に書かれた証文は一切の権限を持たない」と法令で定めたそうです(マーク・カーランスキー『紙の世界史』徳間書店)。

西欧世界で紙が急速に普及するのは、15世紀のグーテンベルグによる金属活字と活版印刷の発明からで、その後の推移は皆さんが世界史の教科書で習った通りです。宗教改革、市民革命、産業革命は、本やパンフレットを読む層を短期間に急増させ、紙への需要は一挙に高まりました。19世紀半ばには、まず、ドイツで木材を機械ですりつぶしてパルプを作る方法が発見され、次いで、アメリカで製紙用の木材パルプが作られ、19世紀末にはアメリカが世界最大の紙生産国となります。紙は、工業生産物となり、製紙業は、巨大産業の仲間入りをしたのです。

日本では、平安時代以来、和紙の生産が連綿と続いていました。特に江戸時代は、北斎や広重の版画、馬琴や一九の読み本など、和紙の需要は大きく広がっていました。幕末の洋学の普及と、それに続く明治維新により、新聞・雑誌・書籍などに必要とされる洋紙需要が新たに生じ、明治初期に、有恒社、東京王子抄紙会社などの洋紙会社が相次いで設立されます。

現代の製紙工場の製紙工程は、紙の原料となるパルプを作るパルプ工程、このパルプを使って紙を作る抄紙工程、出来上がった紙を平判や巻取りにかける仕上げ工程からなっています。この全ての工程で改良を重ねることにより、1970年代には、日本は、世界有数の紙・板紙生産国=消費国となりました。製紙技術は世界の製紙業界をリードし、辞書、雑誌、文芸書籍それぞれに、光沢、触り心地、嵩高(かさだか)、柔らかさ、色合いなど、紙それぞれの微妙な違いを表現しています。

東日本大震災で津波により壊滅的打撃を受けた日本製紙石巻工場もそうした工場のひとつでした。この工場の8号抄紙機は出版用紙の製造マシンとして日本を代表するマシンでした。8号抄紙機は、震災の津波で水没します。「8号が止まる時は、この国の出版が倒れる時です」といわれたとのことです。多くの出版社の単行本や文庫本は、この8号抄紙機の紙を使っていたからです。従業員の壮絶な努力により、8号抄紙機は、わずか半年で奇跡的に再稼働します。2013年4月、発売1週間で100万部を突破した村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)に使われた「オペラクリームHO」という紙は、この8号抄紙機で作られたものでした(佐々涼子『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている』早川書房)。

紙の用途は、現在でも広がり続けています。和紙の需要もむしろ高まっています。広い意味でのアートとしての紙の需要ですが、紙の本来の意義、記憶と記録の媒体としての紙の意義は、今後もなくなることはないでしょう。

学長  伊藤 正直

9月 専門家と非専門家

新型コロナウイルス感染症の拡大が収まらないなか、さまざまな言説が飛び交っています。とりわけ、2020年2月に内閣官房に設置された「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」(現在は、この専門家会議は廃止され、7月に新型インフルエンザ等対策有識者会議の下に開催される「新型コロナウイルス感染症対策分科会」に移行しました)の出す「助言」の適否をめぐって、さまざまな次元での発言や議論が、医学的見地、政策的見地、社会的見地から噴出しました。

例えば、3月下旬から4月初めの緊急事態宣言発令に向けての議論のなかで、専門家会議が、個人の活動自粛や企業活動の自粛を要請するということがありました。この要請がなされた直後から、本来の「科学的助言」の範囲を「踏み超え」てしまっているという批判がなされました。他方、危機的状況下においては、政治的判断を専門家が行うこともありうるし、すべきである、という反論もありました。さらに、専門家会議の判断根拠そのものが科学的に不十分である、あるいは間違っているという批判も、「専門家会議」外の専門家からなされたりもしました。

じつは、こうした議論は、以前から、科学技術社会論(STS)という形でなされてきましたが、東日本大震災による福島原発のメルトダウンを契機に一挙に活発化しました。電力会社や専門家は、原発のリスクと不確実性について、どの程度社会にきちんと説明してきたのか、説明がなされないままにメルトダウンになってしまったのではないか、メルトダウンの影響はどれくらい続くのか、といった問題が、一斉に議論されるようになったのです。こういった事態を受けて、日本学術会議も2013年に「科学者の行動規範」を改訂して「社会の中の科学」という項目を追加し、「科学者が社会に対する説明責任を果たし、科学と社会、そして政策立案・決定者との健全な関係の構築と維持に自覚的に参画すると同時に、その行動を自ら厳正に律するための倫理規範を確立する必要がある」と訴えました。

そこでは、「科学者は、社会と科学者コミュニティとのより良い相互理解のために、市民との対話と交流に積極的に参加する。また、社会の様々な課題の解決と福祉の実現のために、政策立案・決定者に対して政策形成に有効な科学的助言の提供に努める」(社会との対話)、「科学者は、公共の福祉に資することを目的として研究活動を行い、客観的で科学的な根拠に基づく公正な助言を行う」(科学的助言)、「科学者は、政策立案・決定者に対して科学的助言を行う際には、科学的知見が政策形成の過程において十分に尊重されるべきものであるが、政策決定の唯一の判断根拠ではないことを認識する」(政策立案・決定者に対する科学的助言)という3点が、述べられていました。

この学術会議の「行動規範」がどこまで正しいのか、という問題は、確かにあります。政策的判断、政治的判断まで科学者は行うべきでない、科学者ができるのは判断の材料を正確に提供することだ、というのが、「行動規範」の基本的立場ですが、それは、現前する危機がどの程度の危機なのか、ということと切り離しては議論できないからです。

感染症対策との関連では、この他にも、ドローンでマスクをしていない人を監視する、スマホで濃厚接触者を調査するなどの措置は、プライバシーを侵害し、国による個人監視につながるのではないか、という議論もあります。さらに、移動制限をかけたり、学校の一斉休校を要請したり、企業のテレワークを命令したりする主体はいったい誰なのか、国なのか地方自治体なのか、それとも一定の経済主体なのか、といったことも議論されています。こういった議論になると、専門家の範囲は、「専門家会議」メンバー、あるいは感染症専門医を超えて広がることになるでしょう。

ここまでくると、問題は「科学者」と「政策立案・決定者」との関係になってしまいます。そして、この問題が、現在の焦点であることも間違いないのですが、その大きな前提として、「科学者は、社会と科学者コミュニティとのより良い相互理解のために、市民との対話と交流に積極的に参加する」という、市民社会における科学ないし科学者の役割という問題が抜け落ちてはいけないと考えます。そうでないと、科学の専門家と政治の専門家だけが、判断主体、政策決定主体となり、一般人=非専門家は、ただその決定を受け入れる受け身の存在になってしまうからです。

ただ、ここには大変難しい問題が横たわっています。つまり、「非専門家が、ある特定の領域に対する(完全な)専門知識なしに、その科学の『内的過程』と『外的性格』をともに把握する方法はあるのか」という問題です。科学が高度に発展してくると、それぞれの科学は、それぞれのグラマー、ロジック、レトリックによって進められることになります。非専門家が持つリテラシー、日常生活の基礎にあるグラマー、ロジック、レトリックは、科学のそれぞれの専門領域と共通言語を持てなくなっているのです。にもかかわらず、非専門家は、その適否について判断しなくてはなりません。

なぜかといえば、現代の科学技術と私たちの生活との関係は、以前とは異なるものになっているからです。言い換えると、科学技術の発展は、私たちの生活にさまざまな負の影響をももたらしており、科学技術の発展が人類を幸せにするものだとは、もはやナイーブに信じることはできなくなっているのが現代です。私たちはただユーザーとして技術の使い方を習得していればよいというものではなく、そのような技術は果たして自分たちにとって本当によいものなのか、そのような技術を使うことが倫理的に正しい選択であるのかなどまで、私たち自身が判断をせまられるようになっています。科学者の社会的責任とはなんなのかという問題、市民と科学との健全な関係とはどんなものかという問題を、今回の新型コロナウイルス感染症の拡大は改めて提示しています。

学長  伊藤 正直

8月 「昭和のテイスト」?

「昭和っぽい」「昭和の雰囲気」といった言葉が、最近あちこちで聞かれます。「この曲、ちょっと昭和っぽいね」とか「このデザインには昭和のテイストがあるよ」といった言い振りです。若い人たちも、よくこうした言い方をします。「今」とは違う何か、といった意味でしょう。あるいは、昔流行っていたもの、どこか懐かしいもの、といったニュアンスでしょうか。でも、昭和が終わって30年以上経っていますし、高度成長が終わってからを考えると、ほぼ半世紀です。「昭和」を同時代的経験としてもっている人は40歳代以上、高度成長に至っては60歳代以上ということになります。若い人たちは、「昭和」を自らの体験としては知らないわけです。「昭和」は歴史的出来事ということになります。

歴史的出来事であれば、そこには、その出来事の「物語化」=「神話化」があります。「昭和の頃はこうだった」という形での「物語化」です。例えば、映画化もされてヒットした『三丁目の夕日 夕焼けの詩』(小学館)やNHKの朝ドラなどをみると、「物語化」のベクトルの多くが懐古=回顧にあることがわかります。ただ、いうまでもないことですが、「物語化」=「神話化」は、歴史的現在からしかなされません。となると、「物語化」の方向を決めている要素は、ひとつは、現在の主流的潮流、支配的思潮です。失われたもの、忘れ去られたものも、この主流的潮流や支配的思想との距離から見いだされることになります。こことの連関を持たないもの、連関の弱いものは、そもそも「物語化」の対象となりません。もうひとつは、どのような物語を私たちが読みたいかという読み手の側の欲求の問題です。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれた時代に読みたい物語と、バブル崩壊後「失われた二〇年」の後に読みたい物語はおのずと異なるでしょう。

では、ここで語られている「昭和」とはどのような時代だったのでしょうか。おそらく、第二次大戦以前の時代、戦後復興期は、多くの人が語る「昭和」では想定されていないようです。高度成長の始まりあたりから1980年代前半あたりまでが、多くの人がイメージしている「昭和」ではないでしょうか。この「昭和」の時代、外をみれば、朝鮮戦争があり、スターリンが死に、キューバ危機が起こり、ベトナム戦争がありました。ニクソン・ショック、石油ショックがあり、ソ連がなくなり、ベルリンの壁が崩壊しました。

内をみれば、1950年に世界の1%に過ぎなかった日本のGNPは、1970年には6%、1989年には14%に達し、日本は世界有数の「経済大国」となりました。繊維から、造船・鉄鋼・石油化学、電機・自動車と、新しい産業分野が次々に経済発展を引っ張り、金融機関が大きな力をもつようになり、会社は大きくなってオフィスがきれいになりました。高速道路や新幹線が全国に張り巡らされ、都市が急激に膨張しました。農村から都市へと人々が雪崩をうって移動し、核家族が形成され、男は仕事に邁進し、女は家事と消費と子供の保育を担うという構図が定着しました。

政治の世界では、占領が終わって数年後の1955年、自由民主党が誕生、社会党も右派と左派が合同し、以後1993年まで自民党の長期政権が続きました。55年体制の成立です。1960年、安保闘争の年に登場した池田勇人内閣は、所得倍増を掲げ、1972年には、田中角栄内閣が「日本列島改造論」をぶちあげました。北は北海道から南は沖縄までの全国開発が、とうとうと進んだのです。戦後日本の歴史は、国土開発の歴史でもありました。

ライフスタイルも大きく変化しました。身の回りでは、ちゃぶ台が消えLDKと子供部屋ができました。始めはラジオとアイロンくらいしかなかった家電品も、1960年代半ば頃には、テレビ、洗濯機、トースター、電気炊飯器、電気ゴタツ、冷蔵庫が揃い、1970年代に入ると、カー、クーラー、カラーテレビが普及していきます。高度成長期に生産されたモノは、生活水準の象徴としてだれもが入手したい共通の目標となりました。しかし、1970年代後半以降、モノは著しく多様化します。1970年代後半には、VTR、ヘッドフォン型ステレオ、デジタルウォッチ、ストロボ内蔵カメラ、ファミリーバイク、太陽熱温水機、1980年代前半には、CDプレーヤー、超大型・ポケットテレビ、DVDプレーヤー、パソコン、ファミコン、ゲームウォッチ、ワープロ、テレホンカード、スポーツドリンク、ポリマーおむつ、1980年代後半には、高級乗用車、衛星テレビ、衣類乾燥機、電子楽器、電子手帳、プリペイドカード、携帯電話・多機能電話などが次々に登場します。こうして、モノへの欲望は、1970年代後半以降は、世代や職種や所得によって分解し、誰もが共有する基準をもたなくなったのです。

そして、ここで語った、以上のような「昭和」のできごとも、モノとコトの歴史的解釈によるひとつの「物語化」だということに留意してほしいと思います。取り上げているモノゴトが「事実」であるから、そこでのできごとは、客観的実在であるともいえますが、そこでのモノゴトは可視化しえているもののみを取り上げているからです。歴史を振り返るときには、見えているものをきちんと視るとともに、見えていないものを視る努力を続けていくことが必要ではないでしょうか。

学長  伊藤 正直

7月 川崎の日本民家園について

小田急線向ヶ丘遊園駅南口から10分ほど歩くと、生田緑地にでます。首都圏を代表する緑豊かな都市計画緑地で、雑木林、谷戸の湿地、湧水などが広がっており、この自然を背景に、岡本太郎美術館、かわさき宙と緑の科学館、藤子・F・不二雄ミュージアム、ばら苑などの施設があり、その一角に日本民家園・伝統工芸館もあります。近くに住んでいたこともあって、気候のいい時など、時々散歩がてら何回か訪問しました。

日本民家園は、川崎市立の野外博物館として1967年に開園した施設です。高度経済成長の中で急速に消滅しつつあった古民家を永く将来残すことが目的で、園内には、現在25件の建物が、移築復原されています。日本民家園は、自らの使命を次のように述べています。「1 主に江戸時代の古民家を移築復原し、良好な状態で後世に伝えます。2 古民家・伝統的生活文化にかかわる資料を調査収集し、展示・普及活動を行います。3 日本を代表する民家博物館として、国内外に情報を発信します。4 生涯学習やくつろぎの場として、地域に親しまれ必要とされる博物館をめざします。」

移築復原されている建物や日本民家園の活動は、どのようなものでしょうか。25件の建物はすべて国、県、市の文化財に指定されており、うち7件は国指定重要文化財となっています。東日本の代表的な民家をはじめ、水車小屋・船頭小屋・高倉・歌舞伎舞台などがあります。移築元は都道府県別にみると、岩手県1、山形県1、福島県1、茨城県1、千葉県1、神奈川県8、山梨県1、長野県3、富山県3、愛知県1、岐阜県1、三重県1、奈良県1 、鹿児島県1と、東日本を中心に全国にわたっています。

国の重要文化財に指定されているのは、長野県南佐久郡の佐々木家、富山県南砺市の江向(えむかい)家、千葉県山武郡の作田家、茨城県笠間市の太田家、神奈川県秦野市の北村家、同川崎市の伊藤家、岩手県紫波郡の工藤家の7件です。また、志摩半島の漁村の歌舞伎回り舞台「船越の舞台」は、国重要有形民俗文化財に指定されています。

富山県南砺市の江向家は、富山県五箇山地方の合掌造りの家です。18世紀初期に建築され、切妻造、妻入、茅葺(かやぶき)、田の字型四間取りといった特徴を持つとても美しい作りです。神奈川県秦野市の北村家は、1687年建築の名主住居です。寄棟造、茅葺で日常生活の場であるヒロマは、簀子(すのこ)と板の間に分かれており、簀子には必要に応じてむしろを敷いたそうです。建築年次がはっきりわかるのは、柱の隅に棟梁が、自分の名前とともに年次を墨書しているためです。日本で最も重要な民家のひとつです。

三重県志摩市の船越の舞台は、幕末1857年に建てられたもので、神社の境内にありました。建築の様式は、正面が入母屋造、背面切妻造、桟瓦葺(さんがわらぶき)で、舞台装置は直径三間の回り舞台、せりあがりのある花道、高所作業用の簀子など、歌舞伎芝居のための装置はほとんど備わっています。また、鬼瓦や軒先瓦には「若」の字が刻印されており、建築に、伝統的若者組が係わったことを示しています。

民家園入り口の本館には、2つの展示室があり、第1展示室では、日本の古民家の間取りやかたち、古民家の作り方、家と環境の関係などが展示されています。第2展示室では、毎年2回の企画展示が行われてきました。例えば、2015年は「むかーしむかしの道具たち」、2016年は「家で生まれる、家と育つ」「ふしぎ古民具大集合」、2017年は「日本民家園今昔物語」、2018年は「結び展」「民家の暮らしと生きもの」、2019年は「いただきます」などが開催されています。

さらに、はた織り、わら細工、竹細工、座繰り実演、漆継ぎ、型染め、絞り染めなどの体験講座やワーク・ショップ、人形浄瑠璃、農村歌舞伎、獅子舞、ベーゴマ大会、草玩具造りなどの芸能や催し事も、年間を通して、さまざまな形で開催されています。何軒かの古民家では、正月や節句などの年中行事、床上公開などを行い、当時の実際の生活がどのようであったかも知ることができます。ゆっくり回れば、日本民家園だけでも1日勉強できます。生田緑地の他の施設とハシゴしてもいいでしょう。

学長  伊藤 正直

6月 数ないしは数詞について

先月、篆書(てんしょ)の拓本を紹介しました。この石碑には、篆書の数字、数詞ですね、この数字も石刻されていました。1から9まで、どのような文字であったかは、次の通りでした。

現在の漢数字の原型といっていいでしょう。こうした数字はどのようにして生まれてきたのでしょうか。

最近の認知科学や神経心理学の研究では、人間は、先天的に「数感覚」を有していること、ただし、この先天的な数感覚は視覚的には3ないし4まで、触覚的にはさらに狭いこと、そしてアナログ的連続量やデジタル的な離散量といった数感覚は後天的に獲得され拡大していくこと、などが、知られるようになっているそうです(スタニスラス・ドゥアンヌ 『数覚とは何か』)。

この数感覚を記録するようになったものが数字です。数字が記録されている最古のものは、紀元前3500年頃のシュメール文字、エジプトのヒエログリフ、紀元前1200年頃の古代中国の甲骨文字 などで、いずれも線を並べることで表現されていました。1は一本の線、2は二本の線、3は三本の線という形です。線は線に過ぎませんから、数字が記録されるということは、この数字に対応する具体的なものがあったはずです。食べ物だったり、着る物だったり、鉱物だったり、これが「1対1」で線に対応するわけです。こうした数を基数といいます。

これに対して、例えば、小学生10人を一列に並べて前から3人目を呼ぶとき、「3番目のCさん」と言ったりします。この3番目も数字で表すことができ、こちらは序数といいます。対応だけからなる基数が先に生まれ、その後、対応と順序づけを行う序数が生まれたと考えるのが普通だと思いますが、「原始の文化や言語をどんなに入念に調査しても、そのような時間的な前後関係は明らかにならない。数の技術が存在する場所では必ず、数の両方の側面が見つかる」、そして、そのことは人間が指を使って数えることと関係しているとのことです(トビアス・ダンツィク『数は科学の言葉』 )。5本の指を同時に曲げたり伸ばしたりする、あるいは、指を順番に曲げたり伸ばしたりする。前者では、指を基数として使ったことになり、後者では、指を序数として使ったことになる、というのです。

ヨーロッパの言語、英語、フランス語、ドイツ語では、この基数を表す言葉と序数を表す言葉が両方あります。例えば、英語では、one/first、two/second、three/third、フランス語ではun[e]/premier[première]、deux/deuxième、trois/troisième、ドイツ語では eins/erst、 zwei/zweit、drei/drittとなり、前者を基数詞といい、後者を序数詞といいます。これに対して、アジアの言語の多く、日本語や中国語には、このような独立した序数詞がありません。

では、日本語は、数をどのように表しているのでしょうか。まず、基数詞ですが、漢字とともに中国から渡来した漢語の「いち、に、さん」という呼び方と、固有の和語である「ひとつ、ふたつ、みっつ」という呼び方が、併用されています。文字としては、1、2、3というアラビア数字、あるいは一、二、三という漢数字を使います。序数詞については、上に述べたように、日本語には独立した序数詞はありません。その代わりに、第二、第2回、2回目、2番目、2位といった形で、基数詞の前や後に、第とか目をつけて順序を示したりしています。中国語もほぼ同じで序数を表すときは、第や次といった接語を使います。

もうひとつ、日本語や中国語には助数詞(中国語では量詞という)があります。日本語の助数詞は大変多く、数え方によっては500種類を超えるともいわれています。日常頻繁に使われる助数詞、「個」(小さいもの)、「枚」(薄いもの)、「本」(細長いもの)、「冊」(本など)、「台」(乗り物)、「杯」(飲み物)などから、よく使うけれども限定的な助数詞、「歳」(年齢)、「軒」(家)、「足」(靴)や、特定の場合にしか使わない助数詞、「貫」(寿司)、「棹」(箪笥)、「張」(テント)、「帖」(海苔)、「首」(和歌)、「句」(俳句)、「局」(囲碁)など、いろいろです。中国語の助数詞(量詞)も200種類以上あり、名詞を修飾する「個」「張」は名量詞、「回」「次」など動詞を修飾するものは動量詞と呼ばれています。

このように日本語は、数詞にさまざまな助数詞をつけて、対象を把握しています。ものや出来事によって、別々の数え方をするという日本語の特性は、多様性や多元性を保証しているともいえます。数というと、小川洋子『博士の愛した数式』(新潮社)以来、友愛数とか完全数の話や、フェルマーの最終定理、ゴールドバッハ予想 、双子素数の話など数論の話も沢山あるのですが、今回は数詞の話、日本語の話でした。

学長  伊藤 正直

5月 漢字について

子供の頃、習字の塾に通っていました。てん、よこ、たて、はね、おれ、はらい、そり、などをまず習い、次いで、永という字を何回も何回も書かされた記憶があります(永字八法というそうです)。そして、そのあと、ようやくいろいろな字を書くことが許されました。

当然、最初は楷書です。塾の先生が、王羲之の熱狂的ファンだったこともあって、王羲之の字体を写すことが、毎週最初にする手習いでした。4、5年経ったところで、「篆書(てんしょ)、隷書をやってみろ、これで展覧会に出してみよう」と言われ、篆書に取り掛かりました。写真が、篆書の字形です。30年ほど前、西安の碑林博物館を訪ねた際、篆書の拓本があったので懐かしくなって購入しました。縦2m以上横1m以上ある結構大きな石碑で、文化大革命のときも破壊されずに残ったものの碑文です。

篆書はこんなレタリングのような字形です。子供の頃は、こんな字があるのが不思議で、また、どのような書体で書くのかわからず、塾の先生に叱られながら、何枚も下書きをしたものでした。この碑文には、下に楷書で同字が示されています。

篆書は、秦の始皇帝(前259~前210年)が度量衡の統一とあわせて、それまで地域によって様々であった字形を統一することによって成立したといわれています。また、隷書は、後漢王朝(25~220年)の時代に、公文書に使われる正式な書体とされたそうです。私たちが日常使っている楷書は、東晋王朝(317~420年)の王羲之がその原型を作ったと言われています(落合淳思)。

漢字の発生は、殷王朝(商)の後期、紀元前14世紀の頃だそうです。最近では、もっと前、紀元前20世紀ころに漢字の原型ができたという説も有力です。神話的な世界観が人々を支配していた時代、神話的秩序は王朝の支配秩序を反映するものでした。ですので、文字も呪的世界にあり、呪的儀礼を形象化したものが文字、すなわち漢字でした(白川静)。

ですから、漢字は、象形字や会意字からつくられる表意文字が基本です。漢字の表音文字は、この表意文字から帰納的に作られたものです。馬という字は、馬の頭とたてがみからできているとか、口という字は、神に祈り霊を祀るときののりとの器を示しているというのは象形字ですし、口という字を含む古や告という字は、のりとの器とそれにくわえられる器物をあわせて、その行為の意味をあらわすという会意字です。日本語のひらがな(これも漢字から、音素をとってつくられた文字です)やアルファベットなどの表音文字とは違います。

私たちが普段使っている漢字には、中国でつくられた漢字以外のものもあります。国字といわれるもので、日本で作られた漢字です。例えば、峠、辻、鴫(しぎ)、鱈(たら)、凪(なぎ)、躾(しつけ)、働などで、働などは中国に逆輸出され、日常語として使われています。国字も会意字であることは、とうげという字が、山を上って下るちょうど尾根に当たるところだとか、なぎという字が風が止まったところとか、しつけという字が、身体が美しいことであることとか、などから容易に理解できるでしょう。

こうして作られた漢字は一体いくつあるのでしょうか。『大漢和辞典』(大修館書店)は5万字、中国で刊行された『漢語大字典』(上海辞書出版社)は6万字といわれています。これだけの漢字を覚えるのが大変だということで、戦前の1923年、文部省臨時国語調査会が1962字を常用漢字として発表しました。その後、戦後に国語審議会が1850字を当用漢字とし、何回かの変遷を経て、現在は、2016年の文化庁文化審議会の「指針」が2136字の常用漢字表となっています。

現在、ほとんどの人は、パソコン、ワープロ、スマホで日本語を打っています。ペンや鉛筆で、字を書くことは大幅に減りました。ですから、日々の生活に不便のないよう日常使う字を決めようという「常用漢字」「当用漢字」の必要性はなくなったともいえます。しかし、カナ入力、ローマ字入力すれば簡単に漢字に変換できるため、手書きでは書けない漢字、普通は読めない漢字が、世の中に大量に出回るようになっています。薔薇(ばら)、憂鬱(ゆううつ)、穿鑿(せんさく)、顰蹙(ひんしゅく)など、手書きで書けますか。私も書けません。アルファベットと違い、漢字は、一目見ただけでその意味がわかるという優位性があります。この優位性を生かしていくためにも、それぞれの漢字の意味を考え、漢字を大事にしていきたいと思います。

学長  伊藤 正直

4月 歴史から疫病を考える

昔、ふとしたきっかけでウィリアム・H・マクニール『疫病と世界史』(中公文庫、2007年)という本を購入したことがあります。この著者の『戦争の世界史』(刀水書院、2002年)や『世界史』(中央公論新社、2001年)が面白かったためで、疫病に興味があったわけではありませんでした。新型コロナウイルスの拡大が加速化しているなか、この本のことを思い出し、再読してみました。

この本の原著刊行年は1976年のことですが、1997年の改版の際に付け加えられた「序」で、マクニールは次のようなことを述べています。「序」は、主としてエイズのことを述べていますが、感染症の歴史についてふれているところを要約すると次の通りです。「この本の執筆時には、多くの医者たちは、感染症は人間の生命に深刻な影響を及ぼす力をもう持っていないと信じていた。WHOは1976年に天然痘を根絶したと宣言し、今後すべての感染症を孤立させ治療するのに十分な医学上の努力が世界的規模で実行されれば、すべての感染症を根絶させることができると考えていた。しかし、私はそうは考えなかった。76年が頂点で、以後感染症を引き起こす微生物が反撃を開始した。エイズ、インフルエンザが代表的なもので、このことは歴史的な悪疫の構造をみれば明らかである」と。

マクニールは医学者でも疫病の専門家でもありません。専門は歴史学で、長くシカゴ大学の歴史学教授でした。マクニールが、疫病に興味を持つきっかけは、なぜ、エルナン・コルテスがわずか600人に満たない部下で、数百万の民を有するアステカ帝国を征服できたのかを知りたいというところにあったようです。調べてみると、アステカ帝国を一夜にして消滅させたのは、馬と鉄砲という武力の差ではなく、コルテスらが持ち込んだ天然痘だったのでは?というところに思い至ったというのです。

「スペイン人はそれ以前に、一体いつどのようにしてこうした疫病を経験し終えていて、それがあとになって新世界に渡ったとき、あのようにうまい具合に役立つことになったのか。なぜインディオのほうでは、侵入者スペイン人を掃滅してくれるような自分たちの疫病を持っていなかったのだろうか。こうした疑問を広げていくと、16~17世紀にアメリカ大陸に生じたのと類似の現象が数多く見られることがわかる」。これがこの本を書かせた動機でした。

この本は、人類の発生から現在に至る人類史の中で、疫病と人類との関わりを検討するという壮大な試みですが、この本の独自性は、マクロ寄生とミクロ寄生という概念で、人類史を捉えようとしたところにあります。「ある生物体にとっての食物獲得の成功が、そのままその宿主にとっては、忌まわしい感染あるいは発病を意味するのである。そしてあらゆる動物が食物を他の生物に依存している」。「ミクロの寄生は、ウイルス、バクテリアなど微小な生物体で、人体の組織内に入り込み、そこで彼らの生命維持の仕組みにかなった食物を摂取する、ある種のミクロ寄生生物は重い病気を引き起こし、短時間のうちに宿主を死に至らしめるが、また宿主の体内に免疫反応を生じさせ、逆に彼らの方が殺され駆逐されてしまう場合もある。また時には、……宿主たる人間との間にもっと安定した関係を確立しているミクロ寄生生物も存在する」。「マクロ寄生生物の行動も同様に多彩を極める。人間や他の動物を捕食する際のライオンやオオカミのように、即座に宿主の生命を奪ってしまう者もいれば、宿主を不定期間生かしておく連中もいる。さらに後になって、食物生産ということが、ある共同体にとってひとつの生活形態となった時、……征服者が食物を生産者から奪い去りそれを消費することで、労働に従事する者への新しい形の寄生体となったのである」と。

こうした視点に立って、マクニールは、紀元前500年から紀元1200年までの各文明圏の交流とその結果としての疾病の伝播、紀元1200年から1500年までのモンゴル帝国の勃興とペスト伝播、紀元1500年から1700年までの新大陸の「発見」と天然痘、チフス、はしか、黄熱病の新大陸への持込み、1700年以降の医学の発展と「疫病」との闘いを、歴史的史資料の発掘を行いながら明らかにしていきます。

人類史のなかで感染症が果たしてきた役割、この視点はこれまでほとんどなく、歴史は、経済や政治・軍事、あるいは文化との関わりで語られてきたため、改めて読み直してみると本書の印象は強烈です。本書は、次のような言葉で締めくくられています。「人類の出現以前から存在した感染症は人類と同じだけ生き続けるに違いない。そしてその間、これまでもずっとそうであったように、人類の歴史の基本的なパラメーターであり、決定要因であり続けるであろう」。

「感染症が人類と同じだけ生き続ける」としたら、私たちは、これから感染症とどのように付き合っていくことになるのでしょう。一方での感染症との闘い、他方での感染症との共存、この両者を見据えつつ私たちはこれから生きていくことになるのでしょうか。この本の初版刊行以降の感染症の推移に関しては、石弘之『感染症の世界史』(角川ソフィア文庫、2018年)、日本における疾病の歴史については、酒井シヅ『病が語る日本史』(講談社学術文庫、2008年)などが、手近な参考となります。あわせて読まれるといいと思います。

学長  伊藤 正直

2019年度

3月 山登りと研究と

岩波少年文庫に『アンナプルナ登頂』という本があります。もう絶版のようですが、同じものを、現在は『処女峰アンナプルナ 最初の8000m峰登頂』(ヤマケイ文庫)で読むことができます。1950年6月、フランス遠征隊が人類史上初めて8000メートル峰の登頂に成功したその思い出を、遠征隊の隊長モーリス・エルゾーグが書きつづったものです。

ネパールへの入国から、山麓地帯の探索、登頂目標とする8000メートル峰の決定、登行ルートの研究、アタックの敢行と登頂の成功、下山の困難とカトマンズへの帰還という遠征の全行程が、8000メートル峰への敬虔なあこがれ、アタックへの限りない情熱、隊員・シェルパ間の交流などをベースに生き生きと記されており、登山とりわけ未踏峰登頂の喜びと苦しみが、ともに登山をしているかのように伝わってきます。

中学生時代にこの本を読んでから山登りに興味が湧き、近場の鈴鹿山系から、北アルプスの槍・穂高、後立山連峰、剣岳、南アルプスの北岳、仙丈ケ岳、聖岳、八ヶ岳連峰まで、中学高校生のころから大学生のころにかけて、結構あちこちの夏山に登りました。その後、時々、この『アンナプルナ登頂』を読み直していたのですが、研究生活を経過するなかで、この本で描かれている未踏峰アタックと研究論文を執筆する過程は同じようなものではないか、と思うようになりました。

少年文庫のあとがきで、訳者の近藤等は、「こうした高山の登頂を試みるのには、三つの段階があります」として、その山の山麓地帯を探検する段階、目標となる山を登るためのルートを研究する段階、いよいよ登山を試みる段階という3段階を示し、このために数年間が費やされるのが普通であると述べています。フランス遠征隊の場合は、ヒマラヤ8000メートル峰初登頂という具体的目標が定まっていたのですが、普通はまず登山目標の設定という段階が置かれることになるでしょう。

社会科学、人文科学、自然科学の間では、研究スタイルや論文執筆フォームに違いがあるため、必ずしもこの通りになるとは限りませんが、研究の過程、論文執筆の過程は、ほぼこの段階を通るといっていいように思います。まず、最初に来るのが、登山目標の設定、つまり研究テーマの設定です。鈴鹿の御在所岳に登るのか、北アルプスの剣岳や穂高に登攀するのか、それともヒマラヤの8000メートル峰にアタックするのかがまず選択されます。勿論、山登りを始めたばかりの人が8000メートル峰を目指すことが不可能なように、テーマの設定は、自分の興味や関心からだけでなく、自分の研究の蓄積水準に応じてなされることになります。この段階では、テーマの設定も必ずしも確定的なものではないでしょう。

次の段階は山麓の探索です。設定したテーマ、その周辺あるいは関連領域でどの程度の研究の蓄積があるのか、研究はどういった方向に進んでいるのか、自分のテーマが既存の蓄積のなかでどのあたりに位置付けられるのか等が、ここで検討されます。『アンナプルナ登頂』のなかで、インド測量部の作成した地図が、実際の姿とかなり異なっていたという場面が出てきます。実際に、研究をサーベイすることで、自分のテーマが、これまでにない新しい問題を取り上げようとしているのか、見過ごされていたが重要な問題にアタックしようとしているのか、それともすでにかなりの蓄積があるのかがわかります。テーマの修正や調整が行われるのはこの段階でしょう。

第3の段階は、登行ルートの研究です。いよいよテーマが確定し、アプローチの方法も決まる、私の専門の経済学の場合、理論的研究であれば、ここでどのような理論モデルが採用されるべきか、いかなる分析ツールが有効であるかという取捨選択が行われます。歴史的・実証的研究であれば、どのような資料が存在し、あるいはどういった種類の資料が蒐集されるべきか、資料蒐集がどの水準まで可能かが検討されます。具体的には、二次資料としての公刊資料や統計データの検討が行われ、それと並行して一次資料(文書類、記録類、会議録、帳簿など)の存在状況の確認、発掘作業が進められます。

最後の段階は、アタックの敢行です。理論的研究であればモデル・ビルディングが、歴史的実証的研究であれば、統計処理、一次資料と二次資料の突き合せ、資料の整序がなされ、自分が予測ないし期待していた結論を導き出すべく集中的にエネルギーが投下されることになります。しかし、実際に登ってみると、遠くからは見えなかった巨大なクレバスが存在したり、登れるはずの岩壁がオーバー・ハングの連続だったり、天候が急変したり、この段階での困難が次々に現れてきます。計算の結果がどうしても自分の期待した数値にならない、何十万円もかけて入手した資料が使い物にならない、あるはずの資料が廃棄されていたり、閲覧を拒否される、といった本当に泣きたくなるような経験は、研究者であれば、誰でも持っていることでしょう。未登攀登頂が必ず成功するとは限らないのと同様に、この段階で研究を撤退せざるをえない場合も時には出てきます。だが、さまざまな試行錯誤の末、これらの困難が突破されたとき、研究目標に到達することができるのです。

研究の過程、論文執筆の過程が、ほぼこのような段階を経るとすれば、それぞれの段階で適切な対処をすることが大事です。でも、研究も山登りと同様、いざというときにものをいうのは日ごろの鍛錬です。そして、広い意味でのチームワーク、共同と協力は欠かせません。そのための体力、知力を鍛えておきたいと思います。

学長  伊藤 正直

2月 「人間開発」とは?

先月とりあげた「持続的な開発目標」Sustainable Development Goals の「開発」をどのように考えたらいいのでしょうか。普通、開発というとまず頭に浮かぶのは経済開発だと思います。しかし、2001年に採択されたMDGs(Millennium Development Goals)でも、2015年にそれを引き継いだSDGsでも、取り上げられている項目の多くは、経済開発を直接目標としたものではありませんでした。

英語の developmentは、開発、発達、発展、啓発などを意味しています。仏語のdéveloppement、独語のentwicklung、スペイン語のdesarrollo、イタリア語のsviluppoもほぼ同様です。developmentという言葉は、西欧的概念なのかもしれません。実は、この用語がよく使われるようになったのは、国連開発計画が、人間開発報告書を出すようになってからのことです。1990年がそのスタートでしたから、ほぼ30年が経過しました。国連が毎年出版してきた報告書のタイトルは、HUMAN DEVELOPMENT REPORTです。では、人間開発とは何を意味するのでしょうか。

国連開発計画は、人間開発について次のように述べています。「開発は、人々が大切だと思う生活が送れるように各自の選択肢を広げることである。…こうした選択肢を拡大する上において、何にもまして重要なのは、人間の能力を育てること、つまり人が人生において行い得る、あるいはなり得る事柄を全体として築き上げることである。人間開発のためのもっとも基本的能力とは、健康で長生きをし、十分な知識をもち、人間らしい生活水準を享受するために必要な資源を利用でき、地域社会の活動に参加できる能力である。…人間開発は人権と共通のビジョンを分かち合っている。人間開発と人権の目的は、人間の自由である。そして、能力を追求し人権を確立するうえで、この自由は不可欠である。自分で選択をし、自らの人生に影響を及ぼす意思決定に参加するためには、人は自由でなければならない。」(UNDP国連開発計画『HUMAN DEVELOPMENT REPORT 2001 新技術と人間開発』)

つまり、自分の人生の現在と将来について自己決定できること、そしてそのための基礎的条件を整備し、基礎的能力を「開発」していくことが、人間開発だというのです。これに比べると、経済開発の方は、その意味するところは、はるかに明瞭でしょう。例えば、開発途上国や移行経済を対象とする経済開発の場合は、工業化を実現すること、雇用を拡大すること、所得の不平等を改善すること、医療や社会福祉の増進を図ること、国際収支を改善すること、総じて適正な経済成長を継続することが課題となってきましたし、先進国の場合は、開発と環境の整合、社会資本の整備、労働環境や労働市場の整備、財政の均衡や金融の円滑化などが課題とされてきました。

問題は、この経済開発と人間開発の関係をどのように考えるかです。先進国の場合は、経済開発のテンポを一定スローダウンした方が、人間開発にとってプラスとなるかもしれません。途上国の場合は、相当程度の経済開発なくしては、人間開発の基礎的条件がなりたたないでしょう。しかし、近年の経済グローバル化の急速な進展は、この関係のあり方をきわめて複雑にしています。多国籍ビジネスによる途上国に対する経済開発が、同じ地域の人間開発の条件を悪化させたり、反対に、経済開発の停滞が人間開発の停滞を招くこともあったりするからです。

経済開発と人間開発の関連が、鋭くあらわれてくるのは開発途上国です。2001年のMDGsが開発途上国を主たる対象とし、貧困・飢餓、初等教育、ジェンダー、乳幼児・妊産婦、疾病、環境、連帯を目標に掲げたのは、そのためです。具体的には、人権と人間開発の相補性を示す政治体制、先進国との関連を典型的に示す累積債務とその救済問題、途上国同士の関係を象徴する国際水紛争、そして、途上国の人間開発をもっとも困難とする難民問題や人身売買。開発途上国は、共通してそうした問題を抱えていました。経済開発と人間開発の同時達成は、これらの問題のなかで、困難と矛盾に直面していたのです。

「人々が大切だと思う生活が送れるように各自の選択肢を広げる」、そのために何よりも必要なことは「人間の能力を育てること」、そして、「自分で選択をし、自らの人生に影響を及ぼす意思決定に参加するためには、人は自由でなければならない」。MDGsもSDGsも、このことこそが、人間開発の基本線だと宣言しています。私たちもこの基本線を確認しつつ、SDGsに取り組んでいきたいと考えます。

学長  伊藤 正直

1月 「持続可能な開発」とは?

最近、SDGs(エスディジーズ)という言葉があちこちで聞かれます。2015年の国連サミットで採択され、2030年までの15年間に取り組むべきさまざまの目標を掲げた「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称です。2001年に国連で策定されたMDGs(Millennium Development Goals)を引き継いだものですが、MDGsが開発途上国を対象とし、①貧困・飢餓,②初等教育,③女性,④乳幼児,⑤妊産婦,⑥疾病,⑦環境,⑧連帯の8つを目標としていたのに対し、SDGsの方は、先進国を含めたすべての国が追求すべき17の目標、その下に169のターゲットを掲げています。

その17の目標は、次のとおりです。ちょっと長いですが列挙してみます。①貧困をなくそう、②飢餓をゼロに、③すべての人に健康と福祉を、④質の高い教育をみんなに、⑤ジェンダー平等を実現しよう、⑥安全な水とトイレを世界中に、⑦エネルギーをみんなにそしてクリーンに、⑧働きがいも経済成長も、⑨産業と技術革新の基盤を作ろう、⑩人や国の不平等をなくそう、⑪住み続けられるまちづくりを、⑫つくる責任つかう責任、⑬気候変動に具体的な対策を、⑭海の豊かさを守ろう、⑮陸の豊かさも守ろう、⑯平和と公正をすべての人に、⑰パートナーシップで目標を達成しよう。目標としている範囲が、かなりの広がりをもっていることがわかります。それだけ認識が広がったともいえますし、逆に、問題が複合化し深刻化したともいえます。

SDGsは、2015年の国連サミットにおいて全会一致で採択されました。5年前のことです。そして、その実現のために、すべての国が行動することを要請する「普遍性」、誰一人として取り残さないように目標を追求する「包摂性」、あらゆる利害関係者が役割を担う「参画型」、社会、経済、環境といった問題群を包含して捉える「統合性」、目標達成のプロセスを常時点検し公表する「透明性」の5つを、今回のSDGsの特徴として自己規定しました。

この17の目標について異議のある人は誰もいないでしょう。先進国も新興工業国も開発途上国も、アジアもヨーロッパも南北アメリカもアフリカも、熱帯地域から寒帯地域まで、共同してこの目標のために努力しようという合意が、国連の場でえられたことはとても貴重なことです。しかし、この17の目標、その一つひとつを具体的に実現するとなると、多くの困難が立ちはだかっています。

例えば、この17の目標のなかには、環境に関わる目標がいくつかあります。環境問題が地球人類の存続にとって根幹的な問題であると、国際的な場で協議されるようになったのは50年ほど前からのことです。1972年スウェーデンのストックホルムで開かれた国連人間環境会議以降、世界各国で環境関連省庁が設立され、さまざまな形で環境政策が行われるようになりました。国際的にも、1982年に海洋および国際河川の汚染防止のためにジャマイカのモンテゴ・ベイで締結された国連海洋法条約、85年にオゾン層保護を目的として結ばれたウィーン条約、87年にフロンガス使用の規制を目的として採択されたモントリオール議定書、92年に生物多様性の保護のために結ばれた生物多様性条約、同じ92年に温暖化防止を目的としてニューヨークで採択された気候変動枠組条約などが、この時期に締結されました。

しかし、1992年にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開かれた地球サミットでは、環境問題をめぐる国家間の対立が表面化しました。その対立は、一つは先進国と途上国の対立として、もう一つは、先進国内部の対立として現れました。先行したのは、先進国と途上国の対立です。すなわち、先進国側が、地球環境問題は人類共通の課題で、経済発展の度合いに関わらず共通に対策を要する問題だと主張したのに対し、途上国側は、環境問題の責任は先進国にあり、人口増加や貧困といった問題解決のためには環境保全よりも経済発展を優先せざるをえないと反論したのでした。

これまで環境保全より経済発展を優先させてきた先進国が、突然途上国に経済発展を抑制して環境保全対策に参加せよと主張しても、途上国にそれを受け入れる経済的余裕があるはずもないというのです。もっとも、人口増加と貧困という問題を抱えた途上国では、「貧困と環境悪化の悪循環」という問題、すなわち、人口増加による無理な耕地開発は森林面積の減少や土壌劣化、洪水の発生、水質汚染、大気汚染といった環境問題をもたらし、さらなる貧困を招いてしまうという問題を内包していることも徐々に明らかになりました。加えて「環境ダンピング」と呼ばれる問題もあります。先進国の企業が環境規制の緩い途上国に工場を移転させることで、進出先の環境を悪化させてしまうというケースです。

もう一つ、先進国内部の対立も、現在まで引き続く問題です。SDGsの⑬気候温暖化の目標は、先進国内部の意見不一致によって、具体化が妨げられてきた代表例です。1997年に、第3回気候変動枠組条約締結国会議(COP3)で作成された京都議定書に対し、世界最大の温室効果ガス排出国であるアメリカは、2001年に離脱を宣言しました。また、京都議定書から18年ぶりにCOP21で採択されたパリ協定は、いったんはアメリカと中国の同時批准、EUの法人としての批准によってスタートしたかに見えましたが、トランプ大統領の反対によってアメリカは2019年11月に正式離脱してしまいました。2019年12月にマドリードで開催されているCOP25も、大幅な排出削減に消極的な米中や日本、目標の深堀を求めるEUや島しょ国の対立があり、具体策に踏み込めない状況です。

「持続可能な開発」を実現するためには、先進国と途上国によるさらなる協力、先進国内部における対立の調整が必要です。それまでの資源浪費型の生活スタイルを見直し、リサイクルの普及、環境負荷の少ない工業製品への移行を進めていくこと、途上国側がそうした生活スタイルを定着できるようなさまざまの支援を持続的に進めていくことが求められています。

学長  伊藤 正直

12月 研究成果について

研究の話をもう少し。知的好奇心と探求心が研究の基本的動力であるにせよ、研究の結果として産み出された成果は、社会に還元されなくてはなりません。なぜならば、その成果は、次の研究の前提・土台となるからであり、人々の共有財産となるからです。このことは、コンピュータの発明や新薬の開発などを思い浮かべれば、直ちに了解できることでしょう。とはいえ、そのあり方は、基礎研究と応用研究ではずいぶん違いますし、自然科学、社会科学、人文科学の間でも、その意味合いには大きな差異があります。

研究成果は、論文にまとめ、学術雑誌などに発表するという形式が一般的です。学術雑誌がどの程度の権威や影響力があるかを測るimpact factorという指標があり、自然科学のかなりの領域では、この数値が高い雑誌に掲載されることを目標として、厳しい競争が日々繰り広げられています。論文が掲載されるまでには、査読(investigative reading, Peer review)という制度があり、論証の客観性、実験の正確性、データの信頼性が求められ、論文の書き直しを求められることもしばしばです。論文が掲載された後も、その論文がどの程度の評価を受けているかが、citation index(他の論文で、当該論文がどれだけ引用されているか)という指標で測られます。

ところが、こうした権威ある国際的一流誌、例えば『ネイチャー』や『サイエンス』といった科学誌からの論文撤回数は近年増加しており、とくに捏造を理由とする論文撤回数の割合が、全体の撤回数の40%を超えているそうです(日本学術振興会『科学の健全な発展のために』2015年)。なぜ、こんなことが起こるのでしょうか。

自然科学の領域で国際的に有名な捏造事件は、2002年に発覚したベル研究所の「シェーン事件」です。高温超伝導の国際的な研究競争の過程で起きたデータ捏造・使い回しで、16本の論文に不正があったと判定されました。国内的な事件としては、2012年の「ディオバン事件」がよく知られており、複数の大学病院が、高血圧治療薬ディオバンに関する臨床研究を、製薬会社に有利なようにデータ操作、統計操作を行ったというものでした。2013年に発覚した東京大学分子細胞生物学研究所における論文不正も33本にのぼりました。これらの不正行為は、ラボの責任者の研究至上主義、過剰な業績競争、名誉欲などがその背景にないとはいえませんが、一番大きいのはやはり、市場経済の下での経済的利益と自然科学の応用研究との結びつきが著しく強くなったことにあると考えられます。

もちろん、このことは一概に否定されるべきではありません。社会発展は、経済活動を抜きにしてはあり得ず、経済発展は、知識の体系の進歩によってもたらされるものだからです。それが公正、公平、誠実に行われているか、そのためのシステムが構築され、認識が共有されているかが、問題のポイントでしょう。研究者の側からは、研究倫理の確立ということになりますが、研究成果の社会的活用という側からは、成果物をどのように保護、活用するかということになるでしょう。

知的財産権、知的所有権という考え方がここから出てきます。2002年に制定された知的財産基本法は、知的財産を、「発明、考案、植物の新品種、意匠、著作権その他の人間の創造的活動により生み出されるもの、商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報をいう」と定義しています。そして、ここから生じる知的財産権を、「特許権、実用新案権、育成者権、意匠権、著作権、商標権、その他の知的財産に関して法令により定められた権利又は法律上保護される利益に係る権利」としています。

知的財産という言葉からわかるように、これは「財産的価値を有する情報」、つまりこれらの情報を経済的価値から捉え直したものです。じつは、特許権や商標権は、この法律よりずっと古くから認められてきました。歴史的には、1474年に、ベニス共和国で、ガラス工芸品の技術を守るためということでベネチア特許法が制定されたのが、特許制度の起点とされています。知的財産のうち、特許、実用新案、意匠、商標の4つを「産業財産」といい、日本では特許庁が所管しています。

米国旧特許庁の玄関には、「特許制度は、天才の火に利益という油を注いだ」(The patent system added the fuel of interest to the fire of genius)というリンカーン大統領の言葉が刻まれているそうです(特許庁ウェブページ)。利益をあげるということを、極めてシンプルに肯定的にとらえているいかにもアメリカらしい表現です。

自然科学の研究領域のかなりの部分が、現在では、この産業財産権と無関係ではなくなっています。このことが、研究の過当競争を生み、ひいては研究不正につながる事例を生み出しているともいえます。研究活動に対する謙虚な姿勢、誠実で公正であろうとする精神、不正に対する羞恥と怒り。研究者コミュニティにおいてこれをどう育んでいくかが改めて問われています。

学長  伊藤 正直

11月 研究する喜びと悩み

三浦しをん『愛なき世界』(中央公論新社、2018年)を読みました。三浦しをんには、お仕事小説というジャンルの作品がいくつかあります。『神去なあなあ日常』(林業)、『仏果を得ず』(文楽)、『舟を編む』(国語辞書編纂)などがそうですが、今回の『愛なき世界』は、理系の研究生活を取り上げています。

主人公は、T大大学院理学系研究科生物科学専攻「松田研究室」所属の博士課程院生本村紗英と赤門前の洋食屋「円服亭」で働く藤丸陽太。本の帯に記されたキャッチは次の通りです。「洋食屋の見習い藤丸陽太は、植物学研究者をめざす本村紗英に恋をした。しかし本村は、三度の飯よりシロイヌナズナ(葉っぱ)の研究が好き。見た目が殺し屋のような教授、イモに惚れ込む老教授、サボテンを巨大化させる後輩男子など、愛おしい変わり者たちに支えられ、地道な研究に情熱を燃やす日々‥‥人生のすべてを植物に捧げる本村に、藤丸は恋の光合成を起こせるのか!?」

懐徳門と赤門の間にある古びたレンガ造りの建物。この建物は、東大理学部2号館で、実際に理学系研究科生物科学専攻が入っており、ここに住まう面々をモデルとしたとおぼしい。そして、小説は、理系の研究生活を、丁寧かつかなりリアルに描いていきます。実は、理系の研究といっても、研究領域によって、その研究スタイルは、大きく異なっています。理学系に限っても、一方で、一人で研究を進めることが基本の純粋数学という分野があり、その対極には、巨大な実験装置と大規模研究グループによる高エネルギー物理学という分野があります。本書で対象となっている生物科学は、実験系ですが、両者の中間あたりに位置するといっていいように思います。同じ実験系といっても、高エネルギー物理学と比べると、実験の進め方に始まり、実験グループの規模やグループ組織のされ方、組織間の連携のあり方、使用可能なリソースなどは全く違います。工学系や農学系、医学系まで目を広げれば、その違いはもっと大きくなるでしょう。

博士論文準備中の本村は、時に研究室のメンバーに手伝ってもらいながら、実験素材を培養し、顕微鏡で観察し、写真や記録に取り、仮説の検証に努めています。その過程で、実験ミスを犯したりもするのですが、めげずに、オープンセミナーでの博士論文の予備発表にこぎつけます。「博士課程の院生がこのような実験ミスをすることはあり得ない」、「研究者や大学院生を、研究以外の喜びを捨てた浮世離れした求道者というステロタイプで描くことはやめて欲しい」といった書評が、若い研究者や院生から出されてもいますが、研究する喜びは、本書から十分に伝わってきます。

研究者は、どうして研究という道を選ぶのでしょうか。研究する喜びとはどのようなものでしょうか。目標を定め、その目標に向かって努力する、そして目標を実現する。こうした達成感を得るために研究する、ということもあるでしょう。この場合は、スポーツのアスリートや企業の製品開発などと同じです。では、研究の独自性はどこにあるのか。自分を振り返って、どこに研究の喜び、面白さを感じていたのかと考えてみると、未開の領域、未知の領域へと分け入っていくことが一番だったような気がします。これまで知られていなかったことやものを発見する、新しい視点や方法によってこれまでとは全く違った世界が見えてくる、自分がたてた仮説が正しかったことが証明される。研究の独自性とは、こんなところにあると思います。研究を進めていくには、創造力、分析力、構成力、総合力がそれぞれ要請され、自分の得意なところ、苦手なところにいつも悩むことになります。

私の専門領域は、社会科学のなかの経済学で、とくに金融および国際金融の歴史と現状についてです。ただし、経済学は、理論科学と政策科学の両方にまたがっていますから、社会の発展段階や社会構造の違いによって、正解がひとつになるとは限りません。ケインズが、チャーチルの諮問に対して、まったく異なった二つの答えを同時に出したというのは有名な話です。また、理系とは違って、シングルオーサー(単一著者)で論文を発表することがほとんどで、ビッグデータの処理をするとか、国際共同研究を遂行するといった場合を除けば、巨額の資金を要することは、あまりありません。研究に対する権利と義務、責任と倫理は、個人で負うのが一般的です。それでも、研究を持続するには、ポストや研究費といった一定の客観的な条件が必要です。先の、若い研究者や院生による本書への批判的書評は、こうした問題が全く触れられていないといった点にもありました。とはいえ、本書にそれを求めるのは、ちょっと場違いのような気もします。

知的好奇心と探求心、これが研究を進めていく基本的動力ですが、東日本大震災とその下での福島第一原発の事故をみても明らかなように、科学が社会に与える影響は、今日、ますます大きくなっています。「青春小説」でもある本書を読みながら、社会との関わりを不断に意識し、チェックしつつ、研究を進めていく必要があるとあらためて考えました。

学長  伊藤 正直

10月 翻訳という営み

日本は、翻訳王国、翻訳大国といわれてきました。近世以前は、主として中国語文献が、漢文読み下しという独特の方法によって多く読まれましたし、近代以降は、蘭語、独語、仏語、英語のさまざまの文献が、脱亜入欧の掛け声とともに、次々に翻訳されました。杉田玄白・前野良沢『解体新書』、明治初期のスマイルズ『西国立志編』、ミル『自由之理』、あるいは、明治中期の二葉亭四迷『あひびき』などのことは、中学や高校の教科書で読んだことがあるでしょう。明治期に翻訳が多かったのは、医学、工業技術、農業技術、法律などで、近代国家形成のための必死の試みであったということもできます。ふだん私たちが日常的に使っている「社会」という言葉も、明治時代に翻訳語として新しくつくられた言葉でした。

第二次大戦後も、翻訳の時代は続きました。戦後改革期から高度成長期にかけて、書籍の出版点数が急激に増大するのと並行して、翻訳書の点数も増え続け、1960年に約1千点ほどであった翻訳書は、1987年には約3千点になりました。その後21世紀に入ってから最近までは、毎年5千点前後の翻訳書が出続けているとのこと。年間の新刊書籍点数はおよそ7万点ですから、新刊書の約7%が翻訳書ということになります。

ユネスコのIndex Translationum をネットで検索すると、世界の翻訳市場における累積翻訳件数(1979年から2018年まで、実際には2010年辺りまで)の主要言語別がわかります。これによれば、何語に翻訳されたかについては、1位がドイツ語で約30万件、続いて、フランス語約24万件、スペイン語約23万件、英語約16万件、日本語は5位で約13万件です。逆に、元言語からみると、英語から他言語への翻訳が約127万件と圧倒的で、続いてフランス語からが約23万件、ドイツ語からが約21万件、ロシア語からが約10万件と続き、日本語からは8位で約3万件です。科学技術翻訳では一時日本語からの翻訳が1位になった時期もあったようですが、全体としてみると、流入超過の状況は明治からずっと続いているということになります。ちなみに、世界中に翻訳された著者のベストスリーは、1位アガサ・クリスティ、2位ジュール・ヴェルヌ、3位ウィリアム・シェークスピアだそうです。

翻訳とは、端的には、ある言語を他言語に移し替えることです。文法や言語体系が一致しているわけではないので、移し替えるといっても、そう簡単ではないのですが、それでも、自然科学や社会科学の場合は、かなりの概念語が一致しているので、正確な翻訳が良い翻訳ということになります。しかし、人文系の領域の場合、とくに小説や詩の翻訳となるとそうはいきません。

小説家でありながら、数多くの翻訳を手掛けてきた村上春樹は、よい翻訳の絶対条件は語学力だといっています(村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』文春新書129)。といっても、それは単語や熟語の多くの意味をどれだけ知っているかとか、独自の言い回しや俗語、クリーシェ(決まり文句)をどれだけよく理解しているかということではありません。具体的には、つぎのようなことです。村上春樹が新たに訳したサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の冒頭部分、If you really want to hear about it の訳文として、「もし君が僕の話を本当に聞きたいのであれば」、「こうして話を始めると」、「だからさ」、「いいかい」のどれが最も適切であるかをめぐって、村上の小説の多くを英訳しているハーバード大学ジェイ・ルービンと村上が議論しています。ルービンは、この小説の冒頭部分で重要なのは主人公の怒りなのであるから、言外のその意味をきちんと理解できるように訳すべきだとして、最初の表現は誤訳、2番目も不十分と主張し、それに対し、村上は、話が始まるという様式性がこの文章の中で大事な役割を果たしているのだから、3番目や4番目の表現ではそれが消えてしまうと反論しています(村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』文春新書330)。これが語学力ということです。

村上は、また、翻訳で大事なのは、元の文章の、ビートやグルーヴをどれだけ読み取れるかだ、ともいっています。小説のエッセンスが、文体、人物造形、結構にあるとすれば、そして、著者が、独自の文体をもち、独自のビートやグルーヴをもっているとすれば、それを別の言語に翻訳するのは、とてつもなく大変なことでしょう。私たちは、翻訳家のこうした努力の上に、それをほとんど気にすることなく、翻訳された小説や詩を楽しんでいます。

では、これはどうでしょうか。翻訳でしょうか。それとも元詩にインスピレーションを得た創作でしょうか。いずれも元の気分や精神をくっきりと写し取っており、それぞれ独自のビートやグルーヴがあります。翻訳は、本当に難しい。

照鏡見白髪 張九齢
宿昔青雲志  宿昔ノ青雲ノ志
蹉跎白髪年  蹉跎タリ 白髪ノ年
誰知明鏡裏  誰カ知ラン 明鏡ノ裏
形影自相憐  形影自ラ相憐レムコトヲ

シユツセシヨウト思ウテヰタニ
ドウカウスル間ニトシバカリヨル
ヒトリカガミニウチヨリミレバ
皺ノヨツタヲアハレムバカリ (井伏鱒二訳)

あまがける こころ は いづく しらかみ の
みだるる すがた われ と あひ みる (会津八一訳)

学長  伊藤 正直

9月 住まいの話、まちづくりの話

2年ほど前、『人生フルーツ』という映画を観ました。元々は、テレビのドキュメンタリー・シリーズの1本で、それを劇場用に編集しなおしたものです。90分ほどの時間に、90歳と87歳の老夫婦の日々の営みが、樹木希林さんの落ち着いたナレーションとともにゆったりと映し出されていきます。

主人公の一人、90歳の津端修一さんは建築家で、雑木林に囲まれた自宅は、師のアントニン・レーモンド(フランク・ロイド・ライトの弟子で、日本で多くの建築の設計をしてきました)の自邸に倣って建てた家。天井の梁(はり)や躯体がむき出しになった30畳の広いワンルームで、食卓もベッドも見わたせます。もう一人の主人公87歳の津端英子さんは、300坪の土地に70種の野菜と50種の果実を栽培し、料理、刺繍、機(はた)織りにも日々精を出しています。ロハスというほど軽くはない、自給自足というほど泥臭くもない。過剰を避け、自然に逆らうことなく穏やかに生きる。そんな暮らしが淡々と描かれているかのようにみえます。

しかし、映像の細部に目を凝らすと、そこに、てこでも動かない強烈な個性を発見することができます。個室の全くない家そのものがそうです。雑木林の楢(なら)や樟(くぬぎ)の幹に人名を記した木札が貼り付けられていますが、これは冠婚葬祭に一切出席しなかった修一さんが、亡くなった友人をしのぶために貼り付けたものだそうです。

修一さんは、大学卒業後、レーモンド建築設計事務所を経て、1955年、日本住宅公団発足とともに公団に入社します。そして、青戸第一団地、原宿団地、多摩平団地、高根台団地、阿佐ヶ谷住宅、赤羽台団地など、数多くの団地の設計、レイアウト・プランなどを手掛けました。その頃の修一さんを知る人の回顧によれば、「当時、団地のレイアウト・プランをつくったりするのに津端さんは独創的なデザインをかなりやっていて『津端スクール』みたいなグループもできたんですよ。…でも津端さんはマイペースで人のいうことを聞かないから(笑)、一方では上の連中から恨まれたりもしてね」(都市計画コンサルタント協会『協会レビュー』2010年第7号)とあるように、若い頃からかなり頑固な建築家だったようです。

日本都市計画学会石川賞も受賞した愛知県春日井市の高蔵寺ニュータウンでも、風の通り道となる雑木林を残し、自然との共生を目指したレイアウトを主張し、禿(はげ)山となった高森山を「ドングリ作戦」として復活させようとしたといいます。しかし、完成したニュータウンは、その意図とは程遠いものとなってしまったため、1970年にこのニュータウンの一隅に自ら土地を買い、家を建て、雑木林を育てて50年の時を生きていくことになりました。このドキュメンタリーが撮影された最晩年は、伊万里市の医療福祉施設の設計草案を無償で手掛け、撮影中の2015年6月に老衰で逝去されました。

住戸プランにおける画一性と、外部空間における多様性と先駆性。日本住宅公団の設計した団地群にはこの両者が併存しています。前者は、51C型と呼ばれた基本間取りで、6畳と4畳半にDKを加えた2DK。全国各地で建設された公団住宅は、初期はすべてこの間取りでした。ステンレス流し台、水洗便所、浴室、シリンダー錠という最新設備は、住戸のなかに配置される3種の神器(電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビ)とともに、若い核家族の憧れの的となりました。後者は、独自の住棟配置やゾーン配置で、開かれた空間と公共性が、幼児の遊び場、小中学生の運動場の配置や、歩道と車道の組み合わせや、住棟間の幅の工夫として、それぞれの団地ごとに独自に多様性をもって設計されていました。

この先駆性を代表する建築家が津端修一さんでした。例えば、修一さんがリーダーとなった阿佐ヶ谷住宅のレイアウト・プランでは、「個人のものでもない、かといってパブリックな場所でもない、得体の知れない緑地のようなもの(=コモン)を、市民たちがどのようなかたちで団地の中に共有することになるのか」と、修一さんが記しています。

修一さんが、入社した日本住宅公団は、戦後の住宅難の時期に住まいを量的に供給することを目的に設立され、1955年から80年までの間に100万戸を超す集合住宅を建設しました。その後、1981年に住宅・都市整備公団と名称を変え、都市開発も視野に入れた事業に取り組むようになります。さらに1999年には都市基盤整備公団という名称に変わり、2004年には独立行政法人都市再生機構(UR)となって、現在に至っています。この名称の変遷から、仕事の内容が、住宅建設・供給から都市計画、民間デベロッパーに対する誘導支援事業へと変化してきたことがわかります。現在では、URは新規住宅建設を行わず、リノベーションや団地の改修と再生を民間と共同して行うようになっています。

少子高齢社会の進行のなかで、2040年までに全国の1800市町村のうち896市町村で人口が50%以上減少すると推計され、将来的には消滅する可能性がある(日本創成会議・人口減少問題検討分科会)ともいわれている現在、『人生フルーツ』という映画、そしてそこで描かれた津端修一・英子夫妻の暮らしは、社会・都市をどのように変えていくのか、どのような住まいとまちをつくっていくのかについて、向かうべき方向と道筋を静かに示しているようにも思いました。

学長  伊藤 正直

8月 お茶について

先月の「衣」に続いて、今月は「食」、というか「飲む」こと。「飲む」といってもお酒ではなくお茶の話です。北京西站(えき)から外に出ると、南北に続く馬連道という通りにぶつかります。この通りをちょっと南に下った辺りから1500mほどの間に、1200軒を超す茶城(茶専門のビル)、茶葉問屋がひしめいています。中国最大の茶取引市場ともいわれ、壮観です。専門店となっているところも多く、中国全土のお茶、さらには台湾、インド、スリランカのお茶もここで揃います。これまで、集中講義やシンポジウムで北京に滞在する際には、だいたいここに出かけ、結構まとまった量の中国茶を購入してきました。

私たちが普段飲んでいる日本茶は、緑茶かほうじ茶ですが、中国には、数百種類ともいわれるお茶が存在します。その種類はさまざまで、分類の仕方も多様です。茶葉の形態によって、散茶(葉茶)、末茶(粉茶)、餅茶(固形茶)と分ける場合もあれば、茶葉の色や香りによって分ける場合もあります。ただ、一般的には、発酵度によって分けることが普通のようです。この分け方は、概要、緑茶(不発酵茶)、白茶(弱発酵茶)、黄茶(弱後発酵茶)、青茶(半発酵茶)、紅茶(発酵茶)、黒茶(後発酵茶)の6分類です。茶畑から摘んだ生葉を素早く熱処理して酸化を止めること、すなわち発酵を行わないようにするのが不発酵茶で、ほとんどの日本茶、中国茶の緑茶がこれです。これに対して、日光や室内で乾燥させ、揺青(ヤウチン)、揉捻(ロウニェン)などを行うことによって、発酵を促進していくのが、青茶、紅茶、黒茶です。

緑茶は、日本の緑茶とほぼ同じ、龍井茶が有名です。白茶は、新芽を日干しして水分を蒸発させたもので、針のような形状をしています。シルバーチップスという名称で紅茶に混ぜたりもします。黄茶も形状は白茶に似ていますが、茶葉もお茶もはっきりとした黄色です。味も香りも軽さが特徴です。青茶は、日本で最も知られている烏龍茶がその代表で、武夷岩茶(ぶいがんちゃ)、鉄観音が有名ですが、台湾の東方美人、梨山なども知られています。さわやかな甘味と香りがあります。

紅茶も、じつは中国生まれですが、イギリスの紅茶文化の誕生とともに急速に普及しました。現在は、世界のお茶生産量のじつに70%が紅茶で、インド「ダージリン」、スリランカ「ウバ」、中国「祁門(キーモン)」が世界三大紅茶といわれています。最後の黒茶は、日本では減肥茶として知られている普洱(プーアル)茶が代表で、先に述べた餅茶(固形茶)として長期保存されたものも多くあります。かび臭いとも言われますが、なれると濃厚な熟成香が楽しめます。この他に、花茶と称されるハーブティ、例えば、茉莉花茶(ジャスミンちゃ)、菊花茶(きっかちゃ)などもあります。本当に種類が多いですね。

中国で、このようにお茶が広まったのは唐の時代とのことです。最澄や空海が、遣唐使として中国に滞在した時代です。「茶は南方の嘉木(かぼく)なり」とは喫茶の体系を立てた陸羽の言葉で、茶の原産地は、中国南部の雲南省、四川省、福建省のあたりといわれています。この言葉を、私は陳舜臣『茶の話-茶事遍路』(朝日文庫、1992年)で知りました。

陳舜臣『茶の話-茶事遍路』は、茶の文化史を主に扱っている著作ですが、それにとどまらず、茶の社会史、政治史、経済史にまで触れています。例えば、茶馬古道という言葉があります。中国の歴代王朝は、その軍事力の基礎として、北方民族から馬を手に入れるためにかなりの努力を払いました。唐代は、そのための交換手段が絹であったのに対し、宋代に入ると茶が主たる交易手段となったというのです。また、18世紀の半ば、イギリスでafternoon teaの習慣が定着するなかで、お茶の輸入は、イギリス政府財政、国際収支上の大問題となっていくことも論じています。輸入を賄うに足る財源をどう確保するかという問題です。こうして、1773年のボストン茶会事件が起こり、1840年にはアヘン戦争が起こります。前者は、アメリカの茶輸入に本国イギリスが規制をかけようとして起こった事件ですし、後者は、イギリスの経常収支入超を中国へのアヘン輸出によって相殺しようという目的で起きた戦争でした。アメリカの独立とアヘン戦争という世界史上の大事件に、茶は深いかかわりを持っていたのです。

もちろん、こうした生臭い話題が中心というわけではなく、茶文化の歴史を淡々と描いていくところに、本書の本領があります。とくに、茶をめぐる日中交流史、例えば、中国ではすたれてしまった抹茶が、日本では現在まで残り、茶道として定着していることへの言及などは、身体文化としての喫茶が、社会規範へと展開していく道筋を考えるきっかけとなりました。「日常茶飯事」という言葉もあります。生活文化としてのお茶と、「道」としてのお茶、その共通点と相違点を改めて考えてみたいと思います。

学長  伊藤 正直

7月 ポジャギとフクター

博物館や美術館が好きで、集中講義や研修で海外にしばらく滞在するときは、時間を見つけては通っていました。東京にいるときでも、博物館、美術館はあちこちにあるので、面白そうな企画展があれば、なるべく観に行くようにしています。海外で、印象に残っている美術館のひとつが、お隣韓国ソウルの韓国刺繍博物館です。李朝時代の宮廷衣装、ポジャギなどを展示した小ぶりの博物館で、訪問したのは、もう20年近く前のことです。現在どうなっているかとネットで検索してみると、移転準備のため休業中(2019年6月10日現在)とのこと。

ソウルには、世界でも有数の規模を誇る国立中央博物館、世界的な建築家のマリオ・ボッタやジャン・ヌーベルが設計したサムスン美術館、歴史的遺産を多く展示しているソウル歴史博物館など、有名な博物館・美術館(これらの美術館、博物館にも行きました)が数多くあるのに、なぜ、こんな小ぶりの博物館が印象に残っているのかというと、ポジャギがあまりにも繊細で美しかったからです。その刺繍の文様と色彩の組み合わせは、ピエト・モンドリアンやパウル・クレーを髣髴(ほうふつ)とさせ、いつまで見ていても飽きませんでした。

上の写真からも分かると思いますが、ポジャギは、さまざまな色の余り切れを縫い合わせて制作されたパッチワークです。ハンカチ位の小さなものから畳1畳を超すような大きなものまであり、素材も、絹、麻、苧麻(ちょま)と多様です。李朝時代に宮廷で使用されたポジャギは官褓(クンポ)と呼ばれ、庶民に使われたものは民褓(ミンポ)と呼ばれていたそうです。上の写真の右がクンポ、左がミンポで、クンポは絹、ミンポは苧麻(ちょま)です。

このクンポの幾何学的構成と色彩の取り合わせは、私たちの眼からは、とても近代的なものにみえます。ミンポのモノトーンの色調と文様は、さらにモダンです。しかし、実は、このクンポの色の取り合わせは、陰陽五行説に基づく伝統的な色彩観に厳密に従っているとのことです。これに対し、庶民に使われたポジャギのミンポは、地域性を顕著に示し、例えば、江原道のポジャギは、樹木や花鳥など自然からえたモチーフを抽象化したものが多く、西海岸の江華島は幾何学文様の麻のポジャギで知られており、豊かだった全羅道は絹のものが多くみられるといいます(許東華博物館長)。

そしてこの文様と色彩の感覚は、海を渡って、沖縄にも受け継がれたようです。前田順子『きらめく紅絹の交響楽』(暮しの手帖社、1997年)は、明治、大正期の沖縄の琉球絣、大島紬、久米島紬、木綿などを使って作られた和風パッチワークの作品を集めた本ですが、この本のなかにあるフクター(沖縄で、古い布をつぎはぎして作った作業着をフクターという)は、ミンポと共振しているようにもみえます。

絵画や彫刻などから自分が受ける感興と、こうした古い時代の衣装や食器や家具などから受ける感興は、両者の間に少し相違があります。衣装や食器や家具は、自分の体により近い部分という意味で、身体感覚を喚起するためかもしれません。視る文化と触る文化の違いについて、これからも考えていきたいと思います。

学長  伊藤 正直

6月 ネットと個人情報

先月に続いて、ネットの話をもう少し。ネットで買い物をしたり、検索をしたりすると、次にスマホを開いたとき、何もしていないのに以前検索した商品やそれに関連する広告が出てきて、あれっ、と思ったことはありませんか。なぜ、そんなことができるのでしょう。

GAFAという言葉があります。グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの頭文字をとったものです。アメリカのIT大手4社で、世界中にネット網を張り巡らせています。グーグルで検索をし、アップルでスマホを使い、フェイスブックで友達と情報交換し、アマゾンで買い物をする。私たちが毎日のように行っていることです。このように、ネット上で、モノやサービス、情報をやり取りするためのソフトやアプリを提供する組織をプラットフォーマーと呼びます。その代表ともいうべき存在がGAFAです。

これらのプラットフォームを、私たちはタダで利用しています。検索、SNS、地図アプリ、ネット通販。これらはとても便利なもので、私たちの生活を便利で豊かなものにしているといえます。でも、「タダより高いものはない」。じつは、こうした利便性の対価として、私たちは、自分の個人情報を、これらのプラットフォーマーや企業に提供しているのです。その仕組みのひとつが「クッキー」です。「クッキー」は、利用者のオンライン上の行動を追跡できるため、企業は、利用者に「クッキー」情報の利用に同意を求めます。利用者は、情報の利用について「同意するかどうか」を聞かれ、続けて利用したいと考えると、安易に「同意」ボタンを押してしまいます。

こうしてオンライン識別子(IPアドレスやクッキー)とともに、利用者のオンライン上の行動履歴がプラットフォームに蓄積されます。利用者の、年齢、性別、学歴、趣味から始まり、購買履歴、HP閲覧履歴、位置情報などが、ほぼ自動的にこれらのプラットフォーマーに集まっていくのです。収集され、蓄積された個人情報は、GAFAの諸事業のベースとなり、ここからGAFAは巨額の利益をあげています。

フェイスブックによる個人情報の不正流出が明らかになったことをきっかけに、巨大IT企業による個人情報の取扱いが不透明で、ルールを恣意的に運用しているのではないかとの声が広く上がりました。このため、EUは、2018年5月、GDPR(一般データ保護規則)という厳しい規制を施行させました。そして、このGDPRに基づいて、2019年1月、フランスのデータ保護当局は、グーグルに対して、5,000万ユーロ(約62億円)の制裁金の支払いを命じました。

GDPRは、個人データ授受の透明性確保や同意取得の原則などに違反した管理者に対して一定額の制裁金を課すことを規定しています。グーグルへの制裁金の課金の理由は、具体的には、①グーグルは個人データを取得する場合は、その利用目的や法的根拠などをデータ主体に説明する義務があるにもかかわらず、データ主体への情報提供が十分でなく、透明性が認められないこと、②ターゲティング広告で個人データを取得するときデフォルトで同意することとなっており、データ主体の明確な同意に基づいていないこと、の2点にあったと説明されています。本来、同意は、個別の利用毎に毎回取得することが必要であるのに、グーグルは包括的に取得していたために、データ主体の明確な同意ではないと判断されたのです。

これまでもネット上での個人情報の公開については、『学生生活の手引き』などで、そのリスクについて繰り返し注意を喚起してきました。氏名、年齢、住所、電話番号、自分の写真といった個人に関する情報を公開する危険性について、十分認識してほしいとの思いからです。迷惑メール、データ改ざん、ネットストーカーなどの被害は、最近でもおさまっていません。

しかし、GAFAなどによる個人情報の取得と利用は、それとは性格をやや異にします。ネットでの個人情報の公開は、あくまでデータ主体の意思に基づいてなされているのに対し、GAFAなどによる個人情報取得はデータ主体の意思とは無関係に行われてきたからです。見方によっては、より悪質ということができます。GDPRは、この点を重視して、はっきりと「個人をデータ処理者、管理者から守る」ことを目的としました。

日本政府も2018年12月に、巨大プラットフォーマー規制強化に向けた「基本原則」を発表し、専門の監督組織を設ける方向で検討を開始しています。この検討では、巨大ITと個別企業との関係が中心となっていますが、より重要な点は、プライバシーの保護でしょう。自分の知らないところで自分に関する情報がやり取りされることへの危惧、気持ち悪さを出発点として、どのようにして個人情報が守られるかを丁寧に議論することが求められています。

学長  伊藤 正直

5月 若者はどんなメディアにアクセスしているのか?

この30年、いや、この10年をとっただけでも、人々のメディアへのアクセスは大きく変化しました。朝、大学に出てくると、学生のほとんどは、スマホに一心に見入っています。何をやっているのかなあ、とちょっと聞いてみると、多いのがLINEとInstagram、次いで、Twitter、Youtube、あとはゲームで、ソーシャルメディア系のサービスやアプリが、活発に利用されています。友達同士の情報交換、自己情報の発信、世の中の出来事や趣味・娯楽に関するニュースの入手などに、スマホが日々使われているのです。

昔は、メディアといえば、まず新聞でした。今、毎日、新聞を読む人の割合はどのくらいでしょうか。総務省やNHKなどのいくつかのアンケート調査からみると、新聞を毎日読んでいる人は、全体の半分強とのことですが、年代による差が著しく大きくなっているのが最近の特徴です。10代、20代は、新聞を読むのは10%以下、ほとんど読んでいません。30代、40代も10~20%で、新聞を読むのは圧倒的な少数派です。60代以上は、あいかわらず半数以上が新聞を毎日読んでいます。以前は、30代、40代で新聞を毎日読む人が50~60%いましたから、この世代の変化が大きいことがわかります。

新聞と並ぶ主要メディアのテレビはどうでしょうか。新聞ほどではないといえ、こちらも年代による差は大きいようです。一日の間に少しでもテレビを観たことのある人(平日)は、全年代平均で80.8%(2017年)と新聞よりはかなり高いのですが、年代別にみると、50代、60代が90%以上であるのに対して、10代は60%、20代は64%と、若年層では、4割近くが全くテレビを観ていないのです。

では、どこから情報を得ているのか、どんなメディアにアクセスしているのかといえば、予想通りといえば予想通りですが、10代、20代の人たちの情報源はインターネットです。総務省「平成29年情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査報告書」(平成30年7月)には、「目的別の利用メディア」という項目があります。そこでは、利用目的を、①「いち早く世の中のできごとや動きを知る」、②「世の中のできごとや動きについて信頼できる情報を得る」、③「趣味・娯楽に関する情報を得る」という3項目に分類して、それぞれ年代別の利用状況を抽出しています。これを見ると、全年代平均では、①と②は、テレビが、それぞれ51.9%、54.1%と最も高いのですが、①を年代別に見ると、インターネットの利用率が10代57.6%、20代69.9%、30代60.7%となり、インターネットが一番利用されています。③では、全年代平均でインターネットが61.3%と最も高くなり、年代別では、10代82.0%、20代85.6%、30代74.5%とネット利用が圧倒的です。

項目中の、①や②はニュースの取得といってよいでしょう。若者たちは、ニュースも、ネットから得ているのです。ネットのニュースは、ポータルサイト、ソーシャルメディア、キュレーションサービスなどから配信されますが、Yahoo!ニュースなどのポータルサイトからの配信が、現在のところもっともよく見られているようです。なかでも、ソーシャルメディアは、テレビや新聞と違い、「自分が見たいものを探して見る」というところに特徴があります。その分、発信者の側にもクセや偏りがあり、受信する側も、自分の好みやニーズに合わないものは見ないということが起こりがちです。

ニュースに対する信頼度は、新聞やテレビの方が、ポータルニュースサイトやソーシャルメディアよりもかなり高いという調査結果(上の総務省調査)が出ています。この信頼度は、じつは年代によってもあまり変わりません。にもかかわらず、若い人たちは、ネットからニュースを得ています。ネットの信頼度が低いことは認識していながらも、「10代~20代は信頼性より即時性、生の声を重視」(2017年1月野村総合研究所調査)しているためだそうです。

今年の入学式で、「反証可能性」ということを話しました。「私がこう思うことは誰にとってもそうである」ことが必要である、別の人が同じ実験をしたら同じ結果が出なくてはならない、ということです。与えられた情報をそのまま受け入れる、入ってきたニュースはすべて正しい、と直ちに結論してしまうのではなく、少なくとも、複数の箇所から、そのソースの正当性や事実確認をする、そのうえで、自分の最終判断をしてほしいと思います。

学長  伊藤 正直

4月 市場経済について改めて考える

最近ようやく担当から離れましたが、これまでかなり長い期間にわたって、『中学社会』、『高校社会』の教科書を執筆してきました。いずれも、かなり細かいところまで教科書検定があり、個人の著書や論文のように、自由に自説を展開する訳にはいきませんでしたが、それでも、「社会」という科目が対象としている世界を、できる限りわかりやすく中学生、高校生に伝えたいと努力してきたつもりです。

担当したのは、中学も高校も、広い意味での公民的分野、もう少し狭くは経済分野で、いろいろ考えた末、やはり最初は「市場経済とは何か」から説明しようということになりました。当時の高校教科書での記述を少し引用してみます。

「きみたちが日常使っているモノのほとんどは、どこかで買い求めたものである。昔はそうではなかった。近代以前の社会では、自分たちが食べるものや着るものの多くは自分たちでつくっていた。ところが今日、ほとんどすべてのモノやサービスは商品として売買されている。企業は生産に必要な原料や材料を、他の企業から購入する。また、企業と家計の間では、消費材の売買がある、と同時に労働力の売買が行われる。きみたちの家族のだれかが会社に行って働いているとすれば、じつはそれは労働力という商品を企業に販売しているのである。このようにほとんどすべてのモノやサービスが商品となった経済を市場経済という。モノやサービスの値段はこの市場で決まる。自由な競争がおこなわれている市場では、価格は需要と供給のバランスによって決定される。モノが足りなければ、価格は高くなる。過剰にモノがあれば、価格は安くなる。競争相手が多ければ、売り手はかってに値段を決めることができず、市場での競争を通じて決まった価格を受け入れざるをえない。この価格、すなわち需要と供給を一致させる価格を均衡価格という。」

競争を前提とし価格をシグナルとする市場秩序の形成という教科書的な説明(教科書ですから当たり前といえば当たり前ですが)です。アダム・スミスの「見えざる手」の説明といってもいいでしょう。しかし、いうまでもなく、市場経済は万能ではありませんから、その問題点や制約を、続いて、いくつか説明することになります。

スミスは、経済学の始祖といわれ、社会的分業の優位性と効率性を明らかにしたことで有名です。「見えざる手」という表現は『諸国民の富』のなかに一箇所登場します。しかし、スミスは、それに先立つ著作『道徳情操論』のなかで、「(市場は)私的利害関心の異常で重要な追求の場である」、「公共的為政者は、正義という徳性の実践を強制するために、公共社会の力を使用する必要に迫られる。この予防手段がなければ、市民社会は……流血と無秩序の場面となったであろう」、「正義は……大建築の全体を支える主柱である」と述べています。

「市場」がそれ自体として、価格をシグナルとする「規律付け」のメカニズムをもつというのが、「見えざる手」という考え方です。しかし、スミスは、それに先立つ論考では、市場は「正義による規律付け」を必要としていると主張しています。トランプ政権、習政権の最近の動向や、ヨーロッパ統合をめぐる軋みをみていると、アダム・スミスのこの言葉を、今一度振り返る必要があるとの思いを強くします。

学長  伊藤 正直

2018年度

3月 統計の役割とは?

統計不正とか統計偽装という言葉が、マスコミやネットで飛び交っています。厚生労働省による「毎月勤労統計」の不正調査が、国会で取り上げられ、大騒ぎとなったことがきっかけですが、この他のいくつかの政府統計にも同様の問題があるとされ、政府統計全体への信頼が揺らぐまでになっています。

「毎月勤労統計」は、雇用や給与、労働時間などに関する統計で、さまざまな政府統計のなかでも「基幹統計」のひとつであり、雇用保険や労災保険の給付額も、これを基準に決められています。この不正のせいで、算出された平均給与が実際よりも低めにでてしまい、結果として、延べ2000万人の失業手当が、本来もらえる金額よりも減額されてしまったというのです。あるいは、最近になって日雇い労働者を除外するなど算出方法の変更が行われ、そのため、2018年度から賃金の上振れが起きているというのです。

政府統計は行政統計ともいわれ、政策を企画・立案し、それを実施し、さらにその結果を評価するために不可欠なものです。雇用が増えたのか減ったのか、賃金が上がったのか下がったのかだけでなく、物価はどうなっているのか、生産は増えたのか減ったのか、消費は増えたのか減ったのか、投資はどうなっているのか、貿易はどうか、これらが正確につかめていなければ、正しい政策は出せないでしょう。それだけではありません。これらのデータは、企業や家計が的確な意思決定を行っていくための大前提でもあります。

正確なデータをきちんととるための学問として発達してきたのが統計学です。統計学は、17世紀のドイツをはじめヨーロッパ諸国で誕生し、明治維新期前後に日本に導入されました。その源泉は、ドイツでの国勢学としての統計、イギリスの人口統計など大量データを把握する統計、イタリア・フランスの確率的事象を捉える統計の3つにありましたが、日本は、このうちとくに「治国・経世のための重要性と有用性」という観点から統計学が導入されたとされています(宮川公男『統計学の日本史』)。

こうして1920(大正9)年には、現在も続いている第1回の国勢調査が始まりました。5年に一度の国勢調査では、日本に住んでいるすべての人と世帯を対象に、人口、世帯構成、就業状況などを調べます。調査に答えることは、法律で義務となっています。回答しても個人や世帯に利益があるわけではありませんが、このデータは国や地方自治体の施策の前提ともなっており、また、地方交付税の根拠ともなっています。

しかし、日本が戦時経済に突入していくなかで、統計の重要性についての認識は、政府や軍部の内部で共有されるどころか弱まり、第二次世界大戦の敗戦という結果を招いてしまいました。その後、戦後占領下の1947年3月に、GHQの指導も加わって「統計法」が制定・公布されて、現在につながっていきます。ただ、この経緯から、戦後日本の統計行政は分散型統計機構の下で行われることになり、統一的・統合的な統計機関は設置されませんでした。このため、行政統計の作成にあたっては、現在でも、府省間の連携・協力とともに、 政府横断的な調整機能の発揮により、必要な統計を整備し、利用しやすい形で提供することが重要とされています。

政府統計だけではありません。現在は、ビッグデータの時代、データサイエンスの時代といわれています。コンピュータとインターネットの発展、スマートフォンの普及は、日々、大量のデータを生み出す社会を作り出しています。「世界の最も重要な資源はもはや石油ではなくデータである」ともいわれています。こうした状況は、GAFAによるデータ独占、ステルス・マーケティング、フェイク・ニュース、個人情報の流出などの新しい問題を発生させています。

いずれにせよ大切なことは、データがもっている公共的な価値、社会的価値を減損させないことです。そのために何よりも必要なのは、データが正確であること、偽りのない正直なものであることです。社会を支える最大の基盤はそこにこそある、あるいは、そこにしかないからです。

学長  伊藤 正直

2月 お金って何?

キャッシュレス化が世界的に広がっています。買い物の支払いや取引の決済に現金を使わない、電子マネーやICカードやクレジットカードで決済する、こうした状況をキャッシュレス化といいます。2018年4月の経済産業省調査(経済産業省商務サービスグループ『キャッシュレス・ビジョン』)によれば、世界各国のキャッシュレス決済比率は、韓国89.1%、中国60.0%、以下カナダ、イギリス、オーストラリア、スウェーデン、アメリカと続き、いずれも50%前後であるのに対し、日本は18.4%となっています。

中国で、近年、急速に普及したのは、スマホでQRコードを読み取って支払いを済ませるモバイル決済です。中国の2大IT企業のアリババとテンセントが提供するAlipay、WeChatPayを使って決済する仕組みで、専用のカードリーダーも不要で、お店は、QRコードを印刷した紙切れを置いておくだけでいい。このモバイル決済は、個人間送金の仕組みを利用しているので、クレジットカードや加盟店方式の電子マネーに比べると、店舗側の負担はほとんどありません。現金を扱わないので釣銭もいりません。コンビニでも露店でもどこでも使える、というとても簡便なものです。2017年からアリババは、顔認証システムを導入しため、カメラさえあればスマホも不要になってきたそうです。もともと、現金に対する信頼性が低かったこと、銀行システムが普及していなかったことなどが、モバイル決済急拡大の背景にあるようです。

スウェーデンやノルウェーなどの北欧諸国も、キャッシュレス先進国です。北欧諸国は、1990年代の初め、ノルディック・クライシスといわれた厳しい金融危機に見舞われ、これをきっかけにキャッシュレス化が進んだとされています。スウェーデンの方式は、スマホの電話番号とBankIDを結び付けるSwishというアプリを使って、スマホで決済を済ませるというもので、中国と同じように、スマホでQRコードを読み取って支払いを済ませることもできます。ノルウェーでも現金決済の比率は10%以下となったと、2018年にノルウェー中央銀行が表明しています。

中国や北欧諸国のモバイル決済に対して、アメリカや韓国でのキャッシュレス化は、クレジットカード、デビットカードの普及によるものでした。アメリカを旅行したことのある人なら頷いてもらえるでしょうが、どこでもクレジットカードやデビットカードが使えますし、現金よりも割引率が高かったり、サービスが良かったりします。また、シェアリング・エコノミーの進展により、例えば、Uberという配車アプリをスマホに登録しておくと、GPSを利用して、自家用車による配車サービスを受けることができ、クレジットカード決済が自動で行われるようになっています。韓国では、クレジットカードの利用率は、アメリカよりもさらに高く70%を超え、その他の電子決済を含めると、現金決済の割合は10%を下回るともいわれています。

このような中国や北欧、アメリカや韓国のキャッシュレス化に対し、わが国のキャッシュレス化は、始めに見たように、18.4%と著しく低い水準に止まっています。中国などとは異なり法定通貨=現金への信頼が高い、ATMが普及している、カード決済に対応していない店舗が多い、キャッシュレス決済への抵抗が大きいなどが、その理由に挙げられています。しかし、インターネット環境の急速な拡大、ICT、IoT、AIの普及は、さまざまな形での電子決済を拡大させざるを得ないでしょう。フィンテック、ブロックチェーン、ビットコインという言葉も、日常的に飛び交うようになっています。

利便性と安全性、国家管理と民間自律、公共性とプライバシー。議論すべきことは数多くありますが、もっとも根本的には、貨幣とは何か、通貨とは何かが、問い直されていることではないでしょうか。高校で、通貨の定義、通貨の3機能について学んだことを思い出してください。通貨とは、取引の決済に使われるもので、汎用性がなくてはならない。通貨の3機能とは、価値尺度機能、交換機能、蓄蔵機能である。こんなことを勉強しましたね。では、通貨の汎用性を保証しているのは誰でしょう。通貨の3機能は誰が付与しているのでしょう。政府でしょうか。制度でしょうか。市場でしょうか。電子決済の広がりは、このことを改めて問うています。

学長  伊藤 正直

1月 世界はどこに向かっているのか

世界を見回してみると、あちこちで軋みが激しくなっているように思われます。トランプ政権は、アメリカ第一をますます声高に唱え、中国、ロシアだけでなく、欧州諸国や日本に対しても、高関税を課すという保護主義を強め、メキシコ国境のフェンス拡大も続いています。イギリスでは、EU離脱のブレクジットを宣言したにもかかわらず、それをどのように実施するかについては、与党保守党内部でも意見が一致していません。大陸ヨーロッパでは、移民排斥の動きが高まり、排外主義を掲げる極右政党が支持を伸ばしています。中東やアフリカでは、民族間、宗派間の対立が激化し、女性や子供に対する暴力が蔓延しています。

第二次大戦後、とくに1980年代から急速に進行したグローバル化の反転現象が広範に起こっているのです。グローバル化を、ヒト・モノ・カネ・情報の国境を越えた相互依存の深化ととらえるとすれば、これまで3回の大きな波が存在したということができます。第1の波は16~17世紀の大航海時代であり、第2の波は19世紀後半から20世紀前半の帝国主義時代です。そして、第3の波が、1980年代以降最近までです。このグローバル化と第1、第2の波とは、どこが異なっているのでしょう。違いをみると、次の3点を指摘することができます。

第1は、グローバル化が、先進国、ないし先進国企業、あるいはIMFなどに代表される国際機関の主導によって進められて来たことです。国民経済の枠組みを超えた資本市場・商品市場・労働市場の国際的再編と再配置は階層性を伴っており、今までのところ、先進諸国や多国籍企業の意向に反する形では進んでいないようにみえます。とくに、非先進国における経済状況の悪化や、その克服のための負担を誰が負うのかをめぐって、世界は鋭く対立しています。

第2は、グローバル化推進の基礎に、アングロ・サクソン的新自由主義ともいうべき思考様式が強力に存在することです。新自由主義という言葉は、今日、しばしば安易に使われますが、歴史をひもとけば、自由主義にもさまざまな考え方が存在してきました。近代社会は自由・平等・友愛を原理とするといわれますが、アングロ・サクソン的新自由主義はそのうち自由を最大の価値に置くものです。

第3に、経済のグローバル化の牽引力となったのが、貿易や労働移動といった実体経済の側の動きではなく、金融だったことです。世界中を駆け巡りたいというマネーの欲求こそが、グローバル化の起動力となっており、貿易や労働や情報の国境を越えた相互浸透も、この金融の動きと結びついて進んでいます。1980年代のグローバル化は金融グローバル化のことである、といっても過言ではありません。

1980年代以降のグローバル化については、それが望ましく、良いものであるということが繰り返し語られてきました。すなわち、開かれた競争的なグローバル市場の拡大は、貿易や対外投資を増大させ、技術移転を容易にし、雇用機会を拡大することを通して、経済成長と人間の前進を可能にする、グローバル市場拡大のプロセスで、モノやサービスの交流が拡大し、非効率な部分が縮小し、全体の経済厚生が上昇する、この結果、社会は全体として豊かになっていくというのです。

しかしながら、現実は、必ずしもこの想定通りには進みませんでした。なかでも大きな問題は、格差の拡大です。国連の統計によれば、最も豊かな国々に住む人々(最富裕5ヶ国)と最も貧しい国々に住む人々(下位5分の1ヶ国)の所得差は、1950年の35対1から、73年には44対1、92年には72対1、そして2016年には148対1となりました。この20年ちょっとの間だけでも国家間の経済格差、経済的不平等は倍に拡大したのです。

国内格差も、先進諸国、新興工業国、開発途上国、あらゆるところで広がりました。先進国グループとされるOECD諸国をとってみると、ドイツとイタリアを例外として、ほとんどすべての国で、賃金の不平等が拡大しました。ラテンアメリカ諸国では、1970年代には所得分配の不平等がいったんは縮小したものの、82年の中南米危機以降、短期間で不平等が再び拡大し、現在まで格差は高い水準に固定されたままです。市場経済への移行を進めた東欧・CIS諸国でも90年代半ばまでの10年足らずで格差は一挙に倍増しました。国連ミレニアム宣言は、「私達は、極貧の悲惨で人間性を奪うような状況から、私達の仲間である男女そして子供達を救済することに努力を惜しまない…」と述べています。

グローバル化の反転現象はいつまで続くのでしょうか。かつてのグローバル化の時代を考えると、それが数十年のオーダーで続くことも想定できます。しかし、長い目で見れば、グローバル化は不可逆的なものです。反転現象が続いている現在、憎悪と格差の連鎖を断ち切ること、言葉の本来の意味での友愛と平等を取り戻すことの必要性はますます高まっていると、いわなくてはならないでしょう。

学長  伊藤 正直

12月 「女性の自立」ということ

「女性の自立」という言葉がでてくると、いつも頭をよぎる詩があります。

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

1999年に発表されたもので、作者は、茨木のり子、73歳の時の作です。読んでわかるように、「女性の自立」を主題にしているわけではまったくないのですが、求心的でありながらきちんと外に開かれた姿勢、自分と向き合うことが社会と向き合うことになるという信念、こういったものが、この詩から湧き上がってきて、読者に「自立」の意味を、改めて考えさせます。最後の3行が、「いつも立ち続けている訳にはいかないわよね」という自己省察に戻って、この詩を貫く厳しさを、やわらかく包んでいるところが、「女性の自立」を連想させるのかもしれません。

「女性の自立」は、さまざまな文脈で語られてきましたし、語ることができますが、前提となっているのは、やはり、経済的自立でしょうか。茨木も、自身の青春期を回想するなかで、次のように記しています。「父は私を薬学専門学校へ進めるつもりで、私が頼んだわけではなく、なぜか幼い頃からそのように私の針路は決まっていた。父には今で言う『女の自立』という考えがはっきりと在ったのである。女の幸せが男次第で決まること、依存していた男性との離別、死別で、女性が見るも哀れな境遇に陥ってしまうこと、それらを不甲斐ないとする考えがあって、『女もまた特殊な資格を身につけて、一人でも生き抜いていけるだけの力を持たねばならぬ』という持論を折にふれて聞かされてきた」。

こうして、父の敷いたレールに乗って、茨木は、薬学専門学校へ進学します。しかし、有機化学、無機化学など、理数系の科目を全く受けつけず、敗戦の翌年、繰り上げ卒業で薬剤師の資格を得たものの、自らを恥じて、その資格を使うことはありませんでした。こうした回り道をたどって、茨木は詩人(本人の弁では「物書き」)としての道を選び取っていくことになります。

人は、経済的基盤があってこそ自立しうるものであることは確かですが、経済的自立を支えるもの、その前提となるものは、精神の領域における自立に他なりません。いくらお金があっても、力があっても、それに振り回されては、「金銭の奴隷」、「権力の奴隷」になってしまいます。「折にふれて聞かされてきた」父親の持論は、なによりも「精神の自立」として、茨木の身体の芯に埋め込まれたといえるのではないでしょうか。日常の言葉を使いながら、勁く、清冽で、向日的な茨木の詩は、『茨木のり子集 言の葉』全3巻(ちくま文庫)で読むことができます。『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)とあわせ、手に取って欲しいと思います。

学長  伊藤 正直

11月 これからの女子教育を考える・続

先月に続き、これからの女子教育について、もう少し考えてみたいと思います。7月と9月のシンポジウムの中心的話題とはならなかったのですが、このシンポジウムで、両回とも登場した言葉のひとつにSTEM教育がありました。STEMとは、science、technology、engineering、mathematicsの頭文字をとったもので、広い意味での科学教育、理系教育を指しています。STEM教育は、1990年代からアメリカで唱えられ、オバマ政権の時に重点課題とされ、世界に広まったといわれていますが、シンポジウムでは、女子高等教育におけるSTEMの重要性、日本におけるその立ち遅れといった文脈で言及されました。これからの女子教育にSTEMが必要だといわれるのは、どのような理由からなのでしょうか。

最近では、リケジョ、建築女子、環境女子、農業女子といった言葉が、あちこちでみられます。しかし、大学学部別に男女学生の割合をみると、薬学・看護学、家政学、教育学、人文科学では、女性の割合が59.0%~67.5%(平成28年度「学校基本調査」による)と過半に達しているのに、社会科学分野では34.7%、理学分野では27.0%、工学分野に至っては14.0%と著しい少数派となっています。わが国では、女子の4年制大学進学率は男子より8%ほど低いのですが(欧米では女子の進学率の方が高くなっており、成績もよいという調査があります)、それでもこの差は圧倒的です。また、STEM職に占める女性の割合も、アメリカで25%、イギリスで13%に対して、わが国では8%に過ぎません。

なぜ、こうした状況になっているのでしょうか。「女性は理論科学よりは経験科学の方に適している」とか、「女性は、論理的思考より感性的思考において秀でている」といった主張が時に聞かれますが、きちんと論証されたわけでなく俗説に過ぎないでしょう。実際に、現在では世界的に有名な数学者のかなりの数は女性ですし、物理・化学の分野にも多数の女性研究者がいます。また、建築や認知科学の分野でも女性は大活躍しています。

STEM職に女性の割合が低いことについて、適性や感性の問題ではないといった議論も当然ながら、なされています。例えば、アメリカでは、雇用側が男性であるか女性であるかに関わらず、「男性応募者の方が有能だと判断して優遇する傾向」がみられると、雇用側の偏見、すなわちジェンダー・ギャップがこうした状況を生み出してきた、という分析もあります。もっとも、日本よりジェンダー・ギャップが大きいとされる韓国ですら、今では、女性科学者の人材育成・キャリア支援を推進する公的機関が存在し、公的機関の雇用においてはクオータ制(割当制)が導入されています。大学工学部の女性比率は24.4%で、日本の倍近く(平成29年4月、内閣府男女共同参画局の調査による)ですから、ジェンダー・ギャップだけの問題とはいえないかもしれません。

STEM職に就くか否かという議論の前に、そもそもの問題として、STEM教育がいかなる意味で必要かが議論されなくてはならないでしょう。STEM教育については、近年、企業における生産性・効率性、教育投資の収益性といった観点から語られることが多くなっています。しかし、そうした議論はあまりにも短絡的だと思います。そうした発想ではなく、社会を認識する上での基礎的リテラシーとしてSTEM教育を位置づける、「女性の自立」という観点からSTEM教育を捉えなおしていく、このことが求められているのではないでしょうか。

学長  伊藤 正直

10月 これからの女子教育を考える

7月の学長通信にも書きましたが、本学は、今年創立110周年を迎えています。この110周年を記念して、さまざまなイベントや事業を行っていますが、本学が女子教育機関であることに鑑み、女子教育の今後の展望について改めて考えようという企画もいくつか立てられました。7月には「女子大学の可能性と未来への展望を拓く」というテーマで、津田塾大学の高橋裕子学長をお迎えしました。9月には「世界の中の日本-これからの女子教育」というテーマで、日本女子大学蟻川芳子前理事長・学長、アリソン・ビールOxford大学日本事務所代表をお迎えし、ポール・マデン駐日英国大使の祝辞、ウィル・ハットンOxford Hertford College学長のメッセージを受けました。

2つのシンポジウムでは、それぞれ、女子教育の理念、社会的意義と位置付け、その歴史的検証や国際比較、現在の焦点的課題、今後の展望など、数多くのことがらが語られました。私も、この2つのシンポジウムにパネリストとして参加し、女子高等教育の国際比較や労働市場における男女格差の現状について報告しました。報告した内容のうち2、3の点についてもう少し考えてみたいと思います。

ひとつは、世界の女子高等教育のなかでの日本の「特異性」についてです。「特異性」というと、ちょっといいすぎかもしれませんが、女子大学がこれほど大きな比重を占めている国は、世界中見回しても他にはないのです。アメリカには、seven sisters と呼ばれる有名女子大群があって、ヒラリー・クリントンもそこの卒業生じゃないか、と思われるかもしれませんが、アメリカに存在する3011の大学のうち、女子大は39校、わずか1%に過ぎないのです。お隣の韓国も229の大学中、女子大はわずか7校です。これに対して、わが国では、全国777校の4年制国公私大中、女子大は77校、10%にも達しています。

アメリカでも1960年代には200前後の女子大が存在していました。1970年代の第2波フェミニズムの高揚とその下での共学化の進展が、女子大学の意義の再検討を要請したのですが、seven sistersのうち、Vassarが共学化し、RadcliffeがHarvard に吸収され残ったのは5大学でした。この動きは、じつはIvy Leagueの女学生受入れと対応していました。これらの大学の共学化は、Yale、Princetonが1969年、Dartmouthが1972年、 Harvardが1977年、Columbiaが1983年と著しく遅かったのです。イギリスで、1868年にLondon大学に9人の女性が入学し、1920年にOxford大学で、女性が正式の大学生として入学が認められたことと比べても、男女平等の国と考えられているアメリカで、いかに共学化が遅れたかがわかると思います。

これに対し、日本では、戦後新制大学令の公布とともに女子大学が次々に誕生し、特に高度成長期に女子大が急増して(1960年32校→1969年82校)、現在に至っています。この背景は、いろいろなことが考えられますが、そのひとつに、日本特有の労働市場の構造や、それに対応した家族認識があったと思われます。戦後の歴史の中で、日本の家族構造は、「三世帯同居→核家族→家族形態の多様化」という推移を辿ってきましたし、それとの関係で、稼得モデルも、「男性稼ぎ主モデル→共働きモデル1(家計補充型)→共働きモデル2(フルタイム型)→共働きモデル3(正規・非正規混在型)」と変転を遂げてきました。日本の女子大学の大きな比重は、この高度成長期の労働市場、稼得モデルに適合的であったためと考えることができます。

かつて、第2波フェミニズムの嵐の中で、seven sistersは、女子大の存在意義として次の3点を指摘していました。①女性がリーダーシップを獲得できる環境の提供、②ロール・モデルの提供、③役割達成における成功例の提供。先進諸国の中で、突出してジェンダー・ギャップが大きいといわれるわが国においては、この3点の意義はなお有効といえるでしょう。しかし、他方、高度成長期の労働市場構造や家族モデルが大きく変転している現在、女子大学の存在意義については、改めて検討し直すことが必要となっていることも事実です。110周年を契機として、自分たちの存在意義を再確認したいと考えています。

学長  伊藤 正直

9月 関東大震災の経済的教訓

今年の夏は地球規模での異常気象となり、世界のあちこちで、大規模災害が発生しました。大雨による洪水、大規模な山火事、高温による熱中症、地震による家屋・橋・道路の崩壊などが、わが国だけでなく、アジア、アメリカ、ヨーロッパ各地から報告されました。こうした災害による甚大な人的・物的被害からの回復は長時間を要します。また、かなりの費用もかかります。

じつは、数年前、首都直下型地震の防災会議で、1923年9月の関東大震災の際の、金融システムへの影響や財政・金融面での対応について、報告する機会がありました。現在、今後30年の間に、南関東でM7程度の地震が発生する確率は70%とされており、被害額も100兆円以上に達すると推計されています。防災会議は、今後の防災対策によって、死者を半減させ、被害額を4割減らしたいとしています。報告を依頼されたのは、こうした事態への歴史的教訓を得たいという点にあったようです。

すでに多くの事柄が語られていますが、ごく簡単に関東大震災の概観をみておきましょう。関東大震災の災害区域は、東京、神奈川、千葉、静岡、山梨、埼玉、茨城の1府6県で、罹災者は約340万人、東京では大火が3日間続き、下町のほとんどが全焼しました。全焼戸数は38万戸、半壊・破損も含めると69万戸に達しました。この震災による損害は46億円弱と推算されています。大正11年度の一般会計歳出が約14億円でしたから、これを基準として現在に引き直すと、300兆円以上の損害を受けたことになります。

震災は、金融システムに対してどのような影響を与えたでしょうか。まず、銀行の焼失です。当時、東京府内には542の銀行本支店店舗がありましたが、そのうち343本支店が焼失しました。銀行窓口がなくなってしまったのです。ただ、銀行側から見ると、担保物件の焼失破損、貸出先被害による貸出金の回収不能、有価証券値下がりによる損害などがより大きな問題でした。放置すれば、銀行がつぶれてしまうからです。

このため、震災当日の9月1日から7日まで、1週間日銀を除いて全銀行が休業します。そして、この休業の間に、「債務者が指定地域に住所又は営業所を所有している場合に、30日間の支払延期を認める」という内容の支払延期令(1923年9月7日勅令第404号)がだされ、これにより、東京では17~18日頃、横浜では25~27日頃、銀行は営業を再開します。また、これと合わせ、政府は、日本銀行震災手形損失補填令(1923年9月27日勅令第424号)をだします。これは、震災関係者の発行した手形を震災手形と規定し、この震災手形の再割引に日銀が応じ、その結果として日銀に生じるであろう損失を、1億円を上限として、政府が補填するというものでした。

さらに、財政面でも、応急復興事業として9億円、地方自治体への緊急貸付4億円、租税の減免2億円弱の特別歳出を帝国議会で決定したほか、この資金源として、数多くの外債、具体的には、6%の英貨公債2,500万ポンド、6.5%の米貨公債1億5,000万ドル計5億4,500万円、東京市外債1億円、横浜市外債4,000万円(いずれも政府元利払保証)を発行しました。震災復興は、外国からの借金で賄われたのです。

関東大震災は、このように巨額の復旧費用を要したのですが、実際には震災と関係のない手形が震災手形として認められたり、震災手形の再割引期限が何回か延長されたりしました。このため、震災への金融的・財政的対策が、結果として1927年の金融恐慌の原因のひとつとなってしまいました。必要な対策は、迅速にきちんとなされなくてはならないことはもちろんですが、その際、将来起こりうることへの想像力をもち、時間軸を考慮した対策が不可欠であることを示しているといえるのではないでしょうか。

学長  伊藤 正直

8月 テレビ創生期の頃

60年ほど前、小学低学年から中学のはじめにかけて、ラジオやテレビに子役として出演していました。NHK名古屋放送局、当時はJOCKといっていましたが、そこが運営していた名古屋放送児童劇団(現NHK名古屋児童劇団)に応募し、採用されたことがきっかけでした。劇団員は全員、毎週1回ないし2回、NHK名古屋放送局に集められ、発声練習を行い、演技指導を受けました。まだ放送局用のビデオがきわめて高価であったこともあって、テレビは全番組が生放送で、リハーサルも、時には夜遅くまでかかりました。

最初に出たテレビ番組は、NHK名古屋発の「太陽の子供たち」という子供向け連続ドラマで、愛知県蒲郡の児童養護施設の物語でした。この出演のため、坊ちゃん刈りだった頭髪を丸坊主にされ、からかわれるため、学校に行くのがしばらく嫌になりました。また、生放送でしたから、養護教員役の女優さんがセリフをとちって、放送終了後プロデューサーにこっぴどく叱られ、セットの陰で泣いていたことも強く記憶に残っています。「中学生日記」(僕が出ていた頃は「中学生次郎」というタイトルでした)にも出ましたが、この番組は、その後、出演者を一般から募るようになり、50年続いたNHK名古屋の看板番組となりました。

テレビは生放送でしたが、ラジオはテープ録音が一般的でしたから、名古屋放送児童管弦楽団(現NHK名古屋青少年交響楽団。こちらも当時NHK名古屋が運営しており、メンバー募集がありました)と共演で、ミュージカルを録ったこともありました。途中まではうまくいっていたのに、セリフの最後で「名古屋弁」が出てしまい、プロデューサーにかなり強く叱られました(ただし、どうした訳か録り直しはしませんでした)。NHKアーカイブスに全く記録が残っていないことが残念といえば残念ですが、かりに、残っていたとしても、恥ずかしくて観られない、聞けない、のではないかと思います。

1950年代の後半から60年代初めにかけての時期ですから、放送局の立場からみると、ラジオからテレビへの移行期にあたります。当時、テレビは映画や舞台より下位にみられており、一緒に出演していた大人の俳優さんたちは、舞台や映画への進出を夢見ていました。その後、皇太子殿下ご成婚や東京オリンピックを経て、テレビは全盛期を迎えます。ニュースの速報性は新聞を上回り、数々の優れたドラマやドキュメンタリーも生まれました。同時に、バラエティーショーや歌番組、スポーツ番組なども次々に登場しました。クレージーキャッツ、ドリフターズ、コント55号、中三トリオ、御三家、巨人・大鵬・卵焼きなど、テレビから生まれたお茶の間のスターたちは、ある世代以上の人々にとっては、憧れの中心的存在となりました。メディアの主役の交替、それを、その端っこに立って、子供の眼から見ていたといえるでしょう。

今また、メディアの構造は大きな変化のただ中にあるように思われます。新聞もテレビもほとんど見ない人たちが、ある世代以下ではかなりの数に達するそうです。そうした人たちにとっては、情報は、もっぱらスマホから得る、SNSが一番の受信・発信源となっているとのことです。スターやアイドルも、テレビ以外のところから数多く誕生しています。テレビが、メディアの主役としての地位を取り戻すことは果たして可能なのか、あるいは、そうした発想自体がすでに時代錯誤となっているのか、60年前のことを思い出しながら、そんなことを考えました。

学長  伊藤 正直

7月 110周年を迎えて

本学は、今年創立110年を迎えます。この110年を思い、大妻コタカが私塾を開いた110年前とはどんな時代だったのかに考えが及びました。日露戦争直後の時期です。日露戦争は当時の日本の実力からいってやや無理な戦争でした。国家財政が約2億円の頃、戦費として20億円近くを要し、この戦費を調達するのに、高橋是清がロンドンで四苦八苦したのでした。戦争が終わって、この借金を返さなくてはならなくなり、このため日本は日露戦後不況と呼ばれる不況に陥りました。コタカが私塾を開いたのは、こんな最中でした。私塾を創るのに、決していい時期ではなかったのです。

なぜ、このような困難な状況のなかで、コタカは、私塾の設立を決意したのでしょう。それまでの日本の女子教育機関は、英米婦人による英語教育でキリスト教に基盤をおくもの、あるいは、明治政府の派遣した帰国子女によるもので、いわば社会のエリート層によるエリート女性のための教育機関でした。日本で女子中等教育が、明治政府によって公的に規定されたのは、1895(明治28)年のことで、1899(明治32)年の「高等女学校令」公布以降になって、女子中等教育機関は発展していきます。しかし、そこでも想定されていたのは中流以上の女子を対象とするものでした。1899年、時の樺山文部大臣は、高等女学校は「賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為スニ在リ、故ニ優美高尚ノ気風、温良貞淑ノ資性ヲ涵養スルト倶ニ中人以上ノ生活ニ必須ナル学術技芸ヲ知得セシメンコトヲ要ス」と説明しています。

しかし、コタカの設立した私塾は、そうしたものとは大きく異なっていました。「エリート」でもなく、「中流以上の女子」でもなく、何ら特別でない、ごくごく普通の女性のための教育機関の設立、これこそがコタカが望んだものでした。厳しい不況の中、家族を支える主体に女性がなる、社会の中で自分自身を確立する、そのために何ができるかを考え続け、女性が社会に受け入れられやすい手芸・裁縫といった「技芸を身につける」ことから始めようとしたのです。本学は、創立以来「女性の自立のための女子一貫教育」を建学の精神としていますが、その「自立」の根源には、こうした若き日の大妻コタカの独自の考え方と強い意思があったと、私たちは考えています。

女性をめぐる社会環境は、この20年間に緩やかにではあれ大きく変化しました。「ガラスの天井」がまったく無くなったかといえばそうではありませんし、古い男女観もまだまだ残っています。しかし、日本の女性就業構造の特徴とされたM型雇用は、今、急速に解消しています。学校を出てから定年まで働き続ける女性が増えています。ただし、この裏面には、非正規雇用が2000万人を超し、その多くが女性であるという状況があります。男女の賃金格差も大きいままです。

このような状況を突破していくことが必要です。「女性の自立」は、まずは、性差による差別を克服するような自立といえるでしょうが、目指してほしいのはその先です。「女性の自立」が「人間としての自立」であること、自己の尊厳を守る形での自立であること、すなわち「経済的自立」は、あくまで「精神的自立」を前提としたものであること、この自立を追求し、実現して行きたい、そうしたことを実現できるような主体となることを手助けしていきたいと考えています。110周年を迎えた今年、本学は、こうした観点からのさまざまな企画、シンポジウムや事業を実施します。学外に公開している企画も沢山ありますので、機会を見つけておいでくださると幸いです。

学長  伊藤 正直

6月 芸術と社会システム

今では、ネットでストリーミングすれば、世界中、どこにいても、どんな音楽も、すぐに聞くことができます。でも、20年前はそんなことはできなかったので、集中講義や調査でしばらく海外に滞在するときは、いつも1ダースほどのCDをカバンに詰め込んでいました。クラシック、ジャズ、ロックなどは、行先でもだいたい手に入るので、持参したのはもっぱら日本のポップスや歌謡曲でした。

2002年の5月から6月にかけてメキシコの大学院大学El Colegio de Mexicoで集中講義を依頼されたとき、持っていったのは井上陽水、高橋真梨子、中島みゆきなどでした。深夜に、陽水の若いころの曲、例えば「傘がない」などを聞いていると、連想が中野重治に飛びました。中野重治は戦前から戦後にかけて活躍した詩人・小説家であり、代表的なプロレタリア作家です。浮かんできたのは、彼の若いころの詩「歌」でした。この詩は次のようなものです。

お前は歌うな
お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな
風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな
すべてのひよわなもの
すべてのうそうそとしたもの
すべての物憂げなものを撥(はじ)き去れ
すべての風情を濱斥(ひんせき)せよ
もっぱら正直のところを
腹の足しになるところを
胸先を突き上げて来るぎりぎりのところを歌え

この詩はもう少し続くのですが、一見、抒情を否定しているようにみえながらも、実際にはこうした形で、逆説的に、花や女性の髪の匂いや風のささやきの美しさを歌っています。陽水の「傘がない」は、これと同じ構造をもっています。若者の自殺や日本の将来を冒頭に歌いながら、しかし、それよりは彼女のところに行くための傘がないことのほうが問題だというのです。中野とは逆の形で社会との接点を提示しているといっていいでしょう。ビートルズの初期の歌も同じです。

なぜ、こんな連想が出てきたのかというと、滞在していたメキシコシティで、数多くの壁画を観たためだったような気がします。リベラ、シケイロス、オロスコらによって展開されたメキシコの壁画運動は有名で、街を歩くと、そこかしこで大きな壁画を見ることができます。メキシコ神話、スペインの侵攻と征服、メキシコの工業化と農業労働者など、メキシコ史が描かれているのですが、ちょっと珍しい題材もあります。たとえば王立宮殿の壁画、僕が滞在していた時は、ここにメキシコ政府大蔵省が入っていたのですが、そこの壁画には、資本論を脇に抱えたマルクスがいます。また、王立芸術院の壁画には、レーニンやトロツキー、第4インターナショナルがでてきます。

戦後のメキシコは、社会主義体制ではなく、資本主義体制、自由主義体制の国でした。にもかかわらず、日本で皇居や国会議事堂、国立劇場にあたるところに、これらの絵が堂々と掲げられているのです。メキシコの鷹揚(おうよう)さでしょうか、あるいは奥の深さでしょうか。これに衝撃を受けたことが、冒頭の連想につながったように思います。

実は、現在、渋谷駅のコンコースに飾られている岡本太郎の大壁画、この大壁画もメキシコで作成されたものでした。壁画運動に共感した岡本太郎が、1968年頃、メキシコまで出かけてそこで描きました。依頼主の経営悪化で、その後長く行方不明になっていたのですが、2003年にメキシコシティ郊外の資材置き場で発見され、日本に戻ってきたのです。『明日の神話』と題されたこの壁画の主題は、アメリカの水爆実験によって被爆した第五福竜丸事件だといわれています。ですから、メキシコとそんなに変わらないじゃないか、といってしまえばその通りなのですが、この絵が、ビキニの水爆実験を描いたものだと知っている人は、渋谷コンコースを通り過ぎる人たちの中でどれくらいいるでしょう。

芸術が、政治や社会との関わりなしにあり得るかどうか、あるいはどのような形で関わりを持ってきたのかについては、古来より難問ですが、あまりにも政治や社会と切り離されたところで、日々が過ぎていくようにみえる日本との違いを、メキシコで強烈に感じたものでした。

学長  伊藤 正直

5月 国際共同研究の旅で

ここ数年、「国際金融システムの構造と動態」といったテーマでの研究を続けてきました。もともと、中央銀行の金融政策や国際金融システムの動態が私の主要な研究領域だったのですが、2008年のリーマン・ショック後、こうした出来事をどのように把握したらいいのかということで共同研究の機会が増え、そのため海外に出かけることも多くなりました。

国際金融システムは、現在も不安定なままに推移しています。国家間、先進国間の政策協調もなかなか合意に達しません。「なぜそうなっているのか」、「システムの安定のためには何が必要なのか」、「どこを変えればうまくいくのか」。こういった問題を解くためには、現在だけを見ていては駄目で、歴史にさかのぼることが必要不可欠です。最低限、第二次世界大戦後、戦後の出発点まで振り返らないと、現在はわかりません。

ということで、第二次大戦直後のシステム創生期、1970年代初めのニクソン・ショック期、1990年代の大安定期などを調べることになります。国際金融機関や各国の公文書館で、会議の議事録や政策担当者のメモなど、当時の資料を検索します。そして、それらを読み込んでいくことで、戦後の国際金融システムが、どのような考え方のもとに、どのような仕組みとして作られていったのか、そしてそれがどのように機能してきたのかといったことが、改めて確認できます。そうした作業を通して、はじめて現在の問題点が検出できるようになると考えられます。

ワシントンDCでは、IMF(国際通貨基金)・WB(世界銀行)やNA(米国国立公文書館)で関連資料を検索し、政策担当者へのインタビューも行いました。パリでは、OECD/WP3(経済政策委員会第3作業部会)という先進国の金融政策中枢の未公開会議録を大量に発掘しました。バーゼルでは、BIS(国際決済銀行)先進国中央銀行会議の議事メモなども読むことができました。これらの共同研究の一部は、すでに英文の著作として刊行しました。まだ、進行中のプログラムもあります。

こういった一連の調査のなかで、心に残ったことが二つあります。ひとつは、どこの国でも、どの機関でも、文書がきちんと残されていることです。自分たちに都合のいい文書だけでなく、都合の悪い文書もきちんと残されています。公開できない文書も、not to openとか、confidentialと、その文書名とともに書かれていて、どの文書が非公開なのか分かります。2001年に情報公開法が、2011年に公文書管理法が施行されたにもかかわらず、わが国ではそのどちらもできていません。

もうひとつは、担当部署における女性職員の多さです。単に多いだけでなく、管理職として責任を担っている女性職員が、どの機関でも相当数在職しています。こちらの面倒な要請や分類のはっきりしない一次資料の検索などに対しても、親切・丁寧に応答してくださいましたし、専門性のかなり高い質問にも迅速・的確に応対していただきました。こうした女性職員をこれからどのように育てていくかは、わが国の大きな課題でしょう。本学でもこうした課題に対応できるように努力しなくては、との思いを強く持ちました。

学長  伊藤 正直

4月 日本語という言語

昔読んだ本が文庫本になったりすると、つい買ってしまうことがよくあります。大岡信『日本の詩歌 その骨組みと素肌』(岩波文庫、2017)もその一冊です(ついでに、その半年前に文庫に収録された同じ著者の『うたげと孤心』も買ってしまいました)。大岡が、1994年と95年に、コレージュ・ド・フランスで行った講義録です。

あいかわらず内容はほとんど忘れていたのですが、菅原道真から始まり『閑吟集』で終わる、いわば「日本語が始まるとき」を論じ、ひらかなとカタカナの発明が「ひとのこころをたね」とする文芸、日本独自の文化と文明をつくりだしたことを説得的に述べています。そして、この本では、女性歌人、女性作家の存在がいかに日本詩歌史において重要であったかも、詳細に論じられています。笠女郎や和泉式部や式子内親王の和歌を取り上げ、当時の宮廷貴族を中心とする統治構造のありようがこれらの和歌を生み出したこと、そして女手といわれた仮名文字の使用こそが、自己省察的であるとともに「人間の普遍的ヴィジョンにまで」届くような表現を生み出したことが強調されるのです。

20年以上の間隔を経てこの本を読んでいると、しばしば、水村美苗『日本語が亡びるとき』(ちくま文庫)に連想が飛びます。こちらのほうは、「十二歳で父親の仕事で家族とともにニューヨークに渡り、それ以来ずっとアメリカにも英語にもなじめず、親が娘のためにともってきた日本語の古い小説ばかりを読み日本に恋い焦がれ続け、それでいながらなんと二十年もアメリカに居続けてしまったという経歴」の持ち主による著作で、2008年に最初に発表され、2015年に文庫になりました。

サブタイトルに「英語の世紀の中で」と付されているように、英語が「普遍語」となるなかで、「現地語」を脱して「国語」となった「日本語」が、グローバル化の進展によって大きな岐路に立たされていることを論じています。日本語が、それまでの「現地語」から国家を担う「国語」へと展開し、その「国語」が8世紀以来、国家と国民の知的、倫理的、美的重荷を担い得てきたこと、しかし、グローバル化による「普遍語」としての英語の浸食が、そうした役割を日本語から喪失させようとしていることを、さまざまに論じています。とても分析的で、しかもその分析が明晰に叙述されています。

その明晰は、富岡多恵子のそれとも、金井美恵子のそれとも、須賀敦子のそれとも、佐野洋子のそれとも違います(皆、僕の好きな作家です)。違いはどこかと考えてみると、論理性の高さというか、論理の強靭さですね。こちらも、出版当時、読みながら感嘆しきり、だったことを思い出しました。

言語について書かれている本、日本語について書かれている本は山のようにありますが、このふたりの著作は、論理を軸にして文芸を論じ、文芸を論じて文化や思想に至っています。しばし心地よい時間を堪能しました。

学長  伊藤 正直

2017年度

3月 卒業の季節に想う

3月といえば卒業式です。これまで40年近く学生たちを社会に送り出してきましたが、私が、本学で卒業式を迎えるのは5年目になります。毎年、この季節になると、「自分は、どの程度きちんとした講義やゼミを行いえただろう」、「学生の期待にどれくらい応えられただろう」、という想いにとらわれます。大学での勉強は、専門知識や専門技能を習得することは勿論ですが、それ以上に、「どのように問題を発見するか」、そして、「それをどのように把握するか」、さらにそこから「どのように問題解決への道筋をつけるか」という、「ものの見方、考え方」を身につけることが要請されます。

毎年、新入生には、論理的思考の重要性を強調しています。今年度の入学式では、「学問は、どのような領域でも、そのそれぞれに、グラマー、ロジック、レトリックがあります。日本語のグラマー、ロジック、レトリック、英語のグラマー、ロジック、レトリックがあるように、家政学にも、文学にも、経済学にも、社会学にも、心理学にも、それぞれ固有のグラマー、ロジック、レトリックがあります。皆さん、卒業するまでに、ぜひ、このグラマー、ロジック、レトリックを身につけてください」という話をしました。卒業生の皆さんにもこうした力を身につけてもらいたいと思って、これまで講義を行ってきました。

といいますのは、女性をめぐる社会環境が、この20年間に緩やかにではあれ大きく変化し、女性がこうした力を持つことが、一層重要となっているからです。「ガラスの天井」がなくなったわけではありません。古い男女観もまだまだ広く残っています。しかし、日本の女性就業構造の特徴とされたM型雇用は、今、急速に解消しています。学校を出てから定年まで働き続ける女性が増えているのです。ただし、この裏面には、非正規雇用が2000万人を超し、その多くが女性であるという状況があります。

1999年6月には男女共同参画基本法が成立し、「職場、家庭、地域などのあらゆる場で、男女が対等の立場であらゆる分野の政策立案や決定に参画できる社会を実現する」という課題を掲げました。2015年8月には女性活躍推進法が成立し、「自らの意思によって働き又は働こうとする女性が、その思いを叶えることができる社会、ひいては、男女がともに、多様な生き方、働き方を実現でき、ゆとりがある豊かで活力あふれる社会の実現を図る」ことを課題としています。論理的思考力は、そのための必須の力です。

これらの法律は、女性の社会的活躍を後押しするものですが、法律は、その自動的な実現を保証するものではありません。男性の意識改革を前提としたうえで、女性が主体的にその実現を図っていくこと、そのために努力することが必要です。論理的思考力を身につけて社会に出ていくこと、そして、そうした力を錆びつかせないで保持し続けることを期待したいと思います。

学長  伊藤 正直

2月 予測と願望と展望と

今から20年前の1998年、建設省建設政策研究センター(現、国土交通省国土交通政策研究所)というところから、「我が国経済社会の長期展望と社会資本整備のあり方 -2050年展望に関する学識者インタビュー- 」というテーマで、インタビューを受けました。何をしゃべったのかすっかり忘れていたのですが、最近、同研究所より、「20年経ったところで、中間総括をして欲しい」という要望が来ました。

ということで、記録を読み直してみると、当時は、次のような見通しを語っていました。「グローバル化が急速に進展するだろう、国際金融システムはさらに不安定化し金融危機が顕在化するかもしれない、アジア諸国なかでも中国の経済的・政治的プレゼンスが拡大していくだろう、先進国は全般的に低成長化するだろう」等々です。

これらの点は、ほぼ見通し通りの推移をたどりました。ここで、自分の予見力を誇ってもいいのですが、残念ながら、見通しを誤った部分も結構あります。「日本が国際社会に何らかの公共財」を提供しうるのではないか、「社会的なシステムのみならず、企業の生産管理、あるいは労働管理まで含めた広い意味での製造工程管理などを公共財的なものとして世界に提供できる可能性はある」のではないか、という見通しは、残念ながらはずれてしまいました。日本が「不良債権問題の解決に失敗」し「失われた20年」に突入してしまったことや、阪神淡路大震災や東日本大震災といった不意の巨大な自然災害に見舞われたことなども、その理由の一部だったでしょう。が、より大きくは、アングロ・アメリカン的な企業ガバナンスへの移行が、予想をはるかに超えて短期間で急速に進行したこと、これが大きかったと思います。もっとも、願望を予測として語ったことが、はずれた一番の理由だったかもしれません。

また、トランプ旋風やブレクジット、移民排斥とテロなど、近年のグローバル化に対する反転現象についても、十分には予見できませんでした。現在でも、長期的には、ヒト・モノ・カネ・情報のグローバル化は、不可逆的に進行するだろうと考えていますが、こうした反転現象がこれほど広汎に起こるとは、当時は考えませんでした。

高度成長期の日本で基本的理念として共有されていた「社会的再配分による相対的平等」を再構築すること、そして、それが、生産面における効率性や合理性と相乗効果を果たすような仕組みを創出することが必要なのではないでしょうか。最近の日本の巨大企業における不祥事の連続は、日本型システムの欠陥露呈というより、中途半端な市場主義的ガバナンスの導入による面の方が大きいのではないでしょうか。

もっとも、予測や見通しは当たればいいというものでもないでしょう。こうなるだろうということと、こうなって欲しいということは、当然ながら一致しませんから。望ましくない未来が予測されるとすれば、それを避けるためには何をすることが必要かも考えなくてはなりません。20年前のインタビューを読み直してみて、予測が展望として語れるような経済や社会になっていって欲しいとの思いを強くしました。

学長  伊藤 正直

1月 大学で学ぶとは?教えるとは?

2018年の年初から、学長通信という形で、日頃考えていることを発信することとなりました。これまでは、前任校も含めたゼミOBOGを主な相手として、一般公開を想定しない形で、記事を書き継いできました。読んだり観たりした本・映画・展覧会などの感想、海外調査の際の出来事などが、そこでの主要な話題でした。2017年4月に学長、6月に理事長に就任し、「研究者に専念」という自己規定から離れざるを得ず、そのことに若干の感想と感慨をもちました。しかし、人間はそう簡単には変われないものですから、これまで同様、あまり肩肘を張らないで、いろいろな機会に私が感じたあれこれを書いていくことにしようと思っています。

第二次大戦後の1946年春に開校され、わずか4年半しか存続しなかった鎌倉アカデミアという「大学」があります。産業科、文学科、演劇科の3科からなり、教授陣には、三枝博音、服部之総、林達夫、村山知義、長田秀雄、岡邦雄、中村光夫、吉野秀雄、神西清、高見順、吉田健一、西郷信綱など、学生には、山口瞳(のち作家)、いずみ・たく(同作曲家)、前田武彦(同放送作家、タレント)、津上忠(同演出家)などがいました。この鎌倉アカデミアの第2代の学校長となった三枝博音が、就任あいさつで次のようなことを書いています。

これは私個人で描いていることなのだが、私たちの学園はこんなものならいいなあと思うのだ。どんなのかというと、何かしらそこに居ることが楽しいという処なのである。

私が「楽しい」というのは、楽々とした気もちになれるとか、のんびりした心もちに成れるとかいうのではない。そこでは努力もせねばならぬし、苦しみもせねばならぬだろうけれども、その雰囲気の中にいるのが好ましいという意味である。

自分が何か問題をもつときは。すぐにそこに駆けつけたい。自分が自信を失う時は、すぐに出かけて行きたい。そこでは自分の意見を取り上げてくれ、普遍化してくれる。そこでは自分の不振や自分の虚脱をとりあげてその原因を究明してくれ、自分だけのものでないことを明らかにして、新しい希望を持たしてくれる。そういう時、相手になってくれる人が先生の中にも居れば、学生の中にも居る。

喜びや悲しみや、希望や希望のなさが、そこに行けば客観的になる。そういうことによって、生活がもっと深められる。だからそこでは、自分自身の意見を自由に公明に打ち明けるということが、そこに入るパスみたいなようなものになる。……

批判力や論議の力は、万般のことに知識を持たぬとできないし、邪道に入り易い。だから、そこではすべての者が旺盛な知識欲をもつ。なんとしても、このことが第一である。第一だけれど、少しでもいやいやで勉強する傾きがあったら、すぐに反省し直す必要がある。いつかしら知識が得られているように学園ができていることが必要である。

こんな気持ちで書いていければいいと考えています。よろしくお願いします。

学長  伊藤 正直