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学長通信

2024年度

4月 建築を楽しむ、東京建物散歩

小さい頃通っていた小学校を訪ねたり、昔住んでいたところに行ってみたりすると、その景色が一変していてびっくりすることがあります。「確か、以前はここにお店があったはずだけれど」とか「この道はこんなに細かったっけ」とか「この商店街にこんなビルはなかったなぁ」とか。ランドマークはさまざまですが、建物やその配置が記憶に残っている人は多いのではないでしょうか。

西欧では、石造建築が多く作られ、地震が少ないこともあって、現在でも、数百年前の街並みをそのまま観ることができます。これに対し、地震大国の日本では、住宅や商店は木造建築が多く、明治の近代化以降、公共建築などでは、レンガや鉄骨、コンクリートなどを使う建物が建てられるようになりますが、それでも、一定期間が経過すると、建て替えが行われます。地震・火事・台風などの災害も、家屋を損傷させます。都市計画や地域整備計画も街並みを大きく変貌させます。久しぶりに訪ねたところが、初めて訪れたところのように思えるのは、そうした出来事のためです。

東京は江戸時代から何度も火災や水害に見舞われただけでなく、近代以降も、戦前は、震災や空襲で多くの建物が失われ、戦後も、東京オリンピックやバブル経済によって、街並みが一変しました。それでも、そうした災害を免れた建物がいくつか残っており、それらの多くは、登録有形文化財(建造物)として、保護・保存されています。登録有形文化財(建造物)の登録基準は、「建築後50年を経過している」もので、かつ「国土の歴史的景観に寄与している」「造形の規範となっている」「再現することが容易ではない」の3つの条件のうち、いずれかに当てはまるものとされており、現在では、全国で1万件以上、震災や空襲の被害に遭った東京都でも400件を超える登録有形文化財があります。さらに貴重なものは重要文化財となり、東京都でも、80件近くの重要文化財指定の建造物があります。

東京都にある重要文化財の多くは、江戸期以前に築造されたもので、寺院、神社、霊廟、宝殿、大名屋敷門、城門などが指定されていますが、近代以降になると、いわゆる西洋建築が登場します。このうちいくつかを紹介すると、日本橋周辺では、日本銀行本店本館(竣工:1896年、設計:辰野金吾、以下同)、三井本館(1929年、トローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所)、高島屋東京店(1933年、片岡安・高橋貞太郎・前田健二郎)など。上野周辺では、国立西洋美術館本館(1959年、ル・コルビュジエ)、旧東京科学博物館本館(1931年、文部省大臣官房建築課)、旧東京音楽学校奏楽堂(1890年、山口半六・久留正道)、国立博物館表慶館(1908年、片山東熊・高山幸次郎)、東京国立博物館本館(1938年、渡辺仁・宮内庁内匠寮)など。丸の内周辺では、東京駅(1914年、辰野金吾)、旧明治生命本社本館(1934年、岡田信一郎)、法務省旧本館(1895年、ヘルマン・エンデ、ヴィルヘルム・ベッグマン、河合清蔵)などを挙げることができます。なお、国立西洋美術館本館と園地は、2016年、「ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-」として世界文化遺産に登録されました。

また、現地保存が不可能となった歴史的建造物を移築し、保存復元した施設として、江戸東京たてもの園があります。中央線武蔵小金井駅と西武新宿線花小金井駅のちょうどまんなか辺り、玉川上水沿いの小金井公園の一角にあります。都内に存在した江戸時代前期から戦後までの文化的価値の高い建物を復元・展示したもので、7ヘクタールの園内は、センターゾーン、西ゾーン、東ゾーンに分けられています。センターゾーンは、園への出入口で、1940年に紀元2600年記念式典のために皇居前広場に設置された式殿(旧光華殿)があり、ここがたてもの園に入る正面改札となっています。

西ゾーンは、江戸時代中期から第二次大戦後まで、10の建築物が並んでいます。江戸時代のものとしては、八王子千人同心組頭の家、名主を務めた豪農の家、広間型の間取りを持つ農家の家があります。明治大正期のものとしては、田園都市構想に沿って建てられた全室洋室の田園調布の家、日本のモダニズム建築を主導した建築家堀口捨己が和洋折衷で建てた小出邸、ドイツ人建築家が建てたデ・ラランデ邸などがあります。昭和期に入ると、洋風写真館、日本を代表する建築家である前川國男の自邸、戦前日本を代表する三井家三井八郎右衛門邸があります。

東ゾーンは、昔の商家・銭湯・居酒屋などが14軒並んでおり、東京下町の風情を再現しています。港区白金(今はおしゃれな街ですが、昔は下町でした)の醤油店、同じく白金台の乾物屋、台東区下谷の居酒屋、足立区千住の風呂屋、文京区向丘の仕立屋、千代田区神田須田町の文房具屋、同じく神田須田町の万世橋交番、神田淡路町の生花店、神田神保町の荒物屋、台東区池之端の小間物屋、江戸川区南小岩の和傘問屋、青梅市の旅籠などで、タイル張りの看板建築あり、人造石洗い出しの洋風建築あり、伝統的な出桁造りあり、銅板片を組み合わせたモダンデザインあり、典型的ともいえるような銭湯ありと、観ていて飽きません。

こうした歴史的建造物、レトロ建築を観て回ることは、建物散歩の楽しみ方のひとつですが、現代建築のさまざまな試みを観て回ることも、建物散歩のもうひとつの醍醐味(だいごみ)でしょう。東京のいたるところでそうした建築に出会うことができますが、例えば、銀座周辺と原宿・表参道周辺を歩いてみると、次の通りです。まず、銀座では、ルイ・ヴィトン松屋銀座店(設計:青木淳、以下同)、Mikimoto Ginza2(伊東豊雄)、TASAKI銀座本店(乾久美子)、東急プラザ銀座(日建設計)、銀座メゾン・エルメス(レンゾ・ピアノ)、GINZA SIX(谷口吉生)、プラダ銀座店(ロベルト・バチョッキ)など。原宿・表参道では、表参道ヒルズ(安藤忠雄)、ディオール表参道(SANAA)、Ao(日本設計)、青山スパイラルビル(槇文彦)、国際連合大学本部施設(丹下健三)、岡本太郎記念館(坂倉準三)、MIU MIU青山店(ヘルツォーク&ド・ムーロン)、根津美術館(隈研吾)、旧マーク・ジェイコブス青山店(ステファン・ジャクリッチ)、日本看護協会原宿会館(黒川紀章)など。

すでに亡くなった建築家もあり、最先端ということはできないかもしれませんが、モダニズムからポストモダニズムへ移行する多様で意欲的な試みを観ることができるでしょう。建物散歩は、用・強・美という建築の3原理を知るとともに、建築を通して人と社会の関係を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。

学長  伊藤 正直

2023年度

3月 坂の町・水の都、東京散歩

散歩がちょっとしたブームのようです。散歩は以前から人々の関心事の一つでしたが、コロナ禍が数年にわたって続き、遠くに旅行することができない、人混みは避けたい、でも、家にこもりつづけていると気が塞ぐ、といったことなどが、人々の散歩への関心を高めたともいえそうです。

散歩を辞書で引くと、「気晴らしや健康などのために、ぶらぶら歩くこと、あてもなく遊び歩くこと、そぞろ歩き、散策」とでてきます。この言葉が一般に用いられるようになったのは明治時代からだそうで、最初は運動の一種と考えられており、言葉が使われるにつれ、古くからの「逍遥(しょうよう)」の意味も含むようになったとのことです(『日本国語大辞典』小学館)。

散歩をする理由は、人により、状況によりさまざまです。道々の草木や花、鳥のさえずりなどの自然を楽しむ人もいるでしょう、街並みを眺めたりウィンドウショッピングを楽しむ人もいるでしょう、散歩中に偶然出会う人と会話を楽しむ人もいるでしょう、遺跡や神社仏閣を巡る人もいるでしょう。このように散歩にはいろいろな楽しみ方がありますが、「あてもなく遊び歩く」ことこそが散歩の醍醐味(だいごみ)ではないでしょうか。

このような散歩人気の高まりを受けて、散歩を主題とするテレビ番組もいくつか登場しました。2008年から始まった「ブラタモリ」(2024年3月終了)は、毎回古地図や地形図を手にしたタモリが、街を散策しつつ、その街の建造物、公園、神社仏閣、観光スポット、坂道、橋、川を楽しみ、地質学・地理学、歴史学的な側面を掘り下げるという番組でしたし、同じNHKで1995年から続く「鶴瓶の家族に乾杯」は、各地を訪問した鶴瓶とゲストによる人々との出会い、家族との出会いが主題でした。フジテレビで2012年から放送されている「有吉くんの正直さんぽ」は、主に東京の下町や繁華街をゲストとともに散策し、食事といろいろな店舗を見学し、コメントするというものでしたし、テレビ朝日の「じゅん散歩」は、それ以前の「ちい散歩」(2006~2012年)、「若大将のゆうゆう散歩」(2012~2015年)を引き継ぎつつ、「気晴らしや健康のため」「あてもなく歩く」という言葉がいちばんあてはまる無目的な散歩番組となっています。

散歩本も、山ほど出ています。東京に限っても、歴史散歩、文学散歩、建築散歩、食べ物散歩、買い物散歩、地名散歩、地形散歩、水辺散歩などがあり、地域を限定したローカル誌も沢山あります。作家の散歩本も多く、幸田露伴『水の東京』に始まり、永井荷風『日和下駄』、井伏鱒二『荻窪風土記』、内田百閒『東京日記』、佐多稲子『私の東京地図』ときて、川本三郎『東京つれづれ草』、小林信彦・荒木経惟『私説東京繁盛記』、滝田ゆう『寺島町奇譚』、秋本治『両さんと歩く下町』など枚挙(まいきょ)にいとまがありません。ついには、池内紀『散歩本を散歩する』(交通新聞社、2017年)などという本まで出版されています。

東京は、坂の町とも水の都ともいわれています。散歩番組をみても、散歩本を読んでも、坂の話や水辺・川べりの話がしばしば出てきます。東京の地形は、西側の多摩丘陵から東京23区のある東側に向かって、だんだんと低い地形になっていきます。家康が江戸に幕府を開いた17世紀はじめでも、海岸線は現在よりもかなり内側まで入り込んでいました。埋め立てや土地整備が行われ、東京東部には多くの町民が、上野台から西の高台には大名や武士が住むようになりました。

東京は、北は荒川、南は多摩川にはさまれた武蔵野台地から、上野台、本郷台、豊島台、淀橋台、目黒台、荏原台、久が原台という7つの丘が指のように伸びており、この指の間を藍染川、神田川、渋谷川、目黒川など6本の河川が、西から東に流れるという地形上の特徴をもっています。これらの河川が、谷を刻み、台地を侵食することで、台地と低地という複雑な地形が生まれたのです。東京に坂が多いのはそのためです。

東京の坂は、名前がついているものだけで800以上ありますが、武家屋敷の多かった文京区・港区・新宿区・千代田区のあたりに多く、東京都地質調査業協会の調査では、東京23区の坂道の60%程度がこの4区で占められているとのことです。武蔵野台地のへりに近いところに坂が多く、そのそれぞれに名前が付けられています。

「江戸の坂には、江戸の庶民が名前を付けたのである。‥だから、その名は江戸っ子気質そのままで、単純明快、即興的で要領よく、理屈がなくて、しかもしゃれっ気があふれている」(横関英一『江戸の坂 東京の坂(全)』ちくま学芸文庫、2010年)。坂の上から富士が見えれば富士見坂、海が見えれば潮見坂。大きな坂は大坂で、坂と坂の中間は中坂。樹木で薄暗い坂は暗闇坂、急な坂は胸突坂、墓地のそばは幽霊坂。寺のそばの坂は寺の名前を付け、お宮のそばはお宮の名前を付ける、八幡様があれば八幡坂、稲荷があれば稲荷坂、天神社なら天神坂。武家屋敷があれば、三宅土佐守は三宅坂、紀州・尾州・井伊邸のそばの坂はひっくるめて紀尾井坂。

大妻学院のある千代田区三番町のまわりにも、袖摺坂(そですりざか)、五味坂、永井坂、九段坂、一口坂などがあります。袖摺坂とはしゃれた名前ですが、「袖摺坂というのは、いずれも狭い坂のことで、人と人とが行き交う場合に、狭いので袖をすり合わせるようにしないと、お互いに行き過ぎることができない、というような狭い坂のことをいったのである」と、横関英一は江戸時代の文献を根拠に説明しています。神田川を渡った神楽坂についても、この坂で神楽が奏されたという説に対して、河岸の荷物を水揚げする「かるこ」という人夫から転じたのではという説を出しています。名前の由来を考えるのも、坂道散歩の楽しみの一つでしょう。

東京は、水の都でもあります。江戸版画でも、墨田川や水辺の風景、両国の花火、橋の模様などが、廣重をはじめとする多くの版画家によって描かれてきました。近代以降も、墨田川や日本橋川、月島や芝浦は、セーヌ川やテムズ川、あるいはベネチアと比較されながら、その役割の変遷が検討されてきました。最近では、世界的なウォーターフロントの再開発との比較も行われています。水都東京の再生が語られるようになった現在、この辺りを散歩するのも楽しいかもしれません。先に紹介した幸田露伴「水の東京」(『一国の首都』岩波文庫、収録)や陣内秀信『水の都市 江戸・東京』(講談社、2013年)、同『水都東京 地形と歴史で読みとく下町・山の手・郊外』(ちくま新書、2020年)を片手に、水辺散策を楽しんでみませんか。

学長  伊藤 正直

2月 「ものづくり」とデザインと

現在、私たちの身の回りは、モノやコトや情報にあふれています。そして、そのほとんどは商品として提供されます。それは、私たちが市場経済の下で生活しているからです。では、私たちはこれらの商品をどんな基準で選んでいるのでしょう。「必要だったから」「気に入ったから」「あれば便利だから」「気分転換に」等々。選択し、購入する理由は様々ですが、同じような機能・タイプの場合、選択の基準は、「使い勝手がいい」「格好いい」「美しい」「心地よい」「流行っている」「安価である」(逆に「高価である」)などになっているのではないでしょうか。

近代以前の社会では、生活の一定範囲が自給であったため、使用するモノの多くは「作る-使う」というサイクルでした。しかし、近代工業社会になると、このサイクルは「作る-売る=買う-使う」に転換しました。19世紀後半以降、機械による生活財の大量生産が定着していくなかで、このサイクルをいかに安定的に回していくかの一環として生まれたのが、インダストリアルデザインでした。

近代工業が提供する工業製品に対する批判は当初から存在しました。例えば、イギリスのウィリアム・モリスは、生活と芸術の一致という観点から、工場での大量商品生産を強く批判し、労働の喜びと手仕事の楽しさを強調して、アーツ・アンド・クラフツ運動を展開しました。少し後の時期になりますが、日本でも、柳宗悦が「用の美」「健康の美」を強調し、工業製品を批判して手仕事の重要性を訴え、バーナード・リーチや濱田庄司とともに民芸運動を興しました。しかし、他方で、こうした近代工業による機械生産とその展開を肯定的に受け止め、そこにアーティストや建築家や技術者の新しい役割を見出そうという動きも起こってきます。この動きはまずヨーロッパで、次いでアメリカで組織化されます。

20世紀初頭1907年に設立されたドイツ工作連盟は、「良い製品を万人が享受できる社会の実現を目指し、産業を支える経済基盤と、工業化時代を生きるデザイナーの協調、共同責任を提唱」し、「規格化、標準化に則った質の高い製品の量産化、すなわち合理的なモノづくりのあり方」を根源的に問い直す活動を展開します。この活動のなかから生まれた「バウハウス」は、審美的な観点から、機械で生産されたものに新しい形を与えていくこと、それを担うデザイナーの育成、住宅を含めた実験的な工業製品の試作を行い、労働者階級の生活文化を作る学校となります(JIDA編『プロダクトデザイン[改訂版]』ビー・エヌ・エヌ、2021年)。

アメリカでは、1920年代から30年代にかけて、「工業的に生産される商品にかたちを与えるデザイン領域」が自立していきます。フォードやGMでの自動車の大量生産、ベル社による電話機、あるいは月賦販売の普及がそれを促進します。そして、1938年には職能団体としてのIDSA(アメリカ・インダストリアル・デザイナー協会)が結成されます。「インダストリアルデザインとは、専門職能により行われるサービスです。それは、使い手と作り手の相互利益の観点から、製品やシステムの機能、外観を最大限にいかしたコンセプトや設計明細を創造し開発することです」という宣言がなされるのです(青木史郎『インダストリアルデザイン講義』東京大学出版会、2014年)。

アメリカで、この中心的な担い手であったヘンリー・ドレフェスは、インダストリアルデザインのための基準として、以下の5項目を挙げています。「1効用と安全性、2維持、3コスト、4セールスアピール、5外観」。ここでは、商品の提供者と使用者の双方に共通する利益をもたらすことがインダストリアルデザインの目的であることが明示されています。青木史郎は、これを受けて、「インダストリアルデザイナーとは、単なる造形家ではなく、人間とその生活、技術、市場、そして企業経営についての知識と理解を前提に、最適解を実現できる人材」(青木同上書、33頁)と定義しています。

日本にインダストリアルデザインという考え方が広がってきたのは、第二次大戦後1950年代半ば以降のことでした。高度経済成長が産業構造の高度化をともなって始まったことがそのきっかけとなりました。技術導入・技術革新に対応した製品化技術・品質管理技術、ユーザーの要求に応える商品化技術、それを市場に埋め込む販売技術などが、インダストリアルデザインという概念に集約される形で展開されていきます。こうして新しい商品が次々に市場に送り出されます。デザインによって成功した初めての工業製品とされる東芝電気釜が発売されたのは1955年のことでしたし、ソニーのトランジスタラジオTR-610、ホンダのスーパーカブC100の登場は1958年、芸大出身者たちの作ったGKデザイン研究所のデザインによるキッコーマンの卓上醤油瓶は1961年のことでした。

もともと、明治初年にdesign の訳語にあてられたのは、「設計」と「図案・意匠」でした。工学技術系の概念としてのデザインと、美学芸術系の概念としてのデザインの両者が、当初から併存していたのです。戦後日本のインダストリアルデザインもこの両者が混在する形で進行しました。企画-開発-製造-販売という商品開発のプロセスを供給側からみれば、インダストリアルデザインは、プロダクトデザインと呼ばれることになるでしょうし、需要側からみれば、ライフデザインと呼ぶことができるかもしれません。戦後日本のインダストリアルデザインの牽引者となった榮久庵憲治がGKデザイン研究所のリーダーであったことは、日本のインダストリアルデザインの特徴を象徴しています。

その後、インダストリアルデザインは、多くの領域で深化を遂げていきます。その深化は、デザインそのものの領域、デザインプロセス、デザイン評価、デザインマネジメントでの深化にとどまらず、マーケティング、社会調査、科学技術等との関連を意識して進行しました。ただ、そこでの深化は基本的には「魅力ある商品を生み出す」ことを基本とするものでした。

世界的な高度成長の終焉とともに、こうした見方への批判が登場しました。「多くの職業のうちには、インダストリアルデザインよりも有害になるものはあるが、その数は非常に少ない」として、インダストリアルデザインの商業主義を痛烈に批判したのでした。ヴィクター・パパネック『生きのびるためのデザイン』(晶文社、1974年)がそれで、社会的弱者や第三世界のためにこそ、インダストリアルデザインは働くべきだと主張したのです。今日、インダストリアルデザインは、こうした批判を包摂した新しい展開へと歩みを進めているようにも見えます。私たちも、賢いユーザーになるだけでなく、賢い市民になることが要請されています。

学長  伊藤 正直

1月 「ものづくり」の力

この10年間、日本経済の停滞や国際競争力の弱化がしばしば語られています。GDP(国内総生産)の長期低迷が続いている、貿易収支が数十年ぶりに赤字化した、政府債務の残高は1,000兆円を超し国債の過半が日本銀行保有となっている、超低金利が10年以上続き、金利機能が働かなくなった、などなど。

実際、1人当たりGDP(名目)の国際比較を見ても、日本の国際ランクは2000年の世界第2位から2022年には32位まで落ちました(IMF統計、2023年10月発表)。円ドル為替レートも、2011年10月の77円から2023年10月には150円となり、円の対外価値は半分まで落ち込みました。貿易収支の赤字も、円安による食料・原燃料輸入価格の高騰、同時に、それまで働いていた円安による輸出促進効果が、日本企業のグローバル化の進展によって以前ほど働かなくなったことの反映です。

日本経済の停滞、国際競争力弱化の原因として、日本の「ものづくりの衰退」「ものづくりの劣化」が、近年指摘されます。確かに、2010年代に入ってから、国内液晶テレビ産業は急速に競争力を失ったし、エレクトロニクス企業は巨額の赤字を計上しています。また、世界中で急速に進展しているEV(電気自動車)の開発でも、わが国は大きく立ち遅れています。ICTの世界でも、いわゆるGAFAM(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン、マイクロソフト)などの米国企業が、多数のベンチャー企業やサプライヤーと産業システムを構築しているのに対し、日本にはプラットフォームの盟主企業は全く存在しません。「ものづくりの衰退」、「ものづくりの劣化」は本当のように見えます。でも、本当でしょうか。

1970年代初めのドル・ショックとオイル・ショックを契機に、世界経済の安定的成長は終わりをつげ、先進諸国はいずれもスタグフレーション(不況とインフレの併存)に陥りました。そうしたなかで、1974年に-0.2%というマイナス成長を戦後初めて記録したにもかかわらず、その後は日本のみ5%成長を持続し、80年代には「ジャパン・アズ・No.1」といわれたり、「日出ずる 日本」という特集が、ロンドンエコノミストで組まれたりするようになりました。

他の先進諸国と比較したこの時期の日本経済の堅調は、内需と外需の持続的拡大によってもたらされました。なかでも外需=輸出の伸びは著しく、輸出額は1973年の 369億ドルから、1979年には1,000億ドルの大台を突破し、1984、85年合計の貿易黒字額も1,000億ドルを超えるまでになりました。輸出の主力となったのは、機械機器で、1960年代には20~40%であった輸出総額に占める機械機器の比率は、1975年には54%、1980年には63%と単独で過半を制するまでになりました。自動車・オートバイ等の輸送機械、ラジオ・テレビ、DVD等の電気機械、自動車用エンジン・事務機器・工作機械等の一般機械が、世界に送り出されたのでした。

こうした急激な輸出の拡大をもたらしたのは、合理化による生産性の上昇やコスト引下げによる輸出単価の切下げ、QC(品質管理)による製品品質の改善、製品の高加工度化・技術集約化などにありました。企業の研究開発部署や生産現場、つまり「ものづくりの現場」での、技術者や現場社員たちの努力と苦闘の成果という部分が、結構大きかったということができます。

こうした「ものづくりの現場」を幅広く取材し、基盤技術や応用技術の研究と開発、生産現場での製品への移転の実像を明らかにしたルポライターが内橋克人でした。その作業は、内橋克人『匠の時代』全12巻(講談社文庫、1982~1991年)にまとめられました。1978年3月から1987年7月まで「夕刊フジ」に連載されたものを大幅に加筆して書籍化したものですが、残念ながら絶版となっています。ただし、その中身はセレクトして再編集され、現在でも、内橋克人『新匠の時代』全6巻(岩波現代文庫、2011年)で読むことができます。

そこで取り上げられたのは、例えば、セイコーのクオーツ時計、シャープ、カシオ等の小型軽量化電卓、小西六の世界初「自動焦点カメラ」、東レの天然皮と同じ繊維構造を持つ人工皮革エクセーヌ、三菱電機のふとん乾燥機、東芝のカナ漢字変換ワープロ、本田技研の世界初の「4輪操舵」自動車、国鉄の東海道新幹線・青函トンネル・ATS開発、クラレと倉敷中央病院の人工補助肝臓、東レと東京女子医科大学の人工透析装置、ミノルタの一眼レフカメラ自動焦点装置などさまざまです。夕刊フジの連載時には、この他にも、松下電器のDDモーター・センサー・ファクシミリ、ミサワホームの完全プレハブ住宅、各種企業の海外事業活動やグローバル戦略、住友銀行の国際戦略なども取り上げられました。いずれも現場の取組み、現場の闘いに焦点が合わされています。読んでいると、1970年代から80年代にかけての時期の、研究開発現場、生産現場の取組みの深さと持続力に圧倒されます。

それから40年、そうした現場の取組みは、現在どのようになっているのでしょうか。「ものづくり」の衰退や劣化が表面化しているのでしょうか。政府の発表している『2023年版 ものづくり白書』(2023年6月)は、日本の現状を次のように把握しています。「日本は現場の高度なオペレーション・熟練技能者の存在によって、現場の部分最適・高い生産性」という強みを現在も保持している。しかし「企業間のデータ連携・可視化の取組みができている製造事業者は2割程度」で、欧米のような「データ連携や生産技術のデジタル化・標準化」「サプライチェーンの最適化」と比べるとかなりの立ち遅れが見られる。従って、現在求められているのは、サプライチェーンの最適化、DXに向けた投資の拡大・イノベーションの推進であり、これを通して「生産性向上・利益の増加につなげ、所得への還元を実現する好循環を創出することが重要」というのです。

研究者の立場から、製造業=ものづくりの重要性を一貫して主張してきた藤本隆宏も「ものづくりは付加価値の流れづくりが基本」という観点に立って、「IoT・AI・ロボット等の普及ありきの議論は、あまり良い成果を生まない」と批判を加えています(藤本隆宏「昨今の根拠の怪しいものづくり論議を批判する(1)(2)(3)」『赤門マネジメントレビュー』19巻3号、4号、5号、2020年)。日本の現場のものづくりの力は、決して劣化していないし、衰退もしていないというのです。しかし、その力が生かされていないのも現状です。サプライチェーンやシステムの改革が必要だとするなら、それをどのように現場とつなげていくかを、より具体的に示すことが求められています。

学長  伊藤 正直

12月 将棋の話、囲碁の話

今年8月から10月にかけて行われた将棋の王座戦で、藤井聡太竜王・名人が王座を奪取し、将棋公式棋戦の全タイトルを独占し「八冠」となりました。「八冠」独占は社会現象になり、将棋を指さない「観る将」、「読む将」、「にわかファン」を大量に生み出し、久しぶりの将棋ブームを引き起こしています。

囲碁の方も、1999年に少年ジャンプに『ヒカルの碁』が連載され、そのアニメがテレビ放映されてブームとなりました。その後、囲碁界初の2度の「七冠」を達成した井山裕太が、「永世七冠」となった将棋の羽生善治とともに2018年に国民栄誉賞を同時受賞し、話題となりました。

将棋も囲碁も古くから楽しまれていますが、その起源はいずれも外国です。将棋の起源は、古代インドのチャトランガというゲームにあるという説が有力で、これがヨーロッパに伝播してチェスとなり、アジアに伝播して、シャンチー(中国)、チャンギ(朝鮮)、将棋(日本)となったといわれています。日本で最古の将棋史料は11世紀半ばの藤原明衡『新猿楽記』とのことですが、その後13世紀初めの習俗事典『二中歴』に大小2種類の将棋が説明されています。ただし、この頃の将棋には、現在はない多くの駒があり、現在の駒の形になったのは15、16世紀の頃、同じ時期に、相手から取った駒を自分側の駒として再使用できる持ち駒ルールが始まりました。日本独自のこのルールの発明により、将棋は著しく複雑で奥の深いゲームとなりました(日本将棋連盟HPによる)。

囲碁の起源は、4000年くらい前の中国といわれています。日本にいつ伝来したのかははっきりしませんが、正倉院には碁盤や碁石が保存されており、『古事記』には碁についての記載がありますし、『源氏物語』や『枕草子』にも囲碁が登場します。平安時代に、宮廷、貴族に広まった囲碁は、鎌倉・室町時代には、武士や僧侶などに広まり、日蓮と弟子の吉祥丸の打った碁の記録(=棋譜)が残されており、現存する最古の棋譜といわれています。

『徒然草』にも「拙き人の、碁打つ事ばかりにさとく、巧みなるは、賢き人の、この芸におろかなるを見て、己れが智に及ばずと定めて万の道の匠、我が道を人の知らざるを見て、己れすぐれたりと思はん事、大きなる誤りなるべし」とあり、当時の囲碁の広がりを知ることができます(日本棋院HPによる)。

信長、秀吉、家康ほか戦国武将が囲碁を嗜んだこと、本能寺で碁会が催された際「三劫」が生じ、本能寺の変の前兆だったといわれたことなども記録に残されています(林元美『爛柯堂棋話』平凡社東洋文庫332、1978年)。

江戸時代に入ると、将棋と囲碁の位置づけが変わります。時の幕府によって、将棋・囲碁が制度化されるのです。1612(慶長17)年、幕府は将棋の大橋宗桂、囲碁の加納算砂(本因坊算砂)らに俸禄を支給することを決め、その10年後の1626年には、御城将棋、御城碁が始まります。彼らは、その後、世襲、家元として将棋所・碁所を構えるようになり、将棋では、大橋本家・大橋分家・伊藤家の三家が、囲碁では、本因坊、井上、安井、林の四家が将棋所・碁所の地位を争うことになります。

こうして将棋界、囲碁界は世襲制、家元制の下で安定した時代を迎え、1800年代に入ると黄金期を迎えますが、1868年(慶応4年)に江戸幕府が滅亡すると、将棋三家、囲碁四家は経済的な基盤を失い、終焉を迎えます。それぞれ家元は拝領屋敷を返上し、1869(明治2)年には家禄も奉還することになりました。将棋界、囲碁界はかつてない苦難の時代を迎えることになりました。

この苦難の時代を救ったのが、当時、新たに発行されるようになった新聞でした。将棋では、1881(明治14)年に、「有喜世新聞」が詰将棋を掲載し、1898年には「萬朝報」が指し将棋を掲載し、以後各新聞社が棋戦を掲載するようになります。これに対応して、棋士の団体も結成され、1909年には初の棋士団体「将棊同盟會」が発足し、翌1910年には、「関西将棊研究会」、「将棊同志會」などが誕生します。その後曲折を経て、1927(昭和2)年に「日本将棋連盟」が発足し、現在につながることになります。

囲碁の方も、同様に、1878年に「郵便報知」に碁譜が掲載され、将棋よりも早く、各新聞社が囲碁欄を設けることになり、政財界の援助も始まります。これに対応して、方円社、囲碁奨励会、六華会、裨聖会などの棋士組織が出来ますが、1924(大正13)年に「日本棋院」が発足し、現在の起点となります。

第二次大戦後は、将棋、囲碁とも、新聞棋戦を柱に大きく発展を遂げ、将棋人口、囲碁人口も急増します。スター棋士も次々に現れます。将棋の升田幸三、大山康晴、中原誠、谷川浩司、羽生善治、囲碁の木谷実、呉清源、橋本宇太郎、高川格、坂田栄男、林海峰、大竹英雄、石田芳夫、趙治勲、小林光一などが新聞や雑誌、テレビをにぎわせました。囲碁界では、1950年、東西棋士間の待遇の違いを巡って「関西棋院」が分立しましたが、現在は、日本棋院と関西棋院は協調関係にあります。

ただし、戦後急増した将棋人口、囲碁人口は、レジャーの多様化とともに減少に転じています。将棋人口は1982年の2280万人から1998年には1000万人を割り込み、2022年時点では460万人と推計されています。同じく囲碁人口は1982年の1130万人から、1995年には500万人を割り込み、『ヒカルの碁』のブームでいったんは盛り返したものの、2022年時点では130万人と推計されています(日本生産性本部『レジャー白書2023』)。

将棋、囲碁を取り巻く環境は、21世紀に入って激変しました。その変化の最大は、AIの登場です。将棋も囲碁も現役棋士の多くはAIを参照しています。AIが、トップ棋士を負かすようになったためです。1997年にIBM製のチェスAIソフトであるDeep Blue(ディープ・ブルー)が現役のチェス世界チャンピオンのガルリ・カスパロフを破りました。2007年には、将棋AIソフトのBonanza(ボナンザ)が渡辺明名人と接戦を演じました。ボナンザが採用した「全幅探索」と「評価関数の機械学習」という手法は、その後の将棋AIソフトに次々に採用され、プロ棋士の棋力を凌駕しました。最も困難とされていた囲碁でも、2016年に、Googleが開発した囲碁AIソフトAlphaGo(アルファ碁)が、世界チャンピオンである韓国のイ・セドルを4勝1敗で破り、世界的なニュースになりました。現役棋士がAIとどのように向き合っているかの一端は、王銘琬『棋士とAI』(岩波新書1701、2018年)で知ることができます。一読を薦めます。

学長  伊藤 正直

11月 対話型AIはどんな「対話」をしているのか?

私たちは、他人と話すとき、時に、遠まわしな表現やあいまいな言い方をすることがあります。対人関係に配慮する、あるいは忖度するときが多いようですが、そうでないときも、しばしばあいまい表現がでてきます。にもかかわらず、聞き手は話し手の意図をすぐに理解することができます。言葉になっていない意図(含意)を推測できるのです。以下の会話はそのよい例です。

夕食後の夫婦の会話
妻「コーヒー飲む?」
夫「明日ね、出張で朝が早いんだ。」

「飲む」とも「飲まない」ともいっていないにもかかわらず、「コーヒーは飲まない」ことが、了解されています。もし、この会話が、夕食後ではなく朝食時になされたのなら、「新しいシャツを用意して欲しい」「スーツケースを出しておいて」といったことを意味しているのかもしれません。その場合も、そのことはすぐに了解されるでしょう。両者の間で、適切な文脈が共有され、その文脈のもとでなされる推論が了解されているからです(時本真吾『あいまいな会話はなぜ成立するのか』岩波書店、2020年より)。

ところが、逆に、会話がすれちがって話が通じない場合も、しばしば生じます。例えば、以下の会話です(飯間浩明、Twitter 2017.1.5より)。

A「時系列で考えてみましょう」
B「時系列とは?」
語句が通じていない例です。

A「最近つくづく思うけど、サンタクロースっているよね」
B「何言ってるの。あれはあくまで伝説で‥‥」
文脈が理解されていない例です。

A「では、そのうち飯でも」
B「来週ですか、再来週ですか」
話し手の意図が理解されていない例です。

いずれも、日常会話では、普通にあることです。このような事例から、会話が成り立つためには、話し手と聞き手の間で、語句や文脈だけでなく、推論による含意が共有されることが必要なことがわかります。話し手と聞き手が帰属している社会集団―学校だったり、会社だったり、地域だったり、年齢だったりする―によって、語句や文脈や含意が異なっている場合が多いことも、これを裏付けているようにみえます。ただ、上の事例はもう少し一般的ないし普遍的な事例であるようです。

最近、生成AI(Generative Artificial Intelligence)とくに対話型AIが大きな話題となっています。生成AIとは、与えられた入力データからまったく新しいデータを生成することのできる技術です。現在、生成AIの開発競争は世界中で激しく進行しています。代表的なものとしては、テキスト生成系のChatGPT、画像生成系のStable Diffusion、音声生成系のVALL-Eなどがあります。わが国でも、今年5月下旬、東工大、富士通、理研、東北大などが協力し、スーパーコンピュータの「富岳」を使って、2023年度中に高度生成AIを開発すると発表しました。こうしたAIを使えば、文章、画像、動画、音楽、プログラムコードなどが自在に作られるようになるのです。

テキスト生成系で代表的なChatGPTは、文章で質問をすると、それに文章で回答をしてくれます。対話型AIともいわれ、あたかも人間同士が会話しているかのように、自然な対話が進行します。とはいえ、ChatGPTは質問の意味を理解して回答しているわけではありません。人間の場合は、話し手の言葉の意味が分からなければ、会話を続けることができません。しかし、ChatGPTは、ディープラーニングと呼ばれる手法をベースにした自然言語処理の学習モデルに基づいて、文章を大量に読み込む学習を繰り返すことで、質問にもっとも適合するパターンを見つけ、パターンに沿った回答をするという処理をしているに過ぎません。質問に対して続く確率が高い文章を並べているだけなのです。

こうした作業を行う基礎となっているのは、2017年に発表された新しいディープラーニングの学習法であるTransformerです。ChatGPTに使われているTransformerは、それまでのニューラルネットワークに比べて、膨大なデータを一度に処理できる大規模な自然言語学習を可能にしました。従来のニューラルネットワークが、単語を一つずつ処理したのに対し、Transformerは、単語の位置とその関係を推測し、文脈を学習するようになりました。Transformerは、言語モデルが大量の生のテキスト・データを事前学習することを実用化し、モデルのサイズを大幅に拡大しました。

対話型AIは、質問の「意味」を理解していなくても、蓄積された膨大なデータ(=文章)から、質問の文章に対応する、もっとも確率的に高い文章で答えることによって、あたかも、質問の「意味」を理解して回答しているようにみえるのです。

とすれば、対話型AIの次の課題は、あいまいな会話の「含意」を理解することができるようになるか、明示された文章に隠された「意味」を読み取れるようになるかどうかでしょう。そのためには、人間の持つ「気持ち」や「感情」を、AIが理解することが必要です。ChatGPTに、「あなたの気持ち」を聞いてみると、「私は人工知能であり、感情や気持ちを持つ存在ではありません。私はテキストベースの情報処理を行うプログラムで、人間の質問に対してテキストで回答することができますが、自己意識や感情を持つことはできません。私の目的は、情報提供や質問に対する支援を行うことです」という回答が返ってきました。

現在は、AIが意識や感情を持つことができるようになると考える研究者はほとんどいません。しかし、人間がもつ意識や感情の生成プロセスをAIが解き明かすことはありそうです。手塚治虫の鉄腕アトムは、人工知能であるアトムやウランが、意識や感情を持つ場面を多く描いてきました。手塚治虫をオマージュした浦沢直樹の『PLUTO』(小学館、2009年)も、その最後は、アトムが涙する場面です。かつては、漫画やSFの世界であった生成AI、これとどう向き合うかが、現在、強く問われています。

学長  伊藤 正直

10月 話しことば、役割語、社会方言

朝起きて「おはよう」と挨拶する、学校に行って友達と雑談する、会社で仕事の打ち合わせをする。私たちは、毎日、日常的に人とコミュニケーションをとっています。挨拶や雑談、業務伝達や打合せの会議、授業や部活での会話。コミュニケーションの手段は、会話であったり、文書であったり、LINEであったりします。身振りや手振りによる非言語的・身体的コミュニケーションを伴う場合もありますが、基本はいずれも言葉によるコミュニケーションです。しかし、同じ言葉でも、会話のそれと文字によるそれには大きな違いがあります。

言葉に「書きことば」と「話しことば」があることは誰でも知っています。最近では、これに「打ちことば」という区分が加わったようです。絵文字・顔文字、「アケオメ」などの略語、「ぴえん」、「おつ」、「り」などのジャーゴン、漢字多用など、スマホやパソコンのキーを使って書かれる言葉のことです。文字として打たれるという点では書きことばですが、その表現の仕方からみると話しことばに近いでしょう。書きことばと話しことばの中間といっていいかもしれません。

書きことばと比べると、話しことばは、はるかにバリエーションが豊富です。もちろん、書きことばにも、行政文書、新聞記事、小説、学術論文、日記などで文体やスタイルに違いがありますが、いずれも、おおむね明治維新後の近代化政策に基づく「国語」=標準語によって書かれているといえます。これに比べると、話しことばははるかに多彩で多様です。

<老人ことば><幼児ことば><お嬢様ことば><若者ことば>といった世代間で異なった言葉遣いがあります。あるいは、東北弁、名古屋弁、関西弁、沖縄弁といった地域間で異なった言葉遣いもあります。敬語とタメ口など上下関係や親疎関係によって異なった言葉遣いをしたりもします。

「ある特定の言葉遣いから特定の人物像を、あるいはある特定の人物像を示されるとその人物がいかにも使用しそうな言葉遣いを思い浮かべることができる」という現象は、広範にみられます。例えば、「そうじゃ、わしが知っておる」といえば老人を、「そうだよ、僕が知っている」といえば男の子を、「そうですわよ、わたくしが存じておりますわ」といえばお嬢様を、日本で育った日本語の話者ならば、誰でも思い浮かべることができます。この言葉遣いを金水敏は「役割語」と命名しました(金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』岩波書店、2003)。

誰でもその人物像を思い浮かべることができますが、では、実際にこのような言葉遣いをする老人やお嬢様がいるのかといえば、現実にはそうした人は存在しません。フィクションあるいは仮想現実(ヴァーチャル)の世界で使われる言葉遣いです。リアル日本語に対して、ヴァーチャル日本語、あるいはキャラ日本語といってもいいでしょうし、意図的・自覚的に使う場合にはコスプレ日本語といってもいいかもしれません(マツコ・デラックスを思い浮かべてみてください)。

ヴァーチャル日本語といえば、最近はヴァーチャル方言が話題です。方言とは、言語学的には、話し手の属性の違いに基づく言語変種をいい、地域によることばの違いを示す「地域方言」と、ジェンダー、世代、社会階層、職業、役割などに基づく「社会方言」の2つをさすものとされています。ここでヴァーチャル方言というのは、「地域方言」に由来するもので、そのうち、テレビや映画や舞台やネットで使われている方言をいいます(田中ゆかり『方言萌え!? ヴァーチャル方言を読み解く』岩波ジュニア新書、2016)。

昔の映画やドラマは、日本全国どこを舞台にしていても、標準語で語られ演じられていました。幕末三大方言ヒーローといわれる坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟も、土佐弁、薩摩弁、江戸弁ではなく、標準語をしゃべっていました。それが、次第に方言で語るようになるのです。この推移を、田中ゆかりは、次のようにモデル化しています。共通語ドラマ→「なんちゃって方言ドラマ」(1950~70年代)→方言指導の導入と定着(1970年代半ば~1980年代半ば)→本格方言ドラマ(1990年代~)→リアルさ追求方言ドラマ・方言コスプレドラマ(2000年代以降)。

ドラマや映画で、クレジットロールに方言指導が入るようになり、方言の地域区分も次第に細分化されるようになりました。とはいえ、そこでの方言はリアルな地域方言100%ではなく、「ドラマ方言」として意識的に作られたヴァーチャル方言でした。NHKのドラマでいうと、「ちゅらさん」から「カーネーション」そして「八重の桜」「あまちゃん」をみるとこの推移がよくわかります(上掲田中『方言萌え!?』)。そして、このヴァーチャル方言がリアル方言のありように影響を与えるという往還もみられるようになりました。

「社会方言」の側でも大きな変化がありました。なかでも大きく変化しているのは「若者ことば」です。「若者ことば」については、しばしば、その乱れが言及されます。例えば、動詞化した「ファボる」「ライブる」「リムる」「ジモる」「じわる」、形容詞の「おしゃかわ」「グロかわ」「ぜんつま」「ねむしん」、副詞の「あげぽよ」「圏外」「ガツ」「バブみ」「ずたぼろ」、合いの手の「それな」「よき」。どれくらいわかりますか。

この若者ことばのなかでもよく聞かれる「そうっす」「マジっす」といった言葉だけで、「ス体」と名付けて一冊を書いてしまった本を読みました(中村桃子『新敬語「マジヤバイっす」 社会言語学の視点から』白澤社、2020)。最初から最後まで面白かったのですが、とくに印象が深かったのは、「『ス』は丁寧語じゃないっす」の章です。ウェブサイト『発言小町』(読売新聞社主催の女性向けQ&Aウェブサイト)に投稿された以下へのレスポンス(レス)の分析です。

【トビ主さん】「そうっすね。マジっすか。ヤバイっす。みんな丁寧語っすよね?」っす 2014年4月30日21:18
「私たちは「っす」を先輩とか目上の人に使っています。なのでずっと「っす」を丁寧語と解釈していたのですが、私の「そうすっか(ママ)マジヤバイっすね」発言に上司からマジ見下された気がしました。ヤな奴。 「っす」は丁寧語っすよね」

この投稿の3分後に「冗談キツイっす」、5分後に「うっす。丁寧語じゃないっす」とのレスがあり、以後2カ月の間に344のレスがあったということです。90%が「スは丁寧語でない」としたものの、レスはまじめ系とおもしろ系に分かれ、まじめ系では、敬語の使いかたから、トビ主さんへの批判・侮蔑、ヤンキーやガテン系といった特定集団への結び付けなどがあり、おもしろ系では、パロディ化や様々のパーフォーマンス的越境が続いたといいます。

このように話しことばは面白い。話しことばを論ずることは、さらに面白いし難しい。現代日本社会は、様々の集団に分断され、ジェンダー、世代、社会階層、職業、役割などに分節化されています。このような状況の下で、帰属している集団を超えたコミュニケーションをどのように回復し、広げていくかが問われています。話しことばについてあれこれみていくなかで、この観点から、言葉を考えることの必要性を痛感しました。

学長  伊藤 正直

9月 動物の言葉、ヒトの言葉

『新約聖書』(「ヨハネ福音書」)は、「はじめに言葉ありき。言葉は神とともにあり、言葉は神であった。万物は言葉によって成り、言葉によらず成ったものはひとつもなかった。言葉の内に命があり、命は人を照らす光であった」と述べています。言葉こそがすべての始原であり、人間だけがその言葉により成りたっているというのです。

こうした考えは、ながく共有されてきました。しかし、20世紀後半以降、動物の認知やコミュニケーションに関する研究が進むなかで、多くの動物たちが「言葉」をもち、多様なコミュニケーションを取っていること、「併合」(二つの語をひとつのまとまりにすること)する能力をもっていることなどがわかってきました。同時に、人間の言語習得、言語発達についての研究も、近年急速に進展しました。

最近出版された『動物たちは何をしゃべっているのか?』(山極寿一・鈴木俊貴著、集英社、2023年)は、この領域の最新の知見を、著者二人が、とてもわかりやすく語りあっています。著者のひとり鈴木俊貴は、「シジュウカラという野鳥を対象に、鳴き声の意味や役割について、17年以上かけて調べてきた。長いと年に8カ月もの間、長野県の森にこもり、日の出から日没までシジュウカラを観察」してきた人です。もうひとり山極寿一は、よく知られているように、京都大学の元総長、ゴリラ研究の世界的権威で、「20代の頃からゴリラの群れに加わり、長い歳月をかけて彼らの行動や暮らし、社会の成り立ちを研究してきた」人です。

対談は、動物の鳴き声の多様性から始まります。シジュウカラは、天敵の種類によって鳴き声を変える、ヘビなら「ジャージャー」、タカなら「ヒヒヒ」という具合に。サバンナモンキーも、見つけた天敵、ヒョウ、ヘビ、ワシによって異なる鳴き声を発するといいます。動物とくに鳥類の鳴き声の研究は、これまでは求愛の時が主たる対象でした。これに対し、鈴木の観察は、求愛以外の文脈での音声のやり取りに着目して進められました。その鳴き声が、意味を持っているのか、それとも単なる恐怖の叫び声なのかが、まず調べられることになります。

サバンナモンキーについての最近の研究は、特定の鳴き声が特定の天敵についてだけ発声されるわけではなかったというものです。そうだとすると、警戒の鳴き声の聞き手のサバンナモンキーは、その鳴き声からだけでは天敵の種類を特定できません。この場合は、その鳴き声は、「言葉」といえないことになります。その鳴き声が、特定の対象を単独に指し示すものとして聞き手に伝わっていないからです。

言葉によって明確にものを指し示すことができるのが、ヒトの「言葉」です。しかし、その「言葉」と、それが指し示すものとの関係は「恣意的」です。例えば、日本語で「リンゴ」と呼ぶ果物は、英語では「apple」、フランス語では「pomme」、イタリア語では「mela」と呼ばれています。どんな呼び方でもいい(これを「恣意的」といいます)のですが、日本語では「リンゴ」という言葉が、林檎という果物を指し示すシンボルとなっています。ですから、日本人は、誰が聞いても「リンゴ」という言葉から、林檎を想定することができます。サバンナモンキーの鳴き声では、これができません。

ところが、シジュウカラの場合、「ジャージャー」という鳴き声は、ヘビの場合にだけ発声され、それを聞いたシジュウカラも、その鳴き声からヘビを想定している、つまり、その鳴き声はヘビのシンボルとなっているというのです。鈴木は、いくつかの実験によってそのことを論証します。さらに、「シジュウカラは文法を持っている」ことも、鈴木は実験で示します。シジュウカラの「ピーツピ(警戒しろ)・ヂヂヂヂ(集まれ)」という鳴き声を、語順を変えたり、コガラとシジュウカラの混群の場合のそれぞれの音声を入れかえたりする実験により、シジュウカラが二つの語をひとつのユニットとして認識している(「併合」の能力がある)ことを論証しました。シジュウカラは「言葉」を発していたのです。

対談は、後半に入ると、言葉から考える人間社会、言葉と身体性の関係、現代社会のコミュニケーションのあり方に及びます。パート3のタイトルは「言葉から見える、ヒトという動物」、最後のパート4のタイトルは「暴走する言葉、置いてきぼりの身体」です。

「ヒトの言葉と他の動物の言葉を隔てる決定的な違いは、やはり目の前にないものについてどれだけ饒舌に語れるか否か」である、「目の前にないモノや出来事について話せるのは、言葉とその指示対象に関する知識を共有しているから」である、という議論を出発点に、ヒトの言語の形成・発展・システム化の特質を、動物のそれと比較して検討します。対談は、現代社会が言語に依存することで非言語的な情報を認識できなくする危険性、言語が文字化されることで、非文字情報を切り捨てる危険性を指摘し、感情や身体性を復権し、共感能力を回復させていくことの重要性を強調して閉じられます。

そもそもヒトの言葉は、動物たちの言葉と、どこが共通しており、どこが異なっているのでしょうか。また、赤ちゃんや乳幼児は、どのようにして言葉を覚え、習得していくのでしょうか。対談のなかで、言語学、認知科学、発達心理学で使われている用語、例えば、恣意性、超越性、対称性、習得可能性といった用語がでてきます。言語学・認知科学は、ヒトの言語と他の動物のコミュニケーションを区別する指標として、「コミュニケーション機能、意味性、超越性、継承性、習得可能性、生産性、経済性、離散性、恣意性、二重性」という「言語の10大原則」をあげています。

鳴き声を通じて行う動物たちのコミュニケーション機能の検討は、上述の言語学や認知科学におけるヒトの言語習得、ヒトの言語起源や発展についての研究と密接に関連して進められてきました。従来は、この「10大原則」のほとんどは動物には見られないとされてきたのですが、この通説が覆りつつあるのが現在といっていいでしょう。ヒトの言語研究の現在地については、今井むつみ・秋田善美著『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』(中公新書2756、2023年)で概略を知ることができます。あわせて読んで欲しいと思います。

学長  伊藤 正直

8月 雑誌編集という仕事

本屋に入ると、まず目につくのは、新刊書籍、新刊雑誌のコーナーでしょう。出版不況が続くなか、書籍や雑誌の刊行点数は減少し続けていますが、それでも2021年の新刊点数は69052点、毎日200点近い書籍が刊行されています。同じ2021年の雑誌新刊点数は2536点、このうち約半分が月刊で、毎週、毎月、数多くの新刊雑誌が棚を埋めています(出版科学研究所調べ)。奥へ進むと、文庫・新書の棚、コミック・アニメ本の棚、児童書・学習参考書の棚、コンピュータ関連本の棚、文芸書・ノンフィクションの棚、各種資格試験関連本の棚、歴史書の棚などが続きます。大型書店では、法律・経済、理学・工学、医学などの専門書の棚も置かれています。

本屋に並んでいるこれらの書籍、雑誌は、すべて編集者による編集というスクリーン、編集作業を経ています。編集を辞書で引いてみると、「資料をある方針・目的のもとに集め、書物・雑誌・新聞などの形に整えること。映画フィルム・録音テープなどを一つにまとめることにもいう」(『広辞苑』)とあります。確かに、「書物・雑誌・新聞」だけでなく、「テレビや映画や音楽」でも編集は不可欠です。毎日放映されているテレビのニュース・ドラマ・ドキュメントなどは、いずれも出来事をそのまま放映しているわけではありません。映画やアニメも同じで、監督やプロデューサーが編集した上で上映されています。

編集という作業を広くとれば上に述べたようになります。しかし、編集者というと、まず思い浮かぶのは、テレビや映画や音楽の監督やプロデューサーではなく、書籍や雑誌の編集者でしょう。もちろん、書籍の編集者といっても一様ではありません。文芸書担当、学術専門書担当、児童書担当、辞書担当、それぞれの編集者にとって求められているものは明らかに違います。とはいえ、書籍の場合、編集者に求められる第一のポイントは、書き手と読み手の間をきちんとつなげること、つなげられるようにすることでしょう。どの程度、書き手サイドに立つか、読み手サイドに立つかの重心の差はあっても、この点は共通しています。

雑誌の場合は、少し違います。雑誌の内容あるいは読み手は、書籍に比べるとターゲットが細分化されています。書籍に比べ、一誌あたりの発行部数がはるかに大きい(学術雑誌を除く)ことがターゲットの絞り込みを要請しているといえるかもしれません。ちょっと数えあげただけでも、月刊総合誌、一般週刊誌、男性誌、女性誌、ビジネス・マネー誌、スポーツ誌、自動車誌、生活実用誌、食グルメ誌、旅行レジャー誌、男性コミック誌、女性コミック誌、少年コミック誌、少女コミック誌と分かれますし、女性誌はさらに、ティーンズ誌、ヤング誌、ヤングアダルト誌、ミドルエイジ誌、シニア誌、マタニティ・子育て誌、ビューティ・コスメ誌と細分化されます。雑誌の場合は、書籍編集者とは異なって、「出来事」、すなわち、時事であったり、生活であったり、文化であったり、趣味であったり、国際であったりといったさまざまの「出来事」を、いかに読み手と結びつけるかがまず求められるポイントとなるように思われます。

現在、最も売れている雑誌は『週刊文春』です。ピークの1993年には70万部台に達し、『週刊新潮』『週刊現代』『週刊ポスト』を抜いてトップに立ちました。その後、一般週刊誌は全体として退潮となり、現在は30万部から40万部の間を動いています。2012年4月から2018年7月まで同誌の編集長を務めた新谷学は、「イデオロギーよりリアリズムで戦う」「論よりファクトで勝負する」が基本方針だ、と述べています(新谷学『「週刊文春」編集長の仕事術』ダイヤモンド社、2017年)。政治スキャンダル、経済スキャンダル、芸能スキャンダルを徹底して取り上げ、文春砲と呼ばれるまでになりました。

新谷は、「毎週いいネタをバンバン取ってきて『フルスイング』する」「スクープを連発して部数を伸ばし、世の中の注目を集める」「徹底して読者目線に立つ」とも語っています。スキャンダリズムは「俗情との結託」が本質ですから、本当に上述の基本方針が貫かれたかどうかは判然としませんが‥‥。新谷編集長時代の編集体制は、部員が全体で56名、うち事件を追いかける特集班はデスクを含めて40名(社員15名、契約記者25名)、およそ8名ずつ5班に分かれ、ネタのノルマは1人5本、毎週計200本のネタがあがり、木曜日の企画会議で、掲載ネタとチーム編成が決まる、こうして毎週のトップ記事が決まっていったといいます。組織体制を強固なものにし、指揮系統を明確なものとしたことが、連続的なスクープを生み出したともいえるでしょう。

細分化された女性誌の方はどうでしょう。現在の女性誌の起点となる出来事は、1970年のan・an、翌71年のnon-noの創刊といって間違いないでしょう。戦前創刊の『婦人公論』『装苑』、戦後の『主婦の友』『婦人生活』『婦人画報』、高度成長期の『週刊女性』『女性自身』『女性セブン』など、それまでの女性誌は、男は仕事、女は家事・育児という性別役割分業の下での、妻あるいは母としての役割を前提としたものでした。

しかし、an・anとnon-noは、「アンノン族」という言葉とともに、消費する主体、旅行やファッションを楽しむ主体としての女性像をはっきりと打ち出しました。結婚と育児が女性の主要な仕事であるという観念は背景に退きました。以後、アンノンの後継誌としてのクロワッサンやMORE、カウンターとしてのJJやVERY、ティーン向けのegg、ZiPPer、CUTiE、女子大生向けのCanCam、ViViなどが次々と創刊されていきます。

バブル末期の1988年に創刊されたマガジンハウス社のHanakoは、創刊に際して「キャリアとケッコンだけじゃ、いや」をキャッチコピーに掲げました。地域限定雑誌としてスタートし、毎号、東京の「おしゃれな街」を取り上げ、グルメ・住情報、ブランド特集を組み、「ハナコ族」と呼ばれる時代を象徴する女性像を生み出しました。

Hanako編集部を舞台とする連続テレビドラマも2度放映されました。それまでの女性誌が考えなかった漫画家、画家、作家、批評家などを新しい書き手として登場させました。140社という豊富な広告料収入をベースに次々に企画を立て、女性編集部員に積極的に活躍の場を与え、世界に派遣しました(椎根和『銀座Hanako物語』紀伊国屋書店、2014年)。こうしてHanakoは、「仕事も生活も貪欲に楽しむ知的で都会的な女性」像を提示し、一時代を築きました。

これまで雑誌が提供してきた情報の多くは、現在では、SNSを通して誰もが発信できるようになりました。書籍や雑誌自体も紙媒体から電子媒体に移りつつあります。雑誌の販売金額は、1996年の1兆5633億円から2022年には4795億円へと3分の1以下まで落ち込んでいます。かつての雑誌編集のパワーとエネルギーをどうしたら引き継いでいけるのか、雑誌の歴史を振り返りながらあらためて考えているところです。

学長  伊藤 正直

7月 語ること、聞くこと、書くこと―オーラル・ヒストリーの読み方

オーラル・ヒストリー(oral history)という言葉を聞いたことがありますか。直訳すると「口述の歴史」でしょうか。今日では、オーラル・ヒストリーは多くの領域で行われるようになり、定義することはなかなか難しいのですが、さしあたりは、「現存する人々から過去の経験や体験を直接聞き取り、それを記録として取りまとめること」、あるいは「その記録・証言をもとにした研究および調査の手法」ということができます。

インタビューの目的はさまざまですが、過去のできごとの事実関係を確認すること、そのできごとの意味づけを再構築することは、歴史学や政治学、社会学や人類学などでは共通していました。文書資料や統計的なデータを基になされてきた分析や研究では明らかにならなかった領域、明らかにできなかった限界をインタビューによって突破しようとしたのです。そして、この領域で大きな成果を上げてきたといえます。

インタビューをもう少し掘り下げてみると、その対象が、「公」(public)か「共」(common)か「私」(private)によって、その目的はかなり異なっているようにみえます。「公」すなわち政治家や官僚など公的地位にあった者への聞き取りの場合は、文字資料では残らない場合が多い政策的意思決定のプロセスを明らかにすることに重点が置かれています。「共」すなわち地域の共同体や企業社会などでの関係者への聞き取りの場合は、地域利害や労使関係などにおける種々の対抗関係の構造を明らかにすることに重点が置かれてきました。「私」すなわち生活世界の現場への聞き取りの場合は、ライフ・ストーリー、ライフ・ヒストリーを明らかにすることが課題となっています。

世界的には、オーラル・ヒストリーが社会的に位置づけられるようになったのは、第二次大戦後のこととされています。1948年にコロンビア大学にオーラル・ヒストリー・リサーチ・オフィスが設立され、大統領をはじめとする為政者層へのインタビューが精力的に実施されたこと、イギリスでも、ロンドン大学現代英国政治研究所により政治家へのインタビューが重ねられたこと、あるいはエセックス大学やナショナル・ライフ・ストーリー・コレクションによって、女性や技術者やマイノリティへのインタビューがはじめられたことが画期とされています。

じつは日本では、オーラル・ヒストリーそのものは「聞き書き」の歴史として、古くから行われていました。明治維新後には、政治学・歴史学の観点から旧幕時代の「書外の事実」を古老に聞く『旧事諮問録』が作成されました。また、篠田鉱造『幕末百話』のような庶民の聞き書きもありますし、柳田國男は普通の人々の歴史を記録する民俗学を打ち立て、その弟子である瀬川清子(元大妻女子大学教授)は、海女への聞き取りなど、女性視点による民俗世界の開拓に大きな足跡を残しました。

ただし、冒頭で定義したような意味でのオーラル・ヒストリーが日本で広がっていったのは、1970~80年代のことでした。大門は、その指標として、以下の4冊の出版をあげています(大門正克『語る歴史、聞く歴史―オーラル・ヒストリーの現場から』岩波新書1693、2017年)。歴史学(中村政則『労働者と農民』1976年)、社会学(中野卓『口述の生活史』1977年)、文化人類学(川田順造『無文字社会の歴史』1976年)、政治学(岸信介・矢次一夫・伊藤隆『岸信介の回想』1981年)。

このうち、最後の政治学、政治史の領域は、オーラル・ヒストリーの有用性について、早期から自覚的で、伊藤隆等の取り組みを引き継いだ御厨は、「公人の、専門家による、万人のための口述記録」と、オーラル・ヒストリーを定義し、聞き取りの対象を明確に限定しました。「社会に公的な影響力を持つ政治家、官僚、企業家などの『公人』は、社会に対する『説明責任』を負う。したがって同時に、『情報の公開性』と『決定の透明性』が問われている。しかも、彼らは、同時代としての『現代』と、やがて時を経て後世に判断が委ねられる『歴史』、これら双方の説明要求に応えなければならない」というのです(御厨貴『オーラル・ヒストリー』中央公論新社、2002年)。こうした観点に立って、御厨は、東京都立大学、政策研究大学院大学、東京大学先端研で、精力的にオーラル・ヒストリーを推進し、膨大なヒアリング記録を残しました。

その後、20年以上を経過するなかで、御厨は、オーラル・ヒストリーが適切に位置づけられていないのではないか、「かつて自らが作成に関与した『オーラル・ヒストリー』について、ある種のイデオロギー性を排除できなかった」のではないかとして、検討すべき課題を、①学界内から外の世界に拡大拡散してしまった「オーラル・ヒストリー」の成果をどう位置づけたらよいのか、②「オーラル・ヒストリー」クリティークをどうやったらよいのか、③「オーラル・ヒストリー」コンメンタールはどこまで必要なのか他、7つの論点を提起しています(御厨貴『オーラル・ヒストリーに何ができるか』岩波書店、2019年)。

他方、社会学や歴史学の領域では、その後、対象や領域に著しい広がりがみられ、生活世界や生活体験のさまざまの局面が「聞き取られる」ようになりました。労働現場に加え、戦争体験、引揚体験、介護、教育、ジェンダー、マイノリティなどが対象となり、オーラル・ヒストリーは、対象者の人生を聞き取るライフ・ヒストリー、ライフ・ストーリーとしての性格を強めていったように見えます。長年にわたって、この領域を主導してきた大門は、「文字史料を優先し、文字史料の枠内に聞き取りを位置づけることになると、体験を語る歴史の複雑だが豊かな過程、困難を乗り越えてようやくにして語られた内容、<現場>に含まれた身体性の回復の側面などに光をあてることはできない。体験を語る歴史の可能性を閉ざさずに開くためには、開く歴史に固有の成り立つ条件を明示し、そのこととあわせて開く歴史を叙述する必要がある」(大門、同上書)と述べています。

大門は、そうした観点に立って、3・11以降の東北の震災・震災後体験に関わる聞き取りを、編著者として、『「生存」の東北史―歴史から問う3・11』(大月書店、2013年)、『「生存」の歴史と復興の現在』(大月書店、2019年)、『「生存」の歴史をつなぐ』(績文堂、2023年)の3冊にまとめています。こちらも手に取って欲しいと思います。

学長  伊藤 正直

6月 粘菌学、フォークロア、エコロジー

先月、牧野富太郎をとりあげ、対象への無私の情熱を持ち続けた反面、研究以外は一切を顧みず、金銭感覚も欠如し、周囲との軋轢(あつれき)もしばしばであったと述べました。しかし、こうした特質を列挙するとき、まず思い浮かぶのは牧野より南方熊楠です。南方熊楠には、このすべてが当てはまり、しかも、その振幅は、牧野よりはるかに大きかったのです。

1867(慶応3)年紀伊和歌山に生まれ、1941(昭和16)年に紀伊田辺で没した熊楠は、在野の学者として生涯を過ごしましたが、その業績は、民俗学、生物学、博物学、宗教学など人文・社会・自然の多岐にわたり「知の巨人」と称される一方、年中裸で過ごしていたとか、酩酊(めいてい)しないでは人と話ができなかったとか、自在に反吐(へど)を吐いて気に食わぬものを追い返したとか、破天荒な奇人ともいわれました。あるいは、植物採集のためにキューバに渡ったのにサーカス団とともに巡業したとか、キューバ独立戦争に参加し負傷したとか、ロンドンに渡ってからは中国公使館に忍び込んで孫文を救出したとか、さまざまの「伝説」にも彩られています。

およそ一人の人間とはとても思われない広がりを持つ熊楠に対しては、日本民俗学の父といわれる柳田國男によって「日本人の可能性の極限」、あるいは「日本民俗学最大の恩人」と評価(1950年)されています。しかし他方で、牧野富太郎による「南方君は往々新聞などでは世界の植物学界に巨大な足跡を印した大植物学者だと書かれ、また世人の多くもそう信じているようだが、実は同君は大なる文学者でこそあったが、決して大なる植物学者ではなかった」という評価(1937年)や、折口信夫による「南方熊楠氏は万巻の書物を読んでいる人だが、態度は江戸時代の学者とそう変わらぬ。だから、研究法としてはこの方を引き合いに出しては駄目だ」という評価(1938年)もなされてきました。

熊楠本人も、柳田國男宛の書簡で「学会に入るのと学位を受けること大嫌いで、学校もそれがため止め申し候」(1911.6.25)と述べ、友人の土宜法龍(真言宗の僧侶で高野派管長)宛の書簡でも「小生自由独行の念深く、また本邦の官吏とか学士とかいう名号つけたるものをはなはだ好まず」(1916.5.8)と述べていました(杉山和也『南方熊楠と説話学』平凡社、2017)。

熊楠については、全集(全12巻、平凡社)、日記(全4巻、八坂書房)、菌類図鑑(各種、八坂書房、ワタリウム美術館)、熊楠邸蔵書目録(田辺市)などがすでに刊行されています。しかし、驚くほど筆まめで、メモ魔、記録魔とされた熊楠の手稿、とくにロンドン時代の4万枚に達するといわれる「ロンドン抜書」や、深い探求と多くの発見をしながら学術誌には一切発表されなかった粘菌研究の意図と目的など未開拓の部分も多く、その全貌は今日でも解明しつくされたとは、とてもいえません。

熊楠は、1883(明治16)年、15歳で上京し、神田の共立学校、翌年には東京大学予備門に入学します。同期には、正岡子規、夏目漱石、秋山真之などがいました。しかし、熊楠は、興味のない分野は一切勉強せず、この結果落第、1886年には大学予備門を中退し、翌1887年に渡米することになります。19歳でアメリカに渡って以降、アメリカ、キューバに約6年間、イギリスに約8年間滞在しました。

熊楠が隠花植物や粘菌への関心を持ったのは、大学予備門時代であったようで、後年、「(アメリカのアマチュア菌類学者)カーチスの採集した六千種を超える七千種の日本産の菌類を採集したいと思い立ったのは十六、七の頃」と友人宛の書簡で述べています。熊楠は、渡米後、1891年9月から翌年1月までキューバに出かけます。目的は植物採集で、熊楠が粘菌の研究を本格的に始めたのはこの頃とされており、キューバで新種の地衣類を発見しています。

1892年、熊楠はアメリカからイギリスに渡ります。そして、帰国する1900年8月まで、大英博物館で旅行記、民族誌、説話、自然科学、セクソロジーなどの貴重な文献を閲覧し、通称「ロンドン抜書」といわれるノートに精力的に書き写しました。ノートは、全部で52冊、各冊250~270頁、計1万数千頁に達し、書き写した古今東西の文献は、英独仏伊にとどまらず、ラテン語、アラビア語、中国語などの驚くべき広範囲にわたったとされています。

こうした文献探索を基礎に、熊楠は国際学術誌『ネイチャー』(Nature)に51編もの論考を寄せました。今日、世界最高水準の自然科学学術誌といわれる『ネイチャー』は、当時は、自然科学だけでなく考古学や文化人類学関係の記事なども掲載しており、熊楠の論考は、「編集部への書簡」(Letters to the Editor)欄、現在の「短報」欄に掲載されました。最初の掲載論考は、「東洋の星座」(The Constellations of the Far East)、2本目は、「動物の保護色に関する中国人の先駆的観察」(Early Chinese Observation on Colour Adaptation)で、以下「東洋人の蜂に関する諸信」「拇印考」「宵の明星と暁の明星」「網の発明」「マンドレイク論」「日本の発見」と続きます(松井竜五『南方熊楠 一切智の夢』朝日選書、1991、唐澤太輔『南方熊楠 日本人の可能性の極限』中公新書、2015)。

ただ、熊楠が最も多く論考を投稿したのは、『ノーツ・アンド・クエリーズ』(Notes and Queries)でした。熊楠が『随筆問答雑誌』と呼んだ同誌は、全編が投稿による情報交換で成り立っていました。ノート(覚書)、クエリー(質問)、リプライ(回答)という形式がとられ、熊楠の同誌への投稿は帰国後も続き、掲載された論考は、ノート71本、クエリー64本、リプライ189本、計324本に及びました(同上、松井竜五、唐澤太輔)。

足掛け15年に及ぶ海外滞在を経て、1900年熊楠は帰国します。大英博物館からの追放、ケンブリッジ大学助教授就任話の立ち消え等による無念の帰国でした。帰国後は、那智次いで田辺と、1941(昭和16)年の逝去まで紀伊を動かず、この地で、民俗学、宗教学、文化人類学、植物学など、広範な領域の思索を続けます。その過程で、エコロギー(エコロジー)の観点に立って神社合祀反対運動に関わったり、1929年には、在野の粘菌学者として昭和天皇に進講したりします(中沢新一編『南方熊楠コレクションⅤ 森の思想』河出文庫、2009)。

破天荒な学者、熊楠の思考をどうしたら追体験できるのか、熊楠の独特の叙述スタイル、あちらに飛びこちらに戻り変幻自在に展開する熊楠の論考を読みながら考えることしきりでした。

学長  伊藤 正直

5月 花を楽しむ、草木を知る

春になると、とりわけ春分を過ぎると、さまざまな草木が次々と開花を迎えます。三番町の大学校舎の道路沿いでは、3月終わりには、ゲンペイモモ(源平桃)が通りかかる人々の目を楽しませ、皆がスマホで撮影していました。私の自宅周りでは、ハクバイ(白梅)、マンサクが終わった後に、スモモ、ハナモモ、サクラが咲き、ミツマタ、チンチョウゲ、レンギョウ、ヤマブキ、コブシが続き、4月下旬の今は、ツツジ、コデマリ、オオデマリ、モッコウバラが花盛りです。

おだやかな春の日差しの中で次々に咲いては散っていく花々を見ていると、ときには、庭に植えたり、ベランダに置いたりしたくなります。花屋さん、植木屋さん、農園に出かけて、目的の花を手に入れようと思っても、その名前がわからないと困ります。そんな時役に立つのは、植物図鑑、花図鑑でしょう。

図鑑を開くと、写真あるいは写生画とともに、タイトルに学名と和名、科名・属名、原産地などが記され、さらにその特徴が説明されています。例えば、春に咲くスミレ科のコスミレ(小菫)をみると、次のようです。「コスミレ Viola japonica、科名・属名 スミレ科スミレ属 多年草、原産地 在来種、草丈 6~12㎝、花の咲く時期 3~4月、無茎種。葉は多数根生し長卵形で先は尖り、基部は心形で、裏面は淡紫色を帯びます。花は白っぽいものから淡紅色まで変化が多く、花弁の幅は狭く、唇弁に紫色の筋が目立ちます。‥‥」(金田洋一郎『山野草図鑑』、2020)。

花の学名の表記方法は、国際植物命名規約によって細かく決められており、18世紀にカール・フォン・リンネによって体系づけられたとのことです。属名は大文字で、その下は小文字で、斜字体で表すこととされています。上のコスミレViola japonicaもそうなっています。また、和名はカタカナを正表記とすることとされており、コスミレがタイトルで小菫と添書きされているのはそのためです。

初めて植物に学名を与えた日本人は伊藤篤太郎で、1888(明治21)年のことだそうですが(岩津都希雄『伊藤篤太郎 初めて植物に学名を与えた日本人』2016)、もっとも多くの植物を命名したのは牧野富太郎です。生涯に蒐集(しゅうしゅう)した標本は40万種を超え、命名した植物は、1889年にヤマトグサに学名をつけ発表して以来、新種や新品種など1500種に達しました。2023年4月から始まったNHK朝の連ドラ「らんまん」主人公のモデルです。主人公は槙野万太郎と名付けられ、神木隆之介が演じています。

牧野富太郎は、植物分類学に生涯を捧げ、「日本の植物学の父」といわれています。幕末の土佐で酒造業等を営む裕福な家のひとり息子として生まれ、早くに両親を亡くしますが、祖母の庇護のもと、幼時から士族の子弟の通う名教館(めいこうかん)に通い、そこで初めて理系の洋学に接します。維新後、名教館が小学校に変わると、すでに多くの学科を習得済みの牧野は登校拒否となってしまいます。そして、小学校中退のまま興味を持った植物の研究に没頭していきます。植物探求のためには周りを一切顧みなかったといわれた牧野の性格は、朝ドラでもくっきりと描かれています。

本格的な植物学を志した牧野は、1884年22歳の時に上京し、東京大学理学部植物学教室への出入りを許され、大学所蔵の書籍や標本に日常的に接するようになります。関東周辺の標本採集にも頻繁に出かけます。1893年に帝国大学理科大学助手となり、1912年には講師となりますが、いずれも薄給で、牧野の望む研究スタイルを続けるには到底資金が足りません。こうして植物研究のための出費がかさみ、実家の家産を使い果たし、以後、借金生活を続けることになります。

このような困難を極めた状況の中でも、牧野は精緻な植物図を収録した『大日本植物志』を刊行したり、『植物研究雑誌』を自費創刊したり、日本全国の植物関係団体で講師を務めたり、植物研究に邁進し、1940(昭和15)年には、現在でも刊行されている『牧野日本植物図鑑』を完成させます。「雑草という草はない」とは、牧野の名言です。1950年学士院会員、51年第1回文化功労者、53年東京都名誉都民、57年94歳で逝去。

植物研究以外は一切を顧みず、金銭感覚も欠如していた牧野の振る舞いにまつわる逸話は数多くあります。周囲との軋轢もしばしばでしたが、他方、その植物に対する無私の情熱への賛同者、支持者も多く、それが牧野の生涯を支えました。こうした牧野の人間関係、とくに富太郎を支えた妻寿衛子との関係については、大原富枝『草を褥(しとね)に 小説牧野富太郎』(河出文庫、2022)で知ることができます。一読を薦めます。

植物分類学という点では、もう一冊推薦したい本があります。塚谷裕一『漱石の白百合、三島の松 近代文学植物誌』(中公文庫、2022年)です。この本の冒頭に「漱石の白くない白百合」というエッセイがでてきます。夏目漱石の『それから』に登場する白百合について論じたエッセイです。「先刻三千代が提げて這入て来た百合の花が、依然として洋卓の上に載つてゐる。甘たるい強い香りが二人の間に立ちつゝあつた」。

『それから』は、これまで映画、ドラマ、絵画などで何回か取り上げられており、そこに登場する「白百合」は、すべて純白の「百合」でした。文芸評論の世界でも、この「白百合」は赤と白の対称のなかで、白のシンボルと位置づけられ、論じられてきました。純白の百合となると、鉄砲百合か鹿の子百合。映画でも絵画でも、描写されているのはこのどちらかです。「本当なのか」「漱石が描いたのは、本当に鉄砲百合、鹿の子百合なのか」、これが冒頭のエッセイの主題となりました。著者はこの問題を、それまでとは全く異なったやり方で検討していきます。それは、作中に描かれている問題の「百合」の特徴を具体的に列挙して検討するというものです。

すなわち、①花色は「白い」、②香りは「甘たる」く「強」く「重苦しい刺激」がある、③花弁は「翻る様に綻び」て「大き」い、④「北海道」で「鈴蘭」が咲く頃、東京の花屋で入手できる。この4つの特徴を兼ね備えたものが、漱石の「白百合」の正体だというのです。当時の日本で入手できる6種の百合をこの条件からチェックしていきます。鉄砲百合は、①はあてはまるが、②、③で失格、請百合、袂百合、笹百合も③で失格、残るのは、鹿の子百合と山百合であるが、鹿の子百合は④で失格、山百合は①で失格に近い。しかし、4条件に最も近いのは山百合となります。山百合は、多くの場合、地の白よりも中央に走る黄色の筋と茶褐色の斑紋の方が印象付けられる。そこでエッセイのタイトルが「白くない白百合」となったという訳です。

本書の著者は、東京大学大学院理学系研究科教授、専攻は遺伝発生学、植物学の専門家です。本人の語るところによれば、「植物好きが高じて研究者になった」とのこと。従来の人文学的な文学理論からのテキスト読解に対し、植物学の専門知に支えられた精緻なテキスト読解が、通説を見事にひっくり返しました。植物分類学に限らず学問は、地味に見えるものでもこんなに面白くなります。楽しんで勉強を続けたいと思います。

学長  伊藤 正直

4月 会計・帳簿・簿記

家計簿は、家庭におけるお金の出入りを記録し管理するものですが、お金の出入りをきちんと把握することが必要なのは、家計に限りません。企業も政府も同様です。というか、そもそも国家が形成されると、住民の管理に始まり、税の調達と運用、家畜や穀物、鉱物の管理・保管など、それぞれの管理と記録が必要になります。商業や貿易に従事する人々が登場しその組織ができれば、商品・資金の管理と記録が必要になります。このように経済活動は、そのほぼすべてに、モノやサービスの出入り、それに伴うお金の出入りがあります。それを記録し管理する行為を会計(accounting)といい、記録し管理する台帳が帳簿(account book)であり、記録し管理する手法が簿記(bookkeeping)です。

会計を辞書で引くと、「①金銭・物品の出納の記録・計算・管理。また、その担当者。②企業の財政状態と経営成績を取引記録に基づいて明らかにし、その結果を報告する一連の手続き、また、その技術や制度。企業会計。③官庁組織の単年度の収支を予算との対比で把握する予算・決算。また、その技術・制度・単位。官庁会計。④飲食店などで代金を勘定して支払うこと」と出てきます。帳簿・簿記については、「帳簿 事務上の必要事項を記入するための帳面」、「簿記 特定の経済主体の経済活動を主として貨幣金額によって捉え、その主体が所有・管理する財産の変動を帳簿に記録・計算する技法。記帳方法により単式と複式に分かれる」と出てきます。では、会計という考え方、帳簿という記録手段、簿記という記録方法は、人類の歴史のなかで、いつ頃登場したのでしょう。

古代エジプトではパピルスが、メソポタミアでは粘土板が、古代中国では獣骨や竹簡・木簡が、帳簿として使われていました。例えば、メソポタミアでは「契約、倉庫、取引の記録が作成されており、パン屋の在庫台帳などが残っている」とのことです(ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』文春文庫、2018年、原著刊行年は2014年)。日本では、7世紀以降の律令制時代に定められた租庸調の税制に基づいて、租については正税帳という決算報告書、庸調については調庸帳という納税報告書が作られていました(丸山裕美子『正倉院文書の世界』中公新書、2010年)。かなり古くから帳簿が存在していたことがわかります。

帳簿への記帳は、いずれも今の言葉でいえば単式簿記の方法でなされていました。現在では、「古代メソポタミア、イスラエル、エジプト、中国、ギリシャ、ローマで単式簿記が実践されていた」ことがわかっているそうです(ジェイコブ・ソール、同上)。単式簿記とは、現金などの科目をその出入りに従って、そのまま記録していく方法のことです。家計簿や小遣い帳などがその代表です。しかし、現在、ほぼすべての企業の会計は、複式簿記の手法によって行われています。そして、これに基づいて、期末に貸借対照表(BS)と損益計算書(PL)を作成し、決算の時点で、どの程度の資産と負債があるのか(BS)、期間中にどのくらい利益を上げ、それにどのくらいの費用を要したのか(PL)を公表します。資金の収支だけでなく、全体としての財産の状態と損益の状態とを把握することが必要だからです。

単式簿記では、これがわかりません。例えば、50万円で海外旅行をした場合と、中古軽自動車を購入した場合では、前者では物的には何も残りません(精神的な満足や知的充足などは別にして)が、後者では自動車という物的資産が残ります。資金収支に対応する資産負債の状態を把握するためには、複式簿記が絶対に必要なのです。では、複式簿記という手法が開発されたのはいつごろでしょうか、単式簿記から複式簿記への移行はいつごろ行われたのでしょうか。

これについては諸説ありますが、最近の研究では、13世紀末から14世紀初頭のイタリアの都市国家、フィレンツェ、ヴェネツィア、ジェノバなどでの商人たちの貿易活動にその起源を求めることが通説です。イタリア商人たちが組成した共同組合が、13世紀には、貿易商・両替商・銀行を組織したコンパーニアに発展し、コンパーニアのメンバー間で利益の計算と分配をするための損益計算が求められます。さらに、14世紀にはヨーロッパ全域にこのコンパーニアが多拠点化することで、本支店の財務的な統括、支店ごとの損益と全体の損益、決算時点における資産と負債の状況が求められるようになります。こうして取引の全体と決算時点における財産の状態を一括して把握する手法が広く要請されるようになりました。いわゆる複式簿記の誕生です(橋本寿哉2015年、片岡泰彦2018年)。

この複式簿記を最初に理論化したのは、数学者ルカ・パチョーリの『算術、幾何、比及び比例全書』(略称、『スムマ』、1494年刊行)でした。『スムマ』には、「資産と負債を常に把握するための方法が説明されて」おり、「商人は会計の第一歩として資産の棚卸しを行い、財産目録を作成しなければならない。家屋敷、土地から、宝石類、現金、家具、銀器、リネン類、毛皮類から香辛料その他の商品にいたるまで、すべて書き出す。これが財産目録である。あとは、支出と収入を毎日帳簿につけていけばよい。帳簿は財産目録のほかに、日記帳、仕訳帳、そして元帳が必要となる」というのです。『スムマ』の簿記論の部分には「帳簿の構成から各種会計、決算というふうに簿記の基本的手順が説明されて」います(ジェイコブ・ソール、同上)。

しかし、残念ながら、この時点では、パチョーリの『スムマ』は普及することはありませんでした。『スムマ』が日の目を見たのは16世紀のオランダで、アントワープ、次いでアムステルダムが世界貿易の中心地となってからのことでした。複式簿記を教える会計学校がアムステルダムに相次いで設立され、『スムマ』をもとにしたオランダ語の『新しい手引』が出版され、この「手引き」がフランス語、英語にも翻訳されて、フランス、イギリス、ドイツでも広く読まれるようになりました。

その後、18世紀の産業革命によって、多くの企業が誕生し、株式会社が大規模化するなかで、株主も大人数となり、株主に、資産負債の現状と利益と費用の状況を説明することが要求されるようになります。こうして貸借対照表(BS)と損益計算書(PL)が作成されるようになりました。もっとも初期のBSとPLはイングランド銀行、イギリス東インド会社のものといわれています。

複式簿記の発生史は、投資家や株主からみると会計の透明性を求めるプロセスであり、起業家、経営者の側からみると、経営戦略を立て、経営組織のあり方を検討する手段であったことがわかります。現在でも、粉飾決算、帳簿の書き換えなどが、しばしば話題となります。複式簿記を理解することは、そうした問題を見抜くための第一歩でもあります。

学長  伊藤 正直

2022年度

3月 『三千円の使いかた』、家計簿、家計調査

原田ひ香『三千円の使いかた』(中公文庫、2021)、垣谷美雨『老後の資金がありません』(中公文庫、2018)など、女性と家計をめぐる小説-家計応援小説といってもいいかもしれません-がよく読まれているようです。テレビドラマや映画にもなりました。80万部を超えるベストセラーになっている『三千円の使いかた』の裏表紙には、次のような解説があります。「就職して理想の一人暮らしをはじめた美帆(貯金三十万)、結婚前は証券会社勤務だった姉・真帆(貯金六百万)。習い事に熱心で向上心の高い母・智子(貯金百万弱)。そして一千万円を貯めた祖母・琴子。御厨(みくりや)家の女性たちは人生の節目とピンチを乗り越えるため、お金をどう貯めて、どう使うのか?」。『老後の資金がありません』の方は次のとおり。「老後は安泰のはずだったのに!家族の結婚、葬儀、失職‥‥降りかかる金難に篤子の奮闘は報われるのか?“フツーの主婦”が頑張る家計応援小説」。

『三千円の使いかた』の各話のタイトルは、「第1話 三千円の使いかた 第2話 七十三歳のハローワーク 第3話 目指せ!貯金一千万! 第4話 費用対効果 第5話 熟年離婚の経済学 第6話 節約家の人々」です。各話では、24歳の美帆、29歳の真帆、55歳の智子、73歳の琴子という御厨家3代の女性たちがそれぞれ主人公となり、各人の人間関係と生活設計およびそれにともなうお金のやりくりが描かれます。

物語に出てくるさまざまな出来事は、いずれも身近にありそうであり、生活感にあふれています。本書に登場する男性はおおむね影の薄い存在で、登場する女性たちは、家計の管理者であるとともに世帯の主宰者、生活設計の主体となっています。その意味では、高度成長期の日本型標準家族に支えられた性別役割分業(=「男は仕事、女は家庭」)というジェンダー規範を克服しようとする現在に対応しているのかもしれません。あるいは、そこから離脱しきっていない過渡期の産物なのかもしれません。家計の管理者という関連からか、本書には折に触れて「家計簿」が登場します。少し引用してみます。

「年金生活になる前、琴子はとても不安だった。しかし、本屋に行ったら、ちゃんと『高年生活の家計簿』をはじめ「年金家計簿」がそろっていてほっとした。‥‥『高年生活の家計簿』は日本で家計簿を最初に作った、羽仁もと子の家計簿が元となっており、その見慣れた表紙に、「さすが羽仁先生」と心強く感じた。」(第2話)
「家計簿の歴史は一九〇四年、明治三十七年の、羽仁もと子氏監修、婦人之友社から出版されたものが最初である。羽仁もと子氏は雑誌『婦人之友』にも『家政問答』という読者の家計悩み相談のようなものを寄稿していたらしい。」(第2話)
「結婚当初、義母に、羽仁もと子先生の「家計簿」を手渡され、「特にけちけちしなくてもいいから、使ったお金くらいは書き留めて行くといいわよ」とアドバイスされた。」(第5話)。

この引用にあるように、家計簿は、婦人之友社や自由学園の創立者である羽仁もと子が、1904(明治37)年に創案したもので、現在も、『羽仁もと子案 家計簿』として刊行され続けています。家計簿は記入の規則があるわけではないので、さまざまの様式が存在します。羽仁もと子家計簿の特徴は、「予算」のあることとされています。「予算」を基礎に、費目ごとに支出を記帳することで、「家庭の経済を健全にし、真に確かなものとする」、そのことを通じて日々の「生活を問い直す力」をつけていく、これが羽仁もと子家計簿の特徴だというのです。敗戦後の1946(昭和21)年6月、雑誌『婦人之友』は「家計簿をつけ通す同盟をつくりませんか」と呼びかけ、以後、同盟会員は、毎月家計簿の数字を『婦人之友』に送り続けることになります。集計数字は、その後半世紀にわたって『婦人之友』に掲載され、同盟会員の「生活の質の向上」に寄与したとされています。

じつは、家計簿は家計調査にも使われています。家計調査は、「全国の世帯の収入や支出、貯蓄・負債を調査し、社会・経済政策のための基礎資料を提供する」(総務省統計局)ことを目的に行われているものです。家計調査は、戦前も、「社会問題解決のための基礎資料を得ることを目的」に、内閣府統計局によって行われていましたが、現在のような方式で調査が行われるようになったのは、戦後1946(昭和21)年からのことです。最初は、GHQの指令に基づいて「消費者価格調査」として始まり、1953(昭和28)年から名称が「家計調査」となりました。その後、調査世帯数、調査市町村数を拡大したり(1962年)、費目分類を変えたり(1981年)、単身世帯の調査を始めたり(1995年)、調査項目を拡充したり(2002年)といった改訂を行って、現在に至っています。

調査は、標本調査で、層化3段抽出法という方式をとっています。まず、国勢調査の結果を使って全国市町村から168の市町村を選び、次にその中から1,400の調査地区を選び、さらに調査地区から9,000世帯を選びます。この9,000世帯に、家計簿と、年間収入調査票、世帯票、貯蓄等調査票を配り、これに記入してもらいます。家計簿は、2人以上の世帯は6カ月間、単身世帯は3カ月間、毎日継続して記入し、調査員が半月ごとに回収します。

家計調査に使う家計簿は、一般に使われている家計簿といくつかの点で異なっています。大きな違いの第一は、費目分類がなく1件ごとにすべてを記載すること、違いの第二は、一部の品目について、支出金額だけでなく購入数量も記入することです。調査に選ばれた世帯は大変な作業を毎日行うことになりますが、回収した膨大な調査票は月2回総務省統計局に送られて集計され、「家計調査報告」(月報)、「家計調査年報」として公表されます。

こうして公表された家計調査は、消費者物価指数作成のためのウエイト算出に利用されるほか、税率や所得控除、生活保護基準や各種年金・医療制度などの経済政策の基礎資料、需要予測、給与ベースの算定、国民経済計算、公共料金の改定など、幅広く利用されています。

ただ、家計あるいは家計調査は、現在、新しい課題に直面しています。ダブルインカムのひろがり、住宅ローンや保険といった家計の長期化、カード払いの普及による支出と収入の時間的乖離、介護サービス・保育サービスなどこれまで私的労働であった領域の市場化=費用化、そして高齢社会。家計のあり方そのものが大きく変化している現状のもとでは、個別の家計管理も、政府による家計調査も新たな方法と工夫が求められているといえましょう。

学長  伊藤 正直

2月 ファンタジーの語りと読書の楽しみ

数年前ですが、『戦後文学のみた<高度成長>』(吉川弘文館、2020)という本を書きました。「高度成長期に書かれた文芸、それも小説が、同時代の経済発展や経済システムをどのように捉えていたのかを検討してみたい」というのが、執筆の動機でした。私の専門は経済学で、金融政策や国際金融の歴史と現状の分析が主たる対象です。ですから、上の本のような領域は、どちらかといえば専門外なのですが、高度成長が同時代の文学者の目にどのように映っていたのかを抽出することを通して、マクロの構造分析からは抜け落ちた高度成長の姿を少しでもよいから可視化してみたいと考えたのでした。

しかし、そもそも、なぜ私たちは小説を読むのでしょうか。動機はさまざまでしょうが、小説を読むことを通して、そこでの登場人物の思考や行動に共感したり反発したりしながら、そして、それと比較しながら、自分は何者であるかを知りたい、自己認識のための読書でしょうか。もうひとつは、小説が描く社会、それは国、地域、会社、家庭といったさまざまな集団、あるいは、そこでの政治活動、経済活動、社会活動、海外活動といった活動領域を知ることを通して、自分が今どのような社会に生きているのか、どこから来てどこへ行くのかを知りたい、こちらは社会認識のための読書でしょうか。

もっとも、こうした小難しい理屈を頭において、小説を読む人は誰もいないでしょう。小説を読むことが愉楽であるから、あるいは娯楽であるから、人は小説を読むのでしょう。言い方を変えると、小説を読むということは、自分の実生活では経験できない、日々の生活とは全く異なったもうひとつの人生を生きる、自己の精神活動のありようを自然との関係、社会との関係、対人関係などから再確認する、ということではないでしょうか。

昨年末、アニメ映画「すずめの戸締まり」を観て、それに触発されて、ジョーゼフ・キャンベルの『神話の力』や『千の顔をもつ英雄』を読み直す中で、連想したのは、梨木香歩の一連の小説でした。梨木は、『西の魔女が死んだ』や『裏庭』など、児童文学者として作家生活をスタートさせ、その後、自然と人間との交歓を柱にしたエッセイや小説を、数多く書き継いでいます。『裏庭』は、ひとりの少女が、英国人一家の元別荘の玄関奥にある大鏡から秘密の「裏庭」の別世界に入りこみ、そこから帰還するという、まさに典型的な神話構造の物語でした。ただし、ここで取り上げたいのは、そうした児童文学の世界ではなく、『家守綺譚』(新潮社、2004)、『冬虫夏草』(新潮社、2013)、『村田エフェンディ滞土録』(角川書店、2004)です。

『家守綺譚』と『冬虫夏草』は、続きもので、共に表紙裏に「左(さ)は学士綿貫征四郎(わたぬきせいしろう)の著述せしもの」という題言があります。『村田エフェンディ滞土録』にはそうした題言はありませんが、考古学研究者としてトルコ政府に招聘された綿貫の友人村田の叙述という形式をとっています。『家守綺譚』と『冬虫夏草』は、歴史小説とも怪異譚とも身辺雑記とも風土記ともとれる、とても不思議な味わいの小説です。『村田エフェンディ滞土録』は、この不思議な世界を、オスマン帝国の解体とトルコ共和国樹立前夜という現実世界での滞在記録の叙述によって、現実につなぎとめる役割を果たしています。

『家守綺譚』の文庫本裏表紙には、次のような解説があります。「本書は、百年まえ、天地自然の「気」たちと、文明の進歩とやらに今ひとつ掉さしかねている新米精神労働者の「私」=綿貫征四郎と、庭つき池つき電燈つき二階家との、のびやかな交歓の記録である」と。時代は1900年前後、場所は京都山科と思しきあたり、主人公は駆け出しの物書きで、漱石風の清澄な文体によるエッセイが24の掌編から綴られ、そのすべてに草木のタイトルがつけられています。

物語は、早世した学友高堂の実家に綿貫が「家守」として住み込むことから始まります。ある日、床の間の掛け軸から高堂が登場し、庭のサルスベリがお前に懸想していると告げます。そして、商店街から綿貫に付いてきた犬をゴローと名付け、このゴローは次第に綿貫の精神の支え手となっていきます。人に化けた狸を助けたり、仔竜や小鬼や河童や人魚が登場したり、四季の自然の移ろいにじっくりと浸りつつ、征四郎の日々が過ぎていきます。

本書の最後「葡萄」では、ゴローを追って、湖底の別世界に紛れ込んだ綿貫が、「此処にいればいいではないですか。‥‥心穏やかに、美しい風景だけを眺め、品格の高いものとだけ言葉を交わして暮らして行けます。何も俗世に戻って。卑しい性根の俗物たちと関わりあって自分の気分まで下司に染まってゆくような思いをすることはありません」といわれたのに対し、「それは理想の生活ではないかと。だが結局、その優雅が私の性分に合わんのです。私は与えられる理想より、刻苦して自力で掴む理想を求めているのだ。こういう生活は、私の精神を養わない」と答えるのです。ここには、「出立-イニシエーション-帰還」という成熟の物語とは、全く異なった世界、別世界や別の生き方があることを承認しつつも、現実の世界に綿貫独自の関わり方で存続し続けようという精神のありようがくっきりと示されています。

続編の『冬虫夏草』も39の掌編からなり、同じくそのすべてに草木のタイトルがつけられています。こちらでは、綿貫は、しばらく前から姿を消したゴローを探すため、鈴鹿の山中に旅に出ます。友人の菌類学者南川から、ゴローらしき犬を鈴鹿の山中でみたと聞いたためです。東海道線の能登川駅から、愛知川(えちがわ)沿いに遡行していく旅が丁寧に描かれ、森や山野草の美しさが際立っています。『家守綺譚』同様、山村の人々や木地師だけでなく、河童や天狗やお産で亡くなった若妻や宿を営むイワナの夫婦が登場し、綿貫はそれらと自然体で接していきます。ゴローは綿貫にとって不可欠の存在となっており、「畜生といえどもその人望は私のそれをはるかに凌駕し、周囲に絶大なる信頼と親愛の垣を築いた」、「人を見て恐れず、それを侮らず、己が必要とされればその役割に応えんと誠実のかぎりをつくす。‥‥威張らず、威嚇せず、平和を好むが、守るべきものがあれば雄々しく立ち向かう。友情に篤く、その献身は、かけがえがない」とまで、綿貫にいわせています。本書の最後「茅」でのゴローと綿貫の再会は感動的です。

『村田エフェンディ滞土録』は、村田のトルコ滞在中の家主や同宿人やその友人のトルコ革命を目指す青年革命家たちとの交流の物語ですが、革命派の女性から渡された親指ほどの紅の玉(=サラマンドラ、火竜)を、帰国後に高堂に渡すことで、『家守綺譚』、『冬虫夏草』とつながり、話が結構します。

梨木は、「人の存在の深く底流を流れている、水脈のようなものに繋がる隙間」、「ひたひたひたって、浸透圧のようにやってくる、その気配とか雰囲気とか、何か這ってくる感じとかを、何とかして言葉というあてにならないものを使って作れないか」と、自らの創作の意図を語っています(梨木香歩『物語のものがたり』岩波書店、2021)。その達成をともに楽しみたいと思います。

学長  伊藤 正直

1月 神話空間あるいは「行きて帰りし物語」

『古事記』は、奈良時代の初めすなわち8世紀初めころに書かれた日本最古の書物です。稗田の阿禮(ひえだのあれ)の口誦(こうしょう)を太の安萬侶(おおのやすまろ)が筆録することで成り立ったとされています。上巻、中巻、下巻の3巻からなり、上巻は、天地の初めから神々が地上に降り立つまで、中巻は、神武天皇から應神天皇までで、その国土が天皇の天下として確立するプロセス、下巻は仁徳天皇から推古天皇までで、天皇の地位をめぐる宮廷内部のさまざまの争いが描かれています。上巻は神々の物語、中巻は神々と人との物語、下巻は、天皇を中心とする人の物語といっていいでしょう。神話世界と現実世界をつなぐ物語といえるかもしれません。

奈良時代初期は、日本がようやく国家組織を整え、中央政府の権力を確立していく時期でした。その正統性を表明すること、すなわち、天皇家の祖先が地上に降り、国譲りを受けて天下を統治するに至った経緯を叙述することで、支配の正統性を主張することに、『古事記』の主眼が置かれています。そのために、当時語られていたさまざまの伝承神話が、組み替えられ、再構成されて、物語に組み入れられています。

『古事記』の上巻は神話世界で、始まりは、天地創造と神々の出現です。最初のところの原文をみると、次のようになっています。「天地初めて発れしに、高天原に成れる神の名は、天之御中主神《アメノミナカヌシノカミ》。次に高御産巣日神《タカミムスヒノカミ》。次に神産巣日神《カムムスヒノカミ》。此の三柱の神は、並に独神と成り坐して、身を隱しき」(神野志隆光訳)。まず、天が高天原として現れた時、3人の神が出現します。

続いて、地上世界が、まだ未分化で「浮ける脂」のようで、「くらげが漂う」ようであったときに、「葦牙(あしかび)が萠えあがるように」2人の神が出現します。宇摩志阿斯訶備比古遲神《ウマシアシカビヒコヂノカミ》と天常立神《アメノトコタチノカミ》です。その後も、次々に神が出現し、最後に伊耶那岐神《イザナキノカミ》と伊耶那美神《イザナミノカミ》が出現して、高天原の神が出揃います。このイザナキとイザナミが「天降」って、クラゲのように漂っていた地上世界は、徐々に陸地がきちんと分かれた地上世界となります。

ここからは、よく知られた物語が次々に登場します。まず、天降ったイザナキとイザナミは島々を作り、続いて神々を作ります。神々の最後に火の神を産んだためにイザナミは死んでしまい、死んだイザナミに会いにイザナキは黄泉国に行きます。国づくりが途中なので、イザナミを呼びもどそうというのです。ところが、うじがたかり溶けかかった姿となったイザナミを見て恐れたイザナキは黄泉国から逃げ出し、それをイザナミが追いかけます。逃走譚です。「逃げる、追う、逃げる、追う」の繰り返しの末、最後に「千引の岩」が黄泉国との境を塞ぎ、イザナキは逃げ切ります。逃げ還ったイザナキは禊(みそぎ)をして、再び神々が成り、その最後に、アマテラス・ツクヨミ・スサノヲの3貴子が生まれます。

禊(みそぎ)の後の話の流れは、「天に坐々《マシマシ》て照り賜う」アマテラスと「荒ぶる神」スサノオの対抗、アマテラスの岩屋ごもりとアメノウズメの踊りによる帰還、スサノオの高天原からの追放と食物起源および出雲でのヤマタノオロチ退治、スサノオの系譜をひくオオクニヌシによる葦原中国《アシハラナカツクニ》の完成、アマテラスの命を受け3種の神器を授かって「天降り」するニニギとオオクニヌシの国譲りと続きます。

『古事記』で描かれている神話世界とは、以上のようなものです。天上世界と地上世界、黄泉国・根の国・常世の国と葦原中国、光の世界と闇の世界、こうした2つの世界の往還が繰り返し現れます。じつは、こうした2つの世界の往還は、決して、倭=日本古来に限られるものではありません。世界中に共通して存在する物語です。例えば、冥界と現実世界との往還は、ニュージーランド・マオリ族の神話にもありますし、オロチを退治して娘と結婚するというのは、ギリシャ神話のペルセウス・アンドロメダ物語と同型です。スサノオがオホゲツヒメを殺し、その体から五穀や蚕がもたらされるという物語も、世界各地にみられる話型です。

ギリシャ、インド、ネイティブ・アメリカン、中国、日本、ミクロネシア、南米。遠く離れた地域、民族、時代にもかかわらず、世界各地の神話には、共通する物語が含まれています。とりわけ、2つの世界の往還の物語は、すべての神話に必ず登場します。世界中の神話を蒐集・分析して、この2つの世界の往還の共通パターンを、「出立-イニシエーション-帰還」の構造として抽出したのは、比較神話学者のジョーゼフ・キャンベルでした(『千の顔をもつ英雄』上・下、ハヤカワ文庫、2015年、原著刊行年は1949年)。

キャンベルは、「普通の人の運命を運んでくる世界の象徴的な使者の物語」は冒険として語られるとして、出立を「冒険への召命-召命拒否-自然力を超越した力の助け-境界越え-闇の王国への道」、イニシエーションを「試練の道-女神との遭遇-誘惑する女-父親との一体化-神格化-究極の恵み」、帰還を「帰還の拒絶-魔術による逃走-外からの救出-境界越え-二つの世界の導士-生きる自由」と、分節化して説いています。「個人の成長-依存から脱して、成人になり、成熟の域を通って出口に達する。そして、この社会との関わり方、また、この社会の自然界や宇宙との関わり方。それをすべての神話は語ってきた」というのです(『神話の力』ハヤカワ文庫、2010年、原著刊行年は1988年)。

このキャンベルの発見は、神話学の枠を越えて、様々な分野に大きな影響を与えました。ハリウッド映画やディズニー・アニメの多くは、このキャンベルのフレームに基づいて作成されたし、ジョージ・ルーカスは「スター・ウォーズ創造のインスピレーション」は、キャンベルから与えられたと明言しています。「マトリックス」や「ハリー・ポッター・シリーズ」も同様でしょう。日本のアニメ、例えば、ジブリの作品、あるいは新海誠の「君の名は」「天気の子」「すずめの戸締まり」にも、この神話構造がみられます。「すずめの戸締まり」の主人公が岩戸鈴芽(すずめ)と名付けられているのも、アメノウズメを連想させます。

キャンベルは、神話は「生活の知恵の物語」「人間生活の精神的な可能性を探るかぎ」と語っています。神話が語る世界は、私たちの精神の旅の写し鏡でもあります。私たちがどう生きるか、生きるべきかという問いを投げかけているともいえます。ときには、映画やアニメをこうした視点から観なおしてみたらどうでしょう。

学長  伊藤 正直

12月 自画像・セルフポートレイト・自撮り

「自画像」という言葉から何を連想しますか?と質問されたら、まず出てくる答えは洋画ではないでしょうか。ゴッホの《包帯をしてパイプをくわえた自画像》はあまりにも有名ですし、ゴッホから交換を依頼されてゴーギャンが描いた《自画像 レ・ミゼラブル》もよく知られています。日本の近代洋画家、青木繁、萬鐵五郎、小出楢重、岸田劉生、藤田嗣治を思い浮かべる人もいるかもしれません。「セルフポートレイト」というと、これに写真が加わります。洋画ほどは知られていないかもしれませんが、マン・レイやアンディ・ウォーホルくらいは思いつくでしょう。写真に詳しい人なら、クリスチャン・ボルタンスキーやシンディ・シャーマン、日本ですと、最近では森村泰昌でしょう。「自撮り」(selfie)から連想するのは、人の名前ではなく、Instagram、TikTok、Twitter、LINEなどのSNSでしょうか。

人はなぜ自画像を描くのか、セルフポートレイトを撮るのか、自撮りするのか。絵画で描かれた独立した自画像は、画家にとっては最も自己言及的な表現といえます。自分とはいったい何者であるのかという自己認識のための自画像、社会の中での自分の社会的地位を確認するための自画像、あるいは社会に対する自己アピールのための自画像、あるいはモデル代わりの自画像。15世紀に始まった西洋絵画における独立した自画像は、美術史の側からだけでなく、美学、哲学、精神分析、現代思想など、さまざまに論じられてきました(三浦篤『自画像の美術史』東京大学出版会、2003年)。

これまで内外の自画像をかなり観てきましたが、最も強烈な印象を受けたのは、レンブラントでした。1999年の夏、当時滞在中だったロンドンで、「レンブラントの自画像展」というタイトルの展覧会がナショナル・ギャラリーで開催され、そこで若年から晩年までの数多くのレンブラントの自画像を観ました。ちなみに、ナショナル・ギャラリーのすぐ北には、ナショナル・ポートレイト・ギャラリーがあり、イギリスの歴史上の人物から最近の俳優までの肖像画が、1,300点以上展示されています。肖像画好きのお国柄なのでしょう。

レンブラントといえば《夜警》が有名ですが、彼ほど、生涯にわたって多くの自画像を描き続けた画家は他にはいないのではないでしょうか。レンブラントの自画像は、油彩とエッチングだけで75点を超しており、その他の素描なども含めれば100点以上に上ります。レンブラントは、なぜこれほど多くの自画像を描き続けたのでしょう。

若い頃の作品は、社会に自己をアピールするというよりは、画法技術の探求という面が強いように思われます。例えば、1628年の《青年としての自画像》には、レンブラントの特徴とされる粗描きと平滑描写が、すでにくっきりと表れていますし、1630年の《目を見開いた「自画像」》は、鏡に映した自分の表情研究の産物です。

中期以降になると、制作の目的は変わってきます。17世紀オランダの市民階級では、自宅に肖像画を飾ることが流行になります。アムステルダムに移住したレンブラントは、町一番の人気肖像画家となり、とても一人では描ききれないため、レンブラント工房を立ち上げ、多くの弟子たちに注文肖像画を描かせるようになります。《鍔広帽をかぶった自画像》や《石の手すりにもたれた自画像》は、富裕なオランダ市民階級の服装、あるいは彼らが理想とする服装を身にまとっています。演技する自己=顧客向けの作品といってよいかもしれません。

晩年には、さらに自画像は変遷を遂げます。《イーゼルのある自画像》や《二つの円を伴う自画像》は、ともにパレットと絵筆を手にした画家の姿で、頭に絵の具を避けるための白い帽子をかぶっています。いずれも破産申告の後に描かれたものので、その表情は、深い自己省察であり、画家としての生涯宣言であったとみることもできます。

森村泰昌は、画家にとっての特権的領域である自画像の意味と意義の捉え直しを、自画像を描いた画家に扮したセルフポートレイト写真を製作することにより続けてきました。1985年にゴッホに扮するセルフポートレイト写真でデビューして以来、西洋美術にとどまらず、ピンナップや報道写真にまで入り込み、内外の女優に扮するところまで踏み込んで、自画像についての従来の美術史的把握の見直しを主張し続けてきました。

2016年に国立国際美術館で開催された森村泰昌展は、その集大成ともいうべきもので、そこで発表された映像を、森村泰昌『自画像の告白 「私」と「わたし」が出会うとき』(筑摩書房、2016年)として出版しています。森村が扮したのは、レオナルド・ダ・ヴィンチに始まり、レンブラント、デューラー、ゴッホ、フリーダ・カーロ、アンディ・ウォーホル他の11名プラス森村自身で、画家の「私」に森村の「わたし」が聞き取りをするという構成になっています。一方での画家の自画像という特権性や身体性への問い直し、他方における写真加工技術や編集可能性の拡大による個別性・身体性の喪失という現在への批評、この両者をつなぐ境界領域に森村セルフポートレイトは立っているように思われます。

いまや自撮りは花盛りです。InstagramやTikTokを覗けば、自撮り画像や自撮り動画があふれています。しかし、そこでの自撮りは、画家の自画像とも写真家のセルフポートレイトとも、まったく異なっています。以前にも少し書きましたが、この転換は1995年のプリント倶楽部(プリクラ)の登場にありました。通称プリクラは、1998年にはデジタル画像処理が可能となり、白い肌、つや髪などの画像偽装、さらに2007年には「デカ目」も可能となります。プリクラシールに、自分ではない「自分」が現れるのです。

スマホの普及とともに、自撮りは急拡大し、デジタル処理による「盛り」や「キャラ」が当たり前となります。自撮りのほとんどは、記録というよりは、SNSなどに公開する目的で撮られます。承認欲求の一種といってもいいのですが、ありのままの私を承認してほしいということではありません。コミュニケーション欲求といっても日常のコミュニケーションを要求しているわけでもありません。ネット上の疑似的な社会関係のなかでの承認欲求であり、コミュニケーション欲求ということができます。自画像からセルフィーへの展開は、自己と他者、自己と社会の関係の問い直しを、改めて要請しているようです。

学長  伊藤 正直

11月 国際農産物流通とアグリビジネス

ファミレス、ハンバーガー、牛丼、カップヌードルなどのファストフードが急速に広がる一方、SNSや雑誌を通したフレンチ、イタリアン、和食、エスニックなどの店舗紹介も花盛りです。こうした豊かな―ひょっとすると貧しい―日本の食生活は、世界中から集められた材料や加工品によって支えられています。

よく知られているように、日本の食料自給率はこの50年間低下を続けており(1965年73%→2021年38%、カロリー・ベース)、現在ではG7のなかで最低の水準にあります。ちなみに、2019年のG7食料自給率をみると、カナダ233%、フランス131%、アメリカ121%、ドイツ84%、イギリス70%、イタリア58%、日本38%で、日本の自給率は突出して低くなっています(農水省調べ)。国際的な農産物流通の動向に左右される度合いが一番高いのが、日本の食の現状といっていいでしょう。

この国際農産物流通を担っているのは誰かといえば、多国籍アグリビジネスと称される多国籍企業です。アグリビジネスという言葉がはじめて使われたのは、じつはかなり古く、1957年に、ハーバード大学のゴールドバーグ教授が提唱しました。食料生産から農機具・農薬製造、食品加工・販売までを取り扱う組織体のことを指す言葉でした。その後、半世紀以上を経るなかで、このアグリビジネスの力は、弱まるどころか、むしろ強まり続けています。

多国籍アグリビジネスは、およそ3つのタイプに分けられます。第1は、主として穀物貿易を担う穀物メジャーです。穀物のなかでもとくに小麦は貿易に回される比率が高い商品で、輸出国は、アメリカ、カナダ、EU、ロシアなどの先進国、輸入国は、東南アジア、中東、エジプト、中国などで、「北から南」に商品が流れます。パン食の拡大によって、日本の小麦輸入量も傾向的に増大しています。日本の2021年小麦流通量は、国産82万トン、輸入488万トンで、9割近くを輸入に依存しています。輸入元は、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどですが、ロシアのウクライナ侵攻により、ロシアやウクライナの小麦輸出量が大幅に縮小し、その結果として小麦価格の高騰を招いています。

小麦流通のほとんどは穀物メジャーが占有して取り扱っています。カーギル(米)、ルイドレフュス(スイス)、ADM(米)、ブンゲ(米)などが代表的穀物メジャーで、この4社の頭文字をとってABCDともいわれています。米系企業の地位が圧倒的でしたが、最近では、コフコ(中国)、ウィルマ―インターナショナル(シンガポール)、全農(日本)などが、取扱量を伸ばしています。また、トウモロコシについては、アメリカが、コーンエタノールの自動車燃料への混合=消費量義務付け(2005年エネルギー政策法)を行って以来、その価格が急騰し、穀物メジャーの重要な収益源となりました。トウモロコシは、アメリカが最大の生産国であるとともに消費国で、米系企業が価格支配力を持っていますが、こちらも、最近ではシンガポール系企業、日系企業などが参入するようになりました。

第2のタイプは、熱帯産農産物、コーヒー、ココア、天然ゴム、砂糖、バナナなどの貿易を担う多国籍企業で、商品は、穀物とは逆に「南から北」へ流れます。輸出比率は極めて高く、例えばコーヒーでは、ブラジル、ベトナム、コロンビア、インドネシア、エチオピアが5大生産国ですが、生産量の約4分の3が輸出に回されています。ネスレ、フィリップ・モリス、ユニリーバ、T&Lなどが代表的企業で、最大の食品・飲料会社であるネスレは、従業員35万人を擁し、世界85カ国で製品を販売し、914.3億スイスフラン(13.5兆円)の売上を算しています(2020年)。ネスレの歴史はかなり古く、日本に支社ができたのは1913(大正2)年のことでした。

第3のタイプは、付加価値型の農産物貿易を担う多国籍企業で、牛肉・オレンジ・りんご・果物ジュースなど、「北から北」プラス「南から北」の複合的流れをもち、いずれも米系企業ですが、ドール、チキータ、RJRナビスコなどが代表的です。例えば、ドールは、世界最大の青果物メジャーといわれ、北米、南米、アジア、ヨーロッパなど世界90カ国以上でバナナやパイナップルおよびフルーツの加工流通を展開しています。日本でもバナナで有名ですが、2013年に、「アジアにおける青果物事業とグローバル展開する加工食品事業」部門を伊藤忠商事に売却しました。

このような国際農産物流通の多国籍アグリビジネスによる統合は、生産者からアグリビジネス企業への富の移転をもたらします。例えば、穀物メジャーのカーギルは自前の人工衛星を駆使して世界中の生産地の天候をチェックするなど、高い情報収集力を行使して、需給や価格の変動そのものを支配しています。収穫期の異なるさまざまな生産地から穀物を調達できるため、安定した供給力を確保でき、価格支配力は一層高まります。

また、多国籍アグリビジネスによる統合は、世界規模での食の嗜好の共通化・均一化を生み出しています。ファストフードは世界的に広がっており、国によって多少のバラエティは付加しても、ベースとなる味覚は世界同一となります。テイクアウトの拡大は、食品ロス増大の大きな要因となります。農水省調査(令和2年度)によれば、日本の食品ロス量は年間522万t、国民一人当たりでみると年間41㎏、米の年間消費量とほぼ同量を捨てる水準まで達しています。

より深刻な問題は、多国籍アグリビジネスの展開が、ニューバイオテクノロジーの積極的導入による育種の企業化を生み、遺伝子組換えによるハイブリッド種の独占=農民的育種の衰退・消滅をもたらし、ポストハーベストなどの問題も引き起こしていることです。農業は、利益のための投資対象となり、農業そのものが持つ自然的価値・社会的価値を弱体化させていくことになります。地産地消、スローフード、フェアトレード、地域コミュニティなどが語られるのは、こうした事態の進行への対抗でしょう。健康や生活環境、食文化をどのように守るかが改めて問われています。

学長  伊藤 正直

10月 「主食」は変わるか?

農林水産省の定義では、主食とは「人々が日常的にもっとも多く利用する食べ物のこと」で、代表的な主食としては、「米」「パン(小麦)」「ジャガイモ」「トウモロコシ」「豆」などがあります。主食は、それぞれの土地の気候や風土に沿って栽培しやすい穀物がなることが多く、アジアでは「米」、ヨーロッパでは「小麦」が代表的です。ただし、アフリカや南米の多くの地域では、「豆」や「イモ」が主食となっています。

日本の主食は、いうまでもなく米です。米は、生産も消費も圧倒的にアジアで、米の世界総生産量に占める輸出量の割合は僅か7%程度、貿易商品としてはthin market(薄く小さい市場)といわれています。FAO(国連食糧農業機関)のデータ(2019年)から、世界の米生産量、消費量を国別にみると、年間生産量上位5位は、中国、バングラデシュ、ベトナム、インドネシア、タイ、1人当たり年間消費量上位5位は、バングラデシュ、カンボジア、ラオス、ベトナム、ミャンマーです。日本の年間生産量は中国の20分の1以下、1人当たり年間消費量はバングラデシュの3分の1以下で、どちらもベストテンに入っていません。

米と比較すると、小麦は世界商品で、生産に対する輸出入の比率ははるかに大きくなっています。小麦は、「パン」の原料となる重要な穀物で、世界の主食のひとつです。米と同じように、生産量、消費量をみると、生産量上位5位は、中国、インド、ロシア、アメリカ、カナダ、1人当たり消費量上位5位は、チュニジア、トルクメニスタン、アルジェリア、アゼルバイジャン、モロッコとなります。国別消費量でみると、中国、EU、インド、ロシア、アメリカの順になります。こちらも、日本はベストテンに入っていません。ただし、アメリカには主食という概念はありません。パンも野菜も米も、主菜(main dish)に対する前菜、副菜ととらえられています。

長く米を主食としてきた日本ですが、最近では、主食としてのパンの割合が高くなっています。農林水産省の「食品産業動態調査」によれば、小麦粉ベースのパン生産量は、ゆるやかながら持続的に上昇しており、菓子パン・フランスパン・調理パンに比べて、食パンの需要が増加しているところに近年の特徴があるといわれています。最近のJタウン研究所(2021.04)、スリーエム株式会社(2022.03)などの調査でも、朝食で「パンとご飯、どちらを摂るのか」との設問に対して、ご飯50.2%、パン49.8%(Jタウン)、ご飯28%、パン56%(スリーエム)となっており、若年層の米離れや食生活の欧米化のなかで、パンは「第2の主食」から、さらに地位を高めているといえそうです。

パンいわゆる白パンの原料は小麦粉です。日本で、小麦が栽培されるようになったのは4、5世紀の頃だそうですが、そこで得られる小麦粉は「中力粉」という種類でした。高温多湿という日本の気候では、強力粉の原料としての硬質小麦の栽培が困難なためでした。日本の小麦は、うどんやそうめんには適しているものの、パンやマカロニには不適だったのです。小麦粉に水を入れて練って、発酵させて窯で焼くパンが日本で作られるようになったのは、開国・明治維新以後ことでした。横浜居留地での製造が嚆矢(こうし)とされています。当初は、発酵の酵母は、酒麹種かホップ種で、機械生産が可能となるイーストが使われるようになったのは、大正期に入ってからのことでした。

明治期から大正期にかけてパン食を推進したのは、軍隊それも海軍でした。戦時の携行食として、さらに脚気対策として有効であるというのが海軍の言い分で、1885(明治18)年に、パンを主食として採用したのでした。陸軍がパン食の導入に踏み切ったのは、1920(大正9)年のことで、脚気の原因がビタミンB1の不足によるとして鈴木梅太郎がオリザニンを発見して以降のことでした。昭和期に入ると、日本は、満州事変、日中戦争と、戦線を拡大します。統制経済が進行し、コメ不足が深刻化するなかで、「代用食」としてパンが重視されるようになります。こうしてパン生産は急速に拡大するのですが、連合国側からの小麦粉輸入が次々に停止されるなかで、パン生産も縮小を余儀なくされます。

第二次大戦後に状況は一変します。GHQ/SCAP(連合国軍総司令部)による占領管理下、ガリオア・エロア基金、ララ物資、ケア物資、ユニセフなどの対日援助が展開され、小麦、砂糖、脱脂粉乳などが供給されました。占領終結後も、アメリカのPL480(余剰農産物処理法)により大量の小麦が流れ込みます。パン食が奨励され、1950(昭和25)年には、8大都市の小学校で完全給食が実施されます。ここで、政府は「学童に対する給食は原則としてパン給食とする」ことを閣議了解とし、その旨をGHQ/SCAPに提出します。まず、コッペパンと脱脂粉乳、次いで1960年代後半には、スライス食パンと瓶入り牛乳が学校給食の定番となったのでした。

こうして、戦後、GHQ/SCAPによる食糧援助と学校給食によって、パン食が急速に普及していきます。戦後占領下では、輸入小麦は統制商品でしたから、パンメーカーは、政府管理の小麦を製粉会社が製粉し、その小麦粉を使用してパンを製造する委託加工業者となります。このため、占領下にいくつかの大規模パンメーカーが誕生し、統制解除とともに猛烈な販売競争が展開されるようになります。

1960年代には、パンの種類も豊富化します。マフィン、バゲット、パイ、デニッシュ、黒パン、コーンブレッドなどが並び、調理パン(カレーパン、焼きそばパンなど)、サンドイッチ、ハンバーガーも登場します。パンは、あんパン、ジャムパン、クリームパンといった子供の「おやつ」、コッペパン、食パンの「学校給食」から、大人の「軽食」へと進化します。パンの販売形式も、従来の配送されたパンを陳列棚に並べる販売形式から、オーブンを客の見える所においてパンを焼くオーブンフレッシュ形式、トレーとトングを持って棚から好きなものを選ぶ販売形式、デパートやスーパーの内部に店を置くインストアベーカリーなど多様化が進みます。

現在では、パンは日本人の食生活のなかに完全に定着し、もう一つの主食といっていい位置を占めるまでになっています。世界でもっとも多様な食生活、雑食生活にあるといわれる日本の食生活。パンの主食化を通して、改めて日本の食文化を考えてみたいと思いました。

学長  伊藤 正直

9月 経済活動はいつでも効率的・合理的か?

高等学校の『政治経済』や『現代社会』の教科書を開くと、どの教科書でも、経済の単元のはじめの方で需要供給曲線(DS曲線)のグラフが出てきます。縦軸が商品の価格、横軸が商品の流通量で、需要曲線は右下がり、供給曲線は右上がりで描かれています。需要曲線が右下がりなのは価格が下がれば購買量は増大する、供給曲線が右上がりなのは価格が上がれば供給量は増大する、といった点を前提としているからです。そして、その商品の価格と流通量は、需要曲線と供給曲線の交点で均衡するというのです。何らかの事情で、全体の需要が増えると需要曲線は右に移動し、それにつれて均衡点も右上に移動します。同様に、何らかの事情で全体の供給が増えると、供給曲線は右に動き、今度は均衡点が右下に移動することになります。

この需要供給曲線の説明は、とても分かりやすく、すぐに納得してしまいそうです。「高ければ買わない、安くなれば買う」「安ければ売らない、高くなれば売る」。そして、両者の思惑が一致したところで、価格と販売=購買量が決まる。当たり前のように思えるでしょう。しかし、よく考えると、この説明は、いくつかの前提の上に成り立っています。

需要と供給の均衡点を決めるのは「価格」です。売り手と買い手は、価格だけをパラメーターとして行動します。ですので、そうした行動ができるように「市場」が組み立てられていなくてはなりません。経済学では、これを「完全競争」市場と呼びます。もっと大きな前提もあります。「価格だけをパラメーターとして行動する」ということは、売り手も買い手も、損得勘定という経済的な合理性のみで意思決定するということです。つまり、個人も企業も政府も、合理的な判断に基づいて効率的に行動するという前提があるのです。このような経済主体、経済学が与件としている経済主体は、ホモ・エコノミクス=経済人と呼ばれています。

しかし、現実の市場が、いつでもこの前提を満たしているかといえば、そうでない方が圧倒的に多いことは、周りを見回せば、容易に発見できるでしょう。自身を振り返れば、経済行動においていつでも合理的な意思決定を行っているわけではないことにも気づかされるでしょう。「完全競争」市場では、「価格」は、売り手にとっても買い手にとっても与件(=自分では決められないもの)ですが、現実には、そうではない場合がしばしばです。買い手が多数いるのに売り手が少数しかいない場合や、その逆の場合がそうです。「寡占」企業ないし「独占」企業の存在です。こうした企業が存在する市場では、これらの企業が「価格決定力」を持っており、市場で自律的に「価格」が決まることはありません。経済学では、これを「不完全競争」市場と呼びます。

例えば、最近発表された財務省『年次別法人企業統計調査(令和2年度)』によれば、2020年には約290万社の法人企業(個人営業まで含めると600万社弱)があり、そのうち資本金10億円以上の企業は0.2%、5,798社です。この0.2%の企業が、全企業の経常利益の59.0%(金融・保険業を含めると63.5%)を占め、売上高の37.6%を占めています。売上高利益率も10億円以上企業が7.2%であるのに対し、1,000万円以下企業では2.3%と大きな差があります。このデータを見るだけでも、自律的に「価格」「均衡点」が決まったとはいえないことは明らかでしょう。

「寡占」企業や「独占」企業の発生は、多くは歴史的です。経済が発展し、産業構造が高度化し重化学工業化が進んだ時期には、鉄鋼業や石油化学産業、鉱業や加工組立産業などで、規模の経済性や技術的優位性が働きます。IT化・情報化やグローバル化が進む時期には、情報の非対称性が働きます。あるいは、電気・ガス・上下水道、公共交通などの公共的分野では、政府の公共的規制によって、企業行動自身が規制されます。「不完全競争」市場は、「完全競争」市場に比べると、理論的には、資源配分において非効率・非合理が生じます。アメリカで、GAFAM(Google、Amazon、Facebook、Apple、Microsoft)に対して、独占禁止法違反の是正命令がしばしば出されているのは、この故です。

GAFAMなどの情報産業が「寡占」化ないし「独占」化する背景には、情報の非対称性があります。「情報の非対称性」とは、経済取引において取引主体間に情報格差があることを指します。実は、「情報」をどのように把握するかについては、かなり難しい問題があるのですが、事例として、アメリカの中古車市場(俗語で質の悪い中古車をレモンカーと呼んだ)問題をとりあげてみます。この中古車市場(レモン市場)では、売り手は中古車の内容についてよく知っていますが、買い手は購入するまでその内容を十分に知ることはできません。そのため、売り手は質の悪い中古車を良質な中古車として販売する傾向があり、買い手は良質な中古車を購入しがたくなり、市場には悪質な中古車ばかりが出回ってしまうことになります(これを逆選択といいます)。GAFAMの場合は、情報が財として独占的あるいは排他的に占有され、その結果として、利用者に多くの不利益が生じる、あるいは利用者の個人情報が勝手に使用されるといった問題も指摘されています。

以上の事例は、いずれも、本来「完全競争」市場であるべき経済市場が、いくつかの外挿的条件のために「不完全」市場となっている例です。ですから、政策や制度は、この「不完全」を除去する方向で運用されます。公正取引委員会とか独占禁止法がそれです。ところが、最近の経済学で、こうした見方に根本的に異議を唱える考え方が出てきました。行動経済学と呼ばれる領域がそれです。「通常価格の50%引き、大幅値下げという表示があると、つい買ってしまう」「利益が出る可能性があるときには利益を失わないように、損失が出る可能性があるときには損をしないように行動してしまう」「つまらない映画だけど、最後まで観ないと映画代がもったいない」「頼まれごとなら頑張るが安い報酬ではやる気がしない」。

こうした一見すると、合理的でも効率的でもない経済行動が、経済主体にとって本来的なものであることを解明しようとしているのが行動経済学です。心理学ないし認知科学を経済行動の分析に導入し、経済学の新しい領域を切り開こうとしているともいわれています。行動経済学については、ダン・アリエリー『予想どおりに不合理』(ハヤカワ文庫、2013)、ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』(ハヤカワ文庫、上下、2014)などで、その概要を知ることができます。一読を勧めます。

学長  伊藤 正直

8月 円の力、ドルの力

テレビやSNSのニュースをみていると、毎日のように円ドルレートや円ユーロレートの記事が出てきます。例えば、2022年7月14日の日本経済新聞では、「円ドルレートは138円72銭、昨日に比べて1円68銭の円安」といった具合です。2022年1月の円ドルレートが114円84銭、2021年1月が103円70銭、10年前の2012年1月が76円94銭(日本銀行調べ)ですから、この10年ほどの間に、ずいぶん円安が進んだことになります。

76円から138円となったことを円安というのはちょっと違和感があるかもしれません。でも、これまで76円出せば1ドルの商品を購入できたのが、138円出さないと購入できなくなったと考えれば理解できるでしょう。つまり、ドルの値うちが上がり、円の値うちが下がったから、これを円安というのです。その逆は円高です。

現在では、日本の為替レートは、毎日動いています。これを変動相場制といいます。しかし、ずっと変動相場制だったかといえばそうではありません。1871(明治4)年の新貨条例では1ドル1円、1897(明治30)年の貨幣法制定のときは1ドル2円(正確には100円=49ドル9/16)、二次大戦末期の頃は1ドル4円25銭、敗戦後、一切の対外取引が停止されたのち、GHQ占領下の1949(昭和24)年4月に1ドル360円の固定レートが決定され、1971年8月まで20年以上にわたって1ドル360円の固定レートが続きました。

戦前の時期1897年から1931年までは、ほぼ固定相場の時代が続いたのですが、この時期に為替レート決定の基準となったのは金価格でした。一定量の金のドル表示公定価格と円表示公定価格とが釣り合うように為替レートが決められました。これを金平価といい、主要国がこれを採用したので、この時期を国際金本位制時代と呼びます。第二次大戦後は、連合国間で国際通貨体制をどうするかの会議が開かれ、ドルを基準として各国通貨を結びつけるIMF体制がスタートしました。会議が開かれた場所の名前を取って、ブレトン・ウッズ体制とも呼びます。日本は1952年8月、第53番目の加盟国としてIMFに加盟します。占領終結後のことで、この加盟により日本の為替レートは国際システムに公的に組み込まれます。

1ドル360円という為替レートは、高度成長期には安定的に維持されました。この状況を一変させたのが、1971年8月のニクソン・ショックすなわちアメリカの金ドル交換停止でした。ドルへの信認は、アメリカがいつでもドルと金を交換することで成り立っていたので、この交換停止は、基準喪失として国際金融市場を大混乱に陥れました。ブレトン・ウッズ体制の崩壊です。国際会議が何回か繰り返され、固定相場制への復帰が図られましたが、結局、それらの試みはうまくいかず、1973年から為替レートは、変動相場制へと移行します。そして、この制度が現在まで続いているのです。

では、毎日動いている為替レートは、どのようにして決まるのでしょう。じつは、これはかなりの難問で、現在でもいくつかの考え方が併存しています。昔からある議論で有力だったのは、購買力平価説、需給説、国定説などでした。

購買力平価説というのは、2国間それぞれの通貨の購買力の比率で為替レートが決まるというものです。例えば、日本の消費者物価指数とアメリカの消費者物価指数の両者の比率をとり、基準年次の為替レートにこれを掛けると比較時点の為替レートが決まるという考えです。ただ、これも基準年次をいつに取るか、比較する物価を消費者物価にするか、企業物価にするか、輸出物価にするかなどによって、出てくる数値は大きく異なり、実務的には使いにくい面があります。

需給説というのは、日々の外国為替市場における円とドルの売買で、円買いが多ければ円高に、少なければ円安になるという考え方で、シンプルですが、これも現在のように、直物(スポット)だけでなく、フォワード、オプション、スワップなど、実需ではない取引が輻輳(ふくそう)するとその相互関係をみることが難しくなっています。国定説は単純で、基準がないので、為替レートは、国家(国王、政府)が決めた基準で決まるしかないというものです。

これらの議論は、現在でも、部分的には引き継がれています。現在、有力な考え方は、フロー・アプローチとアセット・アプローチといわれるものです。フロー・アプローチは、国際的な取引を経常収支、資本収支、金融勘定のそれぞれからみつつ、経常収支の不均衡があるとき、これを調整するように為替レートが動くという考え方でした。しかし、国家間の資金移動の大きな割合が、経常取引つまり財やサービスの取引より、金利差やリスクを媒介にした長短の資本移動や金融取引に移ってしまったため、これにかわる理論が必要となりました。

こうして登場したのがアセット・アプローチです。フロー・アプローチが一定期間の取引量で為替レートが決まるとするのに対し、ある時点のそれぞれの外貨資産保有額の比率で為替レートが決まると考えるのです。この考え方にもいろいろなタイプがあります。自由な資本移動を前提に通貨市場における資産の均衡するところで為替レートが決まるという考え方(マネタリー・アプローチ)や、ある時点での金融資産の選択の割合から為替レートをみようという考え方(ポートフォリオ・バランス・アプローチ)などがあります。金融商品(外貨金融資産)の選択が、金利差や様々なリスク(為替リスク、流動性リスク、信用リスク、インフレリスクなど)に対する予想から、外貨資産保有額を決めていくというものですが、人々の予想は必ずしも市場で一致しませんから、為替レートの予測は本当に困難です。

膨大な国債残高を抱え、その半分を日本銀行が保有しているという日本の現状は、政策金利や市場金利をきわめて動きにくくしています。しかも、日本経済の基礎的力が弱化していると世界が見ているなかでは、しばらくは「悪い円安」が続くと考えざるをえないでしょう。

学長  伊藤 正直

7月 国の予算

先月に続いて、国の予算の話をもう少し。毎年1月に開催される通常国会は、予算国会とも呼ばれます。その年の4月から翌年3月までの国の予算(歳入と歳出)を、この通常国会で決めるからです。国会での予算の議決は、毎年(毎会計年度ごとに)行われています。「予算単年度主義」という原則があるからです。この原則は、憲法第86条が「内閣は、毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない」としていることに由来しています。憲法が、なぜこの規定を設けているかといえば、財政に対する民主的なコントロールを確保する必要性からです。

「国会の予算審議権」がこれにあたります。民主的に選挙された国民の代表である国会議員が、その年度の歳入や歳出を決めることにより国民の負託に応える、これが民主主義的な財政統制の在り方であるという考え方です。こうして1会計年度の予算が決まります。一般会計では、その年度に行われる国の施策が、全体として網羅通観できるように、単一の会計で一体として経理することと定めています。これを「予算単一の原則(単一会計主義)」といい、財政の健全性を確保するために必要とされています。何年も先までのお金の使い道まで決めてしまったら、翌年や翌々年の予算審議権を国会から奪うことになるからです。

「予算単年度主義」とセットになっている考え方に、「会計年度独立の原則」があります。財政法第12条は「各会計年度における経費は、その年度の歳入を以て、これを支弁しなければならない」と規定し、同法第42条は「繰越明許費の金額を除く外、毎会計年度の歳出予算の経費の金額は、これを翌年度において使用することができない」と規定しています。会計年度の設けられた趣旨は、「予算単年度主義」のところでみたように、1会計年度の歳入歳出の状況を明確にし、財政の健全性を確保することにあります。従って、その期間に起こった歳入歳出はすべてこの期間内に完結し、他の年度に影響を及ぼさないようにすることが原則となります。もし、歳入予算が不足しても、その不足は歳出の節約等によって補われるべきであり、次会計年度の剰余や歳入増を見越して歳出を執行してはならないということになります。

これが、近代国家、民主制国家における国家予算の原則です。「予算単年度主義」、「会計年度独立の原則」はこうしたものです。しかしながら、あらゆる場合にこの原則が貫徹できるかといえば、そうではありません。原則通りに処理すると、逆に不経済または非効率となる場合もでてきます。例えば、台風や震災、最近のコロナ禍のために年度内完成の予定だった工事が完了しないことも起きるでしょう。あるいは、高速道路・高速鉄道の工事、情報システム開発など、完了まで複数年度かかる場合もあるでしょう。こうした場合、複数年度分を一括して契約した方が効率的な場合もあります。こうした要請に備えて、財政法では、①歳出予算の繰越、②国庫債務負担行為、③継続費の3つを単年度主義の原則を緩和する制度として設けています。この3つは、それぞれ財政法でその内容や範囲が厳格に定められており、その原則に従って執行されています。

もっと大きな問題もあります。日本が近代国家としての歩みを始めたのは、西欧諸列強の帝国主義の時代でした。日本は、後発資本主義国であって、先進諸国に追いつき追い越せと、当初から国家が経済過程に積極的に介入しました。この目的を達成するために、明治政府は国家財政に一般会計とは区分した特別会計を設置しました。明治政府は当初から「安価な政府」ではなく「大きな政府」だったのです。

まず、1890(明治23)年の第1回帝国議会では、33個の特別会計が設置されました。その後、特別会計は順次増加し、戦前には累計すると65個もの特別会計が設けられました。例えば、官営八幡製鉄所を維持・運営するための製鉄所特別会計、食糧管理のための米穀需給調節特別会計(食糧管理特別会計)、軍事関係施設の海軍工廠資金特別会計や陸軍造兵廠特別会計、戦争遂行のための臨時軍事費特別会計、植民地経営のための台湾総督府特別会計や朝鮮総督府特別会計、高等教育機関のための帝国大学特別会計などです。これらは、一般会計とは異なって、1年を1会計年度とはしていません。例えば、臨時軍事費特別会計は、戦争の開始から終結までを1会計年度としています。

第二次大戦後、新たに財政法が制定され、特別会計はいったん整理されます。その後財政需要の拡大と行政の多様化に伴い、再び特別会計の新設と改廃が行われ、1966(昭和41)年には戦後最大の45個となりました。戦後高度成長のなかでの特別会計の増加で、融資特別会計としての産業投資特別会計や資金運用部特別会計、事業特別会計としての特定道路整備事業特別会計や空港整備特別会計、管理特別会計としての食糧管理特別会計や外国為替資金特別会計などが大きな役割を果たしました。その後、高度成長の終焉とともに特別会計は減少し、1985(昭和60)年度の特許特別会計以降、2012(平成24)年度に東日本大震災復興特別会計が設置されるまで、特別会計の新設はありませんでした。2021(令和3)年度には、経過的なものも含めて13の特別会計が設置されています。

整理されてきたとはいえ、現在でも特別会計の予算額は結構大きなものです。令和3年度当初予算の特別会計歳出総額(各特別会計の歳出予算額を単純に合計したもの)は493.7兆円(対前年比+101.9兆円)で、内訳は、国債整理基金特別会計246.8兆円、年金特別会計96.5兆円、財政投融資特別会計72.6兆円、交付税及び譲与税配布金特別会計51.8兆円などとなっています。特別会計でも、国債整理の部分が最も大きいのです。この歳出総額には、会計相互間の重複計上額が含まれているので、これを差し引くと、歳出純計額は245.3兆円(対前年比+48.5兆円)となり、内訳は国債償還費99.7兆円、社会保障給付金73.3兆円、財政融資資金への繰り入れ45.0兆円、地方交付税交付金19.8兆円、復興経費0.8兆円、その他6.6兆円となります。純計でも同様に、最大の項目は国債整理です。

なぜ、こんな面倒なしかも面白くない話をしてきたかといえば、わが国の国債発行をめぐる議論が、あまりにも目先の視点、現状の視点だけからなされているからです。赤字国債発行の是非をめぐる積極財政派と財政再建派の対立といわれるものも、ほとんどがそうした議論です。大切なことは、民主国家における国家財政についての基本的考え方です。なぜ「予算単年度主義」という原則があるのか、「会計年度独立の原則」があるのか、赤字国債発行の是非は、ここを出発点とすべきなのです。

学長  伊藤 正直

6月 国の借金―国債の話

2021年の日本政府債務残高の対GDP比は263%でベネズエラに次いで世界2位、3位はギリシャの199%です。他のG7諸国をみると、イタリア151%、アメリカ133%、フランス112%、カナダ112%、イギリス95%、ドイツ70%ですから、いかに日本の政府債務残高が大きいかわかります(IMF, World Economic Outlook 2022.4)。政府債務の中心は国債で、2021年度末の国債残高は金額では1074兆円、国民一人当たりでは800万円以上の借金を負っていることになります。

国債は、国の借金です。毎年、国は1年間の収入と支出(国の場合、これを歳入と歳出と呼びます)を想定して予算を立てます。例えば、2022年度予算でみると、一般会計歳出総額は107.6兆円で、内訳は社会保障費36.3兆円、公共事業費6.1兆円、文教及び科学振興費5.4兆円、防衛費5.4兆円、地方交付税交付金15.9兆円、その他14.3兆円で、これに国債費24.3兆円が加わります。つまり歳出の約23%が過去の借金の返済と利息に充当されることになっているのです。この歳出に見合う歳入の方は、所得税20.4兆円、法人税13.3兆円、消費税21.6兆円、その他税収9.9兆円、その他収入5.4兆円、合計70.7兆円で、不足分の36.9兆円は借金つまり公債金でまかなうことになっています。いいかえると、支出の約4分の1は過去の借金の返済で、歳入不足を補うために新たに収入の約3分の1は借金せざるをえないという構図になっているのです。赤字公債の発行です。

毎年の収入不足を補うために借金をする、さらに、以前の借金を返すための借金もする、いったいいつからこんな状況になってしまったのでしょう。日本の政府債務残高の対GDP比でみる限り、借金が一気に増えたのは、1990年代に入ってからです。80年代には50~70%だったこの比率は、90年代に入ると急激に右肩上がりになりました。90年代以降の分析が重要だということになりますが、赤字公債の発行という点から考えると、もう少し遡る必要があります。

第二次世界大戦の敗戦後、日本は激しいインフレーションに見舞われました。1934年頃の消費者物価指数を1とすると、1949年にはその指数は270にもなったのです。当時、日本銀行は、この激しいインフレーションは、「戦時中の膨大な軍事費の支出に伴う財政資金の赤字を日本銀行引き受けによる国債発行によって補填し‥‥これに伴って通貨も膨張していった」(日本銀行「戦後における日本銀行の信用政策」昭和25年1月)ためとしています。この反省に立って、戦後制定された財政法は、第4条で国の歳出は原則として国債又は借入金以外の歳入をもって賄うことと、赤字公債の発行を禁じ、第5条で、すべて、公債の発行については、日本銀行にこれを引き受けさせ、又、借入金の借入については、日本銀行からこれを借り入れてはならないと、公債の日銀引受を禁じました。

このため、戦後しばらくは長期国債の発行は行われませんでした。長期国債の発行が再開されたのは、1965年の証券不況の時で、単年度限りの特別の法律を作って(財政特例法)赤字国債の発行が行われました。その後、高度成長が終わった1970年代に入ると、毎年予算国会で財政特例法が制定され、赤字国債の発行が常態化します。さらに、1990年代に入ってバブルが崩壊し、中小金融機関の破綻に始まり、巨大証券会社や都市銀行、長期信用銀行の破綻が相次ぎました。金融不安の継続のなかで、歳入不足が恒常化し、90年代半ば以降、ほぼ毎年20兆円以上の国債発行が続いたのでした。

こうして現在では国債残高は、1000兆円以上に達しました。この国債は、誰が保有しているのでしょう。日本銀行「資金循環統計」によれば、2021年末時点の国債残高1074兆円のうち、日本銀行保有分が516兆円48.1%、銀行や生損保等が373兆円34.7%、公的年金・年金基金が76兆円7.1%、海外が85兆円7.9%で、家計は13兆円わずか1.2%に過ぎません。最大の保有者は日本銀行で、次いでいわゆる機関投資家です。財政法で、日銀の国債引受は禁止されていますから、最初の保有者から日銀が買い取ったことになります。逆からみると、いつでも日銀が買い取ってくれるだろうという期待があるから、銀行などが国債を購入し続けているとも言えます。

では、こうした状態はいつまで持続可能なのでしょう。国債は政府の借金です。借金ですから返さなくてはなりません。現在の自転車操業は、次の世代に返済の負担を先送りしていることになります。現在、欧米では、金融引締め、金利引上げへの転換が徐々に図られています。日本でも、もし現在のゼロ金利政策からの離脱が図られれば、すでにある国債の流通価格は下落することになるでしょうし、新規の国債も金利をあげないと発行できなくなります。最大の保有者である日銀のバランスシートにも、資産減価による悪影響が避けられません。

しかし、他方で、かつてのギリシャや中南米諸国とは異なって、日本の場合は、これまで通り国債発行を継続しても大丈夫だという議論もあります。その根拠として、いろいろなことが言われています。例えば、①国債保有者は大部分が国内なので、資産と負債は国内で相殺できる、②政府債務は大きいが政府の金融資産も結構ある、③家計の金融資産は1900兆円もある、④対外純資産が巨額にあり日本に対する信認は簡単には揺るがない、といった主張です。

とはいえ、計表上の見合いで、これらの資産を捉えることは必ずしも正しいとはいえません。その多くは、債務を減らすためには使うことができないからです。また、国際市場で日本国債の格付けが引下げられるという事態も発生しています。主要国のなかで経済停滞が長く続いているわが国は、産業の新陳代謝を促進し、社会を持続可能にしていく方向を明示することが必要です。そのためには、政府財政の投入分野を戦略的に明確にするだけでなく、赤字国債発行ゼロへの見通しを明示し、将来世代が安心して社会活動に参画できるようにしなくてはなりません。

学長  伊藤 正直

5月 写真の力あるいはポートレイトの力

今は、誰もがスマホを持っており、いつでも思い立った時に気軽に写真を撮ることができます。「自撮り棒」を使って自分を撮ることも容易です。撮影した写真をクラウドに置いて友人と共有することもできれば、気に入った写真をインスタグラムに載せて拡散することもできます。昔に比べると、写真を撮る人ははるかに多くなりました。日記代わりにしている人も多いでしょう。LINEでの友達とのおしゃべりと同じように写メ交換をしているかもしれません。

いつからこんな変化が起きたのでしょうか。デジタル技術の発達に基礎があることはもちろんですが、社会的にはプリクラの大流行が大きかったような気がします。写真を「撮ること」、「観ること」の意味合いが、この頃から大きく変わったような気がします。スマホの登場は、この変化を決定的に後押ししたといえるでしょう。

かつては、報道写真家、肖像写真家、広告写真家、風景写真家という言葉が誰にでも理解できる言葉としてあり、写真家という「撮る人」は、「撮られる人」とは明確に区分されていました。1936年のニューディール期に創刊され、最盛期には850万部を誇り、1972年に廃刊となった写真雑誌『ライフ』は、著名な写真家のさまざまの写真を、数多く掲載しました。日本にも『アサヒカメラ』(1926年創刊)、『カメラ毎日』(1954年創刊)などの写真雑誌があり、日本の写真家の登竜門となっていました。

そうした著名な写真家でなくても、ちょっとした町であれば、必ず写真館があり、その入り口のショーウインドウには、七五三、入学式、卒業式、結婚式の写真が飾られていました。ところが、今では誰もが「撮る人」=「撮られる人」となり、写真家とは何であるか、どのように存在しうるかが、あらためて問われるようになりました。

いうまでもないことですが、スマホで撮られている写真は、デジタル写真です。写真のデジタルへの移行が全面的に進んだのは、1990年代のことでした。フィルムからデジタルへの移行によって、写真は、「真を写す」もの、記録するものから、徐々に離脱することになります。ルポルタージュにせよスナップにせよ、それまでのフィルム写真は、メディア性をその背景に負っていました。しかし、デジタル写真は、いつでもレタッチ(=画像加工)ができます。合成もスキャニングもできます。モーフィング(=変形)や色加工も、日常的に行われています。インスタグラムなどのSNS発信に際しての顔加工アプリも花盛りです。一方でICTとの結合、他方で、コンテンポラリーアートの一分野への帰属、現在の写真は、ひたすらそこに向かっているようにみえます。

では、誰でもが写真家になれるとしても、皆が写真家となっているのでしょうか。そうは言えないでしょう。わが国における職業としての写真家の歴史を、20世紀以降に限ってたどってみただけでもこのことは明らかです。まず、最初に登場するのは、名取洋之助、木村伊兵衛、土門拳、林忠彦等です。日本工房、『NIPPON』、『FRONT』などから輩出したこれらの写真家は、スナップショット(木村)にせよ徹底したリアリズム(土門)にせよ、写真を通して、個人や社会の「真実」を写し取ることを課題としました。

次の世代は、中平卓馬、森山大道、多木浩二等です。1968年に創刊された『provoke』に結集した彼らは、機械と人間が融合したシステムである写真は、人間の主体的表現ではないとして、「決定的瞬間」を写し取ることを拒否します。雑誌には「思想のための挑発的資料」というサブタイトルがつけられ、それまでの思想を破壊する「来るべき言葉のため」(中平)に写真はあるとして、「アレ・ブレ・ボケ」(森山)の写真を提示します。ほぼ並行しつつやや遅れて、篠山紀信、荒木経惟の時代がやってきます。なかでも、篠山は、撮影ジャンルの多様さ、作品数の多さで知られ、篠山の山口百恵を撮った「激写」は流行語になり、宮沢りえを撮った『Santa Fe』、樋口可南子を撮った『water fruit』はベストセラーになりました。「私的なことをやりたければ『文学』でやればいい」とは篠山の宣言です。

その後、1990年代に入ると、ホンマタカシ、HIROMIX、長島有里枝、蜷川実花等が登場してきます。この世代こそが、デジタル写真の世代であり、コンテンポラリーアートの一形式としての写真という位置づけに自覚的な作家たちです。そこでは、多様な実験的試みが、さまざまな形でなされています。例えば、画面を厳密に構成するタブロー(絵画)写真という試み、視覚的ドラマや誇張を完全に排したデッドパン(無表情)写真という試み、すでに流布している画像をコラージュしたり、リメイクしたりする試みなどなど。ITの急激な進展が、こうした試みを可能としているといえます。さらに、これらの作家たちの作品は、アートというだけでなく、その実験性や多様性を通して、社会との新しい接続をも可能にしています。

写真は、現在では新しいステージに移行しているということができそうです。しかし、写真そのものの力という点ではどうでしょう。木村伊兵衛、土門拳、林忠彦等の写真が持っている訴求力、強靭さを超える作品を、現在の写真家たちはどれほど生み出し得ているのでしょう。例えば、木村伊兵衛の「秋田」や「パリ」や「都市」、土門拳の「筑豊のこどもたち」や「古寺巡礼」や「ヒロシマ」、林忠彦の「茶室」や「長崎」や「文士」のもつインパクトはとても強いといえます。

なかでも、彼らのポートレイト、人物スナップは圧倒的です。木村伊兵衛の永井荷風や織屋・八木虎三、土門拳の谷崎潤一郎や梅原龍三郎、林忠彦の太宰治や坂口安吾は、一度観たら二度と忘れることはできません。絵画や映画とは異なった写真の力、目で見えているものを掴みとる写真の力。現在の時点で、この力を開花させていくには何が必要なのかを、木村・土門・林の写真集を観直すなかで、あらためて考えたところでした。

学長  伊藤 正直

4月 「キャリア教育」あるいは「教育の職業的意義(レリバンス)」

「学校から仕事へ」あるいは「学習から労働へ」。この切り替えの時期は、1950年代前半までは主流は中学校卒業時でした。高度成長期にはこれが高校卒業時になります。1975年には、高校進学率は90%を超えます。1990年代以降になると、大学卒業時になりますが、注意すべきは、男女間で、この時期に大きな差が見られたことです。

1990年には、女子の4年制大学進学率はまだ15.2%で、男子33.4%の半分でした。女子は短期大学への進学が多く、1995年にピークの24.6%となります。その後、短大進学の割合は傾向的に低下し、代わって4年制大学への進学率が緩やかに上昇を続けます。2021年には女子の4年制大学進学率は51.7%(短大7.2%)となりました(文科省『学校基本調査』2021.12)。同時期の男子が58.1%ですから、まだ少し男子の方が高いとはいえ、男女を問わず、若い人たちの過半が、4年制大学を経て仕事=労働に入っていく時代になったということができます。

仕事=労働という新しい環境に入っていく準備は、どのようになされているのでしょうか。旧来の日本型雇用システムが一般的であった時代には、そうした準備はほとんど必要とされていなかったように思われます。企業の側は、「入社前に学生が担当する職務に必要な勉強や準備をすることを期待していない。余計なことをせずに、優秀な素材を優秀な素材のままに企業に手渡してほしい。入社後にOJTやOff-JTにより職務能力をつけるほうが有用であり大事である」。先月も書きましたように、これがある時期までの日本の企業の考え方でした。学校の側も、教育は「人格を形成し教養を高めるためのもの」、「一般的・基礎的な知力や人間力を高めるもの」との位置づけが強く、労働への架橋という意味での教育を重視してはきませんでした。

こうした状況に変化が生じたのは、1990年代に入ってバブルが崩壊し、日本経済が「失われた10年」に突入したためでした。入社したすべての正社員を、配置転換や昇進・昇格を通して、広い範囲の職務のスキルを身に付けさせていくというシステムを維持していく。こうした余裕が、多くの日本企業において徐々に失われてきたからです。そこに登場したのが「キャリア教育」でした。

「キャリア教育」という言葉が、文部科学省で初めて登場したのは、1999年のことです。同年の中央教育審議会「今後の初等中等教育と高等教育との接続の改善について(答申)」で、学校と職業との接続について議論がなされ、「発達段階に応じてキャリア教育を実施する」ことが提言されたのでした。ここでの「キャリア教育」とは、「望ましい職業観・勤労観及び職業に関する知識や技能を身に付けさせるとともに、自己の個性を理解し、主体的に進路を選択する能力・態度を育てる教育」とのことです。つまり、職業観・勤労観といった職業意識に関する教育と、職業に関する知識や技能を習得する教育の両者からなっているのです。この教育を、小学、中学、高校それぞれの発達段階に対応しつつキャリア発達を促そうと提唱したのです。

その後、2011年には、中央教育審議会は「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について(答申)」を発表、キャリア教育を「一人一人の社会的・職業的自立に向け、必要な基盤となる能力や態度を育てることを通して、キャリア発達を促す教育」と定義し直します。キャリアやキャリア発達についての正確な理解が教育現場においてなされていないこと、職業観・勤労観の育成のみに重点が置かれてきたことが、再定義の理由とされています。

答申は、キャリア教育で育成すべき力として、「分野や職種にかかわらず、社会的・職業的自立に向けて必要となる基盤的能力」を「基礎的・汎用的能力」として掲げました。この「基礎的・汎用的能力」とは、「人間関係形成・社会形成能力」「自己理解・自己管理能力」「課題対応能力」「キャリアプランニング能力」の4つの能力としています。そして、後期中等教育修了までに、生涯にわたる多様なキャリア形成に共通した能力や態度を身に付けさせることと併せて、これらの育成を通じて価値観、とりわけ勤労観・職業観を自ら形成・確立できる子ども・若者の育成を目標として掲げました。

以上からわかるように、当初は「キャリア教育」の主たる対象は、初等教育・中等教育であり、とくに中学生・高校生でした。しかし、21世紀に入って進学率が上昇し、同一年齢の過半が大学それも4年制大学に進学するようになると、大学生にも、適切な「キャリア教育」が求められるようになります。社会=企業の側も、それを求めるようになってきました。

こうして、大学でも「キャリア教育」が推進されるようになりました。具体的な内容はさまざまですが、多くは、①生き方、働き方を知る、②職業、業界、企業を知る、③インターンシップ、就職活動を知るといった構成と、インターンシップ、就職支援などからなっているようです。

しかし、こうした「キャリア教育」については、他方で「進路選択や働き方、生き方に関するあらゆる理想を包み込むような無限定さ」(本田由紀)、「具体的な職業を前提としないままに、勤労観・職業観や職業に関する知識を身に付けさせようとする」(濱口桂一郎)といった批判が繰り返されています。

本田は、「仕事の世界への準備として欠かせないのが、第一に、働く者すべてが身に付けておくべき、労働に関する基本的知識であり、第二に、個々の職業分野に即した知識やスキルである」とし、これが教育にも必要と訴えています。前者は、働かせる側の圧倒的力に対して、「法律や交渉などの手段を通じて《抵抗》するための手段」、後者は「働く側が仕事の世界からの要請に《適応》する手段」(本田由紀『教育の職業的意義』2009年)であるとし、これを習得していくことに、「教育の職業的意義(レリバンス)」があるというのです。本田は、別の著書(本田由紀『若者と仕事』2005年)で、教育の「即自的意義」「市民的意義」「職業的意義」のそれぞれの関係について考察しています。大学における「教育の意義」とは何か、「キャリア教育」はどうあるべきか、改めて考えてみたいと思います。

学長  伊藤 正直

2021年度

3月 「シュウカツ」を考える

3月に入って就職活動が本格化する時期がやってきました。政府と経団連の協議によって、昨年度と同様に、3月採用情報の解禁、6月採用選考活動の解禁、10月内定決定の解禁というスケジュールが決められているためです。ただし、すべての企業が、このスケジュールに沿って採用活動を行っているわけではなく、外資系企業や一部マスコミ企業、経団連非加盟企業などでは、すでに採用活動を開始しているところも結構あります。

学生の側も、3年(短大の場合は1年)夏ごろから、サマー・インターンシップに応募したり、企業の開催するイベントや説明会に参加したりしています。この2年間のコロナ禍のなかで、企業の採用活動がオンラインで行われることが多くなり、学生も対応に苦慮していますが、3月の解禁以前に、事実上の「シュウカツ」が始まっているといってもいいでしょう。

採用スケジュールがこのようになったのには、かなり長い歴史があります。出発点は、1970年代のいわゆる「青田買い」です。当時、どんどん採用決定時期が早まり、3年の秋にはもう内々定をだすといったことが頻発したのでした。これでは、きちんとした大学教育ができないというので、当時の労働省(現 厚生労働省)、日経連(現 経団連)、大学の間で、採用選考開始日時の設定に関する申し合わせ(就職協定)がなされました。これが採用スケジュール設定の始まりです。

ただ、協定は紳士協定であったため、なかなか実効が上がらず、企業の採用活動開始時期は、その後も前後しました。このため、経団連は「採用選考に関する企業の倫理憲章」(1997年)、「採用選考に関する指針」(2013年)などを決めて、採用活動のルール化を図ります。しかし、2018年には、経団連会長がこの指針廃止の意向を表明するに至り、こうした採用方式が今後どうなるかは、現在では不透明になっています。

高度成長期以降、日本では、ほとんどの企業が、労働者の採用を新規学卒者から行ってきたし、現在も行っています。ただ、こうした採用の仕方、すなわち、新卒という特定の時期と年齢層に限定して企業への入口とする仕方は、世界的にみて圧倒的に少数です。新卒採用に対応する言葉は中途採用ですが、この表現も日本独自です。これらは、日本型雇用、日本型経営と呼ばれる独特の雇用システムに由来しています。

「多くの学生は、入社してから自分がどのような職務に就くのか、入社前にはほとんどわからない」。「シュウカツ」をする際、会社について調べることはあっても、そこでの職種について調べることはない。医師になる、弁護士になる、教師になる、管理栄養士になる、そういった特定の資格を必要とする職種に就くことを希望するもの以外は、現在でも、こうした学生がほとんどではないでしょうか。採用する会社側も、「入社前に学生が担当する職務に必要な勉強や準備をすることを期待してない。むしろ、入社後にOJTやOff-JTにより職務能力をつけることの方を重視している」。会社での勤続年数が増えるに従って給与が上昇する年功型賃金、生活給体系は、この考え方に適したものでした。

こうした日本型雇用の特徴を明快に説明する概念に、「メンバーシップ型」と「ジョブ型」という区分があります。この用語を最初に提示したのは労働政策研究・研修機構労働政策研究所長 濱口桂一郎です(濱口『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ』2009年、同『ジョブ型雇用社会とは何か-正社員体制の矛盾と転機』2021年)。濱口は、雇用、賃金、労使関係の3点から両者を比較して次のようにいいます。

まず、雇用。ジョブ型では職務を特定して雇用するので、その職務に必要な人員のみを採用する。必要人員が減少すれば雇用契約を解除する。これに対しメンバーシップ型では職務が特定されていないから、必要人員が減少しても他の職務に異動させて雇用契約を継続する。次に、賃金。ジョブ型では、契約で定める職務毎に賃金が決まっている。ヒトに値札が付いているのではなく、職務=ジョブに値札が付いている。これに対し、メンバーシップ型では、契約で職務が特定されていないので、職務と切り離したヒト基準で賃金を決めざるを得ない。最後に労使関係。ジョブ型では、団体交渉や労働協約で職種毎の賃金を決定する。従って、労働組合は職業別ないし産業別になる。これに対し、メンバーシップ型では、賃金は職務では決まらない。労働組合は企業ごとの総額人件費の増分としての賃金アップを要求する。従って、労働組合は企業別になる。

こうしたメンバーシップ型の雇用システムが日本型雇用の特徴で、これは1960年代の高度成長期にほぼ確立し、1980年代、ジャパン・アズ・ナンバーワンと称された時期に最盛期を迎えたとされています。その後、1990年代に入りバブルが崩壊し、日本企業の国際競争力が次第に失われていくなかで、この日本型雇用システムについての見直しが提起されるようになりました。学卒新規一括採用という形式は維持されながら、その内実が変化してきたのです。2018年6月に成立した働き方改革関連法は、正社員長時間労働の是正、正社員と非正規の格差是正、男女格差の是正などを重点課題としながら、メンバーシップ型からの脱却を求めています。しかし、転勤も残業も単身赴任もOK、会社内での職務異動も自由という枠組みを維持しながらメンバーシップ型からの脱却を図れば、無秩序な何でもありの社会を登場させかねません。

移行期の矛盾は、女性の雇用の側において顕著です。これまで日本型雇用の枠組みの一つとなっていた、総合職と一般職という区分のなかで、女性採用の軸となってきた一般職の募集が急減しました。急減した一般職を代替しているのは、現実には非正規雇用の女性たちです。1980年代半ばに600万人程度であった非正規雇用労働者は、現在では2000万人を超え、非正規の占める割合は37%に達しました。なかでも非正規は女性が多く、厚生労働省調査では、働く女性の過半(54%)が、非正規の職員・従業員です。

ワークライフバランス、あるいはワークライフインテグレーションといった言葉が飛び交っています。女性総合職が企業のなかで位置づけられるようになったというものの、総合職にこれまで要求されてきた無限定の働き方と、家事・育児とくに育児に対する偏った女性負担という二重負担をどう解決するのか、会社の側がそれをどう考えているのかを具体的に問いながら、「シュウカツ」を進めていって欲しいと思います。そのために大学側では何ができるのか、何をしなくてはならないのか。大きな課題と自覚しています。

学長  伊藤 正直

2月 柳田國男と折口信夫

先月に続いて、日本民俗学創世期の話をもう少し。柳田國男を語るとき、どうしても外せないもう一人の巨人に折口信夫がいます。折口は、民俗学、国文学、芸能史などを領域とする研究者としての顔、釈超空という筆名の歌人、詩人、作家としての顔、さらには性的少数者としての顔をもつ豊かで複雑な人格の人物でした。

このため、折口については、これまで民俗学だけでなく、様々な視点からの検討が行われてきました。門下生の回顧として、池田彌三郎、加藤守雄、岡野弘彦、西村享らの著作があり、文学者たちの評伝や研究として、山本健吉、山折哲雄、藤井貞和、吉増剛造、持田叙子などがあり、さらに、富岡多恵子や安藤礼二による新しい折口像の提起などもなされています。そして、そうした探求は、現在も続いています。ただ、ここでは、直接、民俗学に関わる領域に絞って、折口と柳田の接点をみていくことにします。

先月の学長通信にも書きましたように、日本民俗学の出発点は、柳田國男の『遠野物語』や『後狩詞記』、『石神問答』にあったといっていいでしょう。そして、この柳田の初期の関心が、柳田と折口を結びつけたように思われます。柳田との出会いを、のちに折口は次のように回顧しています。「私は先生の学問に触れて、初めは疑ひ、漸(ようや)くにして会得し、遂には、我が行くべき道に出たと感じた歓びを、今も忘れないでゐる。この感謝は私一己のものである」(『古代研究』「追ひ書き」全集3)。

とはいえ、柳田と折口の関係は、学者の師弟関係としては、当初から、一貫してかなりの緊張関係を孕(はら)んだものでした。折口の柳田との初対面は、大正4(1915)年6月の「郷土会」の席と推定されていますが、それより2年前、折口は、柳田が創刊した雑誌「郷土研究」に原稿を投稿しています。大正4(1915)年には「郷土研究」に2号(大正4年4月、5月)にわたって「髭籠(ひげこ)の話」が掲載されます。髭籠(ひげこ)とは、竹で編んだ籠の編み余りを髭のように回りに残したものをいいますが、だんじりなどの祭りの際に長いひげのような装飾を高い柱の上部に周り一面に垂らしたものも「ひげこ」といいました。折口は、これを太陽神の依代(よりしろ)と考えたのです。

これが神樹論を検討した柳田の「柱松考」(大正4年3月)と相まって、初期の日本民俗学の方法となったといえます。柳田は、「柱松考」を発表する前に、折口の「髭籠(ひげこ)の話」を受け取り読んでいたと考えられますから、『遠野物語』につながる関心を共有できるものの出現として意を強くしたかもしれません。しかし、この「幸福」な関係は、早い時期に失われます。それは、柳田の関心が、『遠野物語』の頃の「山人」から、その後、「常民」へと転換したためです。「常民」とは、一般社会における普通の人々であり、その普通の人々が営んでいる日常生活、そこでの生活習慣や生活意識こそを解明すべきとしたのです。

それゆえ、同じ日本の神についてみる場合も、柳田にとっての神は、祖先神=産霊(うぶすな)神であったのに対し、折口にとっての神は、異郷から訪れるまれびと神でした。関心の対象となる人々も、柳田は、定住者すなわち自作農や自営業者であったのに対し、折口は、非定住者、非農民、漂泊民であり続けました。

折口は、自らの学問を『古代研究』として世に問います。民俗学編1、民俗学編2、国文学編の3冊からなるこの著作が、最初に出版されたのは昭和4(1929)年東京大岡山書店からでした。折口は、この国文学編の冒頭に、まれびと論(「国文学の発生」第三稿)を掲げます。しかし、この論考は、最初に、柳田の主催する雑誌『民族』へ投稿され、柳田はこの掲載を拒否しました。

折口のいう「まれびと」とは、来訪する神をいい、「神が時を定めて、邑々(むらむら)に下って、邑の一年の生産を祝福する語を述べ、家々を訪れて其家人の生命・住宅・生産の祝言を聞かせるのが常である」、巫祝(ふしゅく)あるいは語部に取り付いて呪言を述べる異界ないし異郷の神でした。「私は折口氏などとちがつて、盆に来る精霊も正月の年神も、共に家々の祖神だらうと思つて居るのである」、「折口君は直感が早すぎる」。柳田は、このように折口を批判するようになります(西村亨「まれびと」『折口信夫事典 増補版』大修館書店、1998年)。

日本民俗学が解明すべき課題、そのための研究対象・対象分析の方法が、柳田において、早期に転換したことが、そうした折口との緊張関係を高めたのでしたが、そこでのキー概念は「常民」でした。柳田自身は、第二次大戦後、常民について次のように語っています。「庶民を避けたのです。‥‥常民と庶民をおのずから分って、庶というときはわれわれより低いもの、インテリより低いものという心もちがありますし、常民というときには、英語でもコンモンという言葉を使う。コンモンスという言葉は卑しい意味はないのだということをイギリス人はなんぼ講釈したかわからない。フォークというのでもそれ自身が見さげたことではない」(『近代文学』新年号、1957年)。

しかし、仔細に見ていくと、この「常民」概念は、柳田自身においてもかなりの変遷を経たようです。第一段階は、日本人の先住民としての山人と里方の常民という把握で、里人=常民は研究対象ではありませんでした。『遠野物語』の時期です。第二段階は、上層の人と区別した大衆や庶民、凡人に近い用法で、「所謂民間伝承を保持する人々」が常民となりました。これらの人々が研究対象となり、そのために柳田は膨大な資料収集を行います。昭和戦前の時期です。第三段階は、単に普通の人々ではなく普通のことをしている人々が常民であるというもので、「文化概念としての常民」というような把握がなされています。第二次大戦後に、自分の研究を総括する時期で、上述の『近代文学』での座談会がそれを示しています(鳥越皓之「常民と自然」『国立民俗博物館研究報告』第87号、2001年)。

これに対し、折口は、遊民であり、漂泊者であり、少数者であるという立脚点を生涯保持しつつ、日本人の精神生活の原点を追求し続けたのでした。折口が現在まで多くの人々に言及され、研究され続けるのは、この故でしょう。

学長  伊藤 正直

1月 大妻加賀寮と『遠野物語』

新宿区市谷加賀町に、大妻加賀寮があります。定員355名の女子寮で、エレベーター、トレーニングルーム、和室、ライブラリー&ラウンジ、オープンキッチン、カフェ・売店、会議室、音楽室、洋裁和裁学習室、レクリエーションルーム、コインランドリー、浴場、シャワールームなどの共用設備があり、外も内もモダンな建物です。入寮している大妻女子大生は、ここから毎日、千代田区三番町あるいは多摩市唐木田のキャンパスに通っています。

この大妻加賀寮の道路に面した植え込みに、「『遠野物語』誕生の場所 柳田國男旧居跡」という説明板が設置されています。遠野物語百周年を記念して旧居跡を明示したいという依頼が岩手県遠野市からあり、これに本学が応えて、平成22(2010)年に設置されたものです。柳田國男は、昭和2(1927)年に世田谷区成城に移るまでの27年間をこの地で過ごしました。説明板には、柳田家邸宅平面図も併設されています。なお、成城の住居の方は、平成元年、長野県飯田市に移設され、飯田市美術博物館の付属施設として公開されています。遠野市による説明板はもう一つ、文京区水道の凸版印刷トッパン小石川ビルにもあります。こちらは遠野物語の語り手、同地出身で当時早稲田大学在学中だった佐々木喜善(筆名:佐々木鏡石)の下宿跡です。

日本民俗学の父といわれる柳田が『遠野物語』を出版したのは明治43(1910)年のことでした。柳田は、明治33(1900)年、東京帝国大学を卒業後、農商務省に入り、農政官僚としてそのキャリアをスタートさせます。晩年に著した自伝『故郷七十年』(1959年)のなかで、「(子供のころ飢饉に遭遇した)経験が、私を民俗学の研究に導いた一つの理由ともいへるのであつて、飢饉を絶滅しなければならないといふ気持が、私をこの学問にかり立て、かつ農商務省に入る動機にもなつたのであつた」と回顧しています。農政官僚として、農村を回り、農民の話を採集するなかで、民俗学に導かれたというのです。

『遠野物語』初版序文で、柳田は次のように述べています。「此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分折折訪ね来り此話をせられしを筆記せしなり。‥‥思ふに遠野郷には此類の物語猶百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。」

明治42(1909)年8月に遠野郷を訪ねた柳田は、また次のようにも述べています。「我が九百年前の先輩今昔物語の如きは其当時に在りて既に今は昔の話なりしに反し此は是目前のできごとなり。‥‥近代の御伽百物語の徒に至りては其志や既に陋(ろう)且つ決して其談の妄誕に非ざることを誓い得ず。窃(せつ)に以て之と隣を比するを恥とせり。要するに此書は現在の事実なり。」

遠野物語の口述者であった佐々木と柳田が知り合ったのは明治41(1908)年のことだそうです。佐々木は、以後毎月のように柳田邸を訪れ、遠野で語られているさまざまの話題や不思議な伝承などを柳田に伝えました。その多くは、昔話でも民話でもなく、「目前のできごと」であり「現在の事実」だというのです。

では、『遠野物語』で語られているのは、どのような話でしょうか。話は、一話ごとに番号が振られ、全部で119話からなっています。その多くは、村人と異界、異人、異類との接触・交渉の物語です。神隠しの話があります。姥捨ての話もあります。死者との遭遇もあります。家の神、田の神、山の神も出現します。年を経た猿や狼、熊や狐も出てきます。雪女、天狗、河童も登場します。

なかで、『遠野物語』の柱の一つとなっているのは、山人(やまびと)の話です。山人とは、柳田によれば「川魚を捕り籠ササラ箒の類を作りて売り又箕を直すを業とし一所不住ニて‥諸所を移住しあるくもの」で、農民とは異なった狩猟、採集、木地製造などを生業とする漂泊の民をいいます。柳田の山人に対する関心は当時から強く、明治42(1909)年には、宮崎県椎葉村で聞き書きした狩猟の話を『後狩詞記』として自費出版しています。『遠野物語』は、これに続くもので、その後も雑誌『郷土研究』に「山人外伝資料」を掲載、大正15(1926)年には『山の人生』を纏めています。ちなみに、山の人生の第一話は、飢饉による山人の子殺しの話で、自伝の語りを裏付けています。

柱のもう一つは、土俗的な神あるいは精霊の話です。オクナイサマ、オシラサマ、コンセサマ、オコマサマ、ザシキワラシといった家の神、カクラサマ、ゴンゲサマ、サイノカミなどの里の神、山仕事をするものを守護する山神などの姿が、生き生きと描かれています。なかでも、ザシキワラシ(座敷童衆)は、旧家の座敷に出現する童子の形をした守護霊で、「此神の宿りたまふ家は富貴自在なり」として、『遠野物語』によって全国に知られるようになりました。

さらに、もう一つの柱は、獣たちと村人との遭遇の話です。年を経た猿は「よく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し」とか、愛宕山のふもとの林の中で、知人に化けた狐に化かされて相撲を取ったとか、馬と夫婦となった娘がその後天上で蚕の神となったとか、そういった話が、やはり生々しく語られています。

いずれも異界、異人、異類、つまり村人と異世界との接触・交渉の物語です。いいかえると、村人たちの日常の生活観念においては、日々の暮らしと異世界とがシームレスにつながっている、そうした共同体世界が厳然と存在していることの意味と意義を、柳田は問うたともいえます。柳田が「戦慄せしめよ」と指した平地人とは、近代化のなかで、そのような共同体が失われつつあった明治末期の日本人でした。日本民俗学は、このような形で、柳田國男によって歩みを始めたのでした。

学長  伊藤 正直

12月 女性科学者の伝記を読む

まだ子供の頃でしたが、小学校の図書室に行くと児童向け伝記本のコーナーがありました。どの小学校にもあったのではないかと思います。科学者の伝記が好きだったので、借り出しては読んでいたのですが、そこで取り上げられている人たちは、ほとんどが男性でした。地動説のガリレオ、万有引力のニュートン、進化論のダーウィン、発明王のエジソン、相対性理論のアインシュタインなどなど。女性は、二度のノーベル賞に輝いたマリー・キュリー以外にはなく、科学者以外に眼を広げても、ヘレン・ケラー、ナイチンゲール、紫式部くらいしか配架されていませんでした。

女性が科学それも自然科学を専門的に学ぶことが許されなかった時代が長く続いてきました。その背景には、女子の高等教育進学率が最近まで先進国でも低かったこと、雇用・昇進や社会規範において女性差別が続いてきたこと、性差別に加え、人種差別や経済格差などが加重したことなどがありました。しかし、そうした状況は20世紀の半ば以降、徐々に変化し、現在では、女性の大学進学率は、多くの先進国で男性を上回るようになり、数学、理学・工学、医学・薬学、情報など、広い意味での理系分野で活躍する女性も数多くなっています(残念ながら、日本では、その割合は現在でも、お隣の韓国や中国よりも低いのですが)。

そうした女性科学者たちの先駆者的な活動を紹介した本が、最近相次いで翻訳出版されました。一つは、レイチェル・イグノトフスキー『世界を変えた50人の女性科学者たち』(創元社、2018年)、もう一つは、キャサリン・ホイットロック/ロードリ・エバンス『世界を変えた10人の女性科学者』(化学同人、2021年)。前者は、見開き2頁で一人の業績を紹介したもので、中高生向け。後者は、20世紀に活躍した10人の女性科学者の生涯を、その研究だけでなく、家庭生活や社会との関わりも含めて詳しく紹介したものです。

後者の本で、取り上げられている10人は、ほぼ全員が20世紀に活躍した女性たちで、名前をあげると、ヴァージニア・アプガー(小児科・麻酔科医師)、レイチェル・カーソン(生物学者・作家)、マリー・キュリー(物理学者・化学者)、ガートルード・エリオン(生化学者・薬理学者)、ドロシー・ホジキン(化学者・結晶学者)、ヘンリエッタ・リービット(天文学者)、リータ・レーヴィ=モンタルチーニ(神経学者)、リーゼ・マイトナー(物理学者)、エルシー・ウィドウソン(化学者・栄養学者)、呉健雄(物理学者)となります。マリー・キュリーとレイチェル・カーソン以外は、一般の人たちにはほとんど知られていないのではないでしょうか。

本書の「はじめに」で、著者たちは、次のようなことを述べています。「『オックスフォードの主婦がノーベル賞を受賞』、今ならば差別的表現として引っかかるはずだ。‥1964年、デイリーメール紙に先のような見出しをつけられたドロシー・ホジキン‥本当のところは、とりこになったテーマに無我夢中で向かい、結婚生活は時に生やさしくはない状況にも陥ったが、自分としてはおおむねつつがなく過ごしたということなのだろう。3人の子供を生み、関節リウマチで体が不自由になりつつも、人道主義の立場から世界を股にかけた活動も続けた。ドロシーにとってはどれも決して特別のことではなかった。だから筆者らは迷わず彼女を10人のなかのひとりに選んだ。ほかの人選については少々時間をかけた。子供を生んだ人物を選んで、女性はすべてを手に入れることができるとほのめかす必要はあるだろうか。あるいは、取り組んでいた科学が本人のなかで何をおいても大事にしたいことだったのだろうか。家庭生活を調べ上げたところで、それは彼女たちの科学を巡る物語の一面にすぎないだろう。いろいろ迷ったが、本書では研究人生に焦点を当てることにした」。

こうして取り上げられた10人の研究人生は十人十色ですが、共通しているのは「幼い頃からのあくなき知識欲、粘り強さ、正確な実験操作、知的なものに対する集中力、信念を曲げない気性、そして洞察力」でした。また、「研究人生に焦点を当てる」としながらも、女性ゆえに受けた冷遇や社会規範の押し付けについても、ときに筆が及んでおり、社会との関わりのなかでしか研究の営み、女性の社会的活動がありえないことを気づかせてくれます。

例えば、「はじめに」でもふれられたドロシー・ホジキンは、X線構造解析により、1945年にペニシリン、56年にビタミンB12、69年にインスリンの分子構造を決定し、前2者の功績で64年にノーベル化学賞を受賞します。しかし、これらの成果は順風満帆に達成されたわけではありませんでした。オックスフォードに入学した1920年代末になっても、女性に学位を授与するようになったのは、その数年前からだったし、講義で女性を排除している科目もありました。また、当時イギリスにはマリッジ・バーという制度があり、結婚すると仕事を諦めることとされていました。出産で無給になる危険もありました。出産直後から、長く関節リウマチに苦しめられました。こうした困難を、ドロシーは一歩一歩乗り越えていき、オックスフォードで有給の出産休暇を取った初めての女性となりました。また、彼女が大学教授の職を得たのは、50歳となってからでした。ほかの9人の研究生活も、決して聖人列伝ではなく、彼女たちが直面したさまざまな困難が、率直に淡々と描かれています。

この本を読み進んでいくなかで、アン=マリー・スローター『仕事と家庭は両立できない?「女性が輝く社会」のウソとホント』(NTT出版、2017年)がアタマをよぎりました。スローターは、プリンストン大学ウッドロー・ウイルソン公共政策大学院院長を務めているとき、ヒラリー・クリントン国務長官の要請で、国務省政策企画本部長に就任しますが、中学生であった長男の停学、逮捕などの家庭問題に直面し、2年間で本部長を辞任し、プリンストン大学に戻ります。この本は、その経験を語ったものです。

「1970年代に青春を送り、女性運動に影響を受け、女性のチャンスと力と未来を信じて努力してきた私」、「フルタイムのキャリアを持ち、男性と同じペースで出世の階段を上り、同時に家庭の世話をして活発な家庭生活を送る(しかも完璧な体形を維持して頭のてっぺんからつま先まできれいにしておく)ことができなければ、それはあなた自身のせいだとほのめかしている」私。「そんな考え方はおかしい」と思うようになった経緯が、自分自身の経験に照らして詳しく書かれています。

「(女性)は必死に仕事に打ち込んでいればすべてを手に入れることができる」、「協力的な相手と結婚すればすべてを手に入れることができる」、「順番を間違えなければすべてを手に入れることができる」という決まり文句から「女性神話のウソとホント」が、次いで「男性神話のウソとホント」が、さらに「職場のウソとホント」が検討されていきます。「仕事と家庭の両立を困難とする」のは「女性の問題」ではなく「職場と社会の問題」であることの発見のプロセスです。ぜひ両書を手に取ってほしいと思います。

学長  伊藤 正直

11月 からだ・ことば・コミュニケーション

NHK総合で、「古見さんは、コミュ症です。」という夜ドラが9月6日から8週連続で放映されました。「誰もが振り向くほど美しい女子高校生古見さんは、実は人と話すことがほとんど出来ない悩みを抱え続けている。高校生活スタートの初日、古見さんは、平凡で小心者の男子同級生・只野くんと急接近。二人は、ある途方もない目標に向かって、ぎこちなくも健気な一歩を踏み出すのであった」と、番組紹介にはあります。

池田エライザを始め、増田貴久、吉川愛、城田優、溝端淳平など、すでに高校生活を終えてかなり経つ俳優たちが、濃いキャラの高校生役を演じた番組でした。原作は、少年サンデー連載中の人気漫画、オダトモヒト「古見さんは、コミュ症です。」。単行本は、現在、23巻まで刊行されており、10月からはTVアニメもスタートしています。

医学的概念としてのコミュニケーション障害は、近年、かなり認識が進み、研究も臨床も進められています。しかし、「コミュ症」という言葉は、コミュニケーション障害と重なる部分もあるのですが、どちらかというとBBSやSNSから発生したネット用語で、社会生活におけるコミュニケーションに困難をきたすいろいろな症状を指すことが多いようです。

例えば、挨拶がきちんとできない、社会的状況に応じた適切な話し方ができない、人と情報の共有ができない、相手の話を聞かず自分の話ばかりしてしまう、相手の言いたいことを察することができない、といったことが、コミュ症の事例としてあげられます。

初対面の人に挨拶をするとき、どんな言い方をしたらいいのか、過剰に礼儀正しくなってしまうのではないか、逆に、あまりにそっけなくなってしまうのか、そんなことが心配で言葉が出てこない、そんな経験があるかもしれません。あるいは、学校の先生や部活の顧問、同級生・上級生・下級生、大人・子供、授業中と放課後、話す相手や状況によって、自然に話し方を変えることがなかなかできない、そんな経験もあるかもしれません。さらに、自分がしゃべっていることが本当のことかどうか、嘘をしゃべっているようにしか思えないのでしゃべりたくない、そんな経験もあるかもしれません。

本学でも、そうした悩みを持つ学生が、以前より少し増えているように思います。学生相談センターや教員に対して、そうした相談に来る学生が増えているからです。なかでも多いのが、「うまく友達をつくれない」、「周りが自分のことをどう見ているのか気になって仕方がない」というものです。じつは、「古見さんは、コミュ症です。」という夜ドラは、まさにその問題を取り扱った番組でした。他者に本当に触れるにはどうしたらいいか、他者と本当に関係を作るにはどうしたらいいか、という問題と言い換えることもできます。

ドラマを観ながら想起したのは、竹内敏晴『ことばが劈(ひら)かれるとき』(ちくま文庫)でした。1975年に刊行されたこの本は、刊行後40年以上が過ぎたにもかかわらず、現在でも、絶えることなく読まれ続けています。

2009年に84歳で亡くなった竹内は、劇団「ぶどうの会」、「代々木小劇場=演劇集団・変身」などを経て、竹内演劇研究所を開設した演出家でした。そして、その後「竹内レッスン」と呼ばれる独自の「からだとことば」のワークショップを、全国各地の団体、大学、高校などで行うようになり、社会の広い範囲に大きな影響を与えるようになります。竹内が50歳で著した『ことばが劈(ひら)かれるとき』は、少年時代から50歳に至る彼自身の軌跡を綴ったものでした。

彼の軌跡はとても独自でした。竹内は、生後すぐに難聴となり、中耳炎の悪化で、12歳から16歳の秋頃までまったく聞こえなくなります。その後、開発されたばかりの新薬の投与によって劇的にまず右耳が聞こえるようになり、10年を経て左耳もほぼ回復します。このため、健聴の人であれば自然に進行する言語習得を、意識的に自力で行わざるを得ず、このことが、声やことばを通して、人と人とが関係をもつことの意味を深く考えていくことにつながります。

この言語習得の過程、竹内の言葉を借りれば、「発語への身悶え」を、竹内は、次のように語っています。「私の作業は、まず、自分の見たもの、感じたことを表現する単語を見出すこと、次にそれをどう組み立てたならば他人に理解できるかを発見すること、そして、第三に、それをどう発音したら他人に届くのかを見出すことだった。しかし、私はどこからこの作業を始めたらよいか、かいもく見当がつかなかった」。「16歳の終わりごろ、ようやく耳が聞こえ始めたときから、私はおずおずと、しかし、いやおうなしに、会話、あるいは対話の世界に入りこんでいかざるをえなかった」。「日常生活では、ものやことを指示する単語があれば、ほぼ用は足りた。‥‥だが、からだの中で悶え、表現を求めているものをことば化して外へ取り出すことは別の次元に属するということを私は知った」。こうして主体としての「わたし」が登場し、「わたし」を引き渡す「他者」が立ち現れることになります。これが竹内自身の語る言語習得の過程でした。

「他者」の発見、コミュニケーションこそが、ことばの本質であるというのが、竹内の発語訓練でした。そして、このことが竹内に、続けて身体性の問題を検討させることになります。「私のように、障害のあったものを除いては、ことばは意識的操作として発せられるものではなく、食べるとか眠るとかと同じように、無意識にうながされて発する動作であり、意識は、あとからそれをコントロールするだけにとどまる。‥とすれば、ことばもまた『からだ』としてとらえられねばなるまい」。

こうして、この本を著した後、「ことば」をひらくことと「からだ」をひらくことを一体として進めていく「竹内レッスン」がはじまります。他者と本当に関係をつくるためには、まず「ことば」が相手に届かなくてはならない、そのためには、届かせることができる「からだ」がなくてはならない、そうしてはじめて自分の「こころ」も相手の「こころ」もひらくことができる。『ことばが劈(ひら)かれるとき』は、そのことを強烈に訴えています。

学長  伊藤 正直

10月 ニクソン・ショック50年とロンドンの思い出

今年の8月はニクソン・ショック50年ということで、いくつかの新聞社から、インタビューや寄稿の依頼を受けました。ニクソン・ショックとは、1971年8月15日にニクソン米大統領が発表した「新経済政策」、いわゆるニクソン声明によって、世界経済が大混乱に陥った事件のことです。ニクソン声明は、ドル防衛、雇用促進、インフレ抑制などを主要な内容とするものでしたが、その一番のポイントはドル防衛措置としての金とドルとの交換停止でした。

声明は、事前に諸外国に何ら通告なく行われたため、国際金融市場は大混乱に陥り、ヨーロッパ諸国は次々に為替市場を閉鎖、一週間後に再開された為替市場は、暫定フロート(変動相場)あるいは二重相場となりました。その後、いったんは固定相場制に復帰しますが、市場の混乱は収まらず、73年2月にまず日本がフロートに移行し、3月にはEC6カ国が共同フロートに移行します。こうして、戦後30年近く続いた固定相場制の時代は終わり、現在まで続く変動相場制の時代となりました。

声明の中核である金ドル交換停止は、戦後の国際通貨体制であるブレトンウッズ体制の崩壊を意味しました。この国際通貨体制が、ブレトンウッズ体制と呼ばれるのは、アメリカのニューハンプシャー州ブレトンウッズで、この制度作りのための会議がもたれたことによります。そこで活躍したのは、アメリカの代表を務めたH.D.ホワイトとイギリスの代表を務めたJ.M.ケインズでした。理念的なケインズ案と現実的なホワイト案が対立し、ホワイト案に沿った形でシステムが構築されたとされています。

作り出されたブレトンウッズ体制は、①IMFに加わる各国は、国際取引の決済にドルを使う、②各国は自国通貨とドルを固定平価で結び付ける、③アメリカは、ドルと金の交換を保証する、という3点を鍵とするシステムで、アメリカの圧倒的な経済力と金保有高がその支えとなっていました。調整可能な固定相場制(adjustable peg rate system)ともいわれ、ドルを唯一の基軸通貨とすることによって、固定相場制を維持しようとするものでした。

ニクソン・ショック以降、国際通貨制度は管理フロートとフリー・フロートの間を振り子のように行き来してきました。変動相場制の下で、超短期の利得を求めて、投機的資金が世界を駆け巡るなかで、金融市場の不安定性は著しく増大しました。洋の東西を問わず、あるいは先進国・新興工業国・開発途上国を問わず、通貨危機、銀行危機、国家信認危機といった金融危機は繰り返し発生しました。国際金融危機も、82年の中南米金融危機、90年代初頭の北欧金融危機、94~95年のテキーラ危機、97年のアジア通貨金融危機、2008年のリーマン・ショックと、繰り返し世界を襲いました。残念ながら、国際金融をめぐる安定的なルールやメカニズムは今日に至るまで構築されていません。

インタビューを受け、新聞原稿を書くなかで、20年以上前の1999年、半年ほどロンドンに滞在していたことを思い出しました。当時の滞在の目的は二つありました。前年の1998年にイングランド銀行法が改正され、それまでイングランド銀行(BOE)の専権事項であった銀行監督・銀行規制の権限がFSA(Financial Service Authority、金融サービス機構)に移管されました。従来は、金融システム全体の健全性を監督指導するマクロ・プルーデンスと、個別の銀行の健全性を指導・監督するミクロ・プルーデンスの両方ともを、どこの国でも中央銀行が行っていたのですが、これが切り離されたのです。BOEの担当はマクロ・プルーデンスだけになりました。このことをどう考えるか、この分離のイギリスでの1年間の総括を聞きたいというのが、滞在目的の一つでした。日本でも、こうした議論は当時行われており、金融庁が発足します。

もうひとつは、第二次世界大戦後の国際通貨体制の再建にあたって、イギリス国内で、どのような議論があり、イギリス大蔵省やBOEが、本当のところ何を考えていたのかを知りたい、ということでした。理想主義的なケインズ案と現実主義的なホワイト案という捉え方は本当に正しいのか、大西洋憲章からヤルタ会談に至るプロセスと、ブレトンウッズ会議はどのような関係にあったのか、イギリス政府の立場はどうだったのか。こうしたことを、当時のイギリス政府の内部一次資料によって知りたいと考えました。

この二つの目的のために、半年間、ほぼ毎日、BOEに通いました。前者については、担当者へのインタビューを何回か行いました。後者については、BOE地下のアーカイブで、1940年代の多くの内部文書の閲覧を続けました。それまで全く知られていなかったいくつかの事実を発見し、のちに論文や著書にまとめて、向こうの大学の研究会で発表したりしました。

調査は、ほぼ順調に進みましたが、それはロンドン滞在が快適だったためでもありました。住んだのは、ビートルズのアルバム『アビイ・ロード』のジャケットにある横断歩道、この横断歩道の真ん前にあるアビイ・ハウスという高層アパートでした。ジャケットは、4人が横断歩道を縦一列に歩いており、ポール・マッカートニーは裸足です。このアパートの隣がアビイ・スタジオで、ジャケットに映っているワーゲンの奥に見える低い塀のところです。

このアパートに住んだのは、まったくの偶然で、リージェンツ・パーク近くの不動産屋で物件を探し、何件か紹介を受けたなかで、たまたま条件に合ったのが、このアビイ・ハウスだったためです。ロンドンから南100マイルに住んでいる大家さんと家賃の値下げ交渉をして入居しました。入居後に、ここがあの横断歩道だと知り、滞在中、ビートルズのアルバムを時々聞いていました。

最寄り駅は、地下鉄のセント・ジョンズウッド駅で、毎日、地下鉄かバスを乗り継いで、バンク駅のBOEに通いました。朝9:30過ぎに入り、16:30に退出するのが日課でした。滞在が3月~9月という季節だったので、夏になると夜22:30頃まで明るく、BOE近くにあるセント・ポール寺院で毎週木曜日夕刻に開催されるオルガン・コンサートを聞いたり、BBCプロムス(夏に8週間続けて開催される一連のクラシック・コンサート)のシーズンチケットを購入して、ロイヤル・アルバート・ホールに通ったりしました。野菜や肉・魚がもう少しおいしければ、ずっと住んでもいいな、と思ったくらいでした。なつかしい思い出です。

学長  伊藤 正直

9月 アジアを知る、日本を知る

先月に続いて、シリーズものの出版物を、もうひとつ。取り上げたいのは、平凡社『東洋文庫』です。1963年10月刊行の『楼蘭 流砂に埋もれた王都』(東洋文庫1)以来、2020年10月刊行の『ケブラ・ナガスト 聖櫃の将来とエチオピアの栄光』(同904)まで、これまで900冊以上刊行されてきました。60年近く、連綿と刊行が続いているのです。常盤色とも抹茶色とも呼ばれる深緑の布クロスで角背、背表紙のタイトルは金箔押し、しかも箱入りで値段も高く、なんでこれが文庫と名付けられているのかと、『東洋文庫』を知った当時には思ったものでした。

平凡社の『東洋文庫解説目録』は、『東洋文庫』について、次のように自己規定しています。「人類文明の黎明はアジアにあった。アジアが内蔵する英知と普遍の真理を、平易な現代文に訳出する東洋古典の一大集成。地域的には日本、中国、インド、イスラム圏に及ぶ広大な東半球を、歴史的には古代から現代まで、著名な古典に限ることなく、埋もれようとしている価値ある書物をも意欲的に再発掘して、読書界に提供する」と。

東洋というと、従来は、思想・文化の分野では、インド、中国が、史学や社会経済学の分野では、東アジア、東南アジアが主たる対象でした。しかし、本文庫では、最新刊の『ケブラ・ナガスト』にも見られるように、西アジアや中央アジアのものを数多く収録しています。また、古典といわれる作品にとどまらず、笑話や怪異譚、世間話や歌垣、探検紀行やアジア訪問記まで、幅広い範囲が採られています。ここに『東洋文庫』の特色があるといえます。

僕が、『東洋文庫』で最初に手にしたのは、R.グレーヴス『アラビアのロレンス』(同5、1963)だったように記憶しています。デビッド・リーン監督の映画「アラビアのロレンス」を観たことがきっかけでした。映画は、第一次世界大戦下、トルコに圧迫されていたアラブ民族独立に尽力したとされる考古学者でイギリス陸軍少尉トマス・エドワード・ロレンスの波乱に満ちた半生を、壮大なスケールと美しい映像で描き、ピーター・オトゥール、アレック・ギネス、アンソニー・クイン、オマー・シャフリ等、名優たち(今の若い人たちは誰も知らないかな)の熱演に目が釘付けになる名作でした。この映画の印象がとても強かったので、しばらくたってから、この本があることを知り、入手したのが、『東洋文庫』との出会いでした。

その後、ロレンス自身の回想録である『知恵の七柱』3冊(同152、181、200)、『ナスレッディン・ホジャ物語 トルコの知恵ばなし』(同38)、『ペルシア放浪記 托鉢僧に身をやつして』(同42)、『ペルシア逸話集 カーブースの書・四つの講話』(同134)、『王書 ペルシア英雄叙事詩』(同150)、『カリーラとディムナ アラビアの寓話』(同331)など、アラビア圏、イスラム圏を対象とした『東洋文庫』を、しばらく読みふけることになりました。中央アジア、西アジアをめぐる本が、他にはあまりなかったからです。

自分の研究がらみでも、『東洋文庫』には何冊かお世話になりました。西原亀三『夢の七十余年 西原亀三自伝』(同40)、宮崎滔天『三十三年の夢』(同100)、吉野作造『中国・朝鮮論』(同161)、呉知泳『東学史 朝鮮民衆運動の記録』(同174)、朴殷植『朝鮮独立運動の血史』(同214、216)、『バタヴィア城日誌』(170、205、271)などがそうで、特に、西原亀三『夢の七十余年』は、第一次大戦下に、中国軍閥の段祺瑞との間で締結された1億4500万円の経済借款、通称「西原借款」の裏面史を明らかにするもので、助手修了論文を執筆する際の助けとなりました。

『東洋文庫』の森に踏み込むと、その森の深さに驚かされます。お隣の朝鮮や中国、東南アジアの諸地域について、全く知らなかった世界が見えてくるだけでなく、自分の国日本についても、正史では触れられてこなかった世界が、次々に現れてきます。これまで読んできた本でみると、江戸期についてだけでも、30歳から晩年まで旅に人生を費やした旅行記『菅江真澄遊覧記』(同54、68、82、99、119)、徳川幕藩体制下の地理、風俗、巷談、異聞を集積した『武江年表』(同116、118)、有名無名の人物評伝からなる『近世畸人伝・続近世畸人伝』(同202)、江戸中期の奉行職を務めた根岸鎮衛が世態・風俗・民間伝承を集めた『耳袋』(同207、208)、肥前平戸藩主松浦静山による随想集『甲子夜話』(同306以下全20冊)、棋院林家11世林元美による江戸期の碁打ちの物語『爛柯堂棋話 昔の碁打ちの物語』(同332、334)など、取り上げられているテーマは多彩を極めています。

幕末維新期の外国人による日本滞在記、日本旅行記も、かなりの数が収録されています。安政の頃、海軍伝習所教官として来日したオランダ士官カッテンディーケによる『長崎海軍伝習所の日々 日本滞在記抄』(同26)、幕末に来日、横浜で英字新聞を始めたブラックの『ヤング・ジャパン 横浜と江戸』(同156、166、176)、大森貝塚の発見者で日本動物学の創始者モースによる『日本その日その日』(同171、172、179)、イギリス人女性イザベラ・バードの日本奥地旅行記『日本奥地紀行』(同240、819、823、828、833、840)他、ディキンズ『パークス伝 日本駐在の日々』(同429)、グリフィス『明治日本体験記』(同430)、アーネスト・サトウ『日本旅行日記』(544、550)、同『アーネスト・サトウ 神道論』(同756)、同『明治日本旅行案内 東京近郊編』(同776)、『シーボルトの日本報告』(同784)、『クレットマン日記 若きフランス士官の見た明治初年の日本』(同898)など、こちらも大変多様です。

いずれも読みごたえのあるものですが、なかでもイザベラ・バード『日本奥地紀行』(原著は、Isabella L. Bird, Unbeaten Tracks in Japan, 1885)は、『東洋文庫』のなかで最もよく読まれてきた1冊といっていいでしょう。イザベラ・バードは、牧師の娘で、病弱だったのですが、医師の転地療養の勧めで旅行を始めることになります。最初は、アメリカ、カナダ、次いでオーストラリアに旅するのですが、1878(明治11)年、47歳の時、アメリカから上海経由で横浜に到着、そこで東北、北海道旅行を企図します。この旅行記が『日本奥地紀行』で、エディンバラに住む妹に宛てた手紙を基にしています。これがめっぽう面白い。

当時の日本は、外国人はまだ国内を自由に旅行することはできず、ましてや女性の奥地一人旅は大変危険なものでした。ですので、横浜で日本人の案内者兼通訳(バードの言葉では「召使兼通訳」とあります)を雇います。「私はこの男が信用できず、嫌いになった。しかし、彼は私の英語を理解し、私には彼の英語が分かった。私は、旅行を早く始めたいと思っていたので、月給12ドルで彼を雇うことにした」。18歳の日本人伊藤鶴吉との最初の出会いでした。そして、2人の3カ月にわたる奥地紀行が始まります。二人の関係は、改善したり悪化したりします。日光、会津、新潟、山形、秋田、青森と、旅行のなかで見聞する明治日本の一般の人々の生活が生き生きと描かれるだけでなく、函館、室蘭、白老、平取と「エゾ」の旅を続けるなかで、アイヌ民俗についても詳しく叙述しています。

中島京子『イトウの恋』(講談社、2005)は、雇われたイトウの側から、この奥地旅行を描いた小説です。佐々大河『不思議の国のバード』(ハルタコミックス、2015~、現在8巻まで刊行、連載中)は、明治日本の家族、生活、風習を、バードの側から描いた漫画です。こちらは、英語版も出版されたようです。原本と合わせ読むと一層興味深い。

じつは、この『東洋文庫』のシリーズも、ほぼ全冊が、本学の図書館に入っています。ぜひ手に取ってほしいと思います。

学長  伊藤 正直

8月 暮らしの文化史

「ものと人間の文化史」という出版物のシリーズがあります。法政大学出版局が版元で、1968年刊行の須藤利一編『船』以来、2021年6月の現在まで、200冊以上が出版されています。2021年6月の最新刊は杉山一夫『パチンコ』で、50年以上にわたって、ゆったりと、しかし、とどまることなく刊行が続いています。「文化の基礎をなすと同時に人間のつくり上げたもっとも具体的な『かたち』である個々の『もの』について、その根源から問い直し、『もの』とのかかわりにおいて営々と築かれてきた暮らしの具体相を通じて歴史を捉え直す」というのが、このシリーズの趣旨とのこと。

これまでどんなものが刊行されてきたかを、本のタイトルから見ていくと、衣食住を柱に、広義の生活文化史や生活技術史に関わる主題が取り上げられていることがわかります。ただし、海外の生活文化史、生活技術史については触れること少なく、主要な対象は、日本にほぼ限定されています。例えば、「衣」を対象とした本のタイトルをみると、『はきもの』、『ひも』、『藍』、『絹』Ⅰ・Ⅱ、『草木布』Ⅰ・Ⅱ、『木綿口伝』、『野良着』、『絣』、『古着』、『染織』、『裂織』、『木綿再生』、『織物』があります。「住」については、『番匠』、『壁』、『箪笥』、『垣根』、『屋根』、『枕』、『襖』、『瓦』、『下駄』、『井戸』、『柱』があります。

「食」を対象としたものは最も多く、食品については『塩』、『海藻』、『野菜』、『木の実』、『海老』、『鮎』、『鮑』、『鯛』、『蛸』、『パン』、『松茸』、『稲』、『もち』、『さつまいも』、『鰹節』、『梅干』、『海苔』、『粉』、『鮭・鱒』Ⅰ・Ⅱ、『麹』、『落花生』、『桃』、『鮪』、『栗』、『ごぼう』、『鱈』、『酒』、『豆』、『醤油』、『柿』が、台所道具、食具では、『箸』、『かまど』、『まな板』、『食具』、『鍋・釜』、『臼』、『篩』があります。採集・狩猟まで広げると、『狩猟』、『狩猟伝承』、『釣針』、『海女』、『貝』Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ、『採集』、『網』、『漁撈伝承』、『捕鯨』Ⅰ・Ⅱ、『カツオ漁』、『追込漁』が取り上げられています。『松茸』や『梅干』あるいは『まな板』や『篩』で1冊になっているのは、かなりマニアックです。

この他、生活道具についても、『鋸』、『農具』、『包み』、『ものさし』、『筆』、『ろくろ』、『鋏』、『桝』、『秤』、『斧・鑿・鉋』、『箱』、『曲物』、『野鍛冶』、『掃除道具』、『桶・樽』Ⅰ・Ⅱなどが取り上げられています。面白いのは、ゲーム・遊戯を主題とするものがかなりあることで、『将棋』Ⅰ・Ⅱ、『盤上遊戯』、『賭博』Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ、『碁』、『さいころ』、『すごろく』Ⅰ・Ⅱ、『チェス』、『遊戯』Ⅰ・Ⅱ、『花札』、『かるた』、そして最新刊の『パチンコ』と来ます。文化人類学や文化社会学の視点からホイジンガやカイヨワが提示してきた「遊び」が、生活行為の本質を構成する不可欠の部門であるということ、このシリーズが「暮らしの具体相」をそのようなものとして捉えようとしていることを、ここから知ることができます。

じつは、私が、このシリーズで最初に手に取ったのは、岩井宏實『曲物』(1994)でした。昔から、大舘曲げわっぱや木曽ワリゴ(弁当箱)、奈良井メンパ(飯びつ・蒸器)などが自宅に置いてあり、曲物の歴史に興味をもったことが購入の理由でした。この本がとても面白かったので、以後、機会があれば、このシリーズを手に取るようになりました。

私たちが日常使っている生活用具、とくに日本の歴史の中で長く使われてきた生活用具については、これまで、主として、手工芸ないし民芸(民衆的工芸)として取り上げられることが多かったように思います。わが国における民芸運動の創設者、柳宗悦は、戦時中の1943年には原稿を完成していた『手仕事の日本』のなかで、「実用こそはかえって美しさの手堅い原因」、「用途に結ばれずば現れない美しさ」として「用の美」、「自然な本然の状態」としての「健康の美」を強調しました。そして、バーナード・リーチ、河井寛次郎、濱田庄司らとともに、手仕事の重要性を訴える民芸運動を興します。『手仕事の日本』の事項索引をみると、生活用具全般に対して、全国を回って調査していることがわかります。「ものと人間の文化史」で取り上げている生活用具のほぼすべてを、戦前すでにカバーしているのです。曲物も、東北から九州まで、日本各地のそれぞれの工芸品を丁寧に取り上げています。

柳宗悦は、民芸の基本を、実用性、民衆性、地方性に置き、美術品とは異なる手作りの工芸品こそが重視されるべきであるとしています。しかし、工業化と産業化の進展は、低廉な機械工業製品を大量に産出し、日常の生活用具の市場、柳のいう民芸品の市場を圧迫し続けます。その結果、古くからの生活用具は市場を失い、貴重品、骨董品に転じることになります。「用の美」「健康の美」という美学的観点の強調だけでは、この限界を突破することは難しいでしょう。

岩井宏實『曲物』は、柳宗悦よりも幅広い視点で、曲物を取り上げています。本の最初の4章で、「水をめぐる生活と曲物」、「飲食用具としての曲物」、「衣と住と曲物」、「生業と曲物」と日常生活で使われる曲物が紹介されます。次いで、「諸職と曲物」(5章)で曲物を使う職業が列挙され、6章以下で、「運搬具としての曲物」、「霊の器としての曲物」、「正月・盆の曲物」、「民俗芸能と曲物」、「神事・仏事と曲物」と、この諸職と関連付けながら、曲物の使用例が紹介されていきます。最後の3章は、「曲物の技術」、「曲物の変遷」、「曲物風土記」で、それぞれの地方での曲物生産のありかたが紹介されます。民俗学、文化人類学、社会学、生活科学といった広い視点からの提示です。

文化庁は、「(日本)近代の生活文化・技術には、近代の我が国の国民の生活の理解に欠くことのできないものを多く含んで」いるにもかかわらず、「我が国の近代の生活文化・技術は、全国的規模での都市化と生活の均質化が進んでおり、併せて著しい変化の中で生成・消滅を繰り返している」と述べています(文化庁「近代の文化遺産の保存・活用に関する調査研究協力者会議生活文化・技術分科会報告書」1996年7月)。こうした観点からも、「ものと人間の文化史」のシリーズは、放置すれば消滅しかねない日本近代の生活文化・生活技術を記録するとともに、その維持・発展を追求する貴重な試みといえます。本学の図書館にもこのシリーズは、ほとんどが開架に配架されています。ぜひ手に取ってもらいたいと思います。

学長  伊藤 正直

7月 科学と社会

科学という言葉が、わが国で初めて使われたのは明治に入ってからのことでした。1874(明治7)年の『明六雑誌』での西周の論文が初出のようです。開国に伴い、近代西欧文明が滔々(とうとう)と流れ込んでくるなかで、それまでの日本にはなかったさまざまの概念語が作られました。そこで、scienceの訳語として考案されたのが「科学」で、「主観」「客観」、「帰納」「演繹(えんえき)」、「理性」「感性」なども西周の考案とされています。そういえば、大河ドラマで放映中の渋沢栄一も、bankの訳語として「銀行」を考案したと自ら回顧録で述べています。

なぜ、西周が、scienceに「科学」という訳語を当てたかというと、当時日本に流入してきた19世紀後半の西欧scienceが、物理学・化学・生物学・博物学・地質学といったさまざまな分野に専門分化した学問領域となっており、これらを総称してさまざまな「科」からなる「学」問ということで、「科学」としたとのことです(古川安『科学の社会史』ちくま学芸文庫、2018)。専門分化した学問領域の導入に際して、明治政府は、それを担う諸制度、すなわち、学校、学会、資格試験、試験研究機関などの諸制度も併せて導入しました。すでに、西欧自然科学が制度化されていたためです。

19世紀の西欧における自然科学は、それ以前の西欧自然科学と比べて際立った特徴がありました。ルネサンス期以降の自然科学が、実証主義・経験主義に立脚しながら、神の摂理を自然を対象として解明する自然哲学(natural philosophy)として展開されてきたのに対し、市民革命と産業革命を経るなかでの19世紀の自然科学は、制度化・職業化・専門分化・技術化が進み、神学や哲学から離れ、独立した領域となったのでした。OED(オックスフォード英語辞典)に科学者=scientistという用語が登場したのも1840年のことで、現在も世界で最も権威ある学術誌とされている『Nature』が創刊されたのは、それから29年後の1869年のことでした。創刊号の表紙には、副題として A WEEKLY ILLUSTRATED JOURNAL OF SCIENCE とあります。

渋沢栄一は、将軍・徳川慶喜の弟・徳川昭武に随員として1867年パリに赴任し、ナポレオン三世の招待でパリ万国博覧会を観参します。1851年のロンドン大博覧会で水晶宮を建築し、自国科学の先進性を誇った英国は、16年後のパリ万博では、出品90品目のうち、受賞はわずか10品目という惨憺(さんたん)たる結果に終わり、このことが、英国政府による科学への直接介入、科学研究のパトロンとしての国家の登場を促したといわれています。

20世紀に入ると、国家の役割は一層大きくなります。そのきっかけとなったのは2度の大戦でした。第一次世界大戦は「化学者の戦争」といわれ、第二次世界大戦は「物理学者の戦争」といわれました。第一次大戦で実戦に使用された毒ガスは約30種、研究対象として取り上げられたのは3,000種以上に上り、ガスによる兵士の死傷者は約53万人、非戦闘員を含めると100万人近いと推定されています。この化学戦のために動員された研究者の概数は、独2,000人、米1,900人、英1,500人、仏100人、4カ国併せて5,500人に上るといわれるそうです(古川、同上書)。

第二次大戦における原爆の開発については、すでに多くの事柄が語られています。1943年ニュー・メキシコ州の砂漠の中の町ロスアラモスに「マンハッタン計画」の名のもとに作られた研究所は、終戦までの間に、総額20億ドルの資金と科学技術者12万人を投入し、産官学を巻き込んだ未曽有の国家プロジェクトとなり、3発の原爆を製造することになります。そして、この原爆は、広島、長崎に投下され、日本を無条件降伏に導きます。

原爆がもたらした悲惨を知ったマンハッタン計画の責任者オッペンハイマーは、戦後まもなくMITで開催された講演会で核兵器の国際的管理を訴え、水爆の開発計画に反対しましたが、機密漏洩の疑いにより公職を追放されました。1954年には、ラッセル=アインシュタイン宣言が出され、核軍縮と平和を訴えるバグウォシュ会議へと発展しました。1962年には、湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一提唱で科学者京都会議が開かれ、核廃絶と平和を訴えました。こうして、第二次大戦後、科学者の社会的責任という問題が初めて登場することになります。

戦後登場した科学者の社会的責任を考えるとき、念頭に浮かぶのは、廣重徹『戦後日本の科学運動』(中央公論社、1960)や柴谷篤弘『私にとって科学とは何か』(朝日選書、1982)です。そこで問題となっているのは、多くは「科学の体制化」であり、学問対象も主に物理学でした。しかし、現在では、対象となる領域は、温暖化や大気汚染などの環境問題に始まり、生命工学、食品安全、薬害、自然災害や産業災害など著しい広がりを見せています。科学研究の対象も、かつてのような要素還元的方法、因果連関の束を解明する方法で解明が十分可能であった段階から、不確定性や確率分布や関係性などの「複雑系」とも称される領域へと広がりつつあります。科学と技術の関係、科学と工学の関係が変化しているだけでなく、社会科学や人文科学との関係も従来とは異なったものとなっています。

今日では、科学者の社会的責任は以下の3つの相からとらえる必要があるとされています(藤垣裕子「科学者の社会的責任の現代的課題」『日本物理学会誌』65-3号、2010)。それは、①科学者共同体内部を律する責任(responsible-conduct)、②知的生産物に対する責任(responsible-products)、③市民からの問いへの応答責任(response-ability)の3つです。①は、研究不正の問題がしばしば語られますが、それにとどまらず、より広い研究の自律性と公共性への自覚の問題です。②は、作ろうとするもの、作ってしまったものの社会に対する影響についての責任です。先の原爆がその代表例です。

難しいのは③です。「その研究の意味は?」から始まり、「何の役に立つのか?」、「科学的根拠は?」、「判断基準は?」、「危険性は?」、「以前と逆の結果が出ているが?」、「経済的効果は?」、「経済的コストは?」とか、あらゆる質問が、外部から寄せられます。これらの質問は、一面では、科学に対する大きな期待から、他面では、科学に対する不十分な知識から発せられます。科学の側も、科学的不確かさが残る形で研究と研究成果が進展するという領域が増えています。科学の側が、応答責任をできる限り果たすようなシステムを作ること、科学の側にある不確定性を科学外部ができる限り理解できるようなコミュニケーションを拡張していくことが求められているといえます。

学長  伊藤 正直

6月 なぜ疑似科学がはびこるのか?

今年に入って、SNS上で陰謀論という言葉が飛び交っています。きっかけは、2021年1月6日に起きた、アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件でした。アメリカの巨大匿名掲示板4chanに登場したQアノンと呼ばれる人物が、トランプ支持、民主党批判のさまざまな根拠のない陰謀論を連続的に投稿し(その投稿数は、2020年12月までの約3年間で4,953回にも上ったといわれています)、それを信じた人々が、選挙に不正があるとして議会議事堂に乱入したのでした。

Qアノンの投稿には、古代アトランティス、大洪水から、ロスチャイルド、フリーメイソン、シオンの賢者議定書、軍産複合体、など、「隠された歴史」と称するありとあらゆるものが詰め込まれています。そして、表の世界では認められていないが、隠された真実は歴史を論理一貫してたどれば自ずと現れてくるというメッセージが強く出されます。間違った認識は計画的・系統的に提供されており、そうした間違った認識を強要する組織が存在する。その組織に対する闘いを遂行することで、正しい認識にたどり着き、真実の世界を実現することができるというのです。

このQアノン派の言説の一つに新型コロナウイルス感染症の否定がありました。「コロナ感染が拡大している」、「コロナ感染は深刻だ」というデマを、民主党や専門家が流すことで、経済を停滞させ、大統領選を有利に進めようとしているというのです。日本のTVでもしばしば放映された米国立アレルギー・感染症研究所長のアンソニー・ファウチは、陰謀団体ディープステートの一員であり、トランプ大統領に対する妨害工作を行っているというキャンペーンがはられたのでした。これは、科学をめぐる陰謀論といってもいいでしょう。

現在、新型コロナウイルスの累計感染者は世界で1億6327万人を超え、死者数も338万人を上回っています(2021年5月18日現在)。米国の感染者数も3299万人、死者数も60万人に達せんとしています(同前)。こうした事実があるにもかかわらず、マスク拒否、検査拒否、ワクチン拒否、3密は何の問題もないという人々が、米国には一定数存在し、新型コロナウイルス感染症の重篤性を否定し続けてきたのです。

なぜ、こうしたことが起きるのでしょう。陰謀論は、これまでは、主として政治・経済あるいは歴史・宗教を対象とするものでした。科学をめぐる陰謀論はほとんどありませんでした。それは、科学ないし科学的方法に対する信頼を人々が持っていたからでしょうか。そうではないでしょう。古くは、錬金術、超能力、オカルトから、ニューサイエンスまで、科学をうたいながら科学を否定する流れは、ずっと存在してきたからです。これらは、疑似科学と総称されています。科学をめぐる陰謀論の登場は、この疑似科学と関係があるように思います。

かなり前になりますが、宇宙物理学者の池内了に『疑似科学入門』(岩波新書1131、2008年)という本があります。そこでは、疑似科学を3種類に分類しています。第1のタイプは、「現在当面する難問を解決したい、未来がどうなるか知りたい、そんな人間の心理(欲望)につけ込み、科学的根拠のない言説によって人に暗示を与えるもの。占い系(おみくじ、血液型、占星術、幸運グッズなど)、超能力・超科学系(スピリチュアル、テレパシー、オーラなど)、『疑似』宗教系がある」というものです。主として精神世界を扱っているので、実証も反証も不可能というところに特徴があります。信用する人々に精神の安定を与えてくれます。

第2のタイプは、「科学を援用・乱用・誤用・悪用したもので、科学的装いをしていながらその実体がないもの」。具体的には、①科学的に確立した法則に反しているにもかかわらず、それが正しい主張であるかのように見せかけているもの、永久機関、ゲーム脳、水の記憶など、②科学的根拠が不明であるにもかかわらず、あたかも根拠があるかのような言説でビジネスの種になっているもの、マイナスイオン、健康食品など、科学用語や物理学用語を乱用する、③確率や統計を巧みに利用して、ある種の意見が正しいと思わせる言説、見かけの相関を因果関係としたり、意図的に事実誤認をさせたりする、といったいくつかのサブタイプがあります。こちらは物質世界が対象ですから、科学的用語を乱用し、科学的装飾を満載しています。これらは、科学的合理性を持っていると称する人々、科学を偏愛する一部の人々に、自分の判断の正当性を与えます。「確証バイアス」が働きやすい領域といってよいようです。

第3のタイプは、「『複雑系』であるがゆえに科学的に証明しづらい問題について、真の原因の所在を曖昧にする言説で、疑似科学と真正科学のグレーゾーンに属するもの」。例えば、環境問題、電磁波公害、遺伝子組み換え食品、地震予知、環境ホルモンなどに対する特定の立場からの断言などがここに属します。「複雑系」に属する問題を疑似科学といってよいかどうかは、私は疑問です。著者も「第三種を疑似科学と呼ぶべきかどうかについても異論があるかもしれない」と限定しています。「第三種疑似科学は、これら複雑系にかかわる問題で、それを要素還元主義の考え方で理解しようとすることからくる誤解・誤認・悪用・誤用などを指す」とも述べています。じつは、冒頭に述べたQアノン派の新型コロナ感染症の否定は、この第2のタイプと第3のタイプの混合物といえます。

要素還元主義的方法では解が得られない「複雑系」に関わる問題が数多く顕在化し、科学がそれに取り組まざるを得ない状況が現代だといっていいでしょう。本書でも、「疫学は信用できるのか」という項目を立てて、「疫学は、複雑な現象や原因が不明な現象を前にして、統計調査を通じて可能性の高い原因に絞り込み、未来への対策を提言する試みといえる」と予測不定現象に対して、「予防措置原則」を貫くことを提案しています。

科学が高度化し、複雑化すると、一般の人々、つまり非専門家は、その適否について判断することが困難となってきます。専門家への判断の丸投げが一方で起こります。しかし、他方、SNSの急激な発展と拡大は、こうした領域への非専門家の参入を容易にします。断片的知識や部分的知識のままで、誰もが議論に参入できます。ここから科学への盲信と、そのメダルの裏側としての科学不信・科学否定が起こります。判断の手順がわかること、判断の根拠がわかること。疑似科学からの解放のためには、この透明性を高めていくことがまず必要ではないでしょうか。

学長  伊藤 正直

5月 公文書管理のあり方をめぐって

先月に続いて文書館の話をもう少し。文書館のなかで大きな位置を占めているのは公文書館です。公文書とは、国や地方自治体などの行政機関が行う諸活動やその結果として生まれた歴史的事実の記録をいいます。このうち国や独立行政法人の記録を管理・保存・利用するための施設が国立公文書館で、「行政文書等の適切な管理、歴史公文書等の適切な保存及び利用等を図り、もって行政が適切かつ効率的に運用されるようにするとともに、国及び独立行政法人等の有するその諸活動を現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにする」(「公文書管理法」2009年7月法律第66号)ことが、その目的とされています。

公文書館は、現在、世界の多くの国に設置されていますが、日本の公文書管理法が規定するような意味での公文書館が誕生したのは、近代に入ってからのことでした。欧米で最も早かったのはフランスで、フランス革命の翌年1790年に開設されました。自らの施策の民衆への告知と、施策の保管・維持が設立の目的でした。イギリスの公文書館(The National Archives, TNA)設立はフランスに遅れること約半世紀の1838年、そこには11世紀以来のイギリスの内政と外交に関わる膨大な公文書類が保管されています。ロンドン郊外の王立植物園(キュー・ガーデン)の一角に建つ白亜の建物が現在のTNAで、その保有資料は、政府関係者、研究者だけでなく、広く一般に公開されています。

アメリカでは1934年に公文書館法が制定され、公文書館(National Archives and Records Administration, NARA)専用のビルがワシントンD.C.に設置されました。ここには、「独立宣言書」のほか「権利章典」、奴隷売買契約書、移民記録、従軍記録、外交文書、連邦各省庁の記録が保管・管理されています。その後1994年にワシントンD.C.郊外のメリーランド州カレッジパークに新館が設置され、新館には、第一次世界大戦以降の諸資料や、占領行政関係資料、写真や映像フィルムなどが保管・管理されることになりました。日本占領期のGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官)文書もここにあります。

アジアにも公文書館は広く存在します。中国では歴代王朝が、前代王朝の正史を編纂(へんさん)する役割を負うこととされてきたため、政府文書の系統的保管が伝統となっており、近代中国の公文書館もそうした枠組みを引き継ぐ形で発足しました。現在、中華人民共和国には、明清代の公文書を保管する第一歴史档案(とうあん)館、中華民国期の公文書を保管する第二歴史档案館、1949年以降の公文書や中国共産党関連文書を保管する中央档案館の3館が、公文書館として設置されています。韓国では、1969年に政府記録保存所が開設され、植民地時代の旧朝鮮総督府文書と韓国政府文書を系統席に整理・保管する体制が整備され、2004年に国家記録院と改称され、現在に至っています。

東南アジアの公文書館も独立以後続々と開設されました。1945年に独立したインドネシアは1950年、1957年に独立したマレーシアは1957年、1965年に独立したシンガポールは1968年に、それぞれ国立公文書館を開設しています。また、唯一独立を維持してきたタイでも1952年に国立公文書館を開設しました。長い植民地統治とその後の南北分断、ベトナム戦争を経験したベトナムでは、1963年に、国立公文書センターがフランス植民時代のハノイ中央文書館を引き継ぐ形で開設され、その後、第二次大戦後の南べトナム政府文書や1976年以降の南部地域公文書を保管する第二国立公文書センターがホーチミン市に、同じく第二次大戦後の北ベトナム政府文書や1976年以降の北部地域文書を保管する第三国立公文書センターがハノイ市に開設され、この3館で公文書の保管・管理が行われています。

こうした世界の公文書館の歴史と比較すると、わが国の公文書館が開設されたのは、かなり遅くなってからで、1971年のことでした。国立公文書館設置の要望は、1959年の時点で、日本学術会議会長から内閣総理大臣に勧告が出されていたのですが、設置まで12年かかったのです。国立公文書館は、1987年に公文書館法、1999年に国立公文書館法が制定され、国の各機関が所蔵している公文書などの保存と利用(閲覧・展示など)に関する責務を果たす施設として、正式に位置付けられるようになりました。また、1998年にはつくば研究学園都市内に、つくば分館を設置して、書庫等の拡充を行い、公文書収集の条件を拡張しました。さらに、2001年には、国立公文書館の組織としてアジア歴史資料センターを開設し、国立公文書館および外務省外交史料館、防衛省防衛研究所図書館などの国の機関が保管するアジア歴史資料をデータベース化し、インターネットなどを通じて情報提供を行うようになりました。

2001年の情報公開法、2011年の公文書管理法の施行により、日本の公文書管理体制は、21世紀に入って、制度的にはようやく一定整備されました。しかしながら、上に述べた欧米やアジアの公文書管理体制に比べると、いまだにかなりの立ち遅れがみられるといわざるを得ません。例えば、職員数だけを見ても、日本の国立公文書館(188人)は、アメリカ(3112人)の17分の1、ドイツ(790人)の4分の1、イギリス(600人)、フランス(501人)の3分の1、韓国(471人)と比べても半分以下ですし、公文書の収容能力でも、日本(64㎞)は、アメリカ(1400㎞)の22分の1、韓国(367㎞)の6分の1、フランス(350㎞)、ドイツ(330㎞)の5分の1、イギリス(200㎞)の3分の1にすぎません(2018年現在、国立公文書館「アーカイブズ」69号)。さらに、情報公開の面でも、重要公文書の公開ルール、例えば、作成後30年経てば公開するという「30年ルール」が、多くの国で定められ、期間短縮が進められているのに、わが国では、この原則は全く定着しておらず、公文書移管の権限も公文書館側ではなく、作成官庁側にあります。

じつは、ここにあげたほとんどの公文書館に、私は過去何回も、資料収集を目的として訪問しました。また、各国公文書館加盟NGOのICA(国際公文書館会議)の世界会議(ICA世界大会)、これは4年に1回開催されているのですが、この2008年世界大会(クアラルンプール)に参加し、報告をしたこともあります。毎回、2,000人以上が集まる大規模な大会です。こうした個人的な体験からも、日本の立ち遅れを痛感しました。

情報公開法は、「行政機関の保有する情報の一層の公開を図り、もって政府の有するその諸活動を国民に説明する責務」(情報公開法総則)が政府にあるとしています。公文書管理法は、公文書は「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」であり「主権者である国民が主体的に利用し得るもの」(公文書管理法総則)と規定しています。この間、これらの原則から背馳(はいち)する事例が多々見られる現状を一刻も早く克服し、法の精神に沿った運用がなされることを期待したいと思います。

学長  伊藤 正直

4月 図書館・博物館・文書館

記録媒体としての「紙」の役割、その歴史について触れたことがあります(『学長通信』2020.10、「『紙』はどうなる?」)。さまざまな出来事を記録した記録媒体が現在まで残されてきた、そして、そのことを論じた調査・研究が数多くしるされてきたからこそ、『学長通信』でそうしたエッセイを書くことができたのですが、では、どうして、そうした記録媒体が残されてきたかといえば、それを保存し、管理し、整理する場所、あるいは組織・機関が歴史的に存在してきたからです。図書館(library)、博物館(museum)、文書館(archives)といった組織がそれです。

現在は、この3者はそれぞれ別個に存在し、その役割も区別されています。図書館は、日本の「図書館法」では、「図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資することを目的とする施設」とされています。図書館は、利用者の種別によって、国立図書館(national library)、公共図書館(public library)、大学図書館(academic library)、学校図書館(school library media center)、専門図書館(special library)、その他の施設に設置される図書館に分けられますが、あらゆる人々が自由に図書館を利用できるようになったのは、この公共図書館の成立によってで、それは19世紀後半のことでした。公共図書館では、「図書館資料の選択、発注及び受け入れから、分類、目録作成、貸出業務、読書案内などを行う専門的職員」として司書を置くことが義務付けられています。

博物館は、日本の「博物館法」では、「歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関(社会教育法による公民館及び図書館法による図書館を除く)のうち、地方公共団体、一般社団法人若しくは一般財団法人、宗教法人又は政令で定めるその他の法人が設置するもの」をいうとされています。「博物館法」は、その業務を遂行するために、博物館に館長と学芸員を置くことを義務付けています。もっとも、日本では、博物館は、これまで展示施設ないし教育施設、レジャー施設として位置づけられてきた側面が強かったため、図書館とは異なってその多くが利用料を徴収しています。

文書館のうち公文書館については、「公文書館法」では、「歴史資料として重要な公文書等を保存し、閲覧に供するとともに、これに関する調査研究を行うことを目的とする施設」であって、「公文書館には、館長、歴史資料として重要な公文書等についての調査研究を行う専門職員その他必要な職員を置くものとする」とされています。2009年には、「公文書管理法」も施行され、公文書管理の基本事項が定められています。もっとも、実際にこの法律に基づいて、適切に公文書の管理が行われているかどうかについては、近年、「モリカケサクラ」などとも絡んで、多くの疑念や批判が提出されています。公文書館以外に民間の文書館も数多くあります。企業の内部資料を保存・管理する企業アーカイブ、大学や研究機関の資料を保存・管理する大学・団体アーカイブも数多くあり、最近では、ウェブ上で史資料を保存管理するウェブ・アーカイブも登場しています。

このように、今日では、この3者は別個に位置づけられ運用されていますが、もともとは、この3者は未分化で、同じような性格を持っていました。歴史的には、文字資料を保管し、情報資源として利用したであろうという最初の施設は、紀元前3000年頃のメソポタミアにあったといわれています。考古学上明らかとなっている最も古い図書館は、古代アッシリアのアッシュール・バニパル王の設立した王立図書館で、粘土板の図書約3万枚を集めていたとされています。その後、紀元前3世紀にできたアレクサンドリア図書館の蔵書は40万冊といわれていますし、ルネサンス時代には、多くの都市に大学図書館が誕生し、メディチ家のような裕福な権力者も個人図書館を設置します。20世紀初めには、カーネギーが、アメリカに3,500もの公共図書館を設置します。

アジアのほうに目を向けると、中国では、周・漢以降、古代各王朝の政事記録が档案(「とうあん」あるいは、「たんあん」と読む)館に保管され、これは現代のアーカイブにほかならず、図書館施設の起源ともいうことができます。日本では、大宝元(701)年に国の蔵書管理組織としての図書寮(ずしょりょう)が設けられ、奈良時代末には、公開利用ができる私的図書館として芸亭(うんてい)がつくられました。その後も、綜芸種智院、金沢文庫、足利学校、紅葉山文庫など、各時代を代表する図書施設、資料集積拠点が発展しました。

近代的な図書館思想を日本に初めて紹介したのは、福沢諭吉『西洋事情』でした。「西洋諸国の都府には文庫あり。『ビブリオテーキ』という。日用の書籍図画等より古書珍書に至るまで万国の書皆備わり、衆人来りて随意にこれを読むべし」とあります。こうして、明治政府により、1872年、湯島聖堂の地に文部省書籍(しょじゃく)館が設置され、これが紆余曲折を経ながら、帝国図書館となり、戦後の国立国会図書館へとつながっていきます(高山正也『歴史に見る日本の図書館 知的精華の需要と伝承』勁草書房、2016年)。

この帝国図書館の始まりから終焉に至る過程でのいくつかのエピソードは、中島京子『夢見る帝国図書館』(文藝春秋、2019年)という小説で知ることができます。物語の主人公、戦災孤児だったという喜和子さんと<私>との交流の時々を主軸とし、その間に、上野の森に建設され、現在では国際子ども図書館となっている帝国図書館をめぐる歴史的エピソードが挟み込まれるという形式をとったこの小説は、「真理がわれらを自由にする」という国立国会図書館図書カウンター上部に刻まれている言葉で閉じられています。

現代の図書館、博物館、文書館は、そのいずれもが、知識・記録・文化資源を扱い、これが人々(一般公衆)の「教養、調査研究、レクリエーション」に資することを目的としています。国際図書館連盟(IFLA)は、2008年に、この3者の戦略的連携に必要な「報告書」を発表しました。英国や米国では、すでに図書館法と博物館法が統合されていますし、カナダでは国立図書館と公文書館が統合されました。文化の多様性、地域発展、社会教育の推進のために、この3者の協同・協力関係を強化していこうというのです。世界的には、デジタル・ライブラリー、デジタル・アーカイブスへの動きも急速です。図書館、博物館、文書館のそれぞれの機能を見直し、より有益な組織として機能するようにすることが求められていると思います。

学長  伊藤 正直

2020年度

3月 「生きづらさの質」をどうとらえるか

昨年末12月29日夜に、NHKBS1でイッセー尾形の一人芝居「ワタシたちは ガイジンじゃない!日系ブラジル人 笑いと涙の30年」を観ました(今年2月11日、NHK総合で再編集のうえ再放送されました)。1989年の出入国管理及び難民認定法(以下、入管法と略記、施行は1990年)で、「定住者」在留資格が日系3世まで与えられ、日系外国人が労働者として日本で働くことができるようになりました。これにより、多くの日系外国人が来日し、とくにブラジルでは「デカセギブーム」とも呼ばれる現象が起きました。番組は、夢を抱いて日本にやってきた日系ブラジル人の青年たちが、30年間日本で見た光景をえがいたものです。一人芝居の脚本は宮藤官九郎。

一人芝居の舞台は、日系ブラジル人が多く居住する名古屋市港区の団地広場。観客席は広場に設えたパイプ椅子で、団地住民の日系ブラジル人の人たちも多く座っていました。番組はドキュメンタリーと芝居を組み合わせたとても心に刺さるものでした。イッセー尾形は、明治時代にブラジルに移民する日本人を激励する老人、団地自治会の自治会長、日系ブラジル人とともに働く女性、同じく施設工事の現場監督、日系ブラジル人ロベルトなどを演じ分け、幕間では、一人芝居を観劇した日系ブラジル人の人生、脚本のモデルとなった団地や工場でのエピソードが、ドキュメンタリーとして紹介されていきます。番組プロデューサーの板垣淑子さんによれば、「エピソードは全て実話に基づいています。観客も実際に出来事を体験された方たちです。その反応も含めて一つのドキュメントにし、観客も出演者になっていただきました」とのことです。

1989年の入管法改正以降の在日日系ブラジル人の動向や推移、抱えてきた課題と困難については、これまでかなりの調査や研究があります。日系ブラジル人の集住地域、愛知県の豊橋市、豊田市、名古屋市、静岡県の浜松市、群馬県の太田市、大泉町などが調査対象地域でした。この番組の名古屋市港区九番団地もその一つです。

入管法改正時には5万人程度だった在日日系ブラジル人は、法改正後急増し2007年にはピークの31万人を数えます。しかし、リーマンショック後には減少に転じ、現在では21万人ほどです。その背景には、文化的社会的差異・分断がありますし、より根底には日系ブラジル人労働者の大部分が非正規労働者、派遣労働者として就業し、不況とともに真っ先に解雇されてきたことがあります。番組は、こうした事実を淡々と時にユーモアを交えて語っていきます。

在日日系ブラジル人の抱える困難については、「多文化共生」、「社会的包摂」といった文脈で検討されることが多く、それはそのものとして重要とわたしも考えます。ただ、この番組を観ながら考えたのは、少し違ったことでした。じつは、この番組で、もっとも心に刺さったのは、芝居の最後に日系ブラジル人ロベルトに扮したイッセー尾形が団地広場のベンチで隣の若い女性と交わした会話でした。30年の日本生活で孤独死に追い込まれるロベルトに対して、若い女性が「私のほうがつらい」と語るのです。

30年間のロベルトの「つらさ」を実感できない若い女性。一人芝居の最後にこの女性を登場させたことの意味をどう考えたらいいのでしょうか。この女性の語る「つらさ」、家庭や学校や地域で彼女が直面する「つらさ」があるのに、なぜロベルトの「つらさ」を実感できないのか、ロベルトに共感できないのか。先に引用した番組プロデューサーの板垣淑子さんは、「我々はまだまだ外国人の方に壁を作っています。壁の向こうに追いやられている外国人の方々にとって、それがどれほど残酷なことかを知り、日本社会の一員として受け入れる覚悟を、30年目にして持っていただくきっかけにしていただければ」とも語っています。この壁を象徴するものが最後に登場した若い女性だったのかもしれません。

ただ、私の感想は、もう少し違ったものでした。番組プロデューサーの板垣さんに倣っていえば、ロベルトも若い女性も、ともに壁の向こう側に追いやられている存在ではないかという思いです。番組を観ながら連想したのは、津村記久子の一連のお仕事小説でした。津村のお仕事小説には、働く若い女性がしばしば登場します。ただし、大企業でバリバリ働くキャリアウーマンは全くと言ってよいほど登場しません。多くは派遣や契約の非正規社員、あるいは、いわゆる一般職の事務補助社員です。男性もほぼ同様です。

『ポトスライムの舟』、『ポースケ』には、食い扶持のために、「時間を金で売る」虚しさをやり過ごす工場勤務の29歳女性、前の会社でパワハラにあって退社して睡眠障害に苦しむパートさん、会社の不条理な配置転換をしぶしぶ受け入れたOLなどが主人公となります。『この世にたやすい仕事はない』では、きつい仕事に燃え尽きてしまった36歳の女性主人公が、1年で異なる5つの仕事を経て、自分と仕事との関係を見直す過程を描きます。『ウエスト・ウイング』では、設計事務所のOL、絵が得意な小学生、土壌解析会社の若手サラリーマン、この3人の人生が雑居ビルの物置場で交差します。『エヴリシング・フロウズ』はこの後編で、前者で小学校5年生だったヒロシが中学校3年生となって登場します。いずれも、企業、地域、学校、家庭での「生きづらさ」を描いており、そこでの同質化圧力の強さと、それにどうしても同調できない人々のもつ違和感を、丁寧にすくい上げています。

夫婦プラス子供2人といった日本型近代家族、夫は会社、妻は家事育児といった性別役割分業、日本特有の女子M型雇用、総合職・一般職といった職務区分。こうした特徴がほぼ消滅した現在ですが、同質化圧力はむしろ強まっているのではないでしょうか。ロベルトが抱えてきた「つらさ」と現在の若い女性が抱える「つらさ」は、「経済的つらさ」という面では異質であっても、「精神的つらさ」という面では共通性をもっています。壁のこちら側にいる人々が、壁に穴をあける努力が必要なのはもちろんですが、壁の向こう側にいる人々が、向こう側内部にある断絶・分断を、自分自身で解いていくためには何をしたらいいのか。このことを深く考えさせられた番組でした。

学長  伊藤 正直

2月 赴日留学生予備学校の思い出

四半世紀前の1994年、3カ月弱中国東北部の長春に滞在したことがあります。初めての中国訪問でした。長春の東北師範大学に付設されている中国赴日留学生予備学校で、日本留学を予定している中国人留学生に「専門日本語」(私の担当は経済学でした)を教えることが、訪中の目的でした。

中国赴日留学生予備学校は、日中両国政府の合意に基づいて1979年にスタートしました。きっかけは、前年78年に鄧小平が清華大学で行った演説といわれています。下がその演説の一部です。

「留学生派遣数の増加、そして自然科学を主とすることに賛成する。10人とか8人を派遣するのではなく、幾千幾万人を派遣しよう。教育部は検討してほしい。いくらお金を使っても無駄にはならない。これは5年以内に成果が現れ、科学技術水準を高める重要な方法となる」(王雪萍『華僑華人研究』6号より引用)
この演説に基づいて、中国政府は西側諸国への留学生大量派遣政策を決定し、西側諸国に相当数の留学生受け入れを要請します。これに日本政府も協力することになり、中国赴日本留学生予備学校が設立されました。

予備学校が日本ではなく、また、北京や上海でもなく、長春に設置されたのは、次のような理由からとされています。第一に、当時の中国の学制のままでは、留学予定者が日本の大学に必要な12年の中等教育の修了という要件を満たしておらず、要件を満たすために準備教育を行う必要があったこと、第二に、日本に予備学校を設置すると、中国政府や留学生に膨大な費用負担を強いること、第三に、当初予定されていた北京、上海には、日本語のできる中国人講師が十分存在しなかったこと。こうして中国全土から留学希望者を長春に集め、1年間の予備教育を行い、最終試験に合格したものを日本の大学に派遣するという予備学校がスタートしました。

欧米諸国には、主として研究者の受け入れが要請されたのに対し、当初、日本に要請されたのは学部学生の受け入れでした。しかし、中国側のこの方針は5年ほどで転換され、その後も、さまざまな変遷を経たのち、1990年からは、日中両国政府の合意に基づいて、日本の大学院博士課程に派遣する留学生の準備教育が柱となりました。

私が派遣されたのはこの時期で、長春で受講生と対面すると、①受講生の圧倒的多数は自然科学系、とくに工学系で、それぞれ研究課題を持ち、日本の大学院でそれを発展・深化させようとしている、②そのために日本語を学び始めたものが大多数、③実際には、すでに中国の各大学で助手、講師、助教授の身分を有しているものが相当数いる、などがわかりました。この年度の受講生は80人、全員が学寮での寄宿生活で、家族を故郷に残している者も結構いました。受講生の研究領域を見ると、金属・無機材料、土木、建築専攻が22人、機械、電気、情報科学専攻が21人、生物、医学、化学専攻が27人、文科系が10人でした。

当時は、基礎日本語前期派遣教員は国際交流基金が、基礎日本語後期・専門日本語派遣教員は文部省が決めており、前期6カ月の基礎日本語は、中国人講師と国際交流基金派遣講師が担当し、後期6カ月の基礎日本語は東京外国語大学の教員3人、並行して開かれる2カ月強の専門日本語は、理系は東京工業大学の教員8人、文系は、東京大学の教員2人が担当しました。その後、派遣教員の決定方法については、さまざまな変遷を経たようで、2019年の同校設立40周年記念式典のウェブを見ると、2015年からは、岡山大学が幹事校となっているとのことです( 岡山大学ウェブページ)。

予備学校でのプログラムがすべて修了し、帰国した後、『1994年度予備学校報告書および1995年度ガイドライン』を作成して、文部省に提出しました。当時は、一方で、1989年の天安門事件の余波が残っている反面、1992年の鄧小平の「南巡講話」によって市場経済化の促進、開放政策への舵切りが急速に進展している時期でもありました。そうはいっても、外国人は原則友諠商店でしか買い物ができなかったり、人民元と兌換元が並行していたり、公園や劇場への出入りは中国人料金と外国人料金の二本立てであったり、現在の中国とは異なっている部分がかなり残っていました。

だからこそ、というべきか、にもかかわらず、というべきか、こうした環境の中でも、受講生たちの勉学意欲は極めて高く、毎日の講義は熱のこもったものになりました。上に見たように、大部分の受講生が理科系でしたから、私の担当した「経済学」は、一般教養とならざるを得ませんでしたが、それでもほとんどの受講生は、熱心かつ意欲的に講義を受け、質問も活発でした。この状況は現在まで続いており、赴日留学生予備学校の受講生は、2019年の40周年までに15,000人を超えたと記されています。

こうした中国の動向と比較すると、21世紀に入って、日本は内向きの傾向を強めているようです。日本人の海外留学生数、特に学位取得を目的とした長期留学が減少を続けているからです。文科省調査によれば、6カ月未満の短期留学者は増加傾向にあるものの、1年以上の留学者数はずっと横ばいです。正規の大学在籍者数を基準とするOECD調査では、日本人留学生数は2004年の約83,000人をピークに減少に転じ、最近では約55,000人と30%以上の減少を示しています。
コロナ禍という状況の下で、今、留学問題を語ることは難しいかもしれません。しかし、四半世紀前の中国人留学生の明るい意欲に満ちた顔を思い出しながら、より多くの若い人たちが世界に目を向け、社会や文化の多様性を知り、研究する喜びを知ってほしい、そうした想いを強くしました。

学長  伊藤 正直

1月 オンライン講義の使い方・使われ方

世界的に蔓(まん)延しているコロナウイルス感染症COVID-19は、現在も収束の兆しを見せず、日本も第三波のただ中となっています。全世界での感染者数は7,100万人を超え、死者数も160万人をこえるなど未曽有の事態となっています(2020.12.14時点)。ワクチンが開発されたというものの、歴史的な経験からみる限りは、今回の感染症が短期間で収束するとは必ずしも考えられません。コロナ禍の波は、人々の生活様式、行動様式を大きく変化させました。大学も同様で、この状況は現在も続いています。ほぼすべての大学で、さまざまな対処が図られてきましたが、前期・後期の講義がほぼ完了するこの機会に、本学での対応を振り返っておきたいと思います。

他の大学と同様、本学でも、昨年は、2019年度卒業式、2020年度入学式の中止に始まり、緊急事態宣言の発出に伴う前期開講の延期、オンライン講義への全面移行、クラブ活動・課外活動の禁止、留学派遣・受入れの中止・延期などを決定せざるを得ませんでした。そして、こうした事態への対応として、年次当初に、危機管理対策本部、オンライン対策委員会を設置しました。教育・研究の場、仕事の場で、できる限り迅速かつ適切な対処を図ること、オンライン講義、オンライン会議、在宅勤務・テレワークなどの円滑な遂行を図ることが、設置の目的でした。

なかで、もっとも緊急の対応が要請されたのが講義への対処でした。ほぼすべての講義を、オンライン、オンデマンドで遠隔授業として行うことは、本学では初めての試みでした。ですので、この実施に際して、相当量の検討作業・対処作業を短期間で行わなくてはなりませんでした。検討は、教員、学生、教務事務すべてにわたって、必要でした。

教員サイドでは、①教員のICT活用スキルの向上、②新しい講義スタイルによる事前準備・講義運営、学生の出席管理・レポート管理、成績評価など教員負担増への対処、③実験・実習・実技系科目への対処などが課題となりました。①についてはオンライン対策委員会を軸に、「オンライン授業実施ガイド」「オンライン授業マニュアル」などの作成、オンライン授業講習会の開催などを行いました。②については、各学部にオンライン対策委員を配置して、教員のさまざまな希望や要請を学部・学科で共有できる体制を作ることに努めるとともに、従来からあるmanaba(授業支援システム)、学内ポータルサイトUNIVERSAL PASSPORTなどの学生用ネットシステムを利用して、講義の内容に対応したいくつかのタイプのオンライン講義形式を選択できるようにしました。③については、コロナに対する安全衛生対策の徹底を前提とした対面授業と、オンラインも併用したハイブリッド型の実施を試行しました。

学生サイドでは、①学生の情報通信環境の確保、②オンライン講義への学生の適応への配慮とプライバシー保護、③新入生対策と経済的・精神的支援などが課題となりました。①については、通信環境整備の補助としておよそ8,000人の学生全員に一律5万円の学習補助を給付するととともに、希望する学生に対してノートパソコンの貸与を行いました。②に関しては、対面型の授業とは異なった双方向実現の工夫、オンライン講義のなかでの学生プライバシー保護の徹底(画像を出さない、個人情報を出さないなど)を図っています。③に関しては、実験・実技・実習系授業と同様に、安全衛生を徹底しつつ、9月に改めて対面でのオリエンテーションを開催し、また、基礎演習などを対面でも開催するようにしました。

教務事務サイドでは、①時間割調整、②学内インフラの整備などが課題となりました。とりわけ困難を極めたのが、時間割調整です。小中等教育は、学習指導要領があり、単元毎に授業が進むようになっています。クラスの人数もほぼ一定です。カリキュラムは、学年単位で構成され、クラスごとの各科目の進度もおよそ同様です。これに対して、大学は、授業によって参加人数は、大きく異なります。ひとケタの実験系授業、10人レベルのゼミ、数十人レベルの実技系、数百人単位の大教室講義が混在し、さらに、カリキュラム登録はすべて個人単位でなされます。講義の学年配当はありますが、多くは複数学年にわたって受講可能です。ですので、対面とオンラインを混在させた形のカリキュラムを組むことは、著しく困難です。仮に、対面とオンラインが混在しないように時間割が作成できたとしても(例えば同一日の2限が対面、3限がオンライン)、登校したすべての学生が学内でオンラインを受講できるよう学内インフラ(学習スペース、Wi-Fi環境)を整備しなくてはなりません。こうした困難の中で、なんとか円滑なオンライン講義を実施する努力を、これまで本学でも積み重ねてきました。

本学では、前期講義が終了した時点で、学生と教員に対してオンライン講義についてのアンケートを取りました。学生からの反応は、二極分化はあるものの、想定以上にオンライン講義に対する評価は高いものでした。学生の理解度も成績も対面に比べてむしろ上がったと評価する教員も多くいました。他面、教員からは、事前の準備にかなりの時間を要し、研究時間がほとんどとれなくなった、対面に比べ学生のダイレクトな反応がつかみにくい、講義に遊び(のりしろ)の部分を取りにくいといった意見も出てきました。学生からも、どんどん進むので疲れるという意見もありました。オンラインならではのメリットもみえましたが、対面で議論する、意見交換する、共同作業するなど、実験・実習・実技系に限らず、対面でなくてはできないことが数多くあることも自明です。

こうしたオンライン講義については、国立情報学研究所における「4月からの大学等遠隔授業に関する取組状況共有サイバーシンポジウム」の連続開催(2020.3.26~2020.12.11、22回)によって、全国の大学や中高の教育機関の取り組み、MITなど海外大学における取り組みが紹介され、経験の共有が図られてきました(https://www.nii.ac.jp/event/other/decs/#22)。また、多くの大学で、オンライン講義の実施例がウェブなどで公開されています。本学も、これらの経験・教訓をできる限り共有したいと考えています。

じつは、本学では、前期講義を開始した時点では、9月からの講義は可能であれば、対面講義を軸とするものに戻したいと考えていました。しかし、7~8月の第二波によって、それがほぼ困難となり、後期もオンライン主軸の講義が続いてきました。現在の第三波の推移によっては、次年度もオンライン主軸を検討せざるを得ないかもしれません。

とはいえ、対面で人と接する活動は、人間の生活にとって不可欠のものです。ともに考え、議論し、知を創造することは、教育機関にとって不可欠です。コロナ禍が収束の兆しを見せない現在、これからもウィズ・コロナを続けざるを得ませんが、学生の皆さんが、大学で学び、習得し、自らの能力を発揮できる、そうした教育を継続し、実現することを最大限の課題として、今後の方針を策定していきたいと思います。

学長  伊藤 正直

12月 鉄道旅の話

コロナ禍がいっかな収束しないなかで、Go Toトラベルといわれても、「それでは」と、遠くの旅に出る気にはなかなかなれません。で、旅に出る代わりに、ネットで各地のブログやインスタグラムやユーチューブを見たり、旅の本を読んだりすることになります。旅の本といってもさまざまで、例えば、紀行文ですと、芭蕉『奥の細道』、金子光晴『マレー蘭印紀行』、沢木耕太郎『深夜特急』などがすぐに思いつきます。あるいは、もう少し冒険っぽい、カヌー旅の野田知佑『日本の川を旅する』とか、オートバイ旅の浮谷東次郎『がむしゃら1500キロ』、辺境徒歩旅の高野秀行『幻獣ムベンベを追え』などが好みの人もいるでしょう。

旅の手段もやはりさまざまで、船もあれば、飛行機もある。自動車やオートバイもあれば自転車もある。でも、やはり旅といえば、まず鉄道ではないでしょうか。しかし、鉄道旅に限っても、世に鉄ちゃん、鉄子は数多く、鉄道旅の本も山のようにあります。人は誰でも何らかの趣味を持っています。趣味にはまると、だんだんその度合いが高じてきます。最初はファンで、大部分の人はこの段階にとどまっています。次の段階がマニア、オタクと呼ばれることもあります。最後がマッドで、普通の常識では推し量れない行動や思考に突っ込んでいくことになります。そうしたマッドの鉄道旅の本、おすすめを3冊。

1冊目は、内田百閒『阿房列車』。現在はちくま文庫で読むことができます。ちくま文庫版は、昭和26年から28年にかけて『小説新潮』に連載されたものを収録しており、ここでは極め付きの汽車好き、百閒先生の汽車旅が飄々(ひょうひょう)と語られます。

始まりは東京・大阪間の特急「はと」で、「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪に行ってこようと思う。用事がないのに出かけるのだから、三等や二等には乗りたくない。汽車の中では一等が一番いい」。しかし、この旅費のあてがなく借金をすることになります。百閒先生の理屈は借金についても独特で、「そもそもお金の貸し借りと云うのは六(む)ずかしいもので‥‥一番いけないのは、必要なお金を借りようとする事である。‥‥そんなのに比べると、今度の旅費の借金は本筋である。こちらが思いつめていないから、先方も気がらくで、何となく貸してくれる気がするであろう。ただ一ついけないのは、借りた金は返さなければならぬと云う事である」。こうして無事借金ができ、国鉄職員ヒマラヤ山系君を道づれに大阪まで出かけ、何をするでもなく、そのまま東京まで帰ってきます。

東北本線の汽車旅でも、「盛岡へ行くには、上野駅を朝九時三十五分に出る二〇一列車がある。‥‥ところが朝の八時だの九時だのというのは私の時計にない時間であって」、「上野を出るのは朝が早過ぎるからその汽車に乗らないで、盛岡に著くのはその汽車の時間がいいからその汽車に乗っていたいと云うにはどうしたらいいかと考えた」。「矢張り夕方に著きたい。しかしその汽車に朝乗るのはいやだ。お午頃又は午後になってから乗りたい。わけはない事で、そう云う時刻にその汽車が出る所まで行っていればいい。そこで一晩泊って、そこから乗れば著く時間はこちらの思い通りになる」というのです。

この本の最後は、山陽本線「銀河」と鹿児島本線「きりしま」の旅で、一等車に乗ってくる人々の顔付きの品定めで終わります。最初から最後まで、役に立つこと、ためになることを一切しない汽車旅が続くのですが、皮肉とか諧謔を超越した百閒先生独特の思考回路が随所にあらわれ、とても愉快な気持ちになれます。

2冊目は、宮脇俊三『時刻表2万キロ』。こちらは河出文庫で読むことができます。文庫の裏表紙には、「時刻表を愛読すること四十数年、汽車の旅に魅せられた著者は、国鉄全線の九十パーセントを踏破した時点で、全線完乗を志した。しかしそれからが大変、残存線区はローカル線ばかりで、おまけに接続の悪い盲腸線が大部分である。寸暇を割いて東奔西走、志をたてて三年後、ついに二六六線区、二万余キロの全線完乗を達成した」とあります。

著者は、もともとは『中央公論』の編集長で、美術や音楽の出版も担当してきた人でした。趣味はモーツァルトと鉄道に乗ることだそうですが、裏表紙の解説にあるように、鉄道といっても時刻表マニア、いわゆるスジ屋で、楽しみは「時刻表」を走破することにありました。ですので、1975年に一念発起してからは本当に大変で、時刻表をためつすがめつして、急行列車を追い抜く鈍行列車に乗ったり、列車の遅延で乗り損なった区間を乗るためにタクシーをチャーターして延々列車を追いかけたり、到着先の町で宿が満室でどこも取れないため全面鏡張りのラブホテルにひとり眠ったり、種々の悲喜劇が著者を襲います。

ただ、記述には気負いやてらいがまったくなく、涙ぐましい完乗までの過程が淡々と語られていきます。自分がやっていることがある意味では「愚行」といわれても仕方のないことだということを十分承知したうえでの叙述がユーモアを含んで苦笑とともに語られており、無用の趣味こそがもっとも典雅であり高尚であると知らされます。本書は、新線に乗りたい、という著者の言葉で閉じられています。鉄道の路線廃止が表明されるコロナ禍の現在、この言葉を読むと切ない気持ちになります。

3冊目は、アメリカ人作家P.セルー『鉄道大バザール』です。現在は、講談社文芸文庫に入っているようです。紙幅がなくなってきたので内容は省略せざるを得ませんが、ロンドンを出発して、オリエント急行、テヘラン急行、ラージダーニ急行に乗ってインドに至り、その後、東南アジアの鉄道を乗り継ぎ、日本の鉄道「ひかり」や「はつかり」や「おおぞら」に乗ったのち、シベリア鉄道を経てロンドンまで戻るというユーラシア大陸汽車の旅を綴ったものです。この本は、どちらかというと正統的な紀行文に近く、鉄道旅を通して、異文化発見、西欧文化批判を行っていくというものです。これはこれで鉄道旅の面白さが満喫できます。以上、おすすめの3冊でした。

学長  伊藤 正直

11月 俳句という愉しみ

俳句というとまず何を連想するでしょうか。芭蕉、蕪村、一茶でしょうか。子規、漱石、虚子でしょうか。種田山頭火、尾崎放哉の自由律俳句、新興俳句、プロレタリア俳句を連想する人もいるかもしれません。俳句に親しんでいる人なら、戦後の前衛俳句運動、金子兜太などを思い浮かべるでしょうか。あるいはもっと若い世代の黛まどかなどでしょうか。

今また俳句がブームのようです。今回のブームの火付け役は、MBS/TBSのバラエティ番組「プレバト!!」でしょう。若手アイドル、お笑いタレント、俳優などの芸能人が、水彩画や生け花や料理や切り絵を製作し、それをプロの専門家がコメントを加えつつ査定し、ランク付けするという番組です。なかで、もっとも人気のあるのが「俳句」で、俳人・夏井いつきの辛口コメントに対し、添削を受けた芸能人たちが、嘆き、喜び、時に反論する、その応答がこの番組を盛り上げています。このほかにもTVやラジオにかなりの俳句番組があり、毎週おびただしい投句が紹介されています。

それだけではありません。近年の俳句ブームが若い人たちに牽(けん)引されていることも見逃せません。高校生たちが学校単位でエントリーする「俳句甲子園」(全国高等学校俳句選手権大会)は今年23回目を迎えましたが、年々規模を拡大し、北は北海道から南は沖縄まで、全国100校前後のチームが競ってきました。本学でも、春の大妻さくらフェスティバルのイベントの一つとして「俳句大賞」を実施しており、小学生から社会人まで、毎年1,000を超す作品が、全国各地から寄せられています。審査は、小学生以下の部、中学・高校生の部、一般の部の3つに分けて行いますが、この区分にみられるように、ここでも若い人たちの参加が多いことが特徴です。

俳句は世界で最も短い韻文、定型詩です。原則として、5・7・5という17音からなり、そのうち何字かは季語を含むため、作者の思いを表現するのはとても難しいはずです。ところが、そうした作業に数百万人とも一千万人ともいえる人々が、喜んで参加しているのです。このような一見すると参入の容易さが、俳句や短歌は芸術ではないとする『第二芸術』(桑原武夫、1946年)を、かつて生み出したのかもしれません。

そもそも俳句は、連句の発句が独立したものです。連句とは、何人かの人たちが集まって、575・77・575・77とつなげていって、一つの長い歌を作るというものです。『芭蕉七部集』の「冬の日」とか「炭俵」をみると、その具体例を知ることができます。連句は、いろいろな約束事があるのですが、最初の575を受けて77が付けられ、次の575はその前の77を受けてつくられるという連続性が一番の基本です。この出自そのものから、コミュニケーションの手段、共同体における共同性の担保という性格が俳句にはあるということになります。若い人たちが、俳句に取り組む一つの要素がここにあるのかもしれません。先に述べた「俳句甲子園」の全国大会会場では、審査員の講評とともに、対戦するチームが相互に相手の句を批評するコーナーがあります。

小林恭二『実用 青春俳句講座』(福武書店、1988年)は、共同性、コミュニケーションの手段という点に焦点を絞って、俳句を論じた本です。「もし、あなたが俳句をはじめたいとするならまず何をなすべきか?俳句の入門書を読んでみようみまねで俳句を書く前にひとつすることがある、と僕は思います。それは仲間を集めるということです。俳句とは、句会という共同体における『言葉』です。言葉は使う相手がいてはじめて覚えられ、また上達していくものです。俳句も言葉と同じように、いろいろな人にもまれながら、練り上げられていかねばならないのです」。そして、この句会の最初の頃の経験をつぎのように語ります。「四月、仲間内で題詠が盛んになる。毎週金曜日夜、駒場の喫茶店チャンティックを根城とする。全員落第生だったせいか、意識が急速に先鋭化する。毎週四時間ほども粘り、店主からあからさまな嫌味を言われたがへいちゃらで句会を続ける。はじめのうちは有季定型であったが、すぐに優季へ、無季へと移行する」、この句会は「ただひたすらに楽しかった」というのです。

こうした意味での句会を小林は組織者として実践します。この試みは『実用 青春俳句講座』にも「新鋭俳人の句会を実況大中継する」としておさめられているのですが、小林が理想とする句会の姿は、『俳句という遊び』(岩波新書、1991年)、『俳句という愉しみ』(岩波新書、1995年)で実現されます。前者の句会参加者は、飯田龍太、三橋敏雄、安井浩司、高橋睦郎、坪内稔典、小澤實、田中裕明、岸本尚毅の8人、後者の句会参加者は、三橋敏雄、藤田湘子、有馬朗人、摂津幸彦、大木あまり、小澤實、岸本尚毅、岡井隆の8人です。俳句に多少とも親しんだ人なら、ここに名前の挙がっている俳人たちが(岡井隆は歌人として著名ですが)、流派を別としながら、当代一流の俳人であることが直ちにわかると思います。俳句が何よりもコミュニケーションの手段である、言葉を通して、その意味ではなく感性がどこまで共有できるかが、丁々発止のやり取りのなかから生き生きと伝わってきます。ぜひ、手に取ってもらいたいと思います。

最後に、僕の好きな俳句をいくつか。長谷川の句については、僕の願望か自戒かも。

一月の川一月の谷の中(飯田龍太)

ぢかに触る髪膚儚し天の川(三橋敏雄)

三月の甘納豆のうふふふふ(坪内稔典)

五千冊売って涼しき書斎かな(長谷川櫂)

学長  伊藤 正直

10月 「紙」はどうなる?

「毎日、本や新聞を読んでいますか?」、「手紙や葉書、あるいはFAXは日常的な連絡手段ですか?」。こう聞かれたとき、どう答えますか?

2019年10月に公表された文化庁『国語に関する世論調査』によれば、1カ月に1冊も本を読まない人が約47%、1~2冊の人が約38%だそうです。この調査は、16歳以上を対象としており、日本の学生や社会人の約半数は、まったく本を読まないようです。また、2019年9月の総務省『情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査』によれば、新聞を読んでいる人は年代による差が著しく大きく、10代、20代では10%以下、30代、40代も10~25%で、若年層、中年層は、ほとんど新聞を読んでいないとのことです。

コミュニケーション・ツールとしての手紙や葉書も同様です。若い人たちの日常の連絡手段はLINEですし、会社の業務連絡や友達とのやり取りはe-mailです。手紙が届くのは、納税通知書などの役所からの通知、内容証明郵便、あるいは企業からのDMくらいです。多くの人は、情報の取得やコミュニケーションを、もっぱらSNSから得ています。そうだとすれば、これから「紙」の需要はどんどん減っていくのでしょうか。オンラインで全てがやり取りされ、「紙」の世界は消滅していくのでしょうか。

「人間は記録する唯一の動物である」といわれています。言葉を生み出し、文字を作り出すなかで、人間は、文字を記憶=記録として定着させることを試みるようになりました。粘土板に、石板に、パピルスに、木簡・竹簡、帛(はく)に、文字を刻みました。そして、その過程で、紙が誕生しました。紙は、記録媒体としてはとても優れたものでした。

紙を発明したのは漢の蔡倫、西暦105年のこととされていますが、最近の考古学調査では、中央アジアや中国の湿地帯で、数多くの紙の破片が発見され、それらは105年よりも1世紀ないし2世紀さかのぼることができるそうです。いずれにせよ東アジアで紙が発明されたのは間違いないでしょう。その後、筆と墨の発達に伴い、紙の種類も豊富化していきます。朝鮮半島や日本にも製紙技術は早く伝わり、平安時代には、全国40カ所の製紙場が稼働していました。西の方へは、イスラムを経て、11世紀にはモロッコのフェズが紙の主要な生産地となり、12世紀にイタリアに伝わったといわれています。しかし、ヨーロッパでは、紙はなかなか普及せず、シチリア王国は1145年に「すべての行政文書の書写を羊皮紙で行う」ように命じ、「紙に書かれた証文は一切の権限を持たない」と法令で定めたそうです(マーク・カーランスキー『紙の世界史』徳間書店)。

西欧世界で紙が急速に普及するのは、15世紀のグーテンベルグによる金属活字と活版印刷の発明からで、その後の推移は皆さんが世界史の教科書で習った通りです。宗教改革、市民革命、産業革命は、本やパンフレットを読む層を短期間に急増させ、紙への需要は一挙に高まりました。19世紀半ばには、まず、ドイツで木材を機械ですりつぶしてパルプを作る方法が発見され、次いで、アメリカで製紙用の木材パルプが作られ、19世紀末にはアメリカが世界最大の紙生産国となります。紙は、工業生産物となり、製紙業は、巨大産業の仲間入りをしたのです。

日本では、平安時代以来、和紙の生産が連綿と続いていました。特に江戸時代は、北斎や広重の版画、馬琴や一九の読み本など、和紙の需要は大きく広がっていました。幕末の洋学の普及と、それに続く明治維新により、新聞・雑誌・書籍などに必要とされる洋紙需要が新たに生じ、明治初期に、有恒社、東京王子抄紙会社などの洋紙会社が相次いで設立されます。

現代の製紙工場の製紙工程は、紙の原料となるパルプを作るパルプ工程、このパルプを使って紙を作る抄紙工程、出来上がった紙を平判や巻取りにかける仕上げ工程からなっています。この全ての工程で改良を重ねることにより、1970年代には、日本は、世界有数の紙・板紙生産国=消費国となりました。製紙技術は世界の製紙業界をリードし、辞書、雑誌、文芸書籍それぞれに、光沢、触り心地、嵩高(かさだか)、柔らかさ、色合いなど、紙それぞれの微妙な違いを表現しています。

東日本大震災で津波により壊滅的打撃を受けた日本製紙石巻工場もそうした工場のひとつでした。この工場の8号抄紙機は出版用紙の製造マシンとして日本を代表するマシンでした。8号抄紙機は、震災の津波で水没します。「8号が止まる時は、この国の出版が倒れる時です」といわれたとのことです。多くの出版社の単行本や文庫本は、この8号抄紙機の紙を使っていたからです。従業員の壮絶な努力により、8号抄紙機は、わずか半年で奇跡的に再稼働します。2013年4月、発売1週間で100万部を突破した村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)に使われた「オペラクリームHO」という紙は、この8号抄紙機で作られたものでした(佐々涼子『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている』早川書房)。

紙の用途は、現在でも広がり続けています。和紙の需要もむしろ高まっています。広い意味でのアートとしての紙の需要ですが、紙の本来の意義、記憶と記録の媒体としての紙の意義は、今後もなくなることはないでしょう。

学長  伊藤 正直

9月 専門家と非専門家

新型コロナウイルス感染症の拡大が収まらないなか、さまざまな言説が飛び交っています。とりわけ、2020年2月に内閣官房に設置された「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」(現在は、この専門家会議は廃止され、7月に新型インフルエンザ等対策有識者会議の下に開催される「新型コロナウイルス感染症対策分科会」に移行しました)の出す「助言」の適否をめぐって、さまざまな次元での発言や議論が、医学的見地、政策的見地、社会的見地から噴出しました。

例えば、3月下旬から4月初めの緊急事態宣言発令に向けての議論のなかで、専門家会議が、個人の活動自粛や企業活動の自粛を要請するということがありました。この要請がなされた直後から、本来の「科学的助言」の範囲を「踏み超え」てしまっているという批判がなされました。他方、危機的状況下においては、政治的判断を専門家が行うこともありうるし、すべきである、という反論もありました。さらに、専門家会議の判断根拠そのものが科学的に不十分である、あるいは間違っているという批判も、「専門家会議」外の専門家からなされたりもしました。

じつは、こうした議論は、以前から、科学技術社会論(STS)という形でなされてきましたが、東日本大震災による福島原発のメルトダウンを契機に一挙に活発化しました。電力会社や専門家は、原発のリスクと不確実性について、どの程度社会にきちんと説明してきたのか、説明がなされないままにメルトダウンになってしまったのではないか、メルトダウンの影響はどれくらい続くのか、といった問題が、一斉に議論されるようになったのです。こういった事態を受けて、日本学術会議も2013年に「科学者の行動規範」を改訂して「社会の中の科学」という項目を追加し、「科学者が社会に対する説明責任を果たし、科学と社会、そして政策立案・決定者との健全な関係の構築と維持に自覚的に参画すると同時に、その行動を自ら厳正に律するための倫理規範を確立する必要がある」と訴えました。

そこでは、「科学者は、社会と科学者コミュニティとのより良い相互理解のために、市民との対話と交流に積極的に参加する。また、社会の様々な課題の解決と福祉の実現のために、政策立案・決定者に対して政策形成に有効な科学的助言の提供に努める」(社会との対話)、「科学者は、公共の福祉に資することを目的として研究活動を行い、客観的で科学的な根拠に基づく公正な助言を行う」(科学的助言)、「科学者は、政策立案・決定者に対して科学的助言を行う際には、科学的知見が政策形成の過程において十分に尊重されるべきものであるが、政策決定の唯一の判断根拠ではないことを認識する」(政策立案・決定者に対する科学的助言)という3点が、述べられていました。

この学術会議の「行動規範」がどこまで正しいのか、という問題は、確かにあります。政策的判断、政治的判断まで科学者は行うべきでない、科学者ができるのは判断の材料を正確に提供することだ、というのが、「行動規範」の基本的立場ですが、それは、現前する危機がどの程度の危機なのか、ということと切り離しては議論できないからです。

感染症対策との関連では、この他にも、ドローンでマスクをしていない人を監視する、スマホで濃厚接触者を調査するなどの措置は、プライバシーを侵害し、国による個人監視につながるのではないか、という議論もあります。さらに、移動制限をかけたり、学校の一斉休校を要請したり、企業のテレワークを命令したりする主体はいったい誰なのか、国なのか地方自治体なのか、それとも一定の経済主体なのか、といったことも議論されています。こういった議論になると、専門家の範囲は、「専門家会議」メンバー、あるいは感染症専門医を超えて広がることになるでしょう。

ここまでくると、問題は「科学者」と「政策立案・決定者」との関係になってしまいます。そして、この問題が、現在の焦点であることも間違いないのですが、その大きな前提として、「科学者は、社会と科学者コミュニティとのより良い相互理解のために、市民との対話と交流に積極的に参加する」という、市民社会における科学ないし科学者の役割という問題が抜け落ちてはいけないと考えます。そうでないと、科学の専門家と政治の専門家だけが、判断主体、政策決定主体となり、一般人=非専門家は、ただその決定を受け入れる受け身の存在になってしまうからです。

ただ、ここには大変難しい問題が横たわっています。つまり、「非専門家が、ある特定の領域に対する(完全な)専門知識なしに、その科学の『内的過程』と『外的性格』をともに把握する方法はあるのか」という問題です。科学が高度に発展してくると、それぞれの科学は、それぞれのグラマー、ロジック、レトリックによって進められることになります。非専門家が持つリテラシー、日常生活の基礎にあるグラマー、ロジック、レトリックは、科学のそれぞれの専門領域と共通言語を持てなくなっているのです。にもかかわらず、非専門家は、その適否について判断しなくてはなりません。

なぜかといえば、現代の科学技術と私たちの生活との関係は、以前とは異なるものになっているからです。言い換えると、科学技術の発展は、私たちの生活にさまざまな負の影響をももたらしており、科学技術の発展が人類を幸せにするものだとは、もはやナイーブに信じることはできなくなっているのが現代です。私たちはただユーザーとして技術の使い方を習得していればよいというものではなく、そのような技術は果たして自分たちにとって本当によいものなのか、そのような技術を使うことが倫理的に正しい選択であるのかなどまで、私たち自身が判断をせまられるようになっています。科学者の社会的責任とはなんなのかという問題、市民と科学との健全な関係とはどんなものかという問題を、今回の新型コロナウイルス感染症の拡大は改めて提示しています。

学長  伊藤 正直

8月 「昭和のテイスト」?

「昭和っぽい」「昭和の雰囲気」といった言葉が、最近あちこちで聞かれます。「この曲、ちょっと昭和っぽいね」とか「このデザインには昭和のテイストがあるよ」といった言い振りです。若い人たちも、よくこうした言い方をします。「今」とは違う何か、といった意味でしょう。あるいは、昔流行っていたもの、どこか懐かしいもの、といったニュアンスでしょうか。でも、昭和が終わって30年以上経っていますし、高度成長が終わってからを考えると、ほぼ半世紀です。「昭和」を同時代的経験としてもっている人は40歳代以上、高度成長に至っては60歳代以上ということになります。若い人たちは、「昭和」を自らの体験としては知らないわけです。「昭和」は歴史的出来事ということになります。

歴史的出来事であれば、そこには、その出来事の「物語化」=「神話化」があります。「昭和の頃はこうだった」という形での「物語化」です。例えば、映画化もされてヒットした『三丁目の夕日 夕焼けの詩』(小学館)やNHKの朝ドラなどをみると、「物語化」のベクトルの多くが懐古=回顧にあることがわかります。ただ、いうまでもないことですが、「物語化」=「神話化」は、歴史的現在からしかなされません。となると、「物語化」の方向を決めている要素は、ひとつは、現在の主流的潮流、支配的思潮です。失われたもの、忘れ去られたものも、この主流的潮流や支配的思想との距離から見いだされることになります。こことの連関を持たないもの、連関の弱いものは、そもそも「物語化」の対象となりません。もうひとつは、どのような物語を私たちが読みたいかという読み手の側の欲求の問題です。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれた時代に読みたい物語と、バブル崩壊後「失われた二〇年」の後に読みたい物語はおのずと異なるでしょう。

では、ここで語られている「昭和」とはどのような時代だったのでしょうか。おそらく、第二次大戦以前の時代、戦後復興期は、多くの人が語る「昭和」では想定されていないようです。高度成長の始まりあたりから1980年代前半あたりまでが、多くの人がイメージしている「昭和」ではないでしょうか。この「昭和」の時代、外をみれば、朝鮮戦争があり、スターリンが死に、キューバ危機が起こり、ベトナム戦争がありました。ニクソン・ショック、石油ショックがあり、ソ連がなくなり、ベルリンの壁が崩壊しました。

内をみれば、1950年に世界の1%に過ぎなかった日本のGNPは、1970年には6%、1989年には14%に達し、日本は世界有数の「経済大国」となりました。繊維から、造船・鉄鋼・石油化学、電機・自動車と、新しい産業分野が次々に経済発展を引っ張り、金融機関が大きな力をもつようになり、会社は大きくなってオフィスがきれいになりました。高速道路や新幹線が全国に張り巡らされ、都市が急激に膨張しました。農村から都市へと人々が雪崩をうって移動し、核家族が形成され、男は仕事に邁進し、女は家事と消費と子供の保育を担うという構図が定着しました。

政治の世界では、占領が終わって数年後の1955年、自由民主党が誕生、社会党も右派と左派が合同し、以後1993年まで自民党の長期政権が続きました。55年体制の成立です。1960年、安保闘争の年に登場した池田勇人内閣は、所得倍増を掲げ、1972年には、田中角栄内閣が「日本列島改造論」をぶちあげました。北は北海道から南は沖縄までの全国開発が、とうとうと進んだのです。戦後日本の歴史は、国土開発の歴史でもありました。

ライフスタイルも大きく変化しました。身の回りでは、ちゃぶ台が消えLDKと子供部屋ができました。始めはラジオとアイロンくらいしかなかった家電品も、1960年代半ば頃には、テレビ、洗濯機、トースター、電気炊飯器、電気ゴタツ、冷蔵庫が揃い、1970年代に入ると、カー、クーラー、カラーテレビが普及していきます。高度成長期に生産されたモノは、生活水準の象徴としてだれもが入手したい共通の目標となりました。しかし、1970年代後半以降、モノは著しく多様化します。1970年代後半には、VTR、ヘッドフォン型ステレオ、デジタルウォッチ、ストロボ内蔵カメラ、ファミリーバイク、太陽熱温水機、1980年代前半には、CDプレーヤー、超大型・ポケットテレビ、DVDプレーヤー、パソコン、ファミコン、ゲームウォッチ、ワープロ、テレホンカード、スポーツドリンク、ポリマーおむつ、1980年代後半には、高級乗用車、衛星テレビ、衣類乾燥機、電子楽器、電子手帳、プリペイドカード、携帯電話・多機能電話などが次々に登場します。こうして、モノへの欲望は、1970年代後半以降は、世代や職種や所得によって分解し、誰もが共有する基準をもたなくなったのです。

そして、ここで語った、以上のような「昭和」のできごとも、モノとコトの歴史的解釈によるひとつの「物語化」だということに留意してほしいと思います。取り上げているモノゴトが「事実」であるから、そこでのできごとは、客観的実在であるともいえますが、そこでのモノゴトは可視化しえているもののみを取り上げているからです。歴史を振り返るときには、見えているものをきちんと視るとともに、見えていないものを視る努力を続けていくことが必要ではないでしょうか。

学長  伊藤 正直

7月 川崎の日本民家園について

小田急線向ヶ丘遊園駅南口から10分ほど歩くと、生田緑地にでます。首都圏を代表する緑豊かな都市計画緑地で、雑木林、谷戸の湿地、湧水などが広がっており、この自然を背景に、岡本太郎美術館、かわさき宙と緑の科学館、藤子・F・不二雄ミュージアム、ばら苑などの施設があり、その一角に日本民家園・伝統工芸館もあります。近くに住んでいたこともあって、気候のいい時など、時々散歩がてら何回か訪問しました。

日本民家園は、川崎市立の野外博物館として1967年に開園した施設です。高度経済成長の中で急速に消滅しつつあった古民家を永く将来残すことが目的で、園内には、現在25件の建物が、移築復原されています。日本民家園は、自らの使命を次のように述べています。「1 主に江戸時代の古民家を移築復原し、良好な状態で後世に伝えます。2 古民家・伝統的生活文化にかかわる資料を調査収集し、展示・普及活動を行います。3 日本を代表する民家博物館として、国内外に情報を発信します。4 生涯学習やくつろぎの場として、地域に親しまれ必要とされる博物館をめざします。」

移築復原されている建物や日本民家園の活動は、どのようなものでしょうか。25件の建物はすべて国、県、市の文化財に指定されており、うち7件は国指定重要文化財となっています。東日本の代表的な民家をはじめ、水車小屋・船頭小屋・高倉・歌舞伎舞台などがあります。移築元は都道府県別にみると、岩手県1、山形県1、福島県1、茨城県1、千葉県1、神奈川県8、山梨県1、長野県3、富山県3、愛知県1、岐阜県1、三重県1、奈良県1 、鹿児島県1と、東日本を中心に全国にわたっています。

国の重要文化財に指定されているのは、長野県南佐久郡の佐々木家、富山県南砺市の江向(えむかい)家、千葉県山武郡の作田家、茨城県笠間市の太田家、神奈川県秦野市の北村家、同川崎市の伊藤家、岩手県紫波郡の工藤家の7件です。また、志摩半島の漁村の歌舞伎回り舞台「船越の舞台」は、国重要有形民俗文化財に指定されています。

富山県南砺市の江向家は、富山県五箇山地方の合掌造りの家です。18世紀初期に建築され、切妻造、妻入、茅葺(かやぶき)、田の字型四間取りといった特徴を持つとても美しい作りです。神奈川県秦野市の北村家は、1687年建築の名主住居です。寄棟造、茅葺で日常生活の場であるヒロマは、簀子(すのこ)と板の間に分かれており、簀子には必要に応じてむしろを敷いたそうです。建築年次がはっきりわかるのは、柱の隅に棟梁が、自分の名前とともに年次を墨書しているためです。日本で最も重要な民家のひとつです。

三重県志摩市の船越の舞台は、幕末1857年に建てられたもので、神社の境内にありました。建築の様式は、正面が入母屋造、背面切妻造、桟瓦葺(さんがわらぶき)で、舞台装置は直径三間の回り舞台、せりあがりのある花道、高所作業用の簀子など、歌舞伎芝居のための装置はほとんど備わっています。また、鬼瓦や軒先瓦には「若」の字が刻印されており、建築に、伝統的若者組が係わったことを示しています。

民家園入り口の本館には、2つの展示室があり、第1展示室では、日本の古民家の間取りやかたち、古民家の作り方、家と環境の関係などが展示されています。第2展示室では、毎年2回の企画展示が行われてきました。例えば、2015年は「むかーしむかしの道具たち」、2016年は「家で生まれる、家と育つ」「ふしぎ古民具大集合」、2017年は「日本民家園今昔物語」、2018年は「結び展」「民家の暮らしと生きもの」、2019年は「いただきます」などが開催されています。

さらに、はた織り、わら細工、竹細工、座繰り実演、漆継ぎ、型染め、絞り染めなどの体験講座やワーク・ショップ、人形浄瑠璃、農村歌舞伎、獅子舞、ベーゴマ大会、草玩具造りなどの芸能や催し事も、年間を通して、さまざまな形で開催されています。何軒かの古民家では、正月や節句などの年中行事、床上公開などを行い、当時の実際の生活がどのようであったかも知ることができます。ゆっくり回れば、日本民家園だけでも1日勉強できます。生田緑地の他の施設とハシゴしてもいいでしょう。

学長  伊藤 正直

6月 数ないしは数詞について

先月、篆書(てんしょ)の拓本を紹介しました。この石碑には、篆書の数字、数詞ですね、この数字も石刻されていました。1から9まで、どのような文字であったかは、次の通りでした。

現在の漢数字の原型といっていいでしょう。こうした数字はどのようにして生まれてきたのでしょうか。

最近の認知科学や神経心理学の研究では、人間は、先天的に「数感覚」を有していること、ただし、この先天的な数感覚は視覚的には3ないし4まで、触覚的にはさらに狭いこと、そしてアナログ的連続量やデジタル的な離散量といった数感覚は後天的に獲得され拡大していくこと、などが、知られるようになっているそうです(スタニスラス・ドゥアンヌ 『数覚とは何か』)。

この数感覚を記録するようになったものが数字です。数字が記録されている最古のものは、紀元前3500年頃のシュメール文字、エジプトのヒエログリフ、紀元前1200年頃の古代中国の甲骨文字 などで、いずれも線を並べることで表現されていました。1は一本の線、2は二本の線、3は三本の線という形です。線は線に過ぎませんから、数字が記録されるということは、この数字に対応する具体的なものがあったはずです。食べ物だったり、着る物だったり、鉱物だったり、これが「1対1」で線に対応するわけです。こうした数を基数といいます。

これに対して、例えば、小学生10人を一列に並べて前から3人目を呼ぶとき、「3番目のCさん」と言ったりします。この3番目も数字で表すことができ、こちらは序数といいます。対応だけからなる基数が先に生まれ、その後、対応と順序づけを行う序数が生まれたと考えるのが普通だと思いますが、「原始の文化や言語をどんなに入念に調査しても、そのような時間的な前後関係は明らかにならない。数の技術が存在する場所では必ず、数の両方の側面が見つかる」、そして、そのことは人間が指を使って数えることと関係しているとのことです(トビアス・ダンツィク『数は科学の言葉』 )。5本の指を同時に曲げたり伸ばしたりする、あるいは、指を順番に曲げたり伸ばしたりする。前者では、指を基数として使ったことになり、後者では、指を序数として使ったことになる、というのです。

ヨーロッパの言語、英語、フランス語、ドイツ語では、この基数を表す言葉と序数を表す言葉が両方あります。例えば、英語では、one/first、two/second、three/third、フランス語ではun[e]/premier[première]、deux/deuxième、trois/troisième、ドイツ語では eins/erst、 zwei/zweit、drei/drittとなり、前者を基数詞といい、後者を序数詞といいます。これに対して、アジアの言語の多く、日本語や中国語には、このような独立した序数詞がありません。

では、日本語は、数をどのように表しているのでしょうか。まず、基数詞ですが、漢字とともに中国から渡来した漢語の「いち、に、さん」という呼び方と、固有の和語である「ひとつ、ふたつ、みっつ」という呼び方が、併用されています。文字としては、1、2、3というアラビア数字、あるいは一、二、三という漢数字を使います。序数詞については、上に述べたように、日本語には独立した序数詞はありません。その代わりに、第二、第2回、2回目、2番目、2位といった形で、基数詞の前や後に、第とか目をつけて順序を示したりしています。中国語もほぼ同じで序数を表すときは、第や次といった接語を使います。

もうひとつ、日本語や中国語には助数詞(中国語では量詞という)があります。日本語の助数詞は大変多く、数え方によっては500種類を超えるともいわれています。日常頻繁に使われる助数詞、「個」(小さいもの)、「枚」(薄いもの)、「本」(細長いもの)、「冊」(本など)、「台」(乗り物)、「杯」(飲み物)などから、よく使うけれども限定的な助数詞、「歳」(年齢)、「軒」(家)、「足」(靴)や、特定の場合にしか使わない助数詞、「貫」(寿司)、「棹」(箪笥)、「張」(テント)、「帖」(海苔)、「首」(和歌)、「句」(俳句)、「局」(囲碁)など、いろいろです。中国語の助数詞(量詞)も200種類以上あり、名詞を修飾する「個」「張」は名量詞、「回」「次」など動詞を修飾するものは動量詞と呼ばれています。

このように日本語は、数詞にさまざまな助数詞をつけて、対象を把握しています。ものや出来事によって、別々の数え方をするという日本語の特性は、多様性や多元性を保証しているともいえます。数というと、小川洋子『博士の愛した数式』(新潮社)以来、友愛数とか完全数の話や、フェルマーの最終定理、ゴールドバッハ予想 、双子素数の話など数論の話も沢山あるのですが、今回は数詞の話、日本語の話でした。

学長  伊藤 正直

5月 漢字について

子供の頃、習字の塾に通っていました。てん、よこ、たて、はね、おれ、はらい、そり、などをまず習い、次いで、永という字を何回も何回も書かされた記憶があります(永字八法というそうです)。そして、そのあと、ようやくいろいろな字を書くことが許されました。

当然、最初は楷書です。塾の先生が、王羲之の熱狂的ファンだったこともあって、王羲之の字体を写すことが、毎週最初にする手習いでした。4、5年経ったところで、「篆書(てんしょ)、隷書をやってみろ、これで展覧会に出してみよう」と言われ、篆書に取り掛かりました。写真が、篆書の字形です。30年ほど前、西安の碑林博物館を訪ねた際、篆書の拓本があったので懐かしくなって購入しました。縦2m以上横1m以上ある結構大きな石碑で、文化大革命のときも破壊されずに残ったものの碑文です。

篆書はこんなレタリングのような字形です。子供の頃は、こんな字があるのが不思議で、また、どのような書体で書くのかわからず、塾の先生に叱られながら、何枚も下書きをしたものでした。この碑文には、下に楷書で同字が示されています。

篆書は、秦の始皇帝(前259~前210年)が度量衡の統一とあわせて、それまで地域によって様々であった字形を統一することによって成立したといわれています。また、隷書は、後漢王朝(25~220年)の時代に、公文書に使われる正式な書体とされたそうです。私たちが日常使っている楷書は、東晋王朝(317~420年)の王羲之がその原型を作ったと言われています(落合淳思)。

漢字の発生は、殷王朝(商)の後期、紀元前14世紀の頃だそうです。最近では、もっと前、紀元前20世紀ころに漢字の原型ができたという説も有力です。神話的な世界観が人々を支配していた時代、神話的秩序は王朝の支配秩序を反映するものでした。ですので、文字も呪的世界にあり、呪的儀礼を形象化したものが文字、すなわち漢字でした(白川静)。

ですから、漢字は、象形字や会意字からつくられる表意文字が基本です。漢字の表音文字は、この表意文字から帰納的に作られたものです。馬という字は、馬の頭とたてがみからできているとか、口という字は、神に祈り霊を祀るときののりとの器を示しているというのは象形字ですし、口という字を含む古や告という字は、のりとの器とそれにくわえられる器物をあわせて、その行為の意味をあらわすという会意字です。日本語のひらがな(これも漢字から、音素をとってつくられた文字です)やアルファベットなどの表音文字とは違います。

私たちが普段使っている漢字には、中国でつくられた漢字以外のものもあります。国字といわれるもので、日本で作られた漢字です。例えば、峠、辻、鴫(しぎ)、鱈(たら)、凪(なぎ)、躾(しつけ)、働などで、働などは中国に逆輸出され、日常語として使われています。国字も会意字であることは、とうげという字が、山を上って下るちょうど尾根に当たるところだとか、なぎという字が風が止まったところとか、しつけという字が、身体が美しいことであることとか、などから容易に理解できるでしょう。

こうして作られた漢字は一体いくつあるのでしょうか。『大漢和辞典』(大修館書店)は5万字、中国で刊行された『漢語大字典』(上海辞書出版社)は6万字といわれています。これだけの漢字を覚えるのが大変だということで、戦前の1923年、文部省臨時国語調査会が1962字を常用漢字として発表しました。その後、戦後に国語審議会が1850字を当用漢字とし、何回かの変遷を経て、現在は、2016年の文化庁文化審議会の「指針」が2136字の常用漢字表となっています。

現在、ほとんどの人は、パソコン、ワープロ、スマホで日本語を打っています。ペンや鉛筆で、字を書くことは大幅に減りました。ですから、日々の生活に不便のないよう日常使う字を決めようという「常用漢字」「当用漢字」の必要性はなくなったともいえます。しかし、カナ入力、ローマ字入力すれば簡単に漢字に変換できるため、手書きでは書けない漢字、普通は読めない漢字が、世の中に大量に出回るようになっています。薔薇(ばら)、憂鬱(ゆううつ)、穿鑿(せんさく)、顰蹙(ひんしゅく)など、手書きで書けますか。私も書けません。アルファベットと違い、漢字は、一目見ただけでその意味がわかるという優位性があります。この優位性を生かしていくためにも、それぞれの漢字の意味を考え、漢字を大事にしていきたいと思います。

学長  伊藤 正直

4月 歴史から疫病を考える

昔、ふとしたきっかけでウィリアム・H・マクニール『疫病と世界史』(中公文庫、2007年)という本を購入したことがあります。この著者の『戦争の世界史』(刀水書院、2002年)や『世界史』(中央公論新社、2001年)が面白かったためで、疫病に興味があったわけではありませんでした。新型コロナウイルスの拡大が加速化しているなか、この本のことを思い出し、再読してみました。

この本の原著刊行年は1976年のことですが、1997年の改版の際に付け加えられた「序」で、マクニールは次のようなことを述べています。「序」は、主としてエイズのことを述べていますが、感染症の歴史についてふれているところを要約すると次の通りです。「この本の執筆時には、多くの医者たちは、感染症は人間の生命に深刻な影響を及ぼす力をもう持っていないと信じていた。WHOは1976年に天然痘を根絶したと宣言し、今後すべての感染症を孤立させ治療するのに十分な医学上の努力が世界的規模で実行されれば、すべての感染症を根絶させることができると考えていた。しかし、私はそうは考えなかった。76年が頂点で、以後感染症を引き起こす微生物が反撃を開始した。エイズ、インフルエンザが代表的なもので、このことは歴史的な悪疫の構造をみれば明らかである」と。

マクニールは医学者でも疫病の専門家でもありません。専門は歴史学で、長くシカゴ大学の歴史学教授でした。マクニールが、疫病に興味を持つきっかけは、なぜ、エルナン・コルテスがわずか600人に満たない部下で、数百万の民を有するアステカ帝国を征服できたのかを知りたいというところにあったようです。調べてみると、アステカ帝国を一夜にして消滅させたのは、馬と鉄砲という武力の差ではなく、コルテスらが持ち込んだ天然痘だったのでは?というところに思い至ったというのです。

「スペイン人はそれ以前に、一体いつどのようにしてこうした疫病を経験し終えていて、それがあとになって新世界に渡ったとき、あのようにうまい具合に役立つことになったのか。なぜインディオのほうでは、侵入者スペイン人を掃滅してくれるような自分たちの疫病を持っていなかったのだろうか。こうした疑問を広げていくと、16~17世紀にアメリカ大陸に生じたのと類似の現象が数多く見られることがわかる」。これがこの本を書かせた動機でした。

この本は、人類の発生から現在に至る人類史の中で、疫病と人類との関わりを検討するという壮大な試みですが、この本の独自性は、マクロ寄生とミクロ寄生という概念で、人類史を捉えようとしたところにあります。「ある生物体にとっての食物獲得の成功が、そのままその宿主にとっては、忌まわしい感染あるいは発病を意味するのである。そしてあらゆる動物が食物を他の生物に依存している」。「ミクロの寄生は、ウイルス、バクテリアなど微小な生物体で、人体の組織内に入り込み、そこで彼らの生命維持の仕組みにかなった食物を摂取する、ある種のミクロ寄生生物は重い病気を引き起こし、短時間のうちに宿主を死に至らしめるが、また宿主の体内に免疫反応を生じさせ、逆に彼らの方が殺され駆逐されてしまう場合もある。また時には、……宿主たる人間との間にもっと安定した関係を確立しているミクロ寄生生物も存在する」。「マクロ寄生生物の行動も同様に多彩を極める。人間や他の動物を捕食する際のライオンやオオカミのように、即座に宿主の生命を奪ってしまう者もいれば、宿主を不定期間生かしておく連中もいる。さらに後になって、食物生産ということが、ある共同体にとってひとつの生活形態となった時、……征服者が食物を生産者から奪い去りそれを消費することで、労働に従事する者への新しい形の寄生体となったのである」と。

こうした視点に立って、マクニールは、紀元前500年から紀元1200年までの各文明圏の交流とその結果としての疾病の伝播、紀元1200年から1500年までのモンゴル帝国の勃興とペスト伝播、紀元1500年から1700年までの新大陸の「発見」と天然痘、チフス、はしか、黄熱病の新大陸への持込み、1700年以降の医学の発展と「疫病」との闘いを、歴史的史資料の発掘を行いながら明らかにしていきます。

人類史のなかで感染症が果たしてきた役割、この視点はこれまでほとんどなく、歴史は、経済や政治・軍事、あるいは文化との関わりで語られてきたため、改めて読み直してみると本書の印象は強烈です。本書は、次のような言葉で締めくくられています。「人類の出現以前から存在した感染症は人類と同じだけ生き続けるに違いない。そしてその間、これまでもずっとそうであったように、人類の歴史の基本的なパラメーターであり、決定要因であり続けるであろう」。

「感染症が人類と同じだけ生き続ける」としたら、私たちは、これから感染症とどのように付き合っていくことになるのでしょう。一方での感染症との闘い、他方での感染症との共存、この両者を見据えつつ私たちはこれから生きていくことになるのでしょうか。この本の初版刊行以降の感染症の推移に関しては、石弘之『感染症の世界史』(角川ソフィア文庫、2018年)、日本における疾病の歴史については、酒井シヅ『病が語る日本史』(講談社学術文庫、2008年)などが、手近な参考となります。あわせて読まれるといいと思います。

学長  伊藤 正直

2019年度

3月 山登りと研究と

岩波少年文庫に『アンナプルナ登頂』という本があります。もう絶版のようですが、同じものを、現在は『処女峰アンナプルナ 最初の8000m峰登頂』(ヤマケイ文庫)で読むことができます。1950年6月、フランス遠征隊が人類史上初めて8000メートル峰の登頂に成功したその思い出を、遠征隊の隊長モーリス・エルゾーグが書きつづったものです。

ネパールへの入国から、山麓地帯の探索、登頂目標とする8000メートル峰の決定、登行ルートの研究、アタックの敢行と登頂の成功、下山の困難とカトマンズへの帰還という遠征の全行程が、8000メートル峰への敬虔なあこがれ、アタックへの限りない情熱、隊員・シェルパ間の交流などをベースに生き生きと記されており、登山とりわけ未踏峰登頂の喜びと苦しみが、ともに登山をしているかのように伝わってきます。

中学生時代にこの本を読んでから山登りに興味が湧き、近場の鈴鹿山系から、北アルプスの槍・穂高、後立山連峰、剣岳、南アルプスの北岳、仙丈ケ岳、聖岳、八ヶ岳連峰まで、中学高校生のころから大学生のころにかけて、結構あちこちの夏山に登りました。その後、時々、この『アンナプルナ登頂』を読み直していたのですが、研究生活を経過するなかで、この本で描かれている未踏峰アタックと研究論文を執筆する過程は同じようなものではないか、と思うようになりました。

少年文庫のあとがきで、訳者の近藤等は、「こうした高山の登頂を試みるのには、三つの段階があります」として、その山の山麓地帯を探検する段階、目標となる山を登るためのルートを研究する段階、いよいよ登山を試みる段階という3段階を示し、このために数年間が費やされるのが普通であると述べています。フランス遠征隊の場合は、ヒマラヤ8000メートル峰初登頂という具体的目標が定まっていたのですが、普通はまず登山目標の設定という段階が置かれることになるでしょう。

社会科学、人文科学、自然科学の間では、研究スタイルや論文執筆フォームに違いがあるため、必ずしもこの通りになるとは限りませんが、研究の過程、論文執筆の過程は、ほぼこの段階を通るといっていいように思います。まず、最初に来るのが、登山目標の設定、つまり研究テーマの設定です。鈴鹿の御在所岳に登るのか、北アルプスの剣岳や穂高に登攀するのか、それともヒマラヤの8000メートル峰にアタックするのかがまず選択されます。勿論、山登りを始めたばかりの人が8000メートル峰を目指すことが不可能なように、テーマの設定は、自分の興味や関心からだけでなく、自分の研究の蓄積水準に応じてなされることになります。この段階では、テーマの設定も必ずしも確定的なものではないでしょう。

次の段階は山麓の探索です。設定したテーマ、その周辺あるいは関連領域でどの程度の研究の蓄積があるのか、研究はどういった方向に進んでいるのか、自分のテーマが既存の蓄積のなかでどのあたりに位置付けられるのか等が、ここで検討されます。『アンナプルナ登頂』のなかで、インド測量部の作成した地図が、実際の姿とかなり異なっていたという場面が出てきます。実際に、研究をサーベイすることで、自分のテーマが、これまでにない新しい問題を取り上げようとしているのか、見過ごされていたが重要な問題にアタックしようとしているのか、それともすでにかなりの蓄積があるのかがわかります。テーマの修正や調整が行われるのはこの段階でしょう。

第3の段階は、登行ルートの研究です。いよいよテーマが確定し、アプローチの方法も決まる、私の専門の経済学の場合、理論的研究であれば、ここでどのような理論モデルが採用されるべきか、いかなる分析ツールが有効であるかという取捨選択が行われます。歴史的・実証的研究であれば、どのような資料が存在し、あるいはどういった種類の資料が蒐集されるべきか、資料蒐集がどの水準まで可能かが検討されます。具体的には、二次資料としての公刊資料や統計データの検討が行われ、それと並行して一次資料(文書類、記録類、会議録、帳簿など)の存在状況の確認、発掘作業が進められます。

最後の段階は、アタックの敢行です。理論的研究であればモデル・ビルディングが、歴史的実証的研究であれば、統計処理、一次資料と二次資料の突き合せ、資料の整序がなされ、自分が予測ないし期待していた結論を導き出すべく集中的にエネルギーが投下されることになります。しかし、実際に登ってみると、遠くからは見えなかった巨大なクレバスが存在したり、登れるはずの岩壁がオーバー・ハングの連続だったり、天候が急変したり、この段階での困難が次々に現れてきます。計算の結果がどうしても自分の期待した数値にならない、何十万円もかけて入手した資料が使い物にならない、あるはずの資料が廃棄されていたり、閲覧を拒否される、といった本当に泣きたくなるような経験は、研究者であれば、誰でも持っていることでしょう。未登攀登頂が必ず成功するとは限らないのと同様に、この段階で研究を撤退せざるをえない場合も時には出てきます。だが、さまざまな試行錯誤の末、これらの困難が突破されたとき、研究目標に到達することができるのです。

研究の過程、論文執筆の過程が、ほぼこのような段階を経るとすれば、それぞれの段階で適切な対処をすることが大事です。でも、研究も山登りと同様、いざというときにものをいうのは日ごろの鍛錬です。そして、広い意味でのチームワーク、共同と協力は欠かせません。そのための体力、知力を鍛えておきたいと思います。

学長  伊藤 正直

2月 「人間開発」とは?

先月とりあげた「持続的な開発目標」Sustainable Development Goals の「開発」をどのように考えたらいいのでしょうか。普通、開発というとまず頭に浮かぶのは経済開発だと思います。しかし、2001年に採択されたMDGs(Millennium Development Goals)でも、2015年にそれを引き継いだSDGsでも、取り上げられている項目の多くは、経済開発を直接目標としたものではありませんでした。

英語の developmentは、開発、発達、発展、啓発などを意味しています。仏語のdéveloppement、独語のentwicklung、スペイン語のdesarrollo、イタリア語のsviluppoもほぼ同様です。developmentという言葉は、西欧的概念なのかもしれません。実は、この用語がよく使われるようになったのは、国連開発計画が、人間開発報告書を出すようになってからのことです。1990年がそのスタートでしたから、ほぼ30年が経過しました。国連が毎年出版してきた報告書のタイトルは、HUMAN DEVELOPMENT REPORTです。では、人間開発とは何を意味するのでしょうか。

国連開発計画は、人間開発について次のように述べています。「開発は、人々が大切だと思う生活が送れるように各自の選択肢を広げることである。…こうした選択肢を拡大する上において、何にもまして重要なのは、人間の能力を育てること、つまり人が人生において行い得る、あるいはなり得る事柄を全体として築き上げることである。人間開発のためのもっとも基本的能力とは、健康で長生きをし、十分な知識をもち、人間らしい生活水準を享受するために必要な資源を利用でき、地域社会の活動に参加できる能力である。…人間開発は人権と共通のビジョンを分かち合っている。人間開発と人権の目的は、人間の自由である。そして、能力を追求し人権を確立するうえで、この自由は不可欠である。自分で選択をし、自らの人生に影響を及ぼす意思決定に参加するためには、人は自由でなければならない。」(UNDP国連開発計画『HUMAN DEVELOPMENT REPORT 2001 新技術と人間開発』)

つまり、自分の人生の現在と将来について自己決定できること、そしてそのための基礎的条件を整備し、基礎的能力を「開発」していくことが、人間開発だというのです。これに比べると、経済開発の方は、その意味するところは、はるかに明瞭でしょう。例えば、開発途上国や移行経済を対象とする経済開発の場合は、工業化を実現すること、雇用を拡大すること、所得の不平等を改善すること、医療や社会福祉の増進を図ること、国際収支を改善すること、総じて適正な経済成長を継続することが課題となってきましたし、先進国の場合は、開発と環境の整合、社会資本の整備、労働環境や労働市場の整備、財政の均衡や金融の円滑化などが課題とされてきました。

問題は、この経済開発と人間開発の関係をどのように考えるかです。先進国の場合は、経済開発のテンポを一定スローダウンした方が、人間開発にとってプラスとなるかもしれません。途上国の場合は、相当程度の経済開発なくしては、人間開発の基礎的条件がなりたたないでしょう。しかし、近年の経済グローバル化の急速な進展は、この関係のあり方をきわめて複雑にしています。多国籍ビジネスによる途上国に対する経済開発が、同じ地域の人間開発の条件を悪化させたり、反対に、経済開発の停滞が人間開発の停滞を招くこともあったりするからです。

経済開発と人間開発の関連が、鋭くあらわれてくるのは開発途上国です。2001年のMDGsが開発途上国を主たる対象とし、貧困・飢餓、初等教育、ジェンダー、乳幼児・妊産婦、疾病、環境、連帯を目標に掲げたのは、そのためです。具体的には、人権と人間開発の相補性を示す政治体制、先進国との関連を典型的に示す累積債務とその救済問題、途上国同士の関係を象徴する国際水紛争、そして、途上国の人間開発をもっとも困難とする難民問題や人身売買。開発途上国は、共通してそうした問題を抱えていました。経済開発と人間開発の同時達成は、これらの問題のなかで、困難と矛盾に直面していたのです。

「人々が大切だと思う生活が送れるように各自の選択肢を広げる」、そのために何よりも必要なことは「人間の能力を育てること」、そして、「自分で選択をし、自らの人生に影響を及ぼす意思決定に参加するためには、人は自由でなければならない」。MDGsもSDGsも、このことこそが、人間開発の基本線だと宣言しています。私たちもこの基本線を確認しつつ、SDGsに取り組んでいきたいと考えます。

学長  伊藤 正直

1月 「持続可能な開発」とは?

最近、SDGs(エスディジーズ)という言葉があちこちで聞かれます。2015年の国連サミットで採択され、2030年までの15年間に取り組むべきさまざまの目標を掲げた「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称です。2001年に国連で策定されたMDGs(Millennium Development Goals)を引き継いだものですが、MDGsが開発途上国を対象とし、①貧困・飢餓,②初等教育,③女性,④乳幼児,⑤妊産婦,⑥疾病,⑦環境,⑧連帯の8つを目標としていたのに対し、SDGsの方は、先進国を含めたすべての国が追求すべき17の目標、その下に169のターゲットを掲げています。

その17の目標は、次のとおりです。ちょっと長いですが列挙してみます。①貧困をなくそう、②飢餓をゼロに、③すべての人に健康と福祉を、④質の高い教育をみんなに、⑤ジェンダー平等を実現しよう、⑥安全な水とトイレを世界中に、⑦エネルギーをみんなにそしてクリーンに、⑧働きがいも経済成長も、⑨産業と技術革新の基盤を作ろう、⑩人や国の不平等をなくそう、⑪住み続けられるまちづくりを、⑫つくる責任つかう責任、⑬気候変動に具体的な対策を、⑭海の豊かさを守ろう、⑮陸の豊かさも守ろう、⑯平和と公正をすべての人に、⑰パートナーシップで目標を達成しよう。目標としている範囲が、かなりの広がりをもっていることがわかります。それだけ認識が広がったともいえますし、逆に、問題が複合化し深刻化したともいえます。

SDGsは、2015年の国連サミットにおいて全会一致で採択されました。5年前のことです。そして、その実現のために、すべての国が行動することを要請する「普遍性」、誰一人として取り残さないように目標を追求する「包摂性」、あらゆる利害関係者が役割を担う「参画型」、社会、経済、環境といった問題群を包含して捉える「統合性」、目標達成のプロセスを常時点検し公表する「透明性」の5つを、今回のSDGsの特徴として自己規定しました。

この17の目標について異議のある人は誰もいないでしょう。先進国も新興工業国も開発途上国も、アジアもヨーロッパも南北アメリカもアフリカも、熱帯地域から寒帯地域まで、共同してこの目標のために努力しようという合意が、国連の場でえられたことはとても貴重なことです。しかし、この17の目標、その一つひとつを具体的に実現するとなると、多くの困難が立ちはだかっています。

例えば、この17の目標のなかには、環境に関わる目標がいくつかあります。環境問題が地球人類の存続にとって根幹的な問題であると、国際的な場で協議されるようになったのは50年ほど前からのことです。1972年スウェーデンのストックホルムで開かれた国連人間環境会議以降、世界各国で環境関連省庁が設立され、さまざまな形で環境政策が行われるようになりました。国際的にも、1982年に海洋および国際河川の汚染防止のためにジャマイカのモンテゴ・ベイで締結された国連海洋法条約、85年にオゾン層保護を目的として結ばれたウィーン条約、87年にフロンガス使用の規制を目的として採択されたモントリオール議定書、92年に生物多様性の保護のために結ばれた生物多様性条約、同じ92年に温暖化防止を目的としてニューヨークで採択された気候変動枠組条約などが、この時期に締結されました。

しかし、1992年にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開かれた地球サミットでは、環境問題をめぐる国家間の対立が表面化しました。その対立は、一つは先進国と途上国の対立として、もう一つは、先進国内部の対立として現れました。先行したのは、先進国と途上国の対立です。すなわち、先進国側が、地球環境問題は人類共通の課題で、経済発展の度合いに関わらず共通に対策を要する問題だと主張したのに対し、途上国側は、環境問題の責任は先進国にあり、人口増加や貧困といった問題解決のためには環境保全よりも経済発展を優先せざるをえないと反論したのでした。

これまで環境保全より経済発展を優先させてきた先進国が、突然途上国に経済発展を抑制して環境保全対策に参加せよと主張しても、途上国にそれを受け入れる経済的余裕があるはずもないというのです。もっとも、人口増加と貧困という問題を抱えた途上国では、「貧困と環境悪化の悪循環」という問題、すなわち、人口増加による無理な耕地開発は森林面積の減少や土壌劣化、洪水の発生、水質汚染、大気汚染といった環境問題をもたらし、さらなる貧困を招いてしまうという問題を内包していることも徐々に明らかになりました。加えて「環境ダンピング」と呼ばれる問題もあります。先進国の企業が環境規制の緩い途上国に工場を移転させることで、進出先の環境を悪化させてしまうというケースです。

もう一つ、先進国内部の対立も、現在まで引き続く問題です。SDGsの⑬気候温暖化の目標は、先進国内部の意見不一致によって、具体化が妨げられてきた代表例です。1997年に、第3回気候変動枠組条約締結国会議(COP3)で作成された京都議定書に対し、世界最大の温室効果ガス排出国であるアメリカは、2001年に離脱を宣言しました。また、京都議定書から18年ぶりにCOP21で採択されたパリ協定は、いったんはアメリカと中国の同時批准、EUの法人としての批准によってスタートしたかに見えましたが、トランプ大統領の反対によってアメリカは2019年11月に正式離脱してしまいました。2019年12月にマドリードで開催されているCOP25も、大幅な排出削減に消極的な米中や日本、目標の深堀を求めるEUや島しょ国の対立があり、具体策に踏み込めない状況です。

「持続可能な開発」を実現するためには、先進国と途上国によるさらなる協力、先進国内部における対立の調整が必要です。それまでの資源浪費型の生活スタイルを見直し、リサイクルの普及、環境負荷の少ない工業製品への移行を進めていくこと、途上国側がそうした生活スタイルを定着できるようなさまざまの支援を持続的に進めていくことが求められています。

学長  伊藤 正直

12月 研究成果について

研究の話をもう少し。知的好奇心と探求心が研究の基本的動力であるにせよ、研究の結果として産み出された成果は、社会に還元されなくてはなりません。なぜならば、その成果は、次の研究の前提・土台となるからであり、人々の共有財産となるからです。このことは、コンピュータの発明や新薬の開発などを思い浮かべれば、直ちに了解できることでしょう。とはいえ、そのあり方は、基礎研究と応用研究ではずいぶん違いますし、自然科学、社会科学、人文科学の間でも、その意味合いには大きな差異があります。

研究成果は、論文にまとめ、学術雑誌などに発表するという形式が一般的です。学術雑誌がどの程度の権威や影響力があるかを測るimpact factorという指標があり、自然科学のかなりの領域では、この数値が高い雑誌に掲載されることを目標として、厳しい競争が日々繰り広げられています。論文が掲載されるまでには、査読(investigative reading, Peer review)という制度があり、論証の客観性、実験の正確性、データの信頼性が求められ、論文の書き直しを求められることもしばしばです。論文が掲載された後も、その論文がどの程度の評価を受けているかが、citation index(他の論文で、当該論文がどれだけ引用されているか)という指標で測られます。

ところが、こうした権威ある国際的一流誌、例えば『ネイチャー』や『サイエンス』といった科学誌からの論文撤回数は近年増加しており、とくに捏造を理由とする論文撤回数の割合が、全体の撤回数の40%を超えているそうです(日本学術振興会『科学の健全な発展のために』2015年)。なぜ、こんなことが起こるのでしょうか。

自然科学の領域で国際的に有名な捏造事件は、2002年に発覚したベル研究所の「シェーン事件」です。高温超伝導の国際的な研究競争の過程で起きたデータ捏造・使い回しで、16本の論文に不正があったと判定されました。国内的な事件としては、2012年の「ディオバン事件」がよく知られており、複数の大学病院が、高血圧治療薬ディオバンに関する臨床研究を、製薬会社に有利なようにデータ操作、統計操作を行ったというものでした。2013年に発覚した東京大学分子細胞生物学研究所における論文不正も33本にのぼりました。これらの不正行為は、ラボの責任者の研究至上主義、過剰な業績競争、名誉欲などがその背景にないとはいえませんが、一番大きいのはやはり、市場経済の下での経済的利益と自然科学の応用研究との結びつきが著しく強くなったことにあると考えられます。

もちろん、このことは一概に否定されるべきではありません。社会発展は、経済活動を抜きにしてはあり得ず、経済発展は、知識の体系の進歩によってもたらされるものだからです。それが公正、公平、誠実に行われているか、そのためのシステムが構築され、認識が共有されているかが、問題のポイントでしょう。研究者の側からは、研究倫理の確立ということになりますが、研究成果の社会的活用という側からは、成果物をどのように保護、活用するかということになるでしょう。

知的財産権、知的所有権という考え方がここから出てきます。2002年に制定された知的財産基本法は、知的財産を、「発明、考案、植物の新品種、意匠、著作権その他の人間の創造的活動により生み出されるもの、商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報をいう」と定義しています。そして、ここから生じる知的財産権を、「特許権、実用新案権、育成者権、意匠権、著作権、商標権、その他の知的財産に関して法令により定められた権利又は法律上保護される利益に係る権利」としています。

知的財産という言葉からわかるように、これは「財産的価値を有する情報」、つまりこれらの情報を経済的価値から捉え直したものです。じつは、特許権や商標権は、この法律よりずっと古くから認められてきました。歴史的には、1474年に、ベニス共和国で、ガラス工芸品の技術を守るためということでベネチア特許法が制定されたのが、特許制度の起点とされています。知的財産のうち、特許、実用新案、意匠、商標の4つを「産業財産」といい、日本では特許庁が所管しています。

米国旧特許庁の玄関には、「特許制度は、天才の火に利益という油を注いだ」(The patent system added the fuel of interest to the fire of genius)というリンカーン大統領の言葉が刻まれているそうです(特許庁ウェブページ)。利益をあげるということを、極めてシンプルに肯定的にとらえているいかにもアメリカらしい表現です。

自然科学の研究領域のかなりの部分が、現在では、この産業財産権と無関係ではなくなっています。このことが、研究の過当競争を生み、ひいては研究不正につながる事例を生み出しているともいえます。研究活動に対する謙虚な姿勢、誠実で公正であろうとする精神、不正に対する羞恥と怒り。研究者コミュニティにおいてこれをどう育んでいくかが改めて問われています。

学長  伊藤 正直

11月 研究する喜びと悩み

三浦しをん『愛なき世界』(中央公論新社、2018年)を読みました。三浦しをんには、お仕事小説というジャンルの作品がいくつかあります。『神去なあなあ日常』(林業)、『仏果を得ず』(文楽)、『舟を編む』(国語辞書編纂)などがそうですが、今回の『愛なき世界』は、理系の研究生活を取り上げています。

主人公は、T大大学院理学系研究科生物科学専攻「松田研究室」所属の博士課程院生本村紗英と赤門前の洋食屋「円服亭」で働く藤丸陽太。本の帯に記されたキャッチは次の通りです。「洋食屋の見習い藤丸陽太は、植物学研究者をめざす本村紗英に恋をした。しかし本村は、三度の飯よりシロイヌナズナ(葉っぱ)の研究が好き。見た目が殺し屋のような教授、イモに惚れ込む老教授、サボテンを巨大化させる後輩男子など、愛おしい変わり者たちに支えられ、地道な研究に情熱を燃やす日々‥‥人生のすべてを植物に捧げる本村に、藤丸は恋の光合成を起こせるのか!?」

懐徳門と赤門の間にある古びたレンガ造りの建物。この建物は、東大理学部2号館で、実際に理学系研究科生物科学専攻が入っており、ここに住まう面々をモデルとしたとおぼしい。そして、小説は、理系の研究生活を、丁寧かつかなりリアルに描いていきます。実は、理系の研究といっても、研究領域によって、その研究スタイルは、大きく異なっています。理学系に限っても、一方で、一人で研究を進めることが基本の純粋数学という分野があり、その対極には、巨大な実験装置と大規模研究グループによる高エネルギー物理学という分野があります。本書で対象となっている生物科学は、実験系ですが、両者の中間あたりに位置するといっていいように思います。同じ実験系といっても、高エネルギー物理学と比べると、実験の進め方に始まり、実験グループの規模やグループ組織のされ方、組織間の連携のあり方、使用可能なリソースなどは全く違います。工学系や農学系、医学系まで目を広げれば、その違いはもっと大きくなるでしょう。

博士論文準備中の本村は、時に研究室のメンバーに手伝ってもらいながら、実験素材を培養し、顕微鏡で観察し、写真や記録に取り、仮説の検証に努めています。その過程で、実験ミスを犯したりもするのですが、めげずに、オープンセミナーでの博士論文の予備発表にこぎつけます。「博士課程の院生がこのような実験ミスをすることはあり得ない」、「研究者や大学院生を、研究以外の喜びを捨てた浮世離れした求道者というステロタイプで描くことはやめて欲しい」といった書評が、若い研究者や院生から出されてもいますが、研究する喜びは、本書から十分に伝わってきます。

研究者は、どうして研究という道を選ぶのでしょうか。研究する喜びとはどのようなものでしょうか。目標を定め、その目標に向かって努力する、そして目標を実現する。こうした達成感を得るために研究する、ということもあるでしょう。この場合は、スポーツのアスリートや企業の製品開発などと同じです。では、研究の独自性はどこにあるのか。自分を振り返って、どこに研究の喜び、面白さを感じていたのかと考えてみると、未開の領域、未知の領域へと分け入っていくことが一番だったような気がします。これまで知られていなかったことやものを発見する、新しい視点や方法によってこれまでとは全く違った世界が見えてくる、自分がたてた仮説が正しかったことが証明される。研究の独自性とは、こんなところにあると思います。研究を進めていくには、創造力、分析力、構成力、総合力がそれぞれ要請され、自分の得意なところ、苦手なところにいつも悩むことになります。

私の専門領域は、社会科学のなかの経済学で、とくに金融および国際金融の歴史と現状についてです。ただし、経済学は、理論科学と政策科学の両方にまたがっていますから、社会の発展段階や社会構造の違いによって、正解がひとつになるとは限りません。ケインズが、チャーチルの諮問に対して、まったく異なった二つの答えを同時に出したというのは有名な話です。また、理系とは違って、シングルオーサー(単一著者)で論文を発表することがほとんどで、ビッグデータの処理をするとか、国際共同研究を遂行するといった場合を除けば、巨額の資金を要することは、あまりありません。研究に対する権利と義務、責任と倫理は、個人で負うのが一般的です。それでも、研究を持続するには、ポストや研究費といった一定の客観的な条件が必要です。先の、若い研究者や院生による本書への批判的書評は、こうした問題が全く触れられていないといった点にもありました。とはいえ、本書にそれを求めるのは、ちょっと場違いのような気もします。

知的好奇心と探求心、これが研究を進めていく基本的動力ですが、東日本大震災とその下での福島第一原発の事故をみても明らかなように、科学が社会に与える影響は、今日、ますます大きくなっています。「青春小説」でもある本書を読みながら、社会との関わりを不断に意識し、チェックしつつ、研究を進めていく必要があるとあらためて考えました。

学長  伊藤 正直

10月 翻訳という営み

日本は、翻訳王国、翻訳大国といわれてきました。近世以前は、主として中国語文献が、漢文読み下しという独特の方法によって多く読まれましたし、近代以降は、蘭語、独語、仏語、英語のさまざまの文献が、脱亜入欧の掛け声とともに、次々に翻訳されました。杉田玄白・前野良沢『解体新書』、明治初期のスマイルズ『西国立志編』、ミル『自由之理』、あるいは、明治中期の二葉亭四迷『あひびき』などのことは、中学や高校の教科書で読んだことがあるでしょう。明治期に翻訳が多かったのは、医学、工業技術、農業技術、法律などで、近代国家形成のための必死の試みであったということもできます。ふだん私たちが日常的に使っている「社会」という言葉も、明治時代に翻訳語として新しくつくられた言葉でした。

第二次大戦後も、翻訳の時代は続きました。戦後改革期から高度成長期にかけて、書籍の出版点数が急激に増大するのと並行して、翻訳書の点数も増え続け、1960年に約1千点ほどであった翻訳書は、1987年には約3千点になりました。その後21世紀に入ってから最近までは、毎年5千点前後の翻訳書が出続けているとのこと。年間の新刊書籍点数はおよそ7万点ですから、新刊書の約7%が翻訳書ということになります。

ユネスコのIndex Translationum をネットで検索すると、世界の翻訳市場における累積翻訳件数(1979年から2018年まで、実際には2010年辺りまで)の主要言語別がわかります。これによれば、何語に翻訳されたかについては、1位がドイツ語で約30万件、続いて、フランス語約24万件、スペイン語約23万件、英語約16万件、日本語は5位で約13万件です。逆に、元言語からみると、英語から他言語への翻訳が約127万件と圧倒的で、続いてフランス語からが約23万件、ドイツ語からが約21万件、ロシア語からが約10万件と続き、日本語からは8位で約3万件です。科学技術翻訳では一時日本語からの翻訳が1位になった時期もあったようですが、全体としてみると、流入超過の状況は明治からずっと続いているということになります。ちなみに、世界中に翻訳された著者のベストスリーは、1位アガサ・クリスティ、2位ジュール・ヴェルヌ、3位ウィリアム・シェークスピアだそうです。

翻訳とは、端的には、ある言語を他言語に移し替えることです。文法や言語体系が一致しているわけではないので、移し替えるといっても、そう簡単ではないのですが、それでも、自然科学や社会科学の場合は、かなりの概念語が一致しているので、正確な翻訳が良い翻訳ということになります。しかし、人文系の領域の場合、とくに小説や詩の翻訳となるとそうはいきません。

小説家でありながら、数多くの翻訳を手掛けてきた村上春樹は、よい翻訳の絶対条件は語学力だといっています(村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』文春新書129)。といっても、それは単語や熟語の多くの意味をどれだけ知っているかとか、独自の言い回しや俗語、クリーシェ(決まり文句)をどれだけよく理解しているかということではありません。具体的には、つぎのようなことです。村上春樹が新たに訳したサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の冒頭部分、If you really want to hear about it の訳文として、「もし君が僕の話を本当に聞きたいのであれば」、「こうして話を始めると」、「だからさ」、「いいかい」のどれが最も適切であるかをめぐって、村上の小説の多くを英訳しているハーバード大学ジェイ・ルービンと村上が議論しています。ルービンは、この小説の冒頭部分で重要なのは主人公の怒りなのであるから、言外のその意味をきちんと理解できるように訳すべきだとして、最初の表現は誤訳、2番目も不十分と主張し、それに対し、村上は、話が始まるという様式性がこの文章の中で大事な役割を果たしているのだから、3番目や4番目の表現ではそれが消えてしまうと反論しています(村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』文春新書330)。これが語学力ということです。

村上は、また、翻訳で大事なのは、元の文章の、ビートやグルーヴをどれだけ読み取れるかだ、ともいっています。小説のエッセンスが、文体、人物造形、結構にあるとすれば、そして、著者が、独自の文体をもち、独自のビートやグルーヴをもっているとすれば、それを別の言語に翻訳するのは、とてつもなく大変なことでしょう。私たちは、翻訳家のこうした努力の上に、それをほとんど気にすることなく、翻訳された小説や詩を楽しんでいます。

では、これはどうでしょうか。翻訳でしょうか。それとも元詩にインスピレーションを得た創作でしょうか。いずれも元の気分や精神をくっきりと写し取っており、それぞれ独自のビートやグルーヴがあります。翻訳は、本当に難しい。

照鏡見白髪 張九齢
宿昔青雲志  宿昔ノ青雲ノ志
蹉跎白髪年  蹉跎タリ 白髪ノ年
誰知明鏡裏  誰カ知ラン 明鏡ノ裏
形影自相憐  形影自ラ相憐レムコトヲ

シユツセシヨウト思ウテヰタニ
ドウカウスル間ニトシバカリヨル
ヒトリカガミニウチヨリミレバ
皺ノヨツタヲアハレムバカリ (井伏鱒二訳)

あまがける こころ は いづく しらかみ の
みだるる すがた われ と あひ みる (会津八一訳)

学長  伊藤 正直

9月 住まいの話、まちづくりの話

2年ほど前、『人生フルーツ』という映画を観ました。元々は、テレビのドキュメンタリー・シリーズの1本で、それを劇場用に編集しなおしたものです。90分ほどの時間に、90歳と87歳の老夫婦の日々の営みが、樹木希林さんの落ち着いたナレーションとともにゆったりと映し出されていきます。

主人公の一人、90歳の津端修一さんは建築家で、雑木林に囲まれた自宅は、師のアントニン・レーモンド(フランク・ロイド・ライトの弟子で、日本で多くの建築の設計をしてきました)の自邸に倣って建てた家。天井の梁(はり)や躯体がむき出しになった30畳の広いワンルームで、食卓もベッドも見わたせます。もう一人の主人公87歳の津端英子さんは、300坪の土地に70種の野菜と50種の果実を栽培し、料理、刺繍、機(はた)織りにも日々精を出しています。ロハスというほど軽くはない、自給自足というほど泥臭くもない。過剰を避け、自然に逆らうことなく穏やかに生きる。そんな暮らしが淡々と描かれているかのようにみえます。

しかし、映像の細部に目を凝らすと、そこに、てこでも動かない強烈な個性を発見することができます。個室の全くない家そのものがそうです。雑木林の楢(なら)や樟(くぬぎ)の幹に人名を記した木札が貼り付けられていますが、これは冠婚葬祭に一切出席しなかった修一さんが、亡くなった友人をしのぶために貼り付けたものだそうです。

修一さんは、大学卒業後、レーモンド建築設計事務所を経て、1955年、日本住宅公団発足とともに公団に入社します。そして、青戸第一団地、原宿団地、多摩平団地、高根台団地、阿佐ヶ谷住宅、赤羽台団地など、数多くの団地の設計、レイアウト・プランなどを手掛けました。その頃の修一さんを知る人の回顧によれば、「当時、団地のレイアウト・プランをつくったりするのに津端さんは独創的なデザインをかなりやっていて『津端スクール』みたいなグループもできたんですよ。…でも津端さんはマイペースで人のいうことを聞かないから(笑)、一方では上の連中から恨まれたりもしてね」(都市計画コンサルタント協会『協会レビュー』2010年第7号)とあるように、若い頃からかなり頑固な建築家だったようです。

日本都市計画学会石川賞も受賞した愛知県春日井市の高蔵寺ニュータウンでも、風の通り道となる雑木林を残し、自然との共生を目指したレイアウトを主張し、禿(はげ)山となった高森山を「ドングリ作戦」として復活させようとしたといいます。しかし、完成したニュータウンは、その意図とは程遠いものとなってしまったため、1970年にこのニュータウンの一隅に自ら土地を買い、家を建て、雑木林を育てて50年の時を生きていくことになりました。このドキュメンタリーが撮影された最晩年は、伊万里市の医療福祉施設の設計草案を無償で手掛け、撮影中の2015年6月に老衰で逝去されました。

住戸プランにおける画一性と、外部空間における多様性と先駆性。日本住宅公団の設計した団地群にはこの両者が併存しています。前者は、51C型と呼ばれた基本間取りで、6畳と4畳半にDKを加えた2DK。全国各地で建設された公団住宅は、初期はすべてこの間取りでした。ステンレス流し台、水洗便所、浴室、シリンダー錠という最新設備は、住戸のなかに配置される3種の神器(電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビ)とともに、若い核家族の憧れの的となりました。後者は、独自の住棟配置やゾーン配置で、開かれた空間と公共性が、幼児の遊び場、小中学生の運動場の配置や、歩道と車道の組み合わせや、住棟間の幅の工夫として、それぞれの団地ごとに独自に多様性をもって設計されていました。

この先駆性を代表する建築家が津端修一さんでした。例えば、修一さんがリーダーとなった阿佐ヶ谷住宅のレイアウト・プランでは、「個人のものでもない、かといってパブリックな場所でもない、得体の知れない緑地のようなもの(=コモン)を、市民たちがどのようなかたちで団地の中に共有することになるのか」と、修一さんが記しています。

修一さんが、入社した日本住宅公団は、戦後の住宅難の時期に住まいを量的に供給することを目的に設立され、1955年から80年までの間に100万戸を超す集合住宅を建設しました。その後、1981年に住宅・都市整備公団と名称を変え、都市開発も視野に入れた事業に取り組むようになります。さらに1999年には都市基盤整備公団という名称に変わり、2004年には独立行政法人都市再生機構(UR)となって、現在に至っています。この名称の変遷から、仕事の内容が、住宅建設・供給から都市計画、民間デベロッパーに対する誘導支援事業へと変化してきたことがわかります。現在では、URは新規住宅建設を行わず、リノベーションや団地の改修と再生を民間と共同して行うようになっています。

少子高齢社会の進行のなかで、2040年までに全国の1800市町村のうち896市町村で人口が50%以上減少すると推計され、将来的には消滅する可能性がある(日本創成会議・人口減少問題検討分科会)ともいわれている現在、『人生フルーツ』という映画、そしてそこで描かれた津端修一・英子夫妻の暮らしは、社会・都市をどのように変えていくのか、どのような住まいとまちをつくっていくのかについて、向かうべき方向と道筋を静かに示しているようにも思いました。

学長  伊藤 正直

8月 お茶について

先月の「衣」に続いて、今月は「食」、というか「飲む」こと。「飲む」といってもお酒ではなくお茶の話です。北京西站(えき)から外に出ると、南北に続く馬連道という通りにぶつかります。この通りをちょっと南に下った辺りから1500mほどの間に、1200軒を超す茶城(茶専門のビル)、茶葉問屋がひしめいています。中国最大の茶取引市場ともいわれ、壮観です。専門店となっているところも多く、中国全土のお茶、さらには台湾、インド、スリランカのお茶もここで揃います。これまで、集中講義やシンポジウムで北京に滞在する際には、だいたいここに出かけ、結構まとまった量の中国茶を購入してきました。

私たちが普段飲んでいる日本茶は、緑茶かほうじ茶ですが、中国には、数百種類ともいわれるお茶が存在します。その種類はさまざまで、分類の仕方も多様です。茶葉の形態によって、散茶(葉茶)、末茶(粉茶)、餅茶(固形茶)と分ける場合もあれば、茶葉の色や香りによって分ける場合もあります。ただ、一般的には、発酵度によって分けることが普通のようです。この分け方は、概要、緑茶(不発酵茶)、白茶(弱発酵茶)、黄茶(弱後発酵茶)、青茶(半発酵茶)、紅茶(発酵茶)、黒茶(後発酵茶)の6分類です。茶畑から摘んだ生葉を素早く熱処理して酸化を止めること、すなわち発酵を行わないようにするのが不発酵茶で、ほとんどの日本茶、中国茶の緑茶がこれです。これに対して、日光や室内で乾燥させ、揺青(ヤウチン)、揉捻(ロウニェン)などを行うことによって、発酵を促進していくのが、青茶、紅茶、黒茶です。

緑茶は、日本の緑茶とほぼ同じ、龍井茶が有名です。白茶は、新芽を日干しして水分を蒸発させたもので、針のような形状をしています。シルバーチップスという名称で紅茶に混ぜたりもします。黄茶も形状は白茶に似ていますが、茶葉もお茶もはっきりとした黄色です。味も香りも軽さが特徴です。青茶は、日本で最も知られている烏龍茶がその代表で、武夷岩茶(ぶいがんちゃ)、鉄観音が有名ですが、台湾の東方美人、梨山なども知られています。さわやかな甘味と香りがあります。

紅茶も、じつは中国生まれですが、イギリスの紅茶文化の誕生とともに急速に普及しました。現在は、世界のお茶生産量のじつに70%が紅茶で、インド「ダージリン」、スリランカ「ウバ」、中国「祁門(キーモン)」が世界三大紅茶といわれています。最後の黒茶は、日本では減肥茶として知られている普洱(プーアル)茶が代表で、先に述べた餅茶(固形茶)として長期保存されたものも多くあります。かび臭いとも言われますが、なれると濃厚な熟成香が楽しめます。この他に、花茶と称されるハーブティ、例えば、茉莉花茶(ジャスミンちゃ)、菊花茶(きっかちゃ)などもあります。本当に種類が多いですね。

中国で、このようにお茶が広まったのは唐の時代とのことです。最澄や空海が、遣唐使として中国に滞在した時代です。「茶は南方の嘉木(かぼく)なり」とは喫茶の体系を立てた陸羽の言葉で、茶の原産地は、中国南部の雲南省、四川省、福建省のあたりといわれています。この言葉を、私は陳舜臣『茶の話-茶事遍路』(朝日文庫、1992年)で知りました。

陳舜臣『茶の話-茶事遍路』は、茶の文化史を主に扱っている著作ですが、それにとどまらず、茶の社会史、政治史、経済史にまで触れています。例えば、茶馬古道という言葉があります。中国の歴代王朝は、その軍事力の基礎として、北方民族から馬を手に入れるためにかなりの努力を払いました。唐代は、そのための交換手段が絹であったのに対し、宋代に入ると茶が主たる交易手段となったというのです。また、18世紀の半ば、イギリスでafternoon teaの習慣が定着するなかで、お茶の輸入は、イギリス政府財政、国際収支上の大問題となっていくことも論じています。輸入を賄うに足る財源をどう確保するかという問題です。こうして、1773年のボストン茶会事件が起こり、1840年にはアヘン戦争が起こります。前者は、アメリカの茶輸入に本国イギリスが規制をかけようとして起こった事件ですし、後者は、イギリスの経常収支入超を中国へのアヘン輸出によって相殺しようという目的で起きた戦争でした。アメリカの独立とアヘン戦争という世界史上の大事件に、茶は深いかかわりを持っていたのです。

もちろん、こうした生臭い話題が中心というわけではなく、茶文化の歴史を淡々と描いていくところに、本書の本領があります。とくに、茶をめぐる日中交流史、例えば、中国ではすたれてしまった抹茶が、日本では現在まで残り、茶道として定着していることへの言及などは、身体文化としての喫茶が、社会規範へと展開していく道筋を考えるきっかけとなりました。「日常茶飯事」という言葉もあります。生活文化としてのお茶と、「道」としてのお茶、その共通点と相違点を改めて考えてみたいと思います。

学長  伊藤 正直

7月 ポジャギとフクター

博物館や美術館が好きで、集中講義や研修で海外にしばらく滞在するときは、時間を見つけては通っていました。東京にいるときでも、博物館、美術館はあちこちにあるので、面白そうな企画展があれば、なるべく観に行くようにしています。海外で、印象に残っている美術館のひとつが、お隣韓国ソウルの韓国刺繍博物館です。李朝時代の宮廷衣装、ポジャギなどを展示した小ぶりの博物館で、訪問したのは、もう20年近く前のことです。現在どうなっているかとネットで検索してみると、移転準備のため休業中(2019年6月10日現在)とのこと。

ソウルには、世界でも有数の規模を誇る国立中央博物館、世界的な建築家のマリオ・ボッタやジャン・ヌーベルが設計したサムスン美術館、歴史的遺産を多く展示しているソウル歴史博物館など、有名な博物館・美術館(これらの美術館、博物館にも行きました)が数多くあるのに、なぜ、こんな小ぶりの博物館が印象に残っているのかというと、ポジャギがあまりにも繊細で美しかったからです。その刺繍の文様と色彩の組み合わせは、ピエト・モンドリアンやパウル・クレーを髣髴(ほうふつ)とさせ、いつまで見ていても飽きませんでした。

上の写真からも分かると思いますが、ポジャギは、さまざまな色の余り切れを縫い合わせて制作されたパッチワークです。ハンカチ位の小さなものから畳1畳を超すような大きなものまであり、素材も、絹、麻、苧麻(ちょま)と多様です。李朝時代に宮廷で使用されたポジャギは官褓(クンポ)と呼ばれ、庶民に使われたものは民褓(ミンポ)と呼ばれていたそうです。上の写真の右がクンポ、左がミンポで、クンポは絹、ミンポは苧麻(ちょま)です。

このクンポの幾何学的構成と色彩の取り合わせは、私たちの眼からは、とても近代的なものにみえます。ミンポのモノトーンの色調と文様は、さらにモダンです。しかし、実は、このクンポの色の取り合わせは、陰陽五行説に基づく伝統的な色彩観に厳密に従っているとのことです。これに対し、庶民に使われたポジャギのミンポは、地域性を顕著に示し、例えば、江原道のポジャギは、樹木や花鳥など自然からえたモチーフを抽象化したものが多く、西海岸の江華島は幾何学文様の麻のポジャギで知られており、豊かだった全羅道は絹のものが多くみられるといいます(許東華博物館長)。

そしてこの文様と色彩の感覚は、海を渡って、沖縄にも受け継がれたようです。前田順子『きらめく紅絹の交響楽』(暮しの手帖社、1997年)は、明治、大正期の沖縄の琉球絣、大島紬、久米島紬、木綿などを使って作られた和風パッチワークの作品を集めた本ですが、この本のなかにあるフクター(沖縄で、古い布をつぎはぎして作った作業着をフクターという)は、ミンポと共振しているようにもみえます。

絵画や彫刻などから自分が受ける感興と、こうした古い時代の衣装や食器や家具などから受ける感興は、両者の間に少し相違があります。衣装や食器や家具は、自分の体により近い部分という意味で、身体感覚を喚起するためかもしれません。視る文化と触る文化の違いについて、これからも考えていきたいと思います。

学長  伊藤 正直

6月 ネットと個人情報

先月に続いて、ネットの話をもう少し。ネットで買い物をしたり、検索をしたりすると、次にスマホを開いたとき、何もしていないのに以前検索した商品やそれに関連する広告が出てきて、あれっ、と思ったことはありませんか。なぜ、そんなことができるのでしょう。

GAFAという言葉があります。グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの頭文字をとったものです。アメリカのIT大手4社で、世界中にネット網を張り巡らせています。グーグルで検索をし、アップルでスマホを使い、フェイスブックで友達と情報交換し、アマゾンで買い物をする。私たちが毎日のように行っていることです。このように、ネット上で、モノやサービス、情報をやり取りするためのソフトやアプリを提供する組織をプラットフォーマーと呼びます。その代表ともいうべき存在がGAFAです。

これらのプラットフォームを、私たちはタダで利用しています。検索、SNS、地図アプリ、ネット通販。これらはとても便利なもので、私たちの生活を便利で豊かなものにしているといえます。でも、「タダより高いものはない」。じつは、こうした利便性の対価として、私たちは、自分の個人情報を、これらのプラットフォーマーや企業に提供しているのです。その仕組みのひとつが「クッキー」です。「クッキー」は、利用者のオンライン上の行動を追跡できるため、企業は、利用者に「クッキー」情報の利用に同意を求めます。利用者は、情報の利用について「同意するかどうか」を聞かれ、続けて利用したいと考えると、安易に「同意」ボタンを押してしまいます。

こうしてオンライン識別子(IPアドレスやクッキー)とともに、利用者のオンライン上の行動履歴がプラットフォームに蓄積されます。利用者の、年齢、性別、学歴、趣味から始まり、購買履歴、HP閲覧履歴、位置情報などが、ほぼ自動的にこれらのプラットフォーマーに集まっていくのです。収集され、蓄積された個人情報は、GAFAの諸事業のベースとなり、ここからGAFAは巨額の利益をあげています。

フェイスブックによる個人情報の不正流出が明らかになったことをきっかけに、巨大IT企業による個人情報の取扱いが不透明で、ルールを恣意的に運用しているのではないかとの声が広く上がりました。このため、EUは、2018年5月、GDPR(一般データ保護規則)という厳しい規制を施行させました。そして、このGDPRに基づいて、2019年1月、フランスのデータ保護当局は、グーグルに対して、5,000万ユーロ(約62億円)の制裁金の支払いを命じました。

GDPRは、個人データ授受の透明性確保や同意取得の原則などに違反した管理者に対して一定額の制裁金を課すことを規定しています。グーグルへの制裁金の課金の理由は、具体的には、①グーグルは個人データを取得する場合は、その利用目的や法的根拠などをデータ主体に説明する義務があるにもかかわらず、データ主体への情報提供が十分でなく、透明性が認められないこと、②ターゲティング広告で個人データを取得するときデフォルトで同意することとなっており、データ主体の明確な同意に基づいていないこと、の2点にあったと説明されています。本来、同意は、個別の利用毎に毎回取得することが必要であるのに、グーグルは包括的に取得していたために、データ主体の明確な同意ではないと判断されたのです。

これまでもネット上での個人情報の公開については、『学生生活の手引き』などで、そのリスクについて繰り返し注意を喚起してきました。氏名、年齢、住所、電話番号、自分の写真といった個人に関する情報を公開する危険性について、十分認識してほしいとの思いからです。迷惑メール、データ改ざん、ネットストーカーなどの被害は、最近でもおさまっていません。

しかし、GAFAなどによる個人情報の取得と利用は、それとは性格をやや異にします。ネットでの個人情報の公開は、あくまでデータ主体の意思に基づいてなされているのに対し、GAFAなどによる個人情報取得はデータ主体の意思とは無関係に行われてきたからです。見方によっては、より悪質ということができます。GDPRは、この点を重視して、はっきりと「個人をデータ処理者、管理者から守る」ことを目的としました。

日本政府も2018年12月に、巨大プラットフォーマー規制強化に向けた「基本原則」を発表し、専門の監督組織を設ける方向で検討を開始しています。この検討では、巨大ITと個別企業との関係が中心となっていますが、より重要な点は、プライバシーの保護でしょう。自分の知らないところで自分に関する情報がやり取りされることへの危惧、気持ち悪さを出発点として、どのようにして個人情報が守られるかを丁寧に議論することが求められています。

学長  伊藤 正直

5月 若者はどんなメディアにアクセスしているのか?

この30年、いや、この10年をとっただけでも、人々のメディアへのアクセスは大きく変化しました。朝、大学に出てくると、学生のほとんどは、スマホに一心に見入っています。何をやっているのかなあ、とちょっと聞いてみると、多いのがLINEとInstagram、次いで、Twitter、Youtube、あとはゲームで、ソーシャルメディア系のサービスやアプリが、活発に利用されています。友達同士の情報交換、自己情報の発信、世の中の出来事や趣味・娯楽に関するニュースの入手などに、スマホが日々使われているのです。

昔は、メディアといえば、まず新聞でした。今、毎日、新聞を読む人の割合はどのくらいでしょうか。総務省やNHKなどのいくつかのアンケート調査からみると、新聞を毎日読んでいる人は、全体の半分強とのことですが、年代による差が著しく大きくなっているのが最近の特徴です。10代、20代は、新聞を読むのは10%以下、ほとんど読んでいません。30代、40代も10~20%で、新聞を読むのは圧倒的な少数派です。60代以上は、あいかわらず半数以上が新聞を毎日読んでいます。以前は、30代、40代で新聞を毎日読む人が50~60%いましたから、この世代の変化が大きいことがわかります。

新聞と並ぶ主要メディアのテレビはどうでしょうか。新聞ほどではないといえ、こちらも年代による差は大きいようです。一日の間に少しでもテレビを観たことのある人(平日)は、全年代平均で80.8%(2017年)と新聞よりはかなり高いのですが、年代別にみると、50代、60代が90%以上であるのに対して、10代は60%、20代は64%と、若年層では、4割近くが全くテレビを観ていないのです。

では、どこから情報を得ているのか、どんなメディアにアクセスしているのかといえば、予想通りといえば予想通りですが、10代、20代の人たちの情報源はインターネットです。総務省「平成29年情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査報告書」(平成30年7月)には、「目的別の利用メディア」という項目があります。そこでは、利用目的を、①「いち早く世の中のできごとや動きを知る」、②「世の中のできごとや動きについて信頼できる情報を得る」、③「趣味・娯楽に関する情報を得る」という3項目に分類して、それぞれ年代別の利用状況を抽出しています。これを見ると、全年代平均では、①と②は、テレビが、それぞれ51.9%、54.1%と最も高いのですが、①を年代別に見ると、インターネットの利用率が10代57.6%、20代69.9%、30代60.7%となり、インターネットが一番利用されています。③では、全年代平均でインターネットが61.3%と最も高くなり、年代別では、10代82.0%、20代85.6%、30代74.5%とネット利用が圧倒的です。

項目中の、①や②はニュースの取得といってよいでしょう。若者たちは、ニュースも、ネットから得ているのです。ネットのニュースは、ポータルサイト、ソーシャルメディア、キュレーションサービスなどから配信されますが、Yahoo!ニュースなどのポータルサイトからの配信が、現在のところもっともよく見られているようです。なかでも、ソーシャルメディアは、テレビや新聞と違い、「自分が見たいものを探して見る」というところに特徴があります。その分、発信者の側にもクセや偏りがあり、受信する側も、自分の好みやニーズに合わないものは見ないということが起こりがちです。

ニュースに対する信頼度は、新聞やテレビの方が、ポータルニュースサイトやソーシャルメディアよりもかなり高いという調査結果(上の総務省調査)が出ています。この信頼度は、じつは年代によってもあまり変わりません。にもかかわらず、若い人たちは、ネットからニュースを得ています。ネットの信頼度が低いことは認識していながらも、「10代~20代は信頼性より即時性、生の声を重視」(2017年1月野村総合研究所調査)しているためだそうです。

今年の入学式で、「反証可能性」ということを話しました。「私がこう思うことは誰にとってもそうである」ことが必要である、別の人が同じ実験をしたら同じ結果が出なくてはならない、ということです。与えられた情報をそのまま受け入れる、入ってきたニュースはすべて正しい、と直ちに結論してしまうのではなく、少なくとも、複数の箇所から、そのソースの正当性や事実確認をする、そのうえで、自分の最終判断をしてほしいと思います。

学長  伊藤 正直

4月 市場経済について改めて考える

最近ようやく担当から離れましたが、これまでかなり長い期間にわたって、『中学社会』、『高校社会』の教科書を執筆してきました。いずれも、かなり細かいところまで教科書検定があり、個人の著書や論文のように、自由に自説を展開する訳にはいきませんでしたが、それでも、「社会」という科目が対象としている世界を、できる限りわかりやすく中学生、高校生に伝えたいと努力してきたつもりです。

担当したのは、中学も高校も、広い意味での公民的分野、もう少し狭くは経済分野で、いろいろ考えた末、やはり最初は「市場経済とは何か」から説明しようということになりました。当時の高校教科書での記述を少し引用してみます。

「きみたちが日常使っているモノのほとんどは、どこかで買い求めたものである。昔はそうではなかった。近代以前の社会では、自分たちが食べるものや着るものの多くは自分たちでつくっていた。ところが今日、ほとんどすべてのモノやサービスは商品として売買されている。企業は生産に必要な原料や材料を、他の企業から購入する。また、企業と家計の間では、消費材の売買がある、と同時に労働力の売買が行われる。きみたちの家族のだれかが会社に行って働いているとすれば、じつはそれは労働力という商品を企業に販売しているのである。このようにほとんどすべてのモノやサービスが商品となった経済を市場経済という。モノやサービスの値段はこの市場で決まる。自由な競争がおこなわれている市場では、価格は需要と供給のバランスによって決定される。モノが足りなければ、価格は高くなる。過剰にモノがあれば、価格は安くなる。競争相手が多ければ、売り手はかってに値段を決めることができず、市場での競争を通じて決まった価格を受け入れざるをえない。この価格、すなわち需要と供給を一致させる価格を均衡価格という。」

競争を前提とし価格をシグナルとする市場秩序の形成という教科書的な説明(教科書ですから当たり前といえば当たり前ですが)です。アダム・スミスの「見えざる手」の説明といってもいいでしょう。しかし、いうまでもなく、市場経済は万能ではありませんから、その問題点や制約を、続いて、いくつか説明することになります。

スミスは、経済学の始祖といわれ、社会的分業の優位性と効率性を明らかにしたことで有名です。「見えざる手」という表現は『諸国民の富』のなかに一箇所登場します。しかし、スミスは、それに先立つ著作『道徳情操論』のなかで、「(市場は)私的利害関心の異常で重要な追求の場である」、「公共的為政者は、正義という徳性の実践を強制するために、公共社会の力を使用する必要に迫られる。この予防手段がなければ、市民社会は……流血と無秩序の場面となったであろう」、「正義は……大建築の全体を支える主柱である」と述べています。

「市場」がそれ自体として、価格をシグナルとする「規律付け」のメカニズムをもつというのが、「見えざる手」という考え方です。しかし、スミスは、それに先立つ論考では、市場は「正義による規律付け」を必要としていると主張しています。トランプ政権、習政権の最近の動向や、ヨーロッパ統合をめぐる軋みをみていると、アダム・スミスのこの言葉を、今一度振り返る必要があるとの思いを強くします。

学長  伊藤 正直

2018年度

3月 統計の役割とは?

統計不正とか統計偽装という言葉が、マスコミやネットで飛び交っています。厚生労働省による「毎月勤労統計」の不正調査が、国会で取り上げられ、大騒ぎとなったことがきっかけですが、この他のいくつかの政府統計にも同様の問題があるとされ、政府統計全体への信頼が揺らぐまでになっています。

「毎月勤労統計」は、雇用や給与、労働時間などに関する統計で、さまざまな政府統計のなかでも「基幹統計」のひとつであり、雇用保険や労災保険の給付額も、これを基準に決められています。この不正のせいで、算出された平均給与が実際よりも低めにでてしまい、結果として、延べ2000万人の失業手当が、本来もらえる金額よりも減額されてしまったというのです。あるいは、最近になって日雇い労働者を除外するなど算出方法の変更が行われ、そのため、2018年度から賃金の上振れが起きているというのです。

政府統計は行政統計ともいわれ、政策を企画・立案し、それを実施し、さらにその結果を評価するために不可欠なものです。雇用が増えたのか減ったのか、賃金が上がったのか下がったのかだけでなく、物価はどうなっているのか、生産は増えたのか減ったのか、消費は増えたのか減ったのか、投資はどうなっているのか、貿易はどうか、これらが正確につかめていなければ、正しい政策は出せないでしょう。それだけではありません。これらのデータは、企業や家計が的確な意思決定を行っていくための大前提でもあります。

正確なデータをきちんととるための学問として発達してきたのが統計学です。統計学は、17世紀のドイツをはじめヨーロッパ諸国で誕生し、明治維新期前後に日本に導入されました。その源泉は、ドイツでの国勢学としての統計、イギリスの人口統計など大量データを把握する統計、イタリア・フランスの確率的事象を捉える統計の3つにありましたが、日本は、このうちとくに「治国・経世のための重要性と有用性」という観点から統計学が導入されたとされています(宮川公男『統計学の日本史』)。

こうして1920(大正9)年には、現在も続いている第1回の国勢調査が始まりました。5年に一度の国勢調査では、日本に住んでいるすべての人と世帯を対象に、人口、世帯構成、就業状況などを調べます。調査に答えることは、法律で義務となっています。回答しても個人や世帯に利益があるわけではありませんが、このデータは国や地方自治体の施策の前提ともなっており、また、地方交付税の根拠ともなっています。

しかし、日本が戦時経済に突入していくなかで、統計の重要性についての認識は、政府や軍部の内部で共有されるどころか弱まり、第二次世界大戦の敗戦という結果を招いてしまいました。その後、戦後占領下の1947年3月に、GHQの指導も加わって「統計法」が制定・公布されて、現在につながっていきます。ただ、この経緯から、戦後日本の統計行政は分散型統計機構の下で行われることになり、統一的・統合的な統計機関は設置されませんでした。このため、行政統計の作成にあたっては、現在でも、府省間の連携・協力とともに、 政府横断的な調整機能の発揮により、必要な統計を整備し、利用しやすい形で提供することが重要とされています。

政府統計だけではありません。現在は、ビッグデータの時代、データサイエンスの時代といわれています。コンピュータとインターネットの発展、スマートフォンの普及は、日々、大量のデータを生み出す社会を作り出しています。「世界の最も重要な資源はもはや石油ではなくデータである」ともいわれています。こうした状況は、GAFAによるデータ独占、ステルス・マーケティング、フェイク・ニュース、個人情報の流出などの新しい問題を発生させています。

いずれにせよ大切なことは、データがもっている公共的な価値、社会的価値を減損させないことです。そのために何よりも必要なのは、データが正確であること、偽りのない正直なものであることです。社会を支える最大の基盤はそこにこそある、あるいは、そこにしかないからです。

学長  伊藤 正直

2月 お金って何?

キャッシュレス化が世界的に広がっています。買い物の支払いや取引の決済に現金を使わない、電子マネーやICカードやクレジットカードで決済する、こうした状況をキャッシュレス化といいます。2018年4月の経済産業省調査(経済産業省商務サービスグループ『キャッシュレス・ビジョン』)によれば、世界各国のキャッシュレス決済比率は、韓国89.1%、中国60.0%、以下カナダ、イギリス、オーストラリア、スウェーデン、アメリカと続き、いずれも50%前後であるのに対し、日本は18.4%となっています。

中国で、近年、急速に普及したのは、スマホでQRコードを読み取って支払いを済ませるモバイル決済です。中国の2大IT企業のアリババとテンセントが提供するAlipay、WeChatPayを使って決済する仕組みで、専用のカードリーダーも不要で、お店は、QRコードを印刷した紙切れを置いておくだけでいい。このモバイル決済は、個人間送金の仕組みを利用しているので、クレジットカードや加盟店方式の電子マネーに比べると、店舗側の負担はほとんどありません。現金を扱わないので釣銭もいりません。コンビニでも露店でもどこでも使える、というとても簡便なものです。2017年からアリババは、顔認証システムを導入しため、カメラさえあればスマホも不要になってきたそうです。もともと、現金に対する信頼性が低かったこと、銀行システムが普及していなかったことなどが、モバイル決済急拡大の背景にあるようです。

スウェーデンやノルウェーなどの北欧諸国も、キャッシュレス先進国です。北欧諸国は、1990年代の初め、ノルディック・クライシスといわれた厳しい金融危機に見舞われ、これをきっかけにキャッシュレス化が進んだとされています。スウェーデンの方式は、スマホの電話番号とBankIDを結び付けるSwishというアプリを使って、スマホで決済を済ませるというもので、中国と同じように、スマホでQRコードを読み取って支払いを済ませることもできます。ノルウェーでも現金決済の比率は10%以下となったと、2018年にノルウェー中央銀行が表明しています。

中国や北欧諸国のモバイル決済に対して、アメリカや韓国でのキャッシュレス化は、クレジットカード、デビットカードの普及によるものでした。アメリカを旅行したことのある人なら頷いてもらえるでしょうが、どこでもクレジットカードやデビットカードが使えますし、現金よりも割引率が高かったり、サービスが良かったりします。また、シェアリング・エコノミーの進展により、例えば、Uberという配車アプリをスマホに登録しておくと、GPSを利用して、自家用車による配車サービスを受けることができ、クレジットカード決済が自動で行われるようになっています。韓国では、クレジットカードの利用率は、アメリカよりもさらに高く70%を超え、その他の電子決済を含めると、現金決済の割合は10%を下回るともいわれています。

このような中国や北欧、アメリカや韓国のキャッシュレス化に対し、わが国のキャッシュレス化は、始めに見たように、18.4%と著しく低い水準に止まっています。中国などとは異なり法定通貨=現金への信頼が高い、ATMが普及している、カード決済に対応していない店舗が多い、キャッシュレス決済への抵抗が大きいなどが、その理由に挙げられています。しかし、インターネット環境の急速な拡大、ICT、IoT、AIの普及は、さまざまな形での電子決済を拡大させざるを得ないでしょう。フィンテック、ブロックチェーン、ビットコインという言葉も、日常的に飛び交うようになっています。

利便性と安全性、国家管理と民間自律、公共性とプライバシー。議論すべきことは数多くありますが、もっとも根本的には、貨幣とは何か、通貨とは何かが、問い直されていることではないでしょうか。高校で、通貨の定義、通貨の3機能について学んだことを思い出してください。通貨とは、取引の決済に使われるもので、汎用性がなくてはならない。通貨の3機能とは、価値尺度機能、交換機能、蓄蔵機能である。こんなことを勉強しましたね。では、通貨の汎用性を保証しているのは誰でしょう。通貨の3機能は誰が付与しているのでしょう。政府でしょうか。制度でしょうか。市場でしょうか。電子決済の広がりは、このことを改めて問うています。

学長  伊藤 正直

1月 世界はどこに向かっているのか

世界を見回してみると、あちこちで軋みが激しくなっているように思われます。トランプ政権は、アメリカ第一をますます声高に唱え、中国、ロシアだけでなく、欧州諸国や日本に対しても、高関税を課すという保護主義を強め、メキシコ国境のフェンス拡大も続いています。イギリスでは、EU離脱のブレクジットを宣言したにもかかわらず、それをどのように実施するかについては、与党保守党内部でも意見が一致していません。大陸ヨーロッパでは、移民排斥の動きが高まり、排外主義を掲げる極右政党が支持を伸ばしています。中東やアフリカでは、民族間、宗派間の対立が激化し、女性や子供に対する暴力が蔓延しています。

第二次大戦後、とくに1980年代から急速に進行したグローバル化の反転現象が広範に起こっているのです。グローバル化を、ヒト・モノ・カネ・情報の国境を越えた相互依存の深化ととらえるとすれば、これまで3回の大きな波が存在したということができます。第1の波は16~17世紀の大航海時代であり、第2の波は19世紀後半から20世紀前半の帝国主義時代です。そして、第3の波が、1980年代以降最近までです。このグローバル化と第1、第2の波とは、どこが異なっているのでしょう。違いをみると、次の3点を指摘することができます。

第1は、グローバル化が、先進国、ないし先進国企業、あるいはIMFなどに代表される国際機関の主導によって進められて来たことです。国民経済の枠組みを超えた資本市場・商品市場・労働市場の国際的再編と再配置は階層性を伴っており、今までのところ、先進諸国や多国籍企業の意向に反する形では進んでいないようにみえます。とくに、非先進国における経済状況の悪化や、その克服のための負担を誰が負うのかをめぐって、世界は鋭く対立しています。

第2は、グローバル化推進の基礎に、アングロ・サクソン的新自由主義ともいうべき思考様式が強力に存在することです。新自由主義という言葉は、今日、しばしば安易に使われますが、歴史をひもとけば、自由主義にもさまざまな考え方が存在してきました。近代社会は自由・平等・友愛を原理とするといわれますが、アングロ・サクソン的新自由主義はそのうち自由を最大の価値に置くものです。

第3に、経済のグローバル化の牽引力となったのが、貿易や労働移動といった実体経済の側の動きではなく、金融だったことです。世界中を駆け巡りたいというマネーの欲求こそが、グローバル化の起動力となっており、貿易や労働や情報の国境を越えた相互浸透も、この金融の動きと結びついて進んでいます。1980年代のグローバル化は金融グローバル化のことである、といっても過言ではありません。

1980年代以降のグローバル化については、それが望ましく、良いものであるということが繰り返し語られてきました。すなわち、開かれた競争的なグローバル市場の拡大は、貿易や対外投資を増大させ、技術移転を容易にし、雇用機会を拡大することを通して、経済成長と人間の前進を可能にする、グローバル市場拡大のプロセスで、モノやサービスの交流が拡大し、非効率な部分が縮小し、全体の経済厚生が上昇する、この結果、社会は全体として豊かになっていくというのです。

しかしながら、現実は、必ずしもこの想定通りには進みませんでした。なかでも大きな問題は、格差の拡大です。国連の統計によれば、最も豊かな国々に住む人々(最富裕5ヶ国)と最も貧しい国々に住む人々(下位5分の1ヶ国)の所得差は、1950年の35対1から、73年には44対1、92年には72対1、そして2016年には148対1となりました。この20年ちょっとの間だけでも国家間の経済格差、経済的不平等は倍に拡大したのです。

国内格差も、先進諸国、新興工業国、開発途上国、あらゆるところで広がりました。先進国グループとされるOECD諸国をとってみると、ドイツとイタリアを例外として、ほとんどすべての国で、賃金の不平等が拡大しました。ラテンアメリカ諸国では、1970年代には所得分配の不平等がいったんは縮小したものの、82年の中南米危機以降、短期間で不平等が再び拡大し、現在まで格差は高い水準に固定されたままです。市場経済への移行を進めた東欧・CIS諸国でも90年代半ばまでの10年足らずで格差は一挙に倍増しました。国連ミレニアム宣言は、「私達は、極貧の悲惨で人間性を奪うような状況から、私達の仲間である男女そして子供達を救済することに努力を惜しまない…」と述べています。

グローバル化の反転現象はいつまで続くのでしょうか。かつてのグローバル化の時代を考えると、それが数十年のオーダーで続くことも想定できます。しかし、長い目で見れば、グローバル化は不可逆的なものです。反転現象が続いている現在、憎悪と格差の連鎖を断ち切ること、言葉の本来の意味での友愛と平等を取り戻すことの必要性はますます高まっていると、いわなくてはならないでしょう。

学長  伊藤 正直

12月 「女性の自立」ということ

「女性の自立」という言葉がでてくると、いつも頭をよぎる詩があります。

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

1999年に発表されたもので、作者は、茨木のり子、73歳の時の作です。読んでわかるように、「女性の自立」を主題にしているわけではまったくないのですが、求心的でありながらきちんと外に開かれた姿勢、自分と向き合うことが社会と向き合うことになるという信念、こういったものが、この詩から湧き上がってきて、読者に「自立」の意味を、改めて考えさせます。最後の3行が、「いつも立ち続けている訳にはいかないわよね」という自己省察に戻って、この詩を貫く厳しさを、やわらかく包んでいるところが、「女性の自立」を連想させるのかもしれません。

「女性の自立」は、さまざまな文脈で語られてきましたし、語ることができますが、前提となっているのは、やはり、経済的自立でしょうか。茨木も、自身の青春期を回想するなかで、次のように記しています。「父は私を薬学専門学校へ進めるつもりで、私が頼んだわけではなく、なぜか幼い頃からそのように私の針路は決まっていた。父には今で言う『女の自立』という考えがはっきりと在ったのである。女の幸せが男次第で決まること、依存していた男性との離別、死別で、女性が見るも哀れな境遇に陥ってしまうこと、それらを不甲斐ないとする考えがあって、『女もまた特殊な資格を身につけて、一人でも生き抜いていけるだけの力を持たねばならぬ』という持論を折にふれて聞かされてきた」。

こうして、父の敷いたレールに乗って、茨木は、薬学専門学校へ進学します。しかし、有機化学、無機化学など、理数系の科目を全く受けつけず、敗戦の翌年、繰り上げ卒業で薬剤師の資格を得たものの、自らを恥じて、その資格を使うことはありませんでした。こうした回り道をたどって、茨木は詩人(本人の弁では「物書き」)としての道を選び取っていくことになります。

人は、経済的基盤があってこそ自立しうるものであることは確かですが、経済的自立を支えるもの、その前提となるものは、精神の領域における自立に他なりません。いくらお金があっても、力があっても、それに振り回されては、「金銭の奴隷」、「権力の奴隷」になってしまいます。「折にふれて聞かされてきた」父親の持論は、なによりも「精神の自立」として、茨木の身体の芯に埋め込まれたといえるのではないでしょうか。日常の言葉を使いながら、勁く、清冽で、向日的な茨木の詩は、『茨木のり子集 言の葉』全3巻(ちくま文庫)で読むことができます。『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)とあわせ、手に取って欲しいと思います。

学長  伊藤 正直

11月 これからの女子教育を考える・続

先月に続き、これからの女子教育について、もう少し考えてみたいと思います。7月と9月のシンポジウムの中心的話題とはならなかったのですが、このシンポジウムで、両回とも登場した言葉のひとつにSTEM教育がありました。STEMとは、science、technology、engineering、mathematicsの頭文字をとったもので、広い意味での科学教育、理系教育を指しています。STEM教育は、1990年代からアメリカで唱えられ、オバマ政権の時に重点課題とされ、世界に広まったといわれていますが、シンポジウムでは、女子高等教育におけるSTEMの重要性、日本におけるその立ち遅れといった文脈で言及されました。これからの女子教育にSTEMが必要だといわれるのは、どのような理由からなのでしょうか。

最近では、リケジョ、建築女子、環境女子、農業女子といった言葉が、あちこちでみられます。しかし、大学学部別に男女学生の割合をみると、薬学・看護学、家政学、教育学、人文科学では、女性の割合が59.0%~67.5%(平成28年度「学校基本調査」による)と過半に達しているのに、社会科学分野では34.7%、理学分野では27.0%、工学分野に至っては14.0%と著しい少数派となっています。わが国では、女子の4年制大学進学率は男子より8%ほど低いのですが(欧米では女子の進学率の方が高くなっており、成績もよいという調査があります)、それでもこの差は圧倒的です。また、STEM職に占める女性の割合も、アメリカで25%、イギリスで13%に対して、わが国では8%に過ぎません。

なぜ、こうした状況になっているのでしょうか。「女性は理論科学よりは経験科学の方に適している」とか、「女性は、論理的思考より感性的思考において秀でている」といった主張が時に聞かれますが、きちんと論証されたわけでなく俗説に過ぎないでしょう。実際に、現在では世界的に有名な数学者のかなりの数は女性ですし、物理・化学の分野にも多数の女性研究者がいます。また、建築や認知科学の分野でも女性は大活躍しています。

STEM職に女性の割合が低いことについて、適性や感性の問題ではないといった議論も当然ながら、なされています。例えば、アメリカでは、雇用側が男性であるか女性であるかに関わらず、「男性応募者の方が有能だと判断して優遇する傾向」がみられると、雇用側の偏見、すなわちジェンダー・ギャップがこうした状況を生み出してきた、という分析もあります。もっとも、日本よりジェンダー・ギャップが大きいとされる韓国ですら、今では、女性科学者の人材育成・キャリア支援を推進する公的機関が存在し、公的機関の雇用においてはクオータ制(割当制)が導入されています。大学工学部の女性比率は24.4%で、日本の倍近く(平成29年4月、内閣府男女共同参画局の調査による)ですから、ジェンダー・ギャップだけの問題とはいえないかもしれません。

STEM職に就くか否かという議論の前に、そもそもの問題として、STEM教育がいかなる意味で必要かが議論されなくてはならないでしょう。STEM教育については、近年、企業における生産性・効率性、教育投資の収益性といった観点から語られることが多くなっています。しかし、そうした議論はあまりにも短絡的だと思います。そうした発想ではなく、社会を認識する上での基礎的リテラシーとしてSTEM教育を位置づける、「女性の自立」という観点からSTEM教育を捉えなおしていく、このことが求められているのではないでしょうか。

学長  伊藤 正直

10月 これからの女子教育を考える

7月の学長通信にも書きましたが、本学は、今年創立110周年を迎えています。この110周年を記念して、さまざまなイベントや事業を行っていますが、本学が女子教育機関であることに鑑み、女子教育の今後の展望について改めて考えようという企画もいくつか立てられました。7月には「女子大学の可能性と未来への展望を拓く」というテーマで、津田塾大学の高橋裕子学長をお迎えしました。9月には「世界の中の日本-これからの女子教育」というテーマで、日本女子大学蟻川芳子前理事長・学長、アリソン・ビールOxford大学日本事務所代表をお迎えし、ポール・マデン駐日英国大使の祝辞、ウィル・ハットンOxford Hertford College学長のメッセージを受けました。

2つのシンポジウムでは、それぞれ、女子教育の理念、社会的意義と位置付け、その歴史的検証や国際比較、現在の焦点的課題、今後の展望など、数多くのことがらが語られました。私も、この2つのシンポジウムにパネリストとして参加し、女子高等教育の国際比較や労働市場における男女格差の現状について報告しました。報告した内容のうち2、3の点についてもう少し考えてみたいと思います。

ひとつは、世界の女子高等教育のなかでの日本の「特異性」についてです。「特異性」というと、ちょっといいすぎかもしれませんが、女子大学がこれほど大きな比重を占めている国は、世界中見回しても他にはないのです。アメリカには、seven sisters と呼ばれる有名女子大群があって、ヒラリー・クリントンもそこの卒業生じゃないか、と思われるかもしれませんが、アメリカに存在する3011の大学のうち、女子大は39校、わずか1%に過ぎないのです。お隣の韓国も229の大学中、女子大はわずか7校です。これに対して、わが国では、全国777校の4年制国公私大中、女子大は77校、10%にも達しています。

アメリカでも1960年代には200前後の女子大が存在していました。1970年代の第2波フェミニズムの高揚とその下での共学化の進展が、女子大学の意義の再検討を要請したのですが、seven sistersのうち、Vassarが共学化し、RadcliffeがHarvard に吸収され残ったのは5大学でした。この動きは、じつはIvy Leagueの女学生受入れと対応していました。これらの大学の共学化は、Yale、Princetonが1969年、Dartmouthが1972年、 Harvardが1977年、Columbiaが1983年と著しく遅かったのです。イギリスで、1868年にLondon大学に9人の女性が入学し、1920年にOxford大学で、女性が正式の大学生として入学が認められたことと比べても、男女平等の国と考えられているアメリカで、いかに共学化が遅れたかがわかると思います。

これに対し、日本では、戦後新制大学令の公布とともに女子大学が次々に誕生し、特に高度成長期に女子大が急増して(1960年32校→1969年82校)、現在に至っています。この背景は、いろいろなことが考えられますが、そのひとつに、日本特有の労働市場の構造や、それに対応した家族認識があったと思われます。戦後の歴史の中で、日本の家族構造は、「三世帯同居→核家族→家族形態の多様化」という推移を辿ってきましたし、それとの関係で、稼得モデルも、「男性稼ぎ主モデル→共働きモデル1(家計補充型)→共働きモデル2(フルタイム型)→共働きモデル3(正規・非正規混在型)」と変転を遂げてきました。日本の女子大学の大きな比重は、この高度成長期の労働市場、稼得モデルに適合的であったためと考えることができます。

かつて、第2波フェミニズムの嵐の中で、seven sistersは、女子大の存在意義として次の3点を指摘していました。①女性がリーダーシップを獲得できる環境の提供、②ロール・モデルの提供、③役割達成における成功例の提供。先進諸国の中で、突出してジェンダー・ギャップが大きいといわれるわが国においては、この3点の意義はなお有効といえるでしょう。しかし、他方、高度成長期の労働市場構造や家族モデルが大きく変転している現在、女子大学の存在意義については、改めて検討し直すことが必要となっていることも事実です。110周年を契機として、自分たちの存在意義を再確認したいと考えています。

学長  伊藤 正直

9月 関東大震災の経済的教訓

今年の夏は地球規模での異常気象となり、世界のあちこちで、大規模災害が発生しました。大雨による洪水、大規模な山火事、高温による熱中症、地震による家屋・橋・道路の崩壊などが、わが国だけでなく、アジア、アメリカ、ヨーロッパ各地から報告されました。こうした災害による甚大な人的・物的被害からの回復は長時間を要します。また、かなりの費用もかかります。

じつは、数年前、首都直下型地震の防災会議で、1923年9月の関東大震災の際の、金融システムへの影響や財政・金融面での対応について、報告する機会がありました。現在、今後30年の間に、南関東でM7程度の地震が発生する確率は70%とされており、被害額も100兆円以上に達すると推計されています。防災会議は、今後の防災対策によって、死者を半減させ、被害額を4割減らしたいとしています。報告を依頼されたのは、こうした事態への歴史的教訓を得たいという点にあったようです。

すでに多くの事柄が語られていますが、ごく簡単に関東大震災の概観をみておきましょう。関東大震災の災害区域は、東京、神奈川、千葉、静岡、山梨、埼玉、茨城の1府6県で、罹災者は約340万人、東京では大火が3日間続き、下町のほとんどが全焼しました。全焼戸数は38万戸、半壊・破損も含めると69万戸に達しました。この震災による損害は46億円弱と推算されています。大正11年度の一般会計歳出が約14億円でしたから、これを基準として現在に引き直すと、300兆円以上の損害を受けたことになります。

震災は、金融システムに対してどのような影響を与えたでしょうか。まず、銀行の焼失です。当時、東京府内には542の銀行本支店店舗がありましたが、そのうち343本支店が焼失しました。銀行窓口がなくなってしまったのです。ただ、銀行側から見ると、担保物件の焼失破損、貸出先被害による貸出金の回収不能、有価証券値下がりによる損害などがより大きな問題でした。放置すれば、銀行がつぶれてしまうからです。

このため、震災当日の9月1日から7日まで、1週間日銀を除いて全銀行が休業します。そして、この休業の間に、「債務者が指定地域に住所又は営業所を所有している場合に、30日間の支払延期を認める」という内容の支払延期令(1923年9月7日勅令第404号)がだされ、これにより、東京では17~18日頃、横浜では25~27日頃、銀行は営業を再開します。また、これと合わせ、政府は、日本銀行震災手形損失補填令(1923年9月27日勅令第424号)をだします。これは、震災関係者の発行した手形を震災手形と規定し、この震災手形の再割引に日銀が応じ、その結果として日銀に生じるであろう損失を、1億円を上限として、政府が補填するというものでした。

さらに、財政面でも、応急復興事業として9億円、地方自治体への緊急貸付4億円、租税の減免2億円弱の特別歳出を帝国議会で決定したほか、この資金源として、数多くの外債、具体的には、6%の英貨公債2,500万ポンド、6.5%の米貨公債1億5,000万ドル計5億4,500万円、東京市外債1億円、横浜市外債4,000万円(いずれも政府元利払保証)を発行しました。震災復興は、外国からの借金で賄われたのです。

関東大震災は、このように巨額の復旧費用を要したのですが、実際には震災と関係のない手形が震災手形として認められたり、震災手形の再割引期限が何回か延長されたりしました。このため、震災への金融的・財政的対策が、結果として1927年の金融恐慌の原因のひとつとなってしまいました。必要な対策は、迅速にきちんとなされなくてはならないことはもちろんですが、その際、将来起こりうることへの想像力をもち、時間軸を考慮した対策が不可欠であることを示しているといえるのではないでしょうか。

学長  伊藤 正直

8月 テレビ創生期の頃

60年ほど前、小学低学年から中学のはじめにかけて、ラジオやテレビに子役として出演していました。NHK名古屋放送局、当時はJOCKといっていましたが、そこが運営していた名古屋放送児童劇団(現NHK名古屋児童劇団)に応募し、採用されたことがきっかけでした。劇団員は全員、毎週1回ないし2回、NHK名古屋放送局に集められ、発声練習を行い、演技指導を受けました。まだ放送局用のビデオがきわめて高価であったこともあって、テレビは全番組が生放送で、リハーサルも、時には夜遅くまでかかりました。

最初に出たテレビ番組は、NHK名古屋発の「太陽の子供たち」という子供向け連続ドラマで、愛知県蒲郡の児童養護施設の物語でした。この出演のため、坊ちゃん刈りだった頭髪を丸坊主にされ、からかわれるため、学校に行くのがしばらく嫌になりました。また、生放送でしたから、養護教員役の女優さんがセリフをとちって、放送終了後プロデューサーにこっぴどく叱られ、セットの陰で泣いていたことも強く記憶に残っています。「中学生日記」(僕が出ていた頃は「中学生次郎」というタイトルでした)にも出ましたが、この番組は、その後、出演者を一般から募るようになり、50年続いたNHK名古屋の看板番組となりました。

テレビは生放送でしたが、ラジオはテープ録音が一般的でしたから、名古屋放送児童管弦楽団(現NHK名古屋青少年交響楽団。こちらも当時NHK名古屋が運営しており、メンバー募集がありました)と共演で、ミュージカルを録ったこともありました。途中まではうまくいっていたのに、セリフの最後で「名古屋弁」が出てしまい、プロデューサーにかなり強く叱られました(ただし、どうした訳か録り直しはしませんでした)。NHKアーカイブスに全く記録が残っていないことが残念といえば残念ですが、かりに、残っていたとしても、恥ずかしくて観られない、聞けない、のではないかと思います。

1950年代の後半から60年代初めにかけての時期ですから、放送局の立場からみると、ラジオからテレビへの移行期にあたります。当時、テレビは映画や舞台より下位にみられており、一緒に出演していた大人の俳優さんたちは、舞台や映画への進出を夢見ていました。その後、皇太子殿下ご成婚や東京オリンピックを経て、テレビは全盛期を迎えます。ニュースの速報性は新聞を上回り、数々の優れたドラマやドキュメンタリーも生まれました。同時に、バラエティーショーや歌番組、スポーツ番組なども次々に登場しました。クレージーキャッツ、ドリフターズ、コント55号、中三トリオ、御三家、巨人・大鵬・卵焼きなど、テレビから生まれたお茶の間のスターたちは、ある世代以上の人々にとっては、憧れの中心的存在となりました。メディアの主役の交替、それを、その端っこに立って、子供の眼から見ていたといえるでしょう。

今また、メディアの構造は大きな変化のただ中にあるように思われます。新聞もテレビもほとんど見ない人たちが、ある世代以下ではかなりの数に達するそうです。そうした人たちにとっては、情報は、もっぱらスマホから得る、SNSが一番の受信・発信源となっているとのことです。スターやアイドルも、テレビ以外のところから数多く誕生しています。テレビが、メディアの主役としての地位を取り戻すことは果たして可能なのか、あるいは、そうした発想自体がすでに時代錯誤となっているのか、60年前のことを思い出しながら、そんなことを考えました。

学長  伊藤 正直

7月 110周年を迎えて

本学は、今年創立110年を迎えます。この110年を思い、大妻コタカが私塾を開いた110年前とはどんな時代だったのかに考えが及びました。日露戦争直後の時期です。日露戦争は当時の日本の実力からいってやや無理な戦争でした。国家財政が約2億円の頃、戦費として20億円近くを要し、この戦費を調達するのに、高橋是清がロンドンで四苦八苦したのでした。戦争が終わって、この借金を返さなくてはならなくなり、このため日本は日露戦後不況と呼ばれる不況に陥りました。コタカが私塾を開いたのは、こんな最中でした。私塾を創るのに、決していい時期ではなかったのです。

なぜ、このような困難な状況のなかで、コタカは、私塾の設立を決意したのでしょう。それまでの日本の女子教育機関は、英米婦人による英語教育でキリスト教に基盤をおくもの、あるいは、明治政府の派遣した帰国子女によるもので、いわば社会のエリート層によるエリート女性のための教育機関でした。日本で女子中等教育が、明治政府によって公的に規定されたのは、1895(明治28)年のことで、1899(明治32)年の「高等女学校令」公布以降になって、女子中等教育機関は発展していきます。しかし、そこでも想定されていたのは中流以上の女子を対象とするものでした。1899年、時の樺山文部大臣は、高等女学校は「賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為スニ在リ、故ニ優美高尚ノ気風、温良貞淑ノ資性ヲ涵養スルト倶ニ中人以上ノ生活ニ必須ナル学術技芸ヲ知得セシメンコトヲ要ス」と説明しています。

しかし、コタカの設立した私塾は、そうしたものとは大きく異なっていました。「エリート」でもなく、「中流以上の女子」でもなく、何ら特別でない、ごくごく普通の女性のための教育機関の設立、これこそがコタカが望んだものでした。厳しい不況の中、家族を支える主体に女性がなる、社会の中で自分自身を確立する、そのために何ができるかを考え続け、女性が社会に受け入れられやすい手芸・裁縫といった「技芸を身につける」ことから始めようとしたのです。本学は、創立以来「女性の自立のための女子一貫教育」を建学の精神としていますが、その「自立」の根源には、こうした若き日の大妻コタカの独自の考え方と強い意思があったと、私たちは考えています。

女性をめぐる社会環境は、この20年間に緩やかにではあれ大きく変化しました。「ガラスの天井」がまったく無くなったかといえばそうではありませんし、古い男女観もまだまだ残っています。しかし、日本の女性就業構造の特徴とされたM型雇用は、今、急速に解消しています。学校を出てから定年まで働き続ける女性が増えています。ただし、この裏面には、非正規雇用が2000万人を超し、その多くが女性であるという状況があります。男女の賃金格差も大きいままです。

このような状況を突破していくことが必要です。「女性の自立」は、まずは、性差による差別を克服するような自立といえるでしょうが、目指してほしいのはその先です。「女性の自立」が「人間としての自立」であること、自己の尊厳を守る形での自立であること、すなわち「経済的自立」は、あくまで「精神的自立」を前提としたものであること、この自立を追求し、実現して行きたい、そうしたことを実現できるような主体となることを手助けしていきたいと考えています。110周年を迎えた今年、本学は、こうした観点からのさまざまな企画、シンポジウムや事業を実施します。学外に公開している企画も沢山ありますので、機会を見つけておいでくださると幸いです。

学長  伊藤 正直

6月 芸術と社会システム

今では、ネットでストリーミングすれば、世界中、どこにいても、どんな音楽も、すぐに聞くことができます。でも、20年前はそんなことはできなかったので、集中講義や調査でしばらく海外に滞在するときは、いつも1ダースほどのCDをカバンに詰め込んでいました。クラシック、ジャズ、ロックなどは、行先でもだいたい手に入るので、持参したのはもっぱら日本のポップスや歌謡曲でした。

2002年の5月から6月にかけてメキシコの大学院大学El Colegio de Mexicoで集中講義を依頼されたとき、持っていったのは井上陽水、高橋真梨子、中島みゆきなどでした。深夜に、陽水の若いころの曲、例えば「傘がない」などを聞いていると、連想が中野重治に飛びました。中野重治は戦前から戦後にかけて活躍した詩人・小説家であり、代表的なプロレタリア作家です。浮かんできたのは、彼の若いころの詩「歌」でした。この詩は次のようなものです。

お前は歌うな
お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな
風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな
すべてのひよわなもの
すべてのうそうそとしたもの
すべての物憂げなものを撥(はじ)き去れ
すべての風情を濱斥(ひんせき)せよ
もっぱら正直のところを
腹の足しになるところを
胸先を突き上げて来るぎりぎりのところを歌え

この詩はもう少し続くのですが、一見、抒情を否定しているようにみえながらも、実際にはこうした形で、逆説的に、花や女性の髪の匂いや風のささやきの美しさを歌っています。陽水の「傘がない」は、これと同じ構造をもっています。若者の自殺や日本の将来を冒頭に歌いながら、しかし、それよりは彼女のところに行くための傘がないことのほうが問題だというのです。中野とは逆の形で社会との接点を提示しているといっていいでしょう。ビートルズの初期の歌も同じです。

なぜ、こんな連想が出てきたのかというと、滞在していたメキシコシティで、数多くの壁画を観たためだったような気がします。リベラ、シケイロス、オロスコらによって展開されたメキシコの壁画運動は有名で、街を歩くと、そこかしこで大きな壁画を見ることができます。メキシコ神話、スペインの侵攻と征服、メキシコの工業化と農業労働者など、メキシコ史が描かれているのですが、ちょっと珍しい題材もあります。たとえば王立宮殿の壁画、僕が滞在していた時は、ここにメキシコ政府大蔵省が入っていたのですが、そこの壁画には、資本論を脇に抱えたマルクスがいます。また、王立芸術院の壁画には、レーニンやトロツキー、第4インターナショナルがでてきます。

戦後のメキシコは、社会主義体制ではなく、資本主義体制、自由主義体制の国でした。にもかかわらず、日本で皇居や国会議事堂、国立劇場にあたるところに、これらの絵が堂々と掲げられているのです。メキシコの鷹揚(おうよう)さでしょうか、あるいは奥の深さでしょうか。これに衝撃を受けたことが、冒頭の連想につながったように思います。

実は、現在、渋谷駅のコンコースに飾られている岡本太郎の大壁画、この大壁画もメキシコで作成されたものでした。壁画運動に共感した岡本太郎が、1968年頃、メキシコまで出かけてそこで描きました。依頼主の経営悪化で、その後長く行方不明になっていたのですが、2003年にメキシコシティ郊外の資材置き場で発見され、日本に戻ってきたのです。『明日の神話』と題されたこの壁画の主題は、アメリカの水爆実験によって被爆した第五福竜丸事件だといわれています。ですから、メキシコとそんなに変わらないじゃないか、といってしまえばその通りなのですが、この絵が、ビキニの水爆実験を描いたものだと知っている人は、渋谷コンコースを通り過ぎる人たちの中でどれくらいいるでしょう。

芸術が、政治や社会との関わりなしにあり得るかどうか、あるいはどのような形で関わりを持ってきたのかについては、古来より難問ですが、あまりにも政治や社会と切り離されたところで、日々が過ぎていくようにみえる日本との違いを、メキシコで強烈に感じたものでした。

学長  伊藤 正直

5月 国際共同研究の旅で

ここ数年、「国際金融システムの構造と動態」といったテーマでの研究を続けてきました。もともと、中央銀行の金融政策や国際金融システムの動態が私の主要な研究領域だったのですが、2008年のリーマン・ショック後、こうした出来事をどのように把握したらいいのかということで共同研究の機会が増え、そのため海外に出かけることも多くなりました。

国際金融システムは、現在も不安定なままに推移しています。国家間、先進国間の政策協調もなかなか合意に達しません。「なぜそうなっているのか」、「システムの安定のためには何が必要なのか」、「どこを変えればうまくいくのか」。こういった問題を解くためには、現在だけを見ていては駄目で、歴史にさかのぼることが必要不可欠です。最低限、第二次世界大戦後、戦後の出発点まで振り返らないと、現在はわかりません。

ということで、第二次大戦直後のシステム創生期、1970年代初めのニクソン・ショック期、1990年代の大安定期などを調べることになります。国際金融機関や各国の公文書館で、会議の議事録や政策担当者のメモなど、当時の資料を検索します。そして、それらを読み込んでいくことで、戦後の国際金融システムが、どのような考え方のもとに、どのような仕組みとして作られていったのか、そしてそれがどのように機能してきたのかといったことが、改めて確認できます。そうした作業を通して、はじめて現在の問題点が検出できるようになると考えられます。

ワシントンDCでは、IMF(国際通貨基金)・WB(世界銀行)やNA(米国国立公文書館)で関連資料を検索し、政策担当者へのインタビューも行いました。パリでは、OECD/WP3(経済政策委員会第3作業部会)という先進国の金融政策中枢の未公開会議録を大量に発掘しました。バーゼルでは、BIS(国際決済銀行)先進国中央銀行会議の議事メモなども読むことができました。これらの共同研究の一部は、すでに英文の著作として刊行しました。まだ、進行中のプログラムもあります。

こういった一連の調査のなかで、心に残ったことが二つあります。ひとつは、どこの国でも、どの機関でも、文書がきちんと残されていることです。自分たちに都合のいい文書だけでなく、都合の悪い文書もきちんと残されています。公開できない文書も、not to openとか、confidentialと、その文書名とともに書かれていて、どの文書が非公開なのか分かります。2001年に情報公開法が、2011年に公文書管理法が施行されたにもかかわらず、わが国ではそのどちらもできていません。

もうひとつは、担当部署における女性職員の多さです。単に多いだけでなく、管理職として責任を担っている女性職員が、どの機関でも相当数在職しています。こちらの面倒な要請や分類のはっきりしない一次資料の検索などに対しても、親切・丁寧に応答してくださいましたし、専門性のかなり高い質問にも迅速・的確に応対していただきました。こうした女性職員をこれからどのように育てていくかは、わが国の大きな課題でしょう。本学でもこうした課題に対応できるように努力しなくては、との思いを強く持ちました。

学長  伊藤 正直

4月 日本語という言語

昔読んだ本が文庫本になったりすると、つい買ってしまうことがよくあります。大岡信『日本の詩歌 その骨組みと素肌』(岩波文庫、2017)もその一冊です(ついでに、その半年前に文庫に収録された同じ著者の『うたげと孤心』も買ってしまいました)。大岡が、1994年と95年に、コレージュ・ド・フランスで行った講義録です。

あいかわらず内容はほとんど忘れていたのですが、菅原道真から始まり『閑吟集』で終わる、いわば「日本語が始まるとき」を論じ、ひらかなとカタカナの発明が「ひとのこころをたね」とする文芸、日本独自の文化と文明をつくりだしたことを説得的に述べています。そして、この本では、女性歌人、女性作家の存在がいかに日本詩歌史において重要であったかも、詳細に論じられています。笠女郎や和泉式部や式子内親王の和歌を取り上げ、当時の宮廷貴族を中心とする統治構造のありようがこれらの和歌を生み出したこと、そして女手といわれた仮名文字の使用こそが、自己省察的であるとともに「人間の普遍的ヴィジョンにまで」届くような表現を生み出したことが強調されるのです。

20年以上の間隔を経てこの本を読んでいると、しばしば、水村美苗『日本語が亡びるとき』(ちくま文庫)に連想が飛びます。こちらのほうは、「十二歳で父親の仕事で家族とともにニューヨークに渡り、それ以来ずっとアメリカにも英語にもなじめず、親が娘のためにともってきた日本語の古い小説ばかりを読み日本に恋い焦がれ続け、それでいながらなんと二十年もアメリカに居続けてしまったという経歴」の持ち主による著作で、2008年に最初に発表され、2015年に文庫になりました。

サブタイトルに「英語の世紀の中で」と付されているように、英語が「普遍語」となるなかで、「現地語」を脱して「国語」となった「日本語」が、グローバル化の進展によって大きな岐路に立たされていることを論じています。日本語が、それまでの「現地語」から国家を担う「国語」へと展開し、その「国語」が8世紀以来、国家と国民の知的、倫理的、美的重荷を担い得てきたこと、しかし、グローバル化による「普遍語」としての英語の浸食が、そうした役割を日本語から喪失させようとしていることを、さまざまに論じています。とても分析的で、しかもその分析が明晰に叙述されています。

その明晰は、富岡多恵子のそれとも、金井美恵子のそれとも、須賀敦子のそれとも、佐野洋子のそれとも違います(皆、僕の好きな作家です)。違いはどこかと考えてみると、論理性の高さというか、論理の強靭さですね。こちらも、出版当時、読みながら感嘆しきり、だったことを思い出しました。

言語について書かれている本、日本語について書かれている本は山のようにありますが、このふたりの著作は、論理を軸にして文芸を論じ、文芸を論じて文化や思想に至っています。しばし心地よい時間を堪能しました。

学長  伊藤 正直

2017年度

3月 卒業の季節に想う

3月といえば卒業式です。これまで40年近く学生たちを社会に送り出してきましたが、私が、本学で卒業式を迎えるのは5年目になります。毎年、この季節になると、「自分は、どの程度きちんとした講義やゼミを行いえただろう」、「学生の期待にどれくらい応えられただろう」、という想いにとらわれます。大学での勉強は、専門知識や専門技能を習得することは勿論ですが、それ以上に、「どのように問題を発見するか」、そして、「それをどのように把握するか」、さらにそこから「どのように問題解決への道筋をつけるか」という、「ものの見方、考え方」を身につけることが要請されます。

毎年、新入生には、論理的思考の重要性を強調しています。今年度の入学式では、「学問は、どのような領域でも、そのそれぞれに、グラマー、ロジック、レトリックがあります。日本語のグラマー、ロジック、レトリック、英語のグラマー、ロジック、レトリックがあるように、家政学にも、文学にも、経済学にも、社会学にも、心理学にも、それぞれ固有のグラマー、ロジック、レトリックがあります。皆さん、卒業するまでに、ぜひ、このグラマー、ロジック、レトリックを身につけてください」という話をしました。卒業生の皆さんにもこうした力を身につけてもらいたいと思って、これまで講義を行ってきました。

といいますのは、女性をめぐる社会環境が、この20年間に緩やかにではあれ大きく変化し、女性がこうした力を持つことが、一層重要となっているからです。「ガラスの天井」がなくなったわけではありません。古い男女観もまだまだ広く残っています。しかし、日本の女性就業構造の特徴とされたM型雇用は、今、急速に解消しています。学校を出てから定年まで働き続ける女性が増えているのです。ただし、この裏面には、非正規雇用が2000万人を超し、その多くが女性であるという状況があります。

1999年6月には男女共同参画基本法が成立し、「職場、家庭、地域などのあらゆる場で、男女が対等の立場であらゆる分野の政策立案や決定に参画できる社会を実現する」という課題を掲げました。2015年8月には女性活躍推進法が成立し、「自らの意思によって働き又は働こうとする女性が、その思いを叶えることができる社会、ひいては、男女がともに、多様な生き方、働き方を実現でき、ゆとりがある豊かで活力あふれる社会の実現を図る」ことを課題としています。論理的思考力は、そのための必須の力です。

これらの法律は、女性の社会的活躍を後押しするものですが、法律は、その自動的な実現を保証するものではありません。男性の意識改革を前提としたうえで、女性が主体的にその実現を図っていくこと、そのために努力することが必要です。論理的思考力を身につけて社会に出ていくこと、そして、そうした力を錆びつかせないで保持し続けることを期待したいと思います。

学長  伊藤 正直

2月 予測と願望と展望と

今から20年前の1998年、建設省建設政策研究センター(現、国土交通省国土交通政策研究所)というところから、「我が国経済社会の長期展望と社会資本整備のあり方 -2050年展望に関する学識者インタビュー- 」というテーマで、インタビューを受けました。何をしゃべったのかすっかり忘れていたのですが、最近、同研究所より、「20年経ったところで、中間総括をして欲しい」という要望が来ました。

ということで、記録を読み直してみると、当時は、次のような見通しを語っていました。「グローバル化が急速に進展するだろう、国際金融システムはさらに不安定化し金融危機が顕在化するかもしれない、アジア諸国なかでも中国の経済的・政治的プレゼンスが拡大していくだろう、先進国は全般的に低成長化するだろう」等々です。

これらの点は、ほぼ見通し通りの推移をたどりました。ここで、自分の予見力を誇ってもいいのですが、残念ながら、見通しを誤った部分も結構あります。「日本が国際社会に何らかの公共財」を提供しうるのではないか、「社会的なシステムのみならず、企業の生産管理、あるいは労働管理まで含めた広い意味での製造工程管理などを公共財的なものとして世界に提供できる可能性はある」のではないか、という見通しは、残念ながらはずれてしまいました。日本が「不良債権問題の解決に失敗」し「失われた20年」に突入してしまったことや、阪神淡路大震災や東日本大震災といった不意の巨大な自然災害に見舞われたことなども、その理由の一部だったでしょう。が、より大きくは、アングロ・アメリカン的な企業ガバナンスへの移行が、予想をはるかに超えて短期間で急速に進行したこと、これが大きかったと思います。もっとも、願望を予測として語ったことが、はずれた一番の理由だったかもしれません。

また、トランプ旋風やブレクジット、移民排斥とテロなど、近年のグローバル化に対する反転現象についても、十分には予見できませんでした。現在でも、長期的には、ヒト・モノ・カネ・情報のグローバル化は、不可逆的に進行するだろうと考えていますが、こうした反転現象がこれほど広汎に起こるとは、当時は考えませんでした。

高度成長期の日本で基本的理念として共有されていた「社会的再配分による相対的平等」を再構築すること、そして、それが、生産面における効率性や合理性と相乗効果を果たすような仕組みを創出することが必要なのではないでしょうか。最近の日本の巨大企業における不祥事の連続は、日本型システムの欠陥露呈というより、中途半端な市場主義的ガバナンスの導入による面の方が大きいのではないでしょうか。

もっとも、予測や見通しは当たればいいというものでもないでしょう。こうなるだろうということと、こうなって欲しいということは、当然ながら一致しませんから。望ましくない未来が予測されるとすれば、それを避けるためには何をすることが必要かも考えなくてはなりません。20年前のインタビューを読み直してみて、予測が展望として語れるような経済や社会になっていって欲しいとの思いを強くしました。

学長  伊藤 正直

1月 大学で学ぶとは?教えるとは?

2018年の年初から、学長通信という形で、日頃考えていることを発信することとなりました。これまでは、前任校も含めたゼミOBOGを主な相手として、一般公開を想定しない形で、記事を書き継いできました。読んだり観たりした本・映画・展覧会などの感想、海外調査の際の出来事などが、そこでの主要な話題でした。2017年4月に学長、6月に理事長に就任し、「研究者に専念」という自己規定から離れざるを得ず、そのことに若干の感想と感慨をもちました。しかし、人間はそう簡単には変われないものですから、これまで同様、あまり肩肘を張らないで、いろいろな機会に私が感じたあれこれを書いていくことにしようと思っています。

第二次大戦後の1946年春に開校され、わずか4年半しか存続しなかった鎌倉アカデミアという「大学」があります。産業科、文学科、演劇科の3科からなり、教授陣には、三枝博音、服部之総、林達夫、村山知義、長田秀雄、岡邦雄、中村光夫、吉野秀雄、神西清、高見順、吉田健一、西郷信綱など、学生には、山口瞳(のち作家)、いずみ・たく(同作曲家)、前田武彦(同放送作家、タレント)、津上忠(同演出家)などがいました。この鎌倉アカデミアの第2代の学校長となった三枝博音が、就任あいさつで次のようなことを書いています。

これは私個人で描いていることなのだが、私たちの学園はこんなものならいいなあと思うのだ。どんなのかというと、何かしらそこに居ることが楽しいという処なのである。

私が「楽しい」というのは、楽々とした気もちになれるとか、のんびりした心もちに成れるとかいうのではない。そこでは努力もせねばならぬし、苦しみもせねばならぬだろうけれども、その雰囲気の中にいるのが好ましいという意味である。

自分が何か問題をもつときは。すぐにそこに駆けつけたい。自分が自信を失う時は、すぐに出かけて行きたい。そこでは自分の意見を取り上げてくれ、普遍化してくれる。そこでは自分の不振や自分の虚脱をとりあげてその原因を究明してくれ、自分だけのものでないことを明らかにして、新しい希望を持たしてくれる。そういう時、相手になってくれる人が先生の中にも居れば、学生の中にも居る。

喜びや悲しみや、希望や希望のなさが、そこに行けば客観的になる。そういうことによって、生活がもっと深められる。だからそこでは、自分自身の意見を自由に公明に打ち明けるということが、そこに入るパスみたいなようなものになる。……

批判力や論議の力は、万般のことに知識を持たぬとできないし、邪道に入り易い。だから、そこではすべての者が旺盛な知識欲をもつ。なんとしても、このことが第一である。第一だけれど、少しでもいやいやで勉強する傾きがあったら、すぐに反省し直す必要がある。いつかしら知識が得られているように学園ができていることが必要である。

こんな気持ちで書いていければいいと考えています。よろしくお願いします。

学長  伊藤 正直