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【学長通信】「紙」はどうなる?

学長通信

「毎日、本や新聞を読んでいますか?」、「手紙や葉書、あるいはFAXは日常的な連絡手段ですか?」。こう聞かれたとき、どう答えますか?


2019年10月に公表された文化庁『国語に関する世論調査』によれば、1カ月に1冊も本を読まない人が約47%、1~2冊の人が約38%だそうです。この調査は、16歳以上を対象としており、日本の学生や社会人の約半数は、まったく本を読まないようです。また、2019年9月の総務省『情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査』によれば、新聞を読んでいる人は年代による差が著しく大きく、10代、20代では10%以下、30代、40代も10~25%で、若年層、中年層は、ほとんど新聞を読んでいないとのことです。


コミュニケーション・ツールとしての手紙や葉書も同様です。若い人たちの日常の連絡手段はLINEですし、会社の業務連絡や友達とのやり取りはe-mailです。手紙が届くのは、納税通知書などの役所からの通知、内容証明郵便、あるいは企業からのDMくらいです。多くの人は、情報の取得やコミュニケーションを、もっぱらSNSから得ています。そうだとすれば、これから「紙」の需要はどんどん減っていくのでしょうか。オンラインで全てがやり取りされ、「紙」の世界は消滅していくのでしょうか。


「人間は記録する唯一の動物である」といわれています。言葉を生み出し、文字を作り出すなかで、人間は、文字を記憶=記録として定着させることを試みるようになりました。粘土板に、石板に、パピルスに、木簡・竹簡、帛(はく)に、文字を刻みました。そして、その過程で、紙が誕生しました。紙は、記録媒体としてはとても優れたものでした。


紙を発明したのは漢の蔡倫、西暦105年のこととされていますが、最近の考古学調査では、中央アジアや中国の湿地帯で、数多くの紙の破片が発見され、それらは105年よりも1世紀ないし2世紀さかのぼることができるそうです。いずれにせよ東アジアで紙が発明されたのは間違いないでしょう。その後、筆と墨の発達に伴い、紙の種類も豊富化していきます。朝鮮半島や日本にも製紙技術は早く伝わり、平安時代には、全国40カ所の製紙場が稼働していました。西の方へは、イスラムを経て、11世紀にはモロッコのフェズが紙の主要な生産地となり、12世紀にイタリアに伝わったといわれています。しかし、ヨーロッパでは、紙はなかなか普及せず、シチリア王国は1145年に「すべての行政文書の書写を羊皮紙で行う」ように命じ、「紙に書かれた証文は一切の権限を持たない」と法令で定めたそうです(マーク・カーランスキー『紙の世界史』徳間書店)。


西欧世界で紙が急速に普及するのは、15世紀のグーテンベルグによる金属活字と活版印刷の発明からで、その後の推移は皆さんが世界史の教科書で習った通りです。宗教改革、市民革命、産業革命は、本やパンフレットを読む層を短期間に急増させ、紙への需要は一挙に高まりました。19世紀半ばには、まず、ドイツで木材を機械ですりつぶしてパルプを作る方法が発見され、次いで、アメリカで製紙用の木材パルプが作られ、19世紀末にはアメリカが世界最大の紙生産国となります。紙は、工業生産物となり、製紙業は、巨大産業の仲間入りをしたのです。


日本では、平安時代以来、和紙の生産が連綿と続いていました。特に江戸時代は、北斎や広重の版画、馬琴や一九の読み本など、和紙の需要は大きく広がっていました。幕末の洋学の普及と、それに続く明治維新により、新聞・雑誌・書籍などに必要とされる洋紙需要が新たに生じ、明治初期に、有恒社、東京王子抄紙会社などの洋紙会社が相次いで設立されます。


現代の製紙工場の製紙工程は、紙の原料となるパルプを作るパルプ工程、このパルプを使って紙を作る抄紙工程、出来上がった紙を平判や巻取りにかける仕上げ工程からなっています。この全ての工程で改良を重ねることにより、1970年代には、日本は、世界有数の紙・板紙生産国=消費国となりました。製紙技術は世界の製紙業界をリードし、辞書、雑誌、文芸書籍それぞれに、光沢、触り心地、嵩高(かさだか)、柔らかさ、色合いなど、紙それぞれの微妙な違いを表現しています。


東日本大震災で津波により壊滅的打撃を受けた日本製紙石巻工場もそうした工場のひとつでした。この工場の8号抄紙機は出版用紙の製造マシンとして日本を代表するマシンでした。8号抄紙機は、震災の津波で水没します。「8号が止まる時は、この国の出版が倒れる時です」といわれたとのことです。多くの出版社の単行本や文庫本は、この8号抄紙機の紙を使っていたからです。従業員の壮絶な努力により、8号抄紙機は、わずか半年で奇跡的に再稼働します。2013年4月、発売1週間で100万部を突破した村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)に使われた「オペラクリームHO」という紙は、この8号抄紙機で作られたものでした(佐々涼子『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている』早川書房)。


紙の用途は、現在でも広がり続けています。和紙の需要もむしろ高まっています。広い意味でのアートとしての紙の需要ですが、紙の本来の意義、記憶と記録の媒体としての紙の意義は、今後もなくなることはないでしょう。


学長  伊藤 正直