大学紹介
入試・入学
学部・短大・大学院
研究
就職・キャリア
​学生生活
​留学・国際交流
地域連携・社会貢献

【学長通信】日本の会社、これまで・これから

学長通信

今、日本にはどれくらい会社があるのでしょう。総務省統計局が発表した「令和3年経済センサス‐活動調査」の産業横断的集計をみると、2021(令和3)年6月1日の日本の企業数は368万企業、内訳は、会社企業が178万、会社以外の法人が28万、個人経営が162万となっています(農林水産業を除く)。企業のほぼ半数が会社企業です。会社の大部分はいうまでもなく株式会社ですが、この他の形態として、合名会社、合資会社、合同会社があり、さらに保険会社のみに認められた相互会社という形態もあります。これらを総称して会社といいます。

日本で、会社が誕生したのは明治初年のことでした。幕末の洋行者によって「会社」というものが紹介され、1871(明治4)年には、福地源一郎『会社弁』と渋沢栄一『立会略則』という2つの冊子が大蔵省から刊行されます。こうして1872年、はじめての株式会社として国立銀行が誕生しました。その後、明治中期の第一次企業勃興、日清、日露戦争を経るなかで、紡績、鉄道、商業、海運、化学などの新会社が次々に設立されます。このなかで第一次大戦後、三井、三菱、住友などの財閥が大きな力を持つようになります。

金融恐慌、昭和恐慌などの不景気の中、財閥批判が起き、財閥は株式公開や本社の株式会社化などの対応を迫られます。1937(昭和12)年の日中戦争、1941年の太平洋戦争と続く戦争の拡大は、戦争遂行のための経済統制を強化させていきます。臨時資金調整法、銀行等資金運用令、会社経理統制令などが次々に公布・施行され、多くの企業がその自律的経営を阻害されるようになりました。しかし、当時の軍や政府と結びついた既成財閥には、むしろ統制は有利に働き、戦争中もその業務は拡大していきました。

敗戦と戦後占領は日本経済に大きな打撃を与えました。日本に進駐したGHQ(連合国軍総司令部)は、財閥解体と15財閥の資産凍結を指令し、持株会社の解散と主要財界人の追放を決定しました。戦後、財閥は息の根を止められたかのようにみえました。しかし、この占領政策は早期に転換し、朝鮮戦争の勃発は戦争特需という形で日本経済を復興させます。さらに、1955(昭和30)年を出発点とする高度成長は、日本経済を急速に発展させ、1960年にはイギリスを抜いて資本主義世界第3位、1968年には西ドイツを抜いて資本主義世界第2位のGNPを達成します。

戦後復興、高度成長のなかで、日本の経済構造、社会構造は大きく変化しました。大量生産・大量販売・大量消費、生活電化、サラリーマンの急増、団地生活等々。次々と新しい企業が誕生し、高度成長期に会社は増え続けていきます。こうして日本社会は、企業を中心に編成され、組織されるようになりました。戦前の日本社会では、軍隊、官僚、財閥、農業集団などが強い力を持っていたのですが、戦後は他の集団をおしのけて企業の力が強くなったのです。

企業の力が強くなったことは、国富(国の総資産)の経済主体別の構成をとってみるだけでもよくわかります。1955年の国富全体に占める法人企業部門のシェアは31.0%、個人事業体および家計部門のそれは42.8%でした。これが1970年になると前者は37.3%、後者は34.6%になります。高度成長の過程で富が個人部門から民間法人企業部門へ移動したのです。

民間法人企業部門の中核に位置していたのは、いうまでもなく巨大企業で、例えば、1970年を例にとると、同年末の法人企業数は87万4692社、このうち資本金10億円以上の大企業は1185社で、わずか0.14%を占めるにすぎません。この0.14%の企業が、全法人企業の売上高の35.2%、営業利益金の45.2%、総資産の46.7%を占めたのです(大蔵省『財政金融統計月報』1971年11月)。巨大企業の支配力の強さは、歴然としています。

他方で、この巨大企業と残りの90%以上を占める中小企業との賃金や労働条件をめぐる格差も明らかとなり、日本の企業構造の特徴としての「二重構造論」(有澤廣巳、篠原三代平)が政策論議の対象となります。1963年には中小企業基本法が制定され、「中小企業近代化」の推進による格差是正が政策主題となりました。

しかし、こうした問題は持続的に検討されることはありませんでした。1970年代、80年代に、先進国のほとんどがスタグフレーションに苦しみ低成長経済に移行するなかで、日本だけが5%成長という高い伸びを続けたからです。1980年代には、好調な日本経済を背景にして、日本企業賛美論、日本型経営賛美論が登場し、海外からも“Japan as No.1”とか“MITI and Japanese miracle”といった声が聞かれるようになりました。この時期、日本の企業は引き続き増え続けました。

これが反転したのは、1990年代に入ってからのことでした。バブル崩壊がきっかけとなり、日本経済は「失われた10年」「失われた20年」を経験するのです。日本の企業は減少に転じます。政府統計を遡ってみると事業所数のピークは1989(平成元)年662万事業所です。企業数も1999年の485万社から、2016年には359万まで、126万減少しています。このうち最も減少が大きいのが小規模企業で、1999年の423万から2016年の305万まで118万、全体の減少の94%を占めています。この間、開業と廃業の両者があるわけですから、開業よりも廃業の方が多く、そのほとんどが小規模企業だったということになります(『中小企業白書』2020年版による)。

規模別をもう少し詳しくみると、「資本金1000万円未満」が104万(59.3%)でもっとも多く、「1000万~3000万円未満」が55万(31.8%)、「3000万~1億円未満」が12万(7.2%)、「1億円以上」が3万(1.7%)となっています。業種別では、「卸売業,小売業」が74万企業(全産業の20.1%)、「宿泊業,飲食サービス業」が43万企業(同11.6%)、「建設業」が43万企業(同11.6%)で、この上位3産業で全産業の43.3%を占めています。

小規模企業減少の理由として挙げられているのは、人口減少、高齢化、労働力不足と非正規労働の拡大、ものづくりの劣化、プラットフォームの不在、ネットワークの弱化などさまざまですが、近年強調されているのは、格差の拡大です。とりわけ就業・雇用の面での格差の拡大、賃金・労働条件の悪化が中小・零細企業で起きていると、改めて指摘されるようになっています。「二重構造論」をもう一度見直す時期に来ているのかもしれません。

学長  伊藤 正直