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【学長通信】粘菌学、フォークロア、エコロジー

学長通信

先月、牧野富太郎をとりあげ、対象への無私の情熱を持ち続けた反面、研究以外は一切を顧みず、金銭感覚も欠如し、周囲との軋轢(あつれき)もしばしばであったと述べました。しかし、こうした特質を列挙するとき、まず思い浮かぶのは牧野より南方熊楠です。南方熊楠には、このすべてが当てはまり、しかも、その振幅は、牧野よりはるかに大きかったのです。

1867(慶応3)年紀伊和歌山に生まれ、1941(昭和16)年に紀伊田辺で没した熊楠は、在野の学者として生涯を過ごしましたが、その業績は、民俗学、生物学、博物学、宗教学など人文・社会・自然の多岐にわたり「知の巨人」と称される一方、年中裸で過ごしていたとか、酩酊(めいてい)しないでは人と話ができなかったとか、自在に反吐(へど)を吐いて気に食わぬものを追い返したとか、破天荒な奇人ともいわれました。あるいは、植物採集のためにキューバに渡ったのにサーカス団とともに巡業したとか、キューバ独立戦争に参加し負傷したとか、ロンドンに渡ってからは中国公使館に忍び込んで孫文を救出したとか、さまざまの「伝説」にも彩られています。

およそ一人の人間とはとても思われない広がりを持つ熊楠に対しては、日本民俗学の父といわれる柳田國男によって「日本人の可能性の極限」、あるいは「日本民俗学最大の恩人」と評価(1950年)されています。しかし他方で、牧野富太郎による「南方君は往々新聞などでは世界の植物学界に巨大な足跡を印した大植物学者だと書かれ、また世人の多くもそう信じているようだが、実は同君は大なる文学者でこそあったが、決して大なる植物学者ではなかった」という評価(1937年)や、折口信夫による「南方熊楠氏は万巻の書物を読んでいる人だが、態度は江戸時代の学者とそう変わらぬ。だから、研究法としてはこの方を引き合いに出しては駄目だ」という評価(1938年)もなされてきました。

熊楠本人も、柳田國男宛の書簡で「学会に入るのと学位を受けること大嫌いで、学校もそれがため止め申し候」(1911.6.25)と述べ、友人の土宜法龍(真言宗の僧侶で高野派管長)宛の書簡でも「小生自由独行の念深く、また本邦の官吏とか学士とかいう名号つけたるものをはなはだ好まず」(1916.5.8)と述べていました(杉山和也『南方熊楠と説話学』平凡社、2017)。

熊楠については、全集(全12巻、平凡社)、日記(全4巻、八坂書房)、菌類図鑑(各種、八坂書房、ワタリウム美術館)、熊楠邸蔵書目録(田辺市)などがすでに刊行されています。しかし、驚くほど筆まめで、メモ魔、記録魔とされた熊楠の手稿、とくにロンドン時代の4万枚に達するといわれる「ロンドン抜書」や、深い探求と多くの発見をしながら学術誌には一切発表されなかった粘菌研究の意図と目的など未開拓の部分も多く、その全貌は今日でも解明しつくされたとは、とてもいえません。

熊楠は、1883(明治16)年、15歳で上京し、神田の共立学校、翌年には東京大学予備門に入学します。同期には、正岡子規、夏目漱石、秋山真之などがいました。しかし、熊楠は、興味のない分野は一切勉強せず、この結果落第、1886年には大学予備門を中退し、翌1887年に渡米することになります。19歳でアメリカに渡って以降、アメリカ、キューバに約6年間、イギリスに約8年間滞在しました。

熊楠が隠花植物や粘菌への関心を持ったのは、大学予備門時代であったようで、後年、「(アメリカのアマチュア菌類学者)カーチスの採集した六千種を超える七千種の日本産の菌類を採集したいと思い立ったのは十六、七の頃」と友人宛の書簡で述べています。熊楠は、渡米後、1891年9月から翌年1月までキューバに出かけます。目的は植物採集で、熊楠が粘菌の研究を本格的に始めたのはこの頃とされており、キューバで新種の地衣類を発見しています。

1892年、熊楠はアメリカからイギリスに渡ります。そして、帰国する1900年8月まで、大英博物館で旅行記、民族誌、説話、自然科学、セクソロジーなどの貴重な文献を閲覧し、通称「ロンドン抜書」といわれるノートに精力的に書き写しました。ノートは、全部で52冊、各冊250~270頁、計1万数千頁に達し、書き写した古今東西の文献は、英独仏伊にとどまらず、ラテン語、アラビア語、中国語などの驚くべき広範囲にわたったとされています。

こうした文献探索を基礎に、熊楠は国際学術誌『ネイチャー』(Nature)に51編もの論考を寄せました。今日、世界最高水準の自然科学学術誌といわれる『ネイチャー』は、当時は、自然科学だけでなく考古学や文化人類学関係の記事なども掲載しており、熊楠の論考は、「編集部への書簡」(Letters to the Editor)欄、現在の「短報」欄に掲載されました。最初の掲載論考は、「東洋の星座」(The Constellations of the Far East)、2本目は、「動物の保護色に関する中国人の先駆的観察」(Early Chinese Observation on Colour Adaptation)で、以下「東洋人の蜂に関する諸信」「拇印考」「宵の明星と暁の明星」「網の発明」「マンドレイク論」「日本の発見」と続きます(松井竜五『南方熊楠 一切智の夢』朝日選書、1991、唐澤太輔『南方熊楠 日本人の可能性の極限』中公新書、2015)。

ただ、熊楠が最も多く論考を投稿したのは、『ノーツ・アンド・クエリーズ』(Notes and Queries)でした。熊楠が『随筆問答雑誌』と呼んだ同誌は、全編が投稿による情報交換で成り立っていました。ノート(覚書)、クエリー(質問)、リプライ(回答)という形式がとられ、熊楠の同誌への投稿は帰国後も続き、掲載された論考は、ノート71本、クエリー64本、リプライ189本、計324本に及びました(同上、松井竜五、唐澤太輔)。

足掛け15年に及ぶ海外滞在を経て、1900年熊楠は帰国します。大英博物館からの追放、ケンブリッジ大学助教授就任話の立ち消え等による無念の帰国でした。帰国後は、那智次いで田辺と、1941(昭和16)年の逝去まで紀伊を動かず、この地で、民俗学、宗教学、文化人類学、植物学など、広範な領域の思索を続けます。その過程で、エコロギー(エコロジー)の観点に立って神社合祀反対運動に関わったり、1929年には、在野の粘菌学者として昭和天皇に進講したりします(中沢新一編『南方熊楠コレクションⅤ 森の思想』河出文庫、2009)。

破天荒な学者、熊楠の思考をどうしたら追体験できるのか、熊楠の独特の叙述スタイル、あちらに飛びこちらに戻り変幻自在に展開する熊楠の論考を読みながら考えることしきりでした。

学長  伊藤 正直