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【学長通信】ファンタジーの語りと読書の楽しみ

学長通信

数年前ですが、『戦後文学のみた<高度成長>』(吉川弘文館、2020)という本を書きました。「高度成長期に書かれた文芸、それも小説が、同時代の経済発展や経済システムをどのように捉えていたのかを検討してみたい」というのが、執筆の動機でした。私の専門は経済学で、金融政策や国際金融の歴史と現状の分析が主たる対象です。ですから、上の本のような領域は、どちらかといえば専門外なのですが、高度成長が同時代の文学者の目にどのように映っていたのかを抽出することを通して、マクロの構造分析からは抜け落ちた高度成長の姿を少しでもよいから可視化してみたいと考えたのでした。

しかし、そもそも、なぜ私たちは小説を読むのでしょうか。動機はさまざまでしょうが、小説を読むことを通して、そこでの登場人物の思考や行動に共感したり反発したりしながら、そして、それと比較しながら、自分は何者であるかを知りたい、自己認識のための読書でしょうか。もうひとつは、小説が描く社会、それは国、地域、会社、家庭といったさまざまな集団、あるいは、そこでの政治活動、経済活動、社会活動、海外活動といった活動領域を知ることを通して、自分が今どのような社会に生きているのか、どこから来てどこへ行くのかを知りたい、こちらは社会認識のための読書でしょうか。

もっとも、こうした小難しい理屈を頭において、小説を読む人は誰もいないでしょう。小説を読むことが愉楽であるから、あるいは娯楽であるから、人は小説を読むのでしょう。言い方を変えると、小説を読むということは、自分の実生活では経験できない、日々の生活とは全く異なったもうひとつの人生を生きる、自己の精神活動のありようを自然との関係、社会との関係、対人関係などから再確認する、ということではないでしょうか。

昨年末、アニメ映画「すずめの戸締まり」を観て、それに触発されて、ジョーゼフ・キャンベルの『神話の力』や『千の顔をもつ英雄』を読み直す中で、連想したのは、梨木香歩の一連の小説でした。梨木は、『西の魔女が死んだ』や『裏庭』など、児童文学者として作家生活をスタートさせ、その後、自然と人間との交歓を柱にしたエッセイや小説を、数多く書き継いでいます。『裏庭』は、ひとりの少女が、英国人一家の元別荘の玄関奥にある大鏡から秘密の「裏庭」の別世界に入りこみ、そこから帰還するという、まさに典型的な神話構造の物語でした。ただし、ここで取り上げたいのは、そうした児童文学の世界ではなく、『家守綺譚』(新潮社、2004)、『冬虫夏草』(新潮社、2013)、『村田エフェンディ滞土録』(角川書店、2004)です。

『家守綺譚』と『冬虫夏草』は、続きもので、共に表紙裏に「左(さ)は学士綿貫征四郎(わたぬきせいしろう)の著述せしもの」という題言があります。『村田エフェンディ滞土録』にはそうした題言はありませんが、考古学研究者としてトルコ政府に招聘された綿貫の友人村田の叙述という形式をとっています。『家守綺譚』と『冬虫夏草』は、歴史小説とも怪異譚とも身辺雑記とも風土記ともとれる、とても不思議な味わいの小説です。『村田エフェンディ滞土録』は、この不思議な世界を、オスマン帝国の解体とトルコ共和国樹立前夜という現実世界での滞在記録の叙述によって、現実につなぎとめる役割を果たしています。

『家守綺譚』の文庫本裏表紙には、次のような解説があります。「本書は、百年まえ、天地自然の「気」たちと、文明の進歩とやらに今ひとつ掉さしかねている新米精神労働者の「私」=綿貫征四郎と、庭つき池つき電燈つき二階家との、のびやかな交歓の記録である」と。時代は1900年前後、場所は京都山科と思しきあたり、主人公は駆け出しの物書きで、漱石風の清澄な文体によるエッセイが24の掌編から綴られ、そのすべてに草木のタイトルがつけられています。

物語は、早世した学友高堂の実家に綿貫が「家守」として住み込むことから始まります。ある日、床の間の掛け軸から高堂が登場し、庭のサルスベリがお前に懸想していると告げます。そして、商店街から綿貫に付いてきた犬をゴローと名付け、このゴローは次第に綿貫の精神の支え手となっていきます。人に化けた狸を助けたり、仔竜や小鬼や河童や人魚が登場したり、四季の自然の移ろいにじっくりと浸りつつ、征四郎の日々が過ぎていきます。

本書の最後「葡萄」では、ゴローを追って、湖底の別世界に紛れ込んだ綿貫が、「此処にいればいいではないですか。‥‥心穏やかに、美しい風景だけを眺め、品格の高いものとだけ言葉を交わして暮らして行けます。何も俗世に戻って。卑しい性根の俗物たちと関わりあって自分の気分まで下司に染まってゆくような思いをすることはありません」といわれたのに対し、「それは理想の生活ではないかと。だが結局、その優雅が私の性分に合わんのです。私は与えられる理想より、刻苦して自力で掴む理想を求めているのだ。こういう生活は、私の精神を養わない」と答えるのです。ここには、「出立-イニシエーション-帰還」という成熟の物語とは、全く異なった世界、別世界や別の生き方があることを承認しつつも、現実の世界に綿貫独自の関わり方で存続し続けようという精神のありようがくっきりと示されています。

続編の『冬虫夏草』も39の掌編からなり、同じくそのすべてに草木のタイトルがつけられています。こちらでは、綿貫は、しばらく前から姿を消したゴローを探すため、鈴鹿の山中に旅に出ます。友人の菌類学者南川から、ゴローらしき犬を鈴鹿の山中でみたと聞いたためです。東海道線の能登川駅から、愛知川(えちがわ)沿いに遡行していく旅が丁寧に描かれ、森や山野草の美しさが際立っています。『家守綺譚』同様、山村の人々や木地師だけでなく、河童や天狗やお産で亡くなった若妻や宿を営むイワナの夫婦が登場し、綿貫はそれらと自然体で接していきます。ゴローは綿貫にとって不可欠の存在となっており、「畜生といえどもその人望は私のそれをはるかに凌駕し、周囲に絶大なる信頼と親愛の垣を築いた」、「人を見て恐れず、それを侮らず、己が必要とされればその役割に応えんと誠実のかぎりをつくす。‥‥威張らず、威嚇せず、平和を好むが、守るべきものがあれば雄々しく立ち向かう。友情に篤く、その献身は、かけがえがない」とまで、綿貫にいわせています。本書の最後「茅」でのゴローと綿貫の再会は感動的です。

『村田エフェンディ滞土録』は、村田のトルコ滞在中の家主や同宿人やその友人のトルコ革命を目指す青年革命家たちとの交流の物語ですが、革命派の女性から渡された親指ほどの紅の玉(=サラマンドラ、火竜)を、帰国後に高堂に渡すことで、『家守綺譚』、『冬虫夏草』とつながり、話が結構します。

梨木は、「人の存在の深く底流を流れている、水脈のようなものに繋がる隙間」、「ひたひたひたって、浸透圧のようにやってくる、その気配とか雰囲気とか、何か這ってくる感じとかを、何とかして言葉というあてにならないものを使って作れないか」と、自らの創作の意図を語っています(梨木香歩『物語のものがたり』岩波書店、2021)。その達成をともに楽しみたいと思います。

学長  伊藤 正直