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【学長通信】写真の力あるいはポートレイトの力

学長通信

今は、誰もがスマホを持っており、いつでも思い立った時に気軽に写真を撮ることができます。「自撮り棒」を使って自分を撮ることも容易です。撮影した写真をクラウドに置いて友人と共有することもできれば、気に入った写真をインスタグラムに載せて拡散することもできます。昔に比べると、写真を撮る人ははるかに多くなりました。日記代わりにしている人も多いでしょう。LINEでの友達とのおしゃべりと同じように写メ交換をしているかもしれません。

いつからこんな変化が起きたのでしょうか。デジタル技術の発達に基礎があることはもちろんですが、社会的にはプリクラの大流行が大きかったような気がします。写真を「撮ること」、「観ること」の意味合いが、この頃から大きく変わったような気がします。スマホの登場は、この変化を決定的に後押ししたといえるでしょう。

かつては、報道写真家、肖像写真家、広告写真家、風景写真家という言葉が誰にでも理解できる言葉としてあり、写真家という「撮る人」は、「撮られる人」とは明確に区分されていました。1936年のニューディール期に創刊され、最盛期には850万部を誇り、1972年に廃刊となった写真雑誌『ライフ』は、著名な写真家のさまざまの写真を、数多く掲載しました。日本にも『アサヒカメラ』(1926年創刊)、『カメラ毎日』(1954年創刊)などの写真雑誌があり、日本の写真家の登竜門となっていました。

そうした著名な写真家でなくても、ちょっとした町であれば、必ず写真館があり、その入り口のショーウインドウには、七五三、入学式、卒業式、結婚式の写真が飾られていました。ところが、今では誰もが「撮る人」=「撮られる人」となり、写真家とは何であるか、どのように存在しうるかが、あらためて問われるようになりました。

いうまでもないことですが、スマホで撮られている写真は、デジタル写真です。写真のデジタルへの移行が全面的に進んだのは、1990年代のことでした。フィルムからデジタルへの移行によって、写真は、「真を写す」もの、記録するものから、徐々に離脱することになります。ルポルタージュにせよスナップにせよ、それまでのフィルム写真は、メディア性をその背景に負っていました。しかし、デジタル写真は、いつでもレタッチ(=画像加工)ができます。合成もスキャニングもできます。モーフィング(=変形)や色加工も、日常的に行われています。インスタグラムなどのSNS発信に際しての顔加工アプリも花盛りです。一方でICTとの結合、他方で、コンテンポラリーアートの一分野への帰属、現在の写真は、ひたすらそこに向かっているようにみえます。

では、誰でもが写真家になれるとしても、皆が写真家となっているのでしょうか。そうは言えないでしょう。わが国における職業としての写真家の歴史を、20世紀以降に限ってたどってみただけでもこのことは明らかです。まず、最初に登場するのは、名取洋之助、木村伊兵衛、土門拳、林忠彦等です。日本工房、『NIPPON』、『FRONT』などから輩出したこれらの写真家は、スナップショット(木村)にせよ徹底したリアリズム(土門)にせよ、写真を通して、個人や社会の「真実」を写し取ることを課題としました。

次の世代は、中平卓馬、森山大道、多木浩二等です。1968年に創刊された『provoke』に結集した彼らは、機械と人間が融合したシステムである写真は、人間の主体的表現ではないとして、「決定的瞬間」を写し取ることを拒否します。雑誌には「思想のための挑発的資料」というサブタイトルがつけられ、それまでの思想を破壊する「来るべき言葉のため」(中平)に写真はあるとして、「アレ・ブレ・ボケ」(森山)の写真を提示します。ほぼ並行しつつやや遅れて、篠山紀信、荒木経惟の時代がやってきます。なかでも、篠山は、撮影ジャンルの多様さ、作品数の多さで知られ、篠山の山口百恵を撮った「激写」は流行語になり、宮沢りえを撮った『Santa Fe』、樋口可南子を撮った『water fruit』はベストセラーになりました。「私的なことをやりたければ『文学』でやればいい」とは篠山の宣言です。

その後、1990年代に入ると、ホンマタカシ、HIROMIX、長島有里枝、蜷川実花等が登場してきます。この世代こそが、デジタル写真の世代であり、コンテンポラリーアートの一形式としての写真という位置づけに自覚的な作家たちです。そこでは、多様な実験的試みが、さまざまな形でなされています。例えば、画面を厳密に構成するタブロー(絵画)写真という試み、視覚的ドラマや誇張を完全に排したデッドパン(無表情)写真という試み、すでに流布している画像をコラージュしたり、リメイクしたりする試みなどなど。ITの急激な進展が、こうした試みを可能としているといえます。さらに、これらの作家たちの作品は、アートというだけでなく、その実験性や多様性を通して、社会との新しい接続をも可能にしています。

写真は、現在では新しいステージに移行しているということができそうです。しかし、写真そのものの力という点ではどうでしょう。木村伊兵衛、土門拳、林忠彦等の写真が持っている訴求力、強靭さを超える作品を、現在の写真家たちはどれほど生み出し得ているのでしょう。例えば、木村伊兵衛の「秋田」や「パリ」や「都市」、土門拳の「筑豊のこどもたち」や「古寺巡礼」や「ヒロシマ」、林忠彦の「茶室」や「長崎」や「文士」のもつインパクトはとても強いといえます。

なかでも、彼らのポートレイト、人物スナップは圧倒的です。木村伊兵衛の永井荷風や織屋・八木虎三、土門拳の谷崎潤一郎や梅原龍三郎、林忠彦の太宰治や坂口安吾は、一度観たら二度と忘れることはできません。絵画や映画とは異なった写真の力、目で見えているものを掴みとる写真の力。現在の時点で、この力を開花させていくには何が必要なのかを、木村・土門・林の写真集を観直すなかで、あらためて考えたところでした。

学長  伊藤 正直