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【学長通信】大妻加賀寮と『遠野物語』

学長通信

新宿区市谷加賀町に、大妻加賀寮があります。定員355名の女子寮で、エレベーター、トレーニングルーム、和室、ライブラリー&ラウンジ、オープンキッチン、カフェ・売店、会議室、音楽室、洋裁和裁学習室、レクリエーションルーム、コインランドリー、浴場、シャワールームなどの共用設備があり、外も内もモダンな建物です。入寮している大妻女子大生は、ここから毎日、千代田区三番町あるいは多摩市唐木田のキャンパスに通っています。

この大妻加賀寮の道路に面した植え込みに、「『遠野物語』誕生の場所 柳田國男旧居跡」という説明板が設置されています。遠野物語百周年を記念して旧居跡を明示したいという依頼が岩手県遠野市からあり、これに本学が応えて、平成22(2010)年に設置されたものです。柳田國男は、昭和2(1927)年に世田谷区成城に移るまでの27年間をこの地で過ごしました。説明板には、柳田家邸宅平面図も併設されています。なお、成城の住居の方は、平成元年、長野県飯田市に移設され、飯田市美術博物館の付属施設として公開されています。遠野市による説明板はもう一つ、文京区水道の凸版印刷トッパン小石川ビルにもあります。こちらは遠野物語の語り手、同地出身で当時早稲田大学在学中だった佐々木喜善(筆名:佐々木鏡石)の下宿跡です。

日本民俗学の父といわれる柳田が『遠野物語』を出版したのは明治43(1910)年のことでした。柳田は、明治33(1900)年、東京帝国大学を卒業後、農商務省に入り、農政官僚としてそのキャリアをスタートさせます。晩年に著した自伝『故郷七十年』(1959年)のなかで、「(子供のころ飢饉に遭遇した)経験が、私を民俗学の研究に導いた一つの理由ともいへるのであつて、飢饉を絶滅しなければならないといふ気持が、私をこの学問にかり立て、かつ農商務省に入る動機にもなつたのであつた」と回顧しています。農政官僚として、農村を回り、農民の話を採集するなかで、民俗学に導かれたというのです。

『遠野物語』初版序文で、柳田は次のように述べています。「此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分折折訪ね来り此話をせられしを筆記せしなり。‥‥思ふに遠野郷には此類の物語猶百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。」

明治42(1909)年8月に遠野郷を訪ねた柳田は、また次のようにも述べています。「我が九百年前の先輩今昔物語の如きは其当時に在りて既に今は昔の話なりしに反し此は是目前のできごとなり。‥‥近代の御伽百物語の徒に至りては其志や既に陋(ろう)且つ決して其談の妄誕に非ざることを誓い得ず。窃(せつ)に以て之と隣を比するを恥とせり。要するに此書は現在の事実なり。」

遠野物語の口述者であった佐々木と柳田が知り合ったのは明治41(1908)年のことだそうです。佐々木は、以後毎月のように柳田邸を訪れ、遠野で語られているさまざまの話題や不思議な伝承などを柳田に伝えました。その多くは、昔話でも民話でもなく、「目前のできごと」であり「現在の事実」だというのです。

では、『遠野物語』で語られているのは、どのような話でしょうか。話は、一話ごとに番号が振られ、全部で119話からなっています。その多くは、村人と異界、異人、異類との接触・交渉の物語です。神隠しの話があります。姥捨ての話もあります。死者との遭遇もあります。家の神、田の神、山の神も出現します。年を経た猿や狼、熊や狐も出てきます。雪女、天狗、河童も登場します。

なかで、『遠野物語』の柱の一つとなっているのは、山人(やまびと)の話です。山人とは、柳田によれば「川魚を捕り籠ササラ箒の類を作りて売り又箕を直すを業とし一所不住ニて‥諸所を移住しあるくもの」で、農民とは異なった狩猟、採集、木地製造などを生業とする漂泊の民をいいます。柳田の山人に対する関心は当時から強く、明治42(1909)年には、宮崎県椎葉村で聞き書きした狩猟の話を『後狩詞記』として自費出版しています。『遠野物語』は、これに続くもので、その後も雑誌『郷土研究』に「山人外伝資料」を掲載、大正15(1926)年には『山の人生』を纏めています。ちなみに、山の人生の第一話は、飢饉による山人の子殺しの話で、自伝の語りを裏付けています。

柱のもう一つは、土俗的な神あるいは精霊の話です。オクナイサマ、オシラサマ、コンセサマ、オコマサマ、ザシキワラシといった家の神、カクラサマ、ゴンゲサマ、サイノカミなどの里の神、山仕事をするものを守護する山神などの姿が、生き生きと描かれています。なかでも、ザシキワラシ(座敷童衆)は、旧家の座敷に出現する童子の形をした守護霊で、「此神の宿りたまふ家は富貴自在なり」として、『遠野物語』によって全国に知られるようになりました。

さらに、もう一つの柱は、獣たちと村人との遭遇の話です。年を経た猿は「よく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し」とか、愛宕山のふもとの林の中で、知人に化けた狐に化かされて相撲を取ったとか、馬と夫婦となった娘がその後天上で蚕の神となったとか、そういった話が、やはり生々しく語られています。

いずれも異界、異人、異類、つまり村人と異世界との接触・交渉の物語です。いいかえると、村人たちの日常の生活観念においては、日々の暮らしと異世界とがシームレスにつながっている、そうした共同体世界が厳然と存在していることの意味と意義を、柳田は問うたともいえます。柳田が「戦慄せしめよ」と指した平地人とは、近代化のなかで、そのような共同体が失われつつあった明治末期の日本人でした。日本民俗学は、このような形で、柳田國男によって歩みを始めたのでした。

学長  伊藤 正直