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【学長通信】ニクソン・ショック50年とロンドンの思い出

学長通信

今年の8月はニクソン・ショック50年ということで、いくつかの新聞社から、インタビューや寄稿の依頼を受けました。ニクソン・ショックとは、1971年8月15日にニクソン米大統領が発表した「新経済政策」、いわゆるニクソン声明によって、世界経済が大混乱に陥った事件のことです。ニクソン声明は、ドル防衛、雇用促進、インフレ抑制などを主要な内容とするものでしたが、その一番のポイントはドル防衛措置としての金とドルとの交換停止でした。

声明は、事前に諸外国に何ら通告なく行われたため、国際金融市場は大混乱に陥り、ヨーロッパ諸国は次々に為替市場を閉鎖、一週間後に再開された為替市場は、暫定フロート(変動相場)あるいは二重相場となりました。その後、いったんは固定相場制に復帰しますが、市場の混乱は収まらず、73年2月にまず日本がフロートに移行し、3月にはEC6カ国が共同フロートに移行します。こうして、戦後30年近く続いた固定相場制の時代は終わり、現在まで続く変動相場制の時代となりました。

声明の中核である金ドル交換停止は、戦後の国際通貨体制であるブレトンウッズ体制の崩壊を意味しました。この国際通貨体制が、ブレトンウッズ体制と呼ばれるのは、アメリカのニューハンプシャー州ブレトンウッズで、この制度作りのための会議がもたれたことによります。そこで活躍したのは、アメリカの代表を務めたH.D.ホワイトとイギリスの代表を務めたJ.M.ケインズでした。理念的なケインズ案と現実的なホワイト案が対立し、ホワイト案に沿った形でシステムが構築されたとされています。

作り出されたブレトンウッズ体制は、①IMFに加わる各国は、国際取引の決済にドルを使う、②各国は自国通貨とドルを固定平価で結び付ける、③アメリカは、ドルと金の交換を保証する、という3点を鍵とするシステムで、アメリカの圧倒的な経済力と金保有高がその支えとなっていました。調整可能な固定相場制(adjustable peg rate system)ともいわれ、ドルを唯一の基軸通貨とすることによって、固定相場制を維持しようとするものでした。

ニクソン・ショック以降、国際通貨制度は管理フロートとフリー・フロートの間を振り子のように行き来してきました。変動相場制の下で、超短期の利得を求めて、投機的資金が世界を駆け巡るなかで、金融市場の不安定性は著しく増大しました。洋の東西を問わず、あるいは先進国・新興工業国・開発途上国を問わず、通貨危機、銀行危機、国家信認危機といった金融危機は繰り返し発生しました。国際金融危機も、82年の中南米金融危機、90年代初頭の北欧金融危機、94~95年のテキーラ危機、97年のアジア通貨金融危機、2008年のリーマン・ショックと、繰り返し世界を襲いました。残念ながら、国際金融をめぐる安定的なルールやメカニズムは今日に至るまで構築されていません。

インタビューを受け、新聞原稿を書くなかで、20年以上前の1999年、半年ほどロンドンに滞在していたことを思い出しました。当時の滞在の目的は二つありました。前年の1998年にイングランド銀行法が改正され、それまでイングランド銀行(BOE)の専権事項であった銀行監督・銀行規制の権限がFSA(Financial Service Authority、金融サービス機構)に移管されました。従来は、金融システム全体の健全性を監督指導するマクロ・プルーデンスと、個別の銀行の健全性を指導・監督するミクロ・プルーデンスの両方ともを、どこの国でも中央銀行が行っていたのですが、これが切り離されたのです。BOEの担当はマクロ・プルーデンスだけになりました。このことをどう考えるか、この分離のイギリスでの1年間の総括を聞きたいというのが、滞在目的の一つでした。日本でも、こうした議論は当時行われており、金融庁が発足します。

もうひとつは、第二次世界大戦後の国際通貨体制の再建にあたって、イギリス国内で、どのような議論があり、イギリス大蔵省やBOEが、本当のところ何を考えていたのかを知りたい、ということでした。理想主義的なケインズ案と現実主義的なホワイト案という捉え方は本当に正しいのか、大西洋憲章からヤルタ会談に至るプロセスと、ブレトンウッズ会議はどのような関係にあったのか、イギリス政府の立場はどうだったのか。こうしたことを、当時のイギリス政府の内部一次資料によって知りたいと考えました。

この二つの目的のために、半年間、ほぼ毎日、BOEに通いました。前者については、担当者へのインタビューを何回か行いました。後者については、BOE地下のアーカイブで、1940年代の多くの内部文書の閲覧を続けました。それまで全く知られていなかったいくつかの事実を発見し、のちに論文や著書にまとめて、向こうの大学の研究会で発表したりしました。

調査は、ほぼ順調に進みましたが、それはロンドン滞在が快適だったためでもありました。住んだのは、ビートルズのアルバム『アビイ・ロード』のジャケットにある横断歩道、この横断歩道の真ん前にあるアビイ・ハウスという高層アパートでした。ジャケットは、4人が横断歩道を縦一列に歩いており、ポール・マッカートニーは裸足です。このアパートの隣がアビイ・スタジオで、ジャケットに映っているワーゲンの奥に見える低い塀のところです。

このアパートに住んだのは、まったくの偶然で、リージェンツ・パーク近くの不動産屋で物件を探し、何件か紹介を受けたなかで、たまたま条件に合ったのが、このアビイ・ハウスだったためです。ロンドンから南100マイルに住んでいる大家さんと家賃の値下げ交渉をして入居しました。入居後に、ここがあの横断歩道だと知り、滞在中、ビートルズのアルバムを時々聞いていました。

最寄り駅は、地下鉄のセント・ジョンズウッド駅で、毎日、地下鉄かバスを乗り継いで、バンク駅のBOEに通いました。朝9:30過ぎに入り、16:30に退出するのが日課でした。滞在が3月~9月という季節だったので、夏になると夜22:30頃まで明るく、BOE近くにあるセント・ポール寺院で毎週木曜日夕刻に開催されるオルガン・コンサートを聞いたり、BBCプロムス(夏に8週間続けて開催される一連のクラシック・コンサート)のシーズンチケットを購入して、ロイヤル・アルバート・ホールに通ったりしました。野菜や肉・魚がもう少しおいしければ、ずっと住んでもいいな、と思ったくらいでした。なつかしい思い出です。

学長  伊藤 正直

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