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【学長通信】会社の原点あるいは前史 江戸時代の商家経営

学長通信

前回の「学長通信」で、日本の会社の誕生は明治初年のことと書きました。幕末の洋行者によって「会社」というものが紹介され、それを解説する冊子が大蔵省から刊行され、以後、西洋近代と同様の「会社」が設立されていったのでした。しかし、それ以前の日本には、ここでいう「会社」と似たような機能を持ち、同じような業務を行う組織は全く存在しなかったのでしょうか。実は、明治以前にも似た組織はありました。

江戸時代の商家における「イエ組織」がそうした機能を持っていました(高橋伸夫他『170keywordによる ものづくり経営講義』日経BP社、2005年)。徳川家康が、江戸に幕府を開いて以来、農村における経済発展に支えられて、各藩の城下町形成が急速に進み、さらに参勤交代制度により、江戸、京都、大坂という三都間の交易が盛んに行われるようになりました。江戸初期には、中世以来の問丸、座商人、朱印船貿易家などの系譜をひく商人が多く存在し、商品取引、倉庫業、年貢請負、金貸等を担っていました。今日の研究では、彼らは「初期豪商」とか「初期特権商人」と呼ばれています。

その後、鎖国による海外貿易の縮小、商品取引の安定による投機機会の減少、身分秩序の定着等により彼らは没落・衰退し、17世紀後半になると、両替、廻船、米、綿糸布、油、材木、酒、鉱工、農産加工などをそれぞれ専門的に扱う卸売問屋が、商品ごとに数多く誕生し、なかでも巨額の富を蓄積したものは「豪商」と呼ばれるようになりました。これらの「豪商」の組織形態が「イエ組織」だったのです。厳格な家訓が存在し、構成員はそれを守ることが求められました。ピラミッド型の厳格な組織内身分制度を持ち、丁稚(でっち)-手代(てだい)-番頭へと昇格し、時に分家や別家を立てることが許されました。

「豪商」の代表的事例として、酒造業を起点とする鴻池家、呉服商により急成長を遂げた越後屋三井家、鉱山経営により発展した泉屋住友家などがあります。以下、宮本又郎「日本型企業経営の起源」(宮本他『日本経営史』有斐閣、1995年)などに依りながら、「イエ組織」がどのようなものであったかをみることにします。

鴻池家の起点は、1600年前後の摂津鴻池村での酒造にありましたが、1619年、鴻池善右衛門が大坂内久宝寺町へ出て、廻漕、商業、金融へと事業を広げ、17世紀半ばには、両替商を開業して一挙に「豪商」への道を歩み始めました。鴻池の両替業は、もともとは江戸での酒の販売代金を大坂に送る必要から生じたものでしたが、これと多くの藩の江戸送金の必要性(大坂での年貢米=蔵米の販売代金を江戸藩邸に送る必要性)を組み合わせ、現金を使わず為替相殺する「御屋敷為替」を取り入れたことが、鴻池の急速な成長をもたらしました。さらに、多くの藩とこの関係を持ったことで各藩への「大名貸」という貸付が可能となり、鴻池を「天下の台所」大坂での第一級の両替商へと押し上げたのでした。

三井家の起点は、伊勢松坂での質屋、酒・味噌商にありましたが、1673年に江戸に出た三井高利は、江戸本町に越後屋と称する呉服店を開業します。「現銀掛値なし」といった店頭商法、反物の切売り・仕立ての実施、「一人一色」という専任手代制といった当時の江戸呉服商の商習慣を破る新機軸により、越後屋は開業十数年で三都にまたがる大商人となりました。こうして得た資金を元手に、三井は、1686年までに、江戸、京都に両替店を開き、さらに大坂にも出店し、上方-江戸間の為替業務に乗り出します。とくに、幕府公金の送金業務を請け負ったことが大きく、越後屋江戸店での販売代金を江戸御金蔵におさめ、代わりに大坂御金蔵からお金を受け取って呉服仕入れにあてるという「御金蔵為替」の仕組みで大きな利益を挙げるようになりました。鴻池と同様の仕組みを幕府を相手に作り上げたことが、鴻池以上の発展を三井にもたらしたのでした。

住友家の起点は、住友政友による京都での薬屋と書籍商の経営、その義兄蘇我理右衛門による銅吹き業にありましたが、その発展は幕府の貿易政策と密接に関係していました。17世紀半ばには、銅は輸出品の7割ほどを占め、その品質維持に幕府は意を砕き、住友は大坂銅精錬業における特別の地位を確保します。そして、1660年代頃から鉱山経営に進出し、まず、阿仁・尾去沢・幸中など東北地方の鉱山、次いで1680年には岡山の吉岡銅山、1691年には海を挟んだ別子銅山で開坑し、急ピッチでその開発を進めました。開坑後、7年で産銅量は250万斤(1,500t)、当時の日本の産銅高の四分の一に達したとされています(住友グループ広報委員会Webページによる、https://www.sumitomo.gr.jp/history/)。この資金を基礎に、1662年には大坂に、文化期には江戸にも両替店を開業し、田安・清水・一橋家の蔵元となります。鉱山と金融の結びつきが住友の発展の基盤となったのでした。

では、江戸中期に確立したこれらの「豪商」、都市大商家の経営組織はどのようなもので、その経営管理システムはどうなっていたのでしょうか。鴻池にしろ、三井にしろ、住友にしろ、出発点はいずれも個人企業、個人事業主でした。しかし、事業の多角化、多業種化、規模の拡大と多店舗化、商域の地理的拡大が進むにつれ、個人がすべてを統括するのは不可能になります。こうして登場するのが、同族的結合です。例えば、三井の場合、1710年に設置された「大元方」は、三井9家の全財産を一括所有し、各家は、それぞれ営業店の経営を担当するとともに、「大元方」において平等の発言権を有し、評議に参加することとなっていました。「イエ」の家産を共同で管理するというシステムです。鴻池でも、1723年の家訓をみると、当主の経営上の権限が強く制限され、当主は「イエ」事業の一機関とされていました。

では、この経営組織の下での、人事・労務管理はどのように行われていたでしょうか。いずれも奉公人制度をとっており、10代前半から丁稚奉公を始め、17~18歳で元服して手代となり、手代の年季奉公を終えると番頭となり、さらに、暖簾分けとして「別家」を立てることもありました。三井の場合、別家に取り立てられたものは、10%以下であったそうです(安岡重明『財閥形成史の研究』ミネルヴァ書房、1970年)。財務管理システムとしては、鴻池の「算用帳」、三井の「大元方勘定目録」などが知られており、会社の貸借対照表、損益計算書、収支計算書に近い部分もありますが、資産負債の管理が部分的であったり、損益の期間計算が曖昧であったり、なお、近代簿記とは断絶があったといわれています。

明治期に誕生した「会社」に、これらの商家経営のどの部分が引き継がれたのか、どの部分が断絶していたのかを、現在の企業システムの大転換期に際して、改めて考えてみてもよいのではないでしょうか。

学長  伊藤 正直