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【学長通信】科学、科学者、科学論

学長通信

20年以上前になりますが、「科学論は科学の敵なのか?」という大学院生向けの一泊二日のセミナーを企画・開催したことがあります。当時、八王子の大学セミナーハウスに大学共同セミナー委員会という組織があり、僕は、当時、この委員会の委員長をしていました。この委員会では、大学生向け、大学院生向けの宿泊を伴う人文、社会、自然各領域のセミナーを毎年数回企画・開催しており、この企画もその一環でした。セミナーが行われたのは2002年1月のことでしたが、直接のきっかけは、その数年前に、同じ委員会の委員であった長谷川眞理子さんと、例のソーカル事件とそこから派生したサイエンスウォーズについて雑談をしたことにありました。

例のソーカル事件といっても、現在では、専門領域の人以外はほとんど知らない、あるいは忘れ去られているのではないかと思います。ニューヨーク大学の理論物理学者アラン・ソーカルが、1996年4月、アメリカのポストモダン系の著名な雑誌“Social Text”に、‘Transgressing the Boundaries : Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity’(「境界を侵犯すること-量子重力の変形解釈学に向けて」)という「論文」を投稿し、同誌編集委員5人の査読を経て、同誌の特集号に掲載されました。その内容は、それまでフランスやアメリカのポストモダン系の学者たちが書いてきた文章の一部を寄せ集め、切り貼りしたうえで、文章の間を極端な論理の飛躍をもってつないで、結論としては重力定数も電子の電荷も社会的構築物にすぎないと主張するものでした。

ソーカルは、この「論文」掲載3週間後の5月、別の雑誌“Lingua Franca”に、この「論文」は、科学的内容としては全くインチキで、科学的概念を誤用・濫用したパロディであると暴露します。批判の俎上(そじょう)に挙げられたのが、ジャック・ラカン、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、リュス・イリガライ、ブルーノ・ラトゥールといったポストモダン・フランス現代思想の大家たちであったこともあって、この暴露は、“Social Text”という雑誌および査読委員の学問的権威を失墜させ、そこで主張されている科学相対主義、社会構成主義、科学非実在論などをめぐって国際的に賛否両論の嵐を巻き起こしました。これがいわゆるソーカル事件です。

ソーカルは、この暴露後、ジャン・ブリクモンとともに、その後の国際的論争に答えた著作を、1997年にまずフランスで”知的詐欺Impostures Intellectuelles“として出版し、翌98年に英語版、米語版を、99年にはオランダ語、ドイツ語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語版も出版し、2000年には、日本でも翻訳が出版されました(アラン・ソーカル/ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用』岩波書店、2000年)。

この本のなかで、ソーカルは、パロディ論文の意図を次のように述べています。「われわれの目標は、この分野では数学や物理学の概念や用語の濫用(らんよう)がくりかえされているというあまり知られていない事実に多くの人の目を向ける事」であり、「さらに、ポストモダンの著作にしばしば見られる、自然科学の内容または自然科学の哲学に関連したある種の思考の混乱についても議論」することである。「一部の著名な知識人が、実際には一般向けの概説書で仕入れた程度の知識しか持ち合わせていないのに、難しいテーマについて深遠な思想を展開しているかのようにみせかけていること」を証明し、彼らが「誤った論理を使っているというだけでなく、さも関係ありそうに科学の言葉を羅列するという一書の詐欺を働いてさえいる」ことを知らしめることである。つまり、「王様は裸だ」と知らせたいというのでした。

このソーカル事件を、日本の科学者とくに自然科学者がどのように受け止めているのかを知りたいというのが、当時のこの企画を提案した僕の思いでした。長谷川さんは企画のアレンジを快諾され、こうして村上陽一郎、長谷川眞理子、三中信宏の3氏を講師に迎え、セミナーがもたれることになりました。もっとも、長谷川さんの関心は、ラカンやドゥルーズに対する批判より、科学哲学や科学論の領域での、科学相対主義、社会構築主義、科学非実在論に対して、きちんとした批判を行う必要がある、重要なのはラトゥール批判だ、というものでした(セミナーでの講師の報告および参加者の感想については、『生物科学』第55巻第1号、2003年10月に掲載されていますので、興味のある向きは国会図書館などで閲覧してください)。

実際のセミナーでは、講演は、「科学論と科学の対立」というよりは、科学の専門家と非専門家の関係(村上報告)、科学や技術が社会と接する場面の在り方(三中報告)といった科学技術社会論(STS、Science,Technology,Society)の領域に重点を置いたものとなりました。参加者たちの多くも「サイエンスウォーズは今さら議論するようなものでなく、市民として、教育者として、科学者として、常日頃感じている問題点を解決する手段としてSTSが使えないか、に興味の重心があった」ため、当日の議論は、科学と技術と社会のインターフェイスに関わる領域での具体的かつ実践的な問題を取り上げたものとなりました。

ここで議論となったSTSは、その後の20年で大きく前進しました。21世紀に入って科学技術によって生じているさまざまな問題-地球温暖化、廃棄物による土壌汚染、人工物環境の拡大に伴う地球環境問題の深刻化、情報技術や生命技術の発展に伴う社会的価値観の転換、東日本大震災と福島原発事故への対応、世界的なコロナ禍の蔓延(まんえん)による医学的対応と政策的対応の乖離(かいり)等-が顕在化し、これらの問題をどう把握しどう対応すべきかについて多くの議論と提言がなされました。制度的・組織的な対応も提起されました。この20年の推移については、2001年に発足した科学技術社会論学会のウェブ(jssts.jp)や『科学技術社会論の挑戦』全3巻(東京大学出版会、2020年)などで知ることができます。

長谷川さんの関心事、ラトゥール批判の方はどうだったでしょうか。科学相対主義や社会構築主義をどう見るかという問題は、科学方法論、科学認識に関わる問題、科学哲学の問題です。科学哲学の20世紀までの主戦場は物理学でした。21世紀に入っても物理学は大きく進展しましたが、生物学・医学・生命科学、環境問題などの領域での研究の進展も著しく、そこでの研究方法や概念構成は物理学のそれとは一致しない部分があるということもわかってきました。また、従来、科学技術と括られてきた内容についても、科学の論理と技術の論理とをきちんと区分すべきということも強く主張されるようになりました。ただ、この領域での議論は、決着がついておらず、論争が続いているのが現状のようです。とはいえ、科学で用いられる概念、手法、推論などについての共通了解は、STSの進展にとっても不可欠のはずです。科学論、科学方法論の領域での研究の進展も期待したいと思います。

学長  伊藤 正直