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【学長通信】「ものづくり」とデザインと

学長通信

現在、私たちの身の回りは、モノやコトや情報にあふれています。そして、そのほとんどは商品として提供されます。それは、私たちが市場経済の下で生活しているからです。では、私たちはこれらの商品をどんな基準で選んでいるのでしょう。「必要だったから」「気に入ったから」「あれば便利だから」「気分転換に」等々。選択し、購入する理由は様々ですが、同じような機能・タイプの場合、選択の基準は、「使い勝手がいい」「格好いい」「美しい」「心地よい」「流行っている」「安価である」(逆に「高価である」)などになっているのではないでしょうか。

近代以前の社会では、生活の一定範囲が自給であったため、使用するモノの多くは「作る-使う」というサイクルでした。しかし、近代工業社会になると、このサイクルは「作る-売る=買う-使う」に転換しました。19世紀後半以降、機械による生活財の大量生産が定着していくなかで、このサイクルをいかに安定的に回していくかの一環として生まれたのが、インダストリアルデザインでした。

近代工業が提供する工業製品に対する批判は当初から存在しました。例えば、イギリスのウィリアム・モリスは、生活と芸術の一致という観点から、工場での大量商品生産を強く批判し、労働の喜びと手仕事の楽しさを強調して、アーツ・アンド・クラフツ運動を展開しました。少し後の時期になりますが、日本でも、柳宗悦が「用の美」「健康の美」を強調し、工業製品を批判して手仕事の重要性を訴え、バーナード・リーチや濱田庄司とともに民芸運動を興しました。しかし、他方で、こうした近代工業による機械生産とその展開を肯定的に受け止め、そこにアーティストや建築家や技術者の新しい役割を見出そうという動きも起こってきます。この動きはまずヨーロッパで、次いでアメリカで組織化されます。

20世紀初頭1907年に設立されたドイツ工作連盟は、「良い製品を万人が享受できる社会の実現を目指し、産業を支える経済基盤と、工業化時代を生きるデザイナーの協調、共同責任を提唱」し、「規格化、標準化に則った質の高い製品の量産化、すなわち合理的なモノづくりのあり方」を根源的に問い直す活動を展開します。この活動のなかから生まれた「バウハウス」は、審美的な観点から、機械で生産されたものに新しい形を与えていくこと、それを担うデザイナーの育成、住宅を含めた実験的な工業製品の試作を行い、労働者階級の生活文化を作る学校となります(JIDA編『プロダクトデザイン[改訂版]』ビー・エヌ・エヌ、2021年)。

アメリカでは、1920年代から30年代にかけて、「工業的に生産される商品にかたちを与えるデザイン領域」が自立していきます。フォードやGMでの自動車の大量生産、ベル社による電話機、あるいは月賦販売の普及がそれを促進します。そして、1938年には職能団体としてのIDSA(アメリカ・インダストリアル・デザイナー協会)が結成されます。「インダストリアルデザインとは、専門職能により行われるサービスです。それは、使い手と作り手の相互利益の観点から、製品やシステムの機能、外観を最大限にいかしたコンセプトや設計明細を創造し開発することです」という宣言がなされるのです(青木史郎『インダストリアルデザイン講義』東京大学出版会、2014年)。

アメリカで、この中心的な担い手であったヘンリー・ドレフェスは、インダストリアルデザインのための基準として、以下の5項目を挙げています。「1効用と安全性、2維持、3コスト、4セールスアピール、5外観」。ここでは、商品の提供者と使用者の双方に共通する利益をもたらすことがインダストリアルデザインの目的であることが明示されています。青木史郎は、これを受けて、「インダストリアルデザイナーとは、単なる造形家ではなく、人間とその生活、技術、市場、そして企業経営についての知識と理解を前提に、最適解を実現できる人材」(青木同上書、33頁)と定義しています。

日本にインダストリアルデザインという考え方が広がってきたのは、第二次大戦後1950年代半ば以降のことでした。高度経済成長が産業構造の高度化をともなって始まったことがそのきっかけとなりました。技術導入・技術革新に対応した製品化技術・品質管理技術、ユーザーの要求に応える商品化技術、それを市場に埋め込む販売技術などが、インダストリアルデザインという概念に集約される形で展開されていきます。こうして新しい商品が次々に市場に送り出されます。デザインによって成功した初めての工業製品とされる東芝電気釜が発売されたのは1955年のことでしたし、ソニーのトランジスタラジオTR-610、ホンダのスーパーカブC100の登場は1958年、芸大出身者たちの作ったGKデザイン研究所のデザインによるキッコーマンの卓上醤油瓶は1961年のことでした。

もともと、明治初年にdesign の訳語にあてられたのは、「設計」と「図案・意匠」でした。工学技術系の概念としてのデザインと、美学芸術系の概念としてのデザインの両者が、当初から併存していたのです。戦後日本のインダストリアルデザインもこの両者が混在する形で進行しました。企画-開発-製造-販売という商品開発のプロセスを供給側からみれば、インダストリアルデザインは、プロダクトデザインと呼ばれることになるでしょうし、需要側からみれば、ライフデザインと呼ぶことができるかもしれません。戦後日本のインダストリアルデザインの牽引者となった榮久庵憲治がGKデザイン研究所のリーダーであったことは、日本のインダストリアルデザインの特徴を象徴しています。

その後、インダストリアルデザインは、多くの領域で深化を遂げていきます。その深化は、デザインそのものの領域、デザインプロセス、デザイン評価、デザインマネジメントでの深化にとどまらず、マーケティング、社会調査、科学技術等との関連を意識して進行しました。ただ、そこでの深化は基本的には「魅力ある商品を生み出す」ことを基本とするものでした。

世界的な高度成長の終焉とともに、こうした見方への批判が登場しました。「多くの職業のうちには、インダストリアルデザインよりも有害になるものはあるが、その数は非常に少ない」として、インダストリアルデザインの商業主義を痛烈に批判したのでした。ヴィクター・パパネック『生きのびるためのデザイン』(晶文社、1974年)がそれで、社会的弱者や第三世界のためにこそ、インダストリアルデザインは働くべきだと主張したのです。今日、インダストリアルデザインは、こうした批判を包摂した新しい展開へと歩みを進めているようにも見えます。私たちも、賢いユーザーになるだけでなく、賢い市民になることが要請されています。

学長  伊藤 正直