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【学長通信】会計・帳簿・簿記

学長通信

家計簿は、家庭におけるお金の出入りを記録し管理するものですが、お金の出入りをきちんと把握することが必要なのは、家計に限りません。企業も政府も同様です。というか、そもそも国家が形成されると、住民の管理に始まり、税の調達と運用、家畜や穀物、鉱物の管理・保管など、それぞれの管理と記録が必要になります。商業や貿易に従事する人々が登場しその組織ができれば、商品・資金の管理と記録が必要になります。このように経済活動は、そのほぼすべてに、モノやサービスの出入り、それに伴うお金の出入りがあります。それを記録し管理する行為を会計(accounting)といい、記録し管理する台帳が帳簿(account book)であり、記録し管理する手法が簿記(bookkeeping)です。

会計を辞書で引くと、「①金銭・物品の出納の記録・計算・管理。また、その担当者。②企業の財政状態と経営成績を取引記録に基づいて明らかにし、その結果を報告する一連の手続き、また、その技術や制度。企業会計。③官庁組織の単年度の収支を予算との対比で把握する予算・決算。また、その技術・制度・単位。官庁会計。④飲食店などで代金を勘定して支払うこと」と出てきます。帳簿・簿記については、「帳簿 事務上の必要事項を記入するための帳面」、「簿記 特定の経済主体の経済活動を主として貨幣金額によって捉え、その主体が所有・管理する財産の変動を帳簿に記録・計算する技法。記帳方法により単式と複式に分かれる」と出てきます。では、会計という考え方、帳簿という記録手段、簿記という記録方法は、人類の歴史のなかで、いつ頃登場したのでしょう。

古代エジプトではパピルスが、メソポタミアでは粘土板が、古代中国では獣骨や竹簡・木簡が、帳簿として使われていました。例えば、メソポタミアでは「契約、倉庫、取引の記録が作成されており、パン屋の在庫台帳などが残っている」とのことです(ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』文春文庫、2018年、原著刊行年は2014年)。日本では、7世紀以降の律令制時代に定められた租庸調の税制に基づいて、租については正税帳という決算報告書、庸調については調庸帳という納税報告書が作られていました(丸山裕美子『正倉院文書の世界』中公新書、2010年)。かなり古くから帳簿が存在していたことがわかります。

帳簿への記帳は、いずれも今の言葉でいえば単式簿記の方法でなされていました。現在では、「古代メソポタミア、イスラエル、エジプト、中国、ギリシャ、ローマで単式簿記が実践されていた」ことがわかっているそうです(ジェイコブ・ソール、同上)。単式簿記とは、現金などの科目をその出入りに従って、そのまま記録していく方法のことです。家計簿や小遣い帳などがその代表です。しかし、現在、ほぼすべての企業の会計は、複式簿記の手法によって行われています。そして、これに基づいて、期末に貸借対照表(BS)と損益計算書(PL)を作成し、決算の時点で、どの程度の資産と負債があるのか(BS)、期間中にどのくらい利益を上げ、それにどのくらいの費用を要したのか(PL)を公表します。資金の収支だけでなく、全体としての財産の状態と損益の状態とを把握することが必要だからです。

単式簿記では、これがわかりません。例えば、50万円で海外旅行をした場合と、中古軽自動車を購入した場合では、前者では物的には何も残りません(精神的な満足や知的充足などは別にして)が、後者では自動車という物的資産が残ります。資金収支に対応する資産負債の状態を把握するためには、複式簿記が絶対に必要なのです。では、複式簿記という手法が開発されたのはいつごろでしょうか、単式簿記から複式簿記への移行はいつごろ行われたのでしょうか。

これについては諸説ありますが、最近の研究では、13世紀末から14世紀初頭のイタリアの都市国家、フィレンツェ、ヴェネツィア、ジェノバなどでの商人たちの貿易活動にその起源を求めることが通説です。イタリア商人たちが組成した共同組合が、13世紀には、貿易商・両替商・銀行を組織したコンパーニアに発展し、コンパーニアのメンバー間で利益の計算と分配をするための損益計算が求められます。さらに、14世紀にはヨーロッパ全域にこのコンパーニアが多拠点化することで、本支店の財務的な統括、支店ごとの損益と全体の損益、決算時点における資産と負債の状況を求められるようになります。こうして取引の全体と決算時点における財産の状態を一括して把握する手法が広く要請されるようになりました。いわゆる複式簿記の誕生です(橋本寿哉2015年、片岡泰彦2018年)。

この複式簿記を最初に理論化したのは、数学者ルカ・パチョーリの『算術、幾何、比及び比例全書』(略称、『スムマ』、1494年刊行)でした。『スムマ』には、「資産と負債を常に把握するための方法が説明されて」おり、「商人は会計の第一歩として資産の棚卸しを行い、財産目録を作成しなければならない。家屋敷、土地から、宝石類、現金、家具、銀器、リネン類、毛皮類から香辛料その他の商品にいたるまで、すべて書き出す。これが財産目録である。あとは、支出と収入を毎日帳簿につけていけばよい。帳簿は財産目録のほかに、日記帳、仕訳帳、そして元帳が必要となる」というのです。『スムマ』の簿記論の部分には「帳簿の構成から各種会計、決算というふうに簿記の基本的手順が説明されて」います(ジェイコブ・ソール、同上)。

しかし、残念ながら、この時点では、パチョーリの『スムマ』は普及することはありませんでした。『スムマ』が日の目を見たのは16世紀のオランダで、アントワープ、次いでアムステルダムが世界貿易の中心地となってからのことでした。複式簿記を教える会計学校がアムステルダムに相次いで設立され、『スムマ』をもとにしたオランダ語の『新しい手引』が出版され、この「手引き」がフランス語、英語にも翻訳されて、フランス、イギリス、ドイツでも広く読まれるようになりました。

その後、18世紀の産業革命によって、多くの企業が誕生し、株式会社が大規模化するなかで、株主も大人数となり、株主に、資産負債の現状と利益と費用の状況を説明することが要求されるようになります。こうして貸借対照表(BS)と損益計算書(PL)が作成されるようになりました。もっとも初期のBSとPLはイングランド銀行、イギリス東インド会社のものといわれています。

複式簿記の発生史は、投資家や株主からみると会計の透明性を求めるプロセスであり、起業家、経営者の側からみると、経営戦略を立て、経営組織のあり方を検討する手段であったことがわかります。現在でも、粉飾決算、帳簿の書き換えなどが、しばしば話題となります。複式簿記を理解することは、そうした問題を見抜くための第一歩でもあります。

学長  伊藤 正直