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【学長通信】科学と社会

学長通信

科学という言葉が、わが国で初めて使われたのは明治に入ってからのことでした。1874(明治7)年の『明六雑誌』での西周の論文が初出のようです。開国に伴い、近代西欧文明が滔々(とうとう)と流れ込んでくるなかで、それまでの日本にはなかったさまざまの概念語が作られました。そこで、scienceの訳語として考案されたのが「科学」で、「主観」「客観」、「帰納」「演繹(えんえき)」、「理性」「感性」なども西周の考案とされています。そういえば、大河ドラマで放映中の渋沢栄一も、bankの訳語として「銀行」を考案したと自ら回顧録で述べています。

なぜ、西周が、scienceに「科学」という訳語を当てたかというと、当時日本に流入してきた19世紀後半の西欧scienceが、物理学・化学・生物学・博物学・地質学といったさまざまな分野に専門分化した学問領域となっており、これらを総称してさまざまな「科」からなる「学」問ということで、「科学」としたとのことです(古川安『科学の社会史』ちくま学芸文庫、2018)。専門分化した学問領域の導入に際して、明治政府は、それを担う諸制度、すなわち、学校、学会、資格試験、試験研究機関などの諸制度も併せて導入しました。すでに、西欧自然科学が制度化されていたためです。

19世紀の西欧における自然科学は、それ以前の西欧自然科学と比べて際立った特徴がありました。ルネサンス期以降の自然科学が、実証主義・経験主義に立脚しながら、神の摂理を自然を対象として解明する自然哲学(natural philosophy)として展開されてきたのに対し、市民革命と産業革命を経るなかでの19世紀の自然科学は、制度化・職業化・専門分化・技術化が進み、神学や哲学から離れ、独立した領域となったのでした。OED(オックスフォード英語辞典)に科学者=scientistという用語が登場したのも1840年のことで、現在も世界で最も権威ある学術誌とされている『Nature』が創刊されたのは、それから29年後の1869年のことでした。創刊号の表紙には、副題として A WEEKLY ILLUSTRATED JOURNAL OF SCIENCE とあります。

渋沢栄一は、将軍・徳川慶喜の弟・徳川昭武に随員として1867年パリに赴任し、ナポレオン三世の招待でパリ万国博覧会を観参します。1851年のロンドン大博覧会で水晶宮を建築し、自国科学の先進性を誇った英国は、16年後のパリ万博では、出品90品目のうち、受賞はわずか10品目という惨憺(さんたん)たる結果に終わり、このことが、英国政府による科学への直接介入、科学研究のパトロンとしての国家の登場を促したといわれています。

20世紀に入ると、国家の役割は一層大きくなります。そのきっかけとなったのは2度の大戦でした。第一次世界大戦は「化学者の戦争」といわれ、第二次世界大戦は「物理学者の戦争」といわれました。第一次大戦で実戦に使用された毒ガスは約30種、研究対象として取り上げられたのは3,000種以上に上り、ガスによる兵士の死傷者は約53万人、非戦闘員を含めると100万人近いと推定されています。この化学戦のために動員された研究者の概数は、独2,000人、米1,900人、英1,500人、仏100人、4カ国併せて5,500人に上るといわれるそうです(古川、同上書)。

第二次大戦における原爆の開発については、すでに多くの事柄が語られています。1943年ニュー・メキシコ州の砂漠の中の町ロスアラモスに「マンハッタン計画」の名のもとに作られた研究所は、終戦までの間に、総額20億ドルの資金と科学技術者12万人を投入し、産官学を巻き込んだ未曽有の国家プロジェクトとなり、3発の原爆を製造することになります。そして、この原爆は、広島、長崎に投下され、日本を無条件降伏に導きます。

原爆がもたらした悲惨を知ったマンハッタン計画の責任者オッペンハイマーは、戦後まもなくMITで開催された講演会で核兵器の国際的管理を訴え、水爆の開発計画に反対しましたが、機密漏洩の疑いにより公職を追放されました。1954年には、ラッセル=アインシュタイン宣言が出され、核軍縮と平和を訴えるバグウォシュ会議へと発展しました。1962年には、湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一提唱で科学者京都会議が開かれ、核廃絶と平和を訴えました。こうして、第二次大戦後、科学者の社会的責任という問題が初めて登場することになります。

戦後登場した科学者の社会的責任を考えるとき、念頭に浮かぶのは、廣重徹『戦後日本の科学運動』(中央公論社、1960)や柴谷篤弘『私にとって科学とは何か』(朝日選書、1982)です。そこで問題となっているのは、多くは「科学の体制化」であり、学問対象も主に物理学でした。しかし、現在では、対象となる領域は、温暖化や大気汚染などの環境問題に始まり、生命工学、食品安全、薬害、自然災害や産業災害など著しい広がりを見せています。科学研究の対象も、かつてのような要素還元的方法、因果連関の束を解明する方法で解明が十分可能であった段階から、不確定性や確率分布や関係性などの「複雑系」とも称される領域へと広がりつつあります。科学と技術の関係、科学と工学の関係が変化しているだけでなく、社会科学や人文科学との関係も従来とは異なったものとなっています。

今日では、科学者の社会的責任は以下の3つの相からとらえる必要があるとされています(藤垣裕子「科学者の社会的責任の現代的課題」『日本物理学会誌』65-3号、2010)。それは、①科学者共同体内部を律する責任(responsible-conduct)、②知的生産物に対する責任(responsible-products)、③市民からの問いへの応答責任(response-ability)の3つです。①は、研究不正の問題がしばしば語られますが、それにとどまらず、より広い研究の自律性と公共性への自覚の問題です。②は、作ろうとするもの、作ってしまったものの社会に対する影響についての責任です。先の原爆がその代表例です。

難しいのは③です。「その研究の意味は?」から始まり、「何の役に立つのか?」、「科学的根拠は?」、「判断基準は?」、「危険性は?」、「以前と逆の結果が出ているが?」、「経済的効果は?」、「経済的コストは?」とか、あらゆる質問が、外部から寄せられます。これらの質問は、一面では、科学に対する大きな期待から、他面では、科学に対する不十分な知識から発せられます。科学の側も、科学的不確かさが残る形で研究と研究成果が進展するという領域が増えています。科学の側が、応答責任をできる限り果たすようなシステムを作ること、科学の側にある不確定性を科学外部ができる限り理解できるようなコミュニケーションを拡張していくことが求められているといえます。

学長  伊藤 正直