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【学長通信】認知的バイアスと客観的・合理的判断

学長通信

「今日は何を着ていこうか」「何時の電車ででかけようか」「お昼は何を食べようか」「仕事が終わったらまっすぐ家に帰ろうか、それともどこかに寄っていこうか」。私たちは、日々絶え間なく、判断し、選択し、行動を決定しています。では、人は、日々のこうした判断と意思決定をどのようにして行っているのでしょうか。この問題を、直感的思考バイアスという視点から検討したのが、認知心理学者のダニエル・カーネマンでした(ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』上、下、ハヤカワノンフィクション文庫、2014年、原著刊行年は2011年)。

カーネマンは、人間の思考には、専門知識、知覚、記憶に基づき、論理的思考抜きに直感的解決を志向する「速い思考」と、より時間をかけて熟慮熟考による解決を志向する「遅い思考」の二つの思考システムがあるというそれまでの心理学の研究に基づき、多くの選択や判断の背後にあるのは、直感的思考である「速い思考」であると主張しました。同じ心理学者であるエイモス・トヴェルスキーと共同研究を続け、「人間の直感はうまく統計を扱えるか」というテーマの共同研究から、専門研究者の直感的思考のバイアスを検出し、1974年に「不確実な状況下での判断-ヒューリスティクスとバイアス」という論文を国際科学学術誌「サイエンス」に発表します。ヒューリスティクスとは、「確率の評価や価値の見積もりといった複雑な作業を単純な判断作業に置き換えるのもので、多くの場合に極めて有用であるが、ときに深刻な系統的エラーにつながることがある」として、このエラーの検討を行ったものでした。

続いて、両者の検討は、この判断に関する研究から、不確実な状況下での意思決定に関する研究に進みます。具体的には、「単純なギャンブルで人間はどのように意思決定するのかを研究し」、「たくさんの選択問題を作り、直感的な選択が論理的な選択に一致するかを確かめ」、「意思決定には系統的なバイアスが働くこと」を発見します。そして、1979年「プロスペクト理論-リスク下における意思決定の分析」という論文を、著名な経済学術誌「エコノメトリカ」に発表します。心理学者であるカーネマンとトヴェルスキーが、心理学関係の学術誌ではなく、経済学術誌に投稿した理由は、カーネマンによれば、「意思決定に関するすぐれた論文を過去に多数掲載してきたので、私たちも仲間入りしたかっただけである」とのこと。とはいえ、この論文は「経済理論においては、経済主体は合理的かつ利己的で、その選好は変わらない」という合理的経済主体モデルに真っ向から挑戦するものであったため大きな反響を呼び、社会科学の分野で引用頻度が最も高いもののひとつになりました。「行動経済学」の誕生です。

以前にも、少し触れましたが(『学長通信』2022年9月)、カーネマンたちの研究は、従来の経済学が想定しなかった人間の多様な行動を理論化して提示したものでした。これらの業績が評価され、心理学者であるカーネマンは2002年ノーベル経済学賞を受賞します。授賞の理由は「ダニエル・カーネマンは心理学からの洞察を経済学に統合し、それにより新しい研究領域の礎を築いた。カーネマンの主要な業績は不確実性下の意思決定に関するもので、人間の意思決定が標準的な経済理論によって予測されるものから系統的に逸脱する可能性があることを示してきた」ことによるものとされています。言いかえると、経済学の既存体系をパラダイム・シフトする、あるいはそれを拡張する可能性を含むと判断されたのでした。

登場した「行動経済学」は、この「系統的に逸脱する可能性」をさまざまな形で提示しました。『ファスト&スロー』でも、ハロー効果(後光効果)、プライミング(先行刺激)、アンカリング(基点としての最初の数字)、認知的不協和(矛盾の正当化)、現在志向バイアス(目先の利益優先)などを事例として挙げていますが、もっとも強いインパクトを与えたのは、プロスペクト理論(損失回避性)でした。

『ファスト&スロー』では、プロスペクト理論の特徴について、従来の経済学の効用理論と比較しながら次の3点を挙げています。特徴の第1は、評価が、中立の参照点を基準に行われることです。多くの選択例は、カーネマンが述べているようにギャンブルを対象に作られ、そこでの参照点は「現状すなわち手持ちの財産」でした。この参照点を上回れば利得、下回ると損失となります。特徴の第2は、感応度逓減性です。変化を評価するということで、例えば、100ドルが200ドルに増えればありがたみは大きいが、900ドルが1000ドルに増えてもそこまでありがたみは感じないということです。特徴の第3は、損失回避性です。損失と利得を直接比較した場合でも、確率で重みをつけた場合でも、損失は利得よりも強く感じられるというのです。こうして、プロスペクト理論では、横軸に金額、縦軸に心理的価値という価値関数のグラフを描き、それがS字型となること、その傾きが左右非対称で、左側(損失)の傾きの方が右側(利得)の傾きより大きいことを示し、これがプロスペクト理論の核であるとしたのでした。

こうした「行動経済学」の提起は、政府や企業の意思決定の問題にも参照されるようになり、金融・保険などの金融商品の開発、経済的インセンティブに依らない形での意思決定に導く政策などにも適用されるようになりました。しかし、他方、プロスペクト理論の損失回避性は、追実験による再現性が確認できないという批判、あるいは、保険会社のデータをベースにしたダン・アリエリーらの共著論文(2012)にはデータの改竄(かいざん)があるという指摘などが相次ぎ、行動経済学の理論的信頼性の一部に懸念がもたれるような状況も生まれています。この問題の現在、とくにプロスペクト理論の現在については、川越敏司『行動経済学の真実』(集英社新書、2024年)が、丁寧な検討・解説を加えています。行動経済学が提起した命題の多くは、「直感的」には、大変受け入れやすいものであるだけに、理論的整合性と実証的検証が、今後一層進められることを期待したいと思います。

学長  伊藤 正直