【学長通信】ことば、からだ、認知
子どもが、最初のことばを発するのは、だいたい1歳ちょっと前頃だそうです。それまで「ウー」とか「アー」とかいっていたのが、聞いて意味のわかることばが発せられる、これを「初語」といいます。「初語」の対象は、まわりの大人だったり、食べ物だったり、おもちゃだったりすることが多いのですが、そのことばを聞いた人が、なんのことをいっているのかわかる、つまり、発語者と聞き手の「概念」が一致することが、「初語」の条件でしょう。
ただし、「初語」のあと、すぐに語彙が増えていくわけではありません。最初のうちは、語彙の増え方は非常にゆっくりで、月に5語とか10語のペースのようです。ところが、半年ほどたつと子どもの語彙獲得の様相は一変します。「多いときには、それこそ1日に10もの新しい語を覚えることもあると言われている。しかも、たった一度、語が使われる状況に接しただけで、次からは自分で正しくその語を使っていくことも珍しくない。まさに爆発的な勢いで語彙を獲得していくのである。そこでこの現象は語彙爆発と呼ばれる」(今井むつみ・針生悦子『言葉をおぼえるしくみ 母語から外国語まで』ちくま学芸文庫、2014年)。
こうしてある時期から子どもは、新しい語の意味を素早く推論し、それを次々と身につけていきます。考えてみると、これはとても不思議なことです。頭のなかに辞書を持っているわけでもない、誰かに意味を説明してもらうわけでもない、なのに、たった一度、その語が使われるのを聞いただけで、直ちにその語を正しい概念と対応づけることができてしまうのです。
例えば、ある人が、籠に入ったリンゴをみて、私たちが全く知らない「〇△☆#」という音声を発したとします。全く知らない外国語を想定してみてください。聴いている人は、この「〇△☆#」という音声が何を意味するのかを、すぐには判断できません。「丸いもの」という意味なのか、「赤い」という意味なのか、「食べ物」という意味なのか、それとも「リンゴ」という意味なのか。これを確定するためには、その音声がどのような状況で発声され、何を指し示しているのか、指し示したいのかを推論していくという作業が繰り返される必要があります。ところが、語彙爆発期の子どもは、そうした作業なく、あっという間に正しい概念と対応づけることができるのです。
なぜこうしたことが可能なのでしょう。かつて有力であったのは、チョムスキー(Chomsky, N.)の文法理論とそれに基づく制約理論(Theory of Constraints)という考え方でした。子ともがことばの意味を容易に学習できるのは、推論の可能性を狭めるための「制約」を、生得的に持っているからだというのです。実際に、言語習得以前の乳児が、人工物と動物を区別できたり、物体と物質を区別できたりすることが実験で確認され、この理論の正当性が証明されたかのように見えました。この実験を主導したのは、エレン・マークマン(Markman, E.)で、とくにモノを対象としたさまざまな「制約」(モノ全体やモノのカテゴリーやモノ相互の関係についての区分けの能力)が、乳児に備わっていることを明らかにしました。
こうして、子どもがそれまで考えられていたより、はるかに早くから世界を認識する能力をもち、ことばの習得を行っていることが明らかとなったのですが、それがチョムスキーやマークマンのいうように生得なものかどうかについては、その後、激しい議論が起きました。生得的な表象を仮定することなしに子どもの言語発達を説明すべきだという議論が噴出したのです。今井・佐治はこれをポスト制約理論と名付け、4つの潮流として説明しています(今井むつみ・佐治伸郎「言語習得研究のこれまでとこれから」『認知科学』第30巻第1号、2023年)。
その説明は、概要次の通りです。第1は、ことばと身体の関係への着目です。制約理論で生得的であるとみなされた表象は、言語であれ概念であれ、感覚・身体とは無関係に把握されています。これに対し、リンゴという語(=記号)が、実体としてのリンゴとして把握されるためには、見て赤くて丸く、触って固く、食べて甘くシャキシャキしているという身体を通して得た感覚を通さなくてはならない、それを通すことによってはじめて概念と記号とが結びつくと考えるのです。記号接地問題(Symbol grounding problem)ともいいます。
第2は、統計学習や神経ネットワークに関する研究が大きく進んだことです。例えば、乳児は、大人がしゃべるひと続きの言葉(連続的な音声)から、まず、単語単位での切り出しを行います。このとき、ある音の次にどのような音が現れやすいかという判断を確率的に行って、単語の切り出しを行っていることが明らかになりました。つまり、生得的制約ととらえられてきた心の働きの一部は、環境の側に埋め込まれているということを明らかにしたのです。
第3は、言語習得における人間の社会的認知能力、コミュニケーション能力の役割の強調です。発達心理学の分野での研究の進展は、乳児を含む人間が、他者に対して示すさまざまの反応を言語習得と結びつけて把握する道を開きました。これも生得的制約を否定する議論です。第4は、言語の多様性と思考の多様性の関係への着目です。制約理論は、人間の概念・遡行(そこう)は文化に関わらず共通であるというということを前提にしていました。多様に見える文法や語彙構造も、深層では同じで普遍的なものという考え方です。しかし、多様な言語に対する研究の進展により、言語的知識は非常に多くの要因によって構成されているということが明らかになってきました。
この4つの潮流について、もう少し知りたい人は、安西祐一郎他『岩波講座 コミュニケーションの認知科学1 言語と身体性』(岩波書店、2014年)や、針生悦子『ことばの育ちの認知科学』(新曜社、2021年)などを読んでください。第1の議論についてだけ一言付け加えると、最近の生成AIの急激な進歩は、この議論に新しい論点を提示しているようにみえます。記号接地問題もそのひとつで、例えば、言語系生成AIであるChatGPTは、概念と接地することなしに記号処理を行っています。しかし、画像系生成AI、音声系生成AIと統合された生成AIが登場すれば、それは記号接地をまったく行っていないのかという問題が登場します。検討すべき課題は、これからますます増えそうです。
学長 伊藤 正直