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【学長通信】「生きづらさの質」をどうとらえるか

学長通信

昨年末12月29日夜に、NHKBS1でイッセー尾形の一人芝居「ワタシたちは ガイジンじゃない!日系ブラジル人 笑いと涙の30年」を観ました(今年2月11日、NHK総合で再編集のうえ再放送されました)。1989年の出入国管理及び難民認定法(以下、入管法と略記、施行は1990年)で、「定住者」在留資格が日系3世まで与えられ、日系外国人が労働者として日本で働くことができるようになりました。これにより、多くの日系外国人が来日し、とくにブラジルでは「デカセギブーム」とも呼ばれる現象が起きました。番組は、夢を抱いて日本にやってきた日系ブラジル人の青年たちが、30年間日本で見た光景をえがいたものです。一人芝居の脚本は宮藤官九郎。


一人芝居の舞台は、日系ブラジル人が多く居住する名古屋市港区の団地広場。観客席は広場に設えたパイプ椅子で、団地住民の日系ブラジル人の人たちも多く座っていました。番組はドキュメンタリーと芝居を組み合わせたとても心に刺さるものでした。イッセー尾形は、明治時代にブラジルに移民する日本人を激励する老人、団地自治会の自治会長、日系ブラジル人とともに働く女性、同じく施設工事の現場監督、日系ブラジル人ロベルトなどを演じ分け、幕間では、一人芝居を観劇した日系ブラジル人の人生、脚本のモデルとなった団地や工場でのエピソードが、ドキュメンタリーとして紹介されていきます。番組プロデューサーの板垣淑子さんによれば、「エピソードは全て実話に基づいています。観客も実際に出来事を体験された方たちです。その反応も含めて一つのドキュメントにし、観客も出演者になっていただきました」とのことです。


1989年の入管法改正以降の在日日系ブラジル人の動向や推移、抱えてきた課題と困難については、これまでかなりの調査や研究があります。日系ブラジル人の集住地域、愛知県の豊橋市、豊田市、名古屋市、静岡県の浜松市、群馬県の太田市、大泉町などが調査対象地域でした。この番組の名古屋市港区九番団地もその一つです。


入管法改正時には5万人程度だった在日日系ブラジル人は、法改正後急増し2007年にはピークの31万人を数えます。しかし、リーマンショック後には減少に転じ、現在では21万人ほどです。その背景には、文化的社会的差異・分断がありますし、より根底には日系ブラジル人労働者の大部分が非正規労働者、派遣労働者として就業し、不況とともに真っ先に解雇されてきたことがあります。番組は、こうした事実を淡々と時にユーモアを交えて語っていきます。


在日日系ブラジル人の抱える困難については、「多文化共生」、「社会的包摂」といった文脈で検討されることが多く、それはそのものとして重要とわたしも考えます。ただ、この番組を観ながら考えたのは、少し違ったことでした。じつは、この番組で、もっとも心に刺さったのは、芝居の最後に日系ブラジル人ロベルトに扮したイッセー尾形が団地広場のベンチで隣の若い女性と交わした会話でした。30年の日本生活で孤独死に追い込まれるロベルトに対して、若い女性が「私のほうがつらい」と語るのです。


30年間のロベルトの「つらさ」を実感できない若い女性。一人芝居の最後にこの女性を登場させたことの意味をどう考えたらいいのでしょうか。この女性の語る「つらさ」、家庭や学校や地域で彼女が直面する「つらさ」があるのに、なぜロベルトの「つらさ」を実感できないのか、ロベルトに共感できないのか。先に引用した番組プロデューサーの板垣淑子さんは、「我々はまだまだ外国人の方に壁を作っています。壁の向こうに追いやられている外国人の方々にとって、それがどれほど残酷なことかを知り、日本社会の一員として受け入れる覚悟を、30年目にして持っていただくきっかけにしていただければ」とも語っています。この壁を象徴するものが最後に登場した若い女性だったのかもしれません。


ただ、私の感想は、もう少し違ったものでした。番組プロデューサーの板垣さんに倣っていえば、ロベルトも若い女性も、ともに壁の向こう側に追いやられている存在ではないかという思いです。番組を観ながら連想したのは、津村記久子の一連のお仕事小説でした。津村のお仕事小説には、働く若い女性がしばしば登場します。ただし、大企業でバリバリ働くキャリアウーマンは全くと言ってよいほど登場しません。多くは派遣や契約の非正規社員、あるいは、いわゆる一般職の事務補助社員です。男性もほぼ同様です。


『ポトスライムの舟』、『ポースケ』には、食い扶持のために、「時間を金で売る」虚しさをやり過ごす工場勤務の29歳女性、前の会社でパワハラにあって退社して睡眠障害に苦しむパートさん、会社の不条理な配置転換をしぶしぶ受け入れたOLなどが主人公となります。『この世にたやすい仕事はない』では、きつい仕事に燃え尽きてしまった36歳の女性主人公が、1年で異なる5つの仕事を経て、自分と仕事との関係を見直す過程を描きます。『ウエスト・ウイング』では、設計事務所のOL、絵が得意な小学生、土壌解析会社の若手サラリーマン、この3人の人生が雑居ビルの物置場で交差します。『エヴリシング・フロウズ』はこの後編で、前者で小学校5年生だったヒロシが中学校3年生となって登場します。いずれも、企業、地域、学校、家庭での「生きづらさ」を描いており、そこでの同質化圧力の強さと、それにどうしても同調できない人々のもつ違和感を、丁寧にすくい上げています。


夫婦プラス子供2人といった日本型近代家族、夫は会社、妻は家事育児といった性別役割分業、日本特有の女子M型雇用、総合職・一般職といった職務区分。こうした特徴がほぼ消滅した現在ですが、同質化圧力はむしろ強まっているのではないでしょうか。ロベルトが抱えてきた「つらさ」と現在の若い女性が抱える「つらさ」は、「経済的つらさ」という面では異質であっても、「精神的つらさ」という面では共通性をもっています。壁のこちら側にいる人々が、壁に穴をあける努力が必要なのはもちろんですが、壁の向こう側にいる人々が、向こう側内部にある断絶・分断を、自分自身で解いていくためには何をしたらいいのか。このことを深く考えさせられた番組でした。


学長  伊藤 正直