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【学長通信】山登りと研究と

学長通信

岩波少年文庫に『アンナプルナ登頂』という本があります。もう絶版のようですが、同じものを、現在は『処女峰アンナプルナ 最初の8000m峰登頂』(ヤマケイ文庫)で読むことができます。1950年6月、フランス遠征隊が人類史上初めて8000メートル峰の登頂に成功したその思い出を、遠征隊の隊長モーリス・エルゾーグが書きつづったものです。


ネパールへの入国から、山麓地帯の探索、登頂目標とする8000メートル峰の決定、登行ルートの研究、アタックの敢行と登頂の成功、下山の困難とカトマンズへの帰還という遠征の全行程が、8000メートル峰への敬虔なあこがれ、アタックへの限りない情熱、隊員・シェルパ間の交流などをベースに生き生きと記されており、登山とりわけ未踏峰登頂の喜びと苦しみが、ともに登山をしているかのように伝わってきます。


中学生時代にこの本を読んでから山登りに興味が湧き、近場の鈴鹿山系から、北アルプスの槍・穂高、後立山連峰、剣岳、南アルプスの北岳、仙丈ケ岳、聖岳、八ヶ岳連峰まで、中学高校生のころから大学生のころにかけて、結構あちこちの夏山に登りました。その後、時々、この『アンナプルナ登頂』を読み直していたのですが、研究生活を経過するなかで、この本で描かれている未踏峰アタックと研究論文を執筆する過程は同じようなものではないか、と思うようになりました。


少年文庫のあとがきで、訳者の近藤等は、「こうした高山の登頂を試みるのには、三つの段階があります」として、その山の山麓地帯を探検する段階、目標となる山を登るためのルートを研究する段階、いよいよ登山を試みる段階という3段階を示し、このために数年間が費やされるのが普通であると述べています。フランス遠征隊の場合は、ヒマラヤ8000メートル峰初登頂という具体的目標が定まっていたのですが、普通はまず登山目標の設定という段階が置かれることになるでしょう。


社会科学、人文科学、自然科学の間では、研究スタイルや論文執筆フォームに違いがあるため、必ずしもこの通りになるとは限りませんが、研究の過程、論文執筆の過程は、ほぼこの段階を通るといっていいように思います。まず、最初に来るのが、登山目標の設定、つまり研究テーマの設定です。鈴鹿の御在所岳に登るのか、北アルプスの剣岳や穂高に登攀するのか、それともヒマラヤの8000メートル峰にアタックするのかがまず選択されます。勿論、山登りを始めたばかりの人が8000メートル峰を目指すことが不可能なように、テーマの設定は、自分の興味や関心からだけでなく、自分の研究の蓄積水準に応じてなされることになります。この段階では、テーマの設定も必ずしも確定的なものではないでしょう。


次の段階は山麓の探索です。設定したテーマ、その周辺あるいは関連領域でどの程度の研究の蓄積があるのか、研究はどういった方向に進んでいるのか、自分のテーマが既存の蓄積のなかでどのあたりに位置付けられるのか等が、ここで検討されます。『アンナプルナ登頂』のなかで、インド測量部の作成した地図が、実際の姿とかなり異なっていたという場面が出てきます。実際に、研究をサーベイすることで、自分のテーマが、これまでにない新しい問題を取り上げようとしているのか、見過ごされていたが重要な問題にアタックしようとしているのか、それともすでにかなりの蓄積があるのかがわかります。テーマの修正や調整が行われるのはこの段階でしょう。


第3の段階は、登行ルートの研究です。いよいよテーマが確定し、アプローチの方法も決まる、私の専門の経済学の場合、理論的研究であれば、ここでどのような理論モデルが採用されるべきか、いかなる分析ツールが有効であるかという取捨選択が行われます。歴史的・実証的研究であれば、どのような資料が存在し、あるいはどういった種類の資料が蒐集されるべきか、資料蒐集がどの水準まで可能かが検討されます。具体的には、二次資料としての公刊資料や統計データの検討が行われ、それと並行して一次資料(文書類、記録類、会議録、帳簿など)の存在状況の確認、発掘作業が進められます。


最後の段階は、アタックの敢行です。理論的研究であればモデル・ビルディングが、歴史的実証的研究であれば、統計処理、一次資料と二次資料の突き合せ、資料の整序がなされ、自分が予測ないし期待していた結論を導き出すべく集中的にエネルギーが投下されることになります。しかし、実際に登ってみると、遠くからは見えなかった巨大なクレバスが存在したり、登れるはずの岩壁がオーバー・ハングの連続だったり、天候が急変したり、この段階での困難が次々に現れてきます。計算の結果がどうしても自分の期待した数値にならない、何十万円もかけて入手した資料が使い物にならない、あるはずの資料が廃棄されていたり、閲覧を拒否される、といった本当に泣きたくなるような経験は、研究者であれば、誰でも持っていることでしょう。未登攀登頂が必ず成功するとは限らないのと同様に、この段階で研究を撤退せざるをえない場合も時には出てきます。だが、さまざまな試行錯誤の末、これらの困難が突破されたとき、研究目標に到達することができるのです。


研究の過程、論文執筆の過程が、ほぼこのような段階を経るとすれば、それぞれの段階で適切な対処をすることが大事です。でも、研究も山登りと同様、いざというときにものをいうのは日ごろの鍛錬です。そして、広い意味でのチームワーク、共同と協力は欠かせません。そのための体力、知力を鍛えておきたいと思います。


学長  伊藤 正直