お知らせ - 2019年

【学長通信】市場経済について改めて考える


最近ようやく担当から離れましたが、これまでかなり長い期間にわたって、『中学社会』、『高校社会』の教科書を執筆してきました。いずれも、かなり細かいところまで教科書検定があり、個人の著書や論文のように、自由に自説を展開する訳にはいきませんでしたが、それでも、「社会」という科目が対象としている世界を、できる限りわかりやすく中学生、高校生に伝えたいと努力してきたつもりです。


担当したのは、中学も高校も、広い意味での公民的分野、もう少し狭くは経済分野で、いろいろ考えた末、やはり最初は「市場経済とは何か」から説明しようということになりました。当時の高校教科書での記述を少し引用してみます。


「きみたちが日常使っているモノのほとんどは、どこかで買い求めたものである。昔はそうではなかった。近代以前の社会では、自分たちが食べるものや着るものの多くは自分たちでつくっていた。ところが今日、ほとんどすべてのモノやサービスは商品として売買されている。企業は生産に必要な原料や材料を、他の企業から購入する。また、企業と家計の間では、消費材の売買がある、と同時に労働力の売買が行われる。きみたちの家族のだれかが会社に行って働いているとすれば、じつはそれは労働力という商品を企業に販売しているのである。このようにほとんどすべてのモノやサービスが商品となった経済を市場経済という。
 モノやサービスの値段はこの市場で決まる。自由な競争がおこなわれている市場では、価格は需要と供給のバランスによって決定される。モノが足りなければ、価格は高くなる。過剰にモノがあれば、価格は安くなる。競争相手が多ければ、売り手はかってに値段を決めることができず、市場での競争を通じて決まった価格を受け入れざるをえない。この価格、すなわち需要と供給を一致させる価格を均衡価格という。」


競争を前提とし価格をシグナルとする市場秩序の形成という教科書的な説明(教科書ですから当たり前といえば当たり前ですが)です。アダム・スミスの「見えざる手」の説明といってもいいでしょう。しかし、いうまでもなく、市場経済は万能ではありませんから、その問題点や制約を、続いて、いくつか説明することになります。


スミスは、経済学の始祖といわれ、社会的分業の優位性と効率性を明らかにしたことで有名です。「見えざる手」という表現は『諸国民の富』のなかに一箇所登場します。しかし、スミスは、それに先立つ著作『道徳情操論』のなかで、「(市場は)私的利害関心の異常で重要な追求の場である」、「公共的為政者は、正義という徳性の実践を強制するために、公共社会の力を使用する必要に迫られる。この予防手段がなければ、市民社会は……流血と無秩序の場面となったであろう」、「正義は……大建築の全体を支える主柱である」と述べています。


「市場」がそれ自体として、価格をシグナルとする「規律付け」のメカニズムをもつというのが、「見えざる手」という考え方です。しかし、スミスは、それに先立つ論考では、市場は「正義による規律付け」を必要としていると主張しています。トランプ政権、習政権の最近の動向や、ヨーロッパ統合をめぐる軋みをみていると、アダム・スミスのこの言葉を、今一度振り返る必要があるとの思いを強くします。


 

学長  伊藤 正直