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【学長通信】日本語という言語

昔読んだ本が文庫本になったりすると、つい買ってしまうことがよくあります。大岡信『日本の詩歌 その骨組みと素肌』(岩波文庫、2017)もその一冊です(ついでに、その半年前に文庫に収録された同じ著者の『うたげと孤心』も買ってしまいました)。大岡が、1994年と95年に、コレージュ・ド・フランスで行った講義録です。

 

あいかわらず内容はほとんど忘れていたのですが、菅原道真から始まり『閑吟集』で終わる、いわば「日本語が始まるとき」を論じ、ひらかなとカタカナの発明が「ひとのこころをたね」とする文芸、日本独自の文化と文明をつくりだしたことを説得的に述べています。そして、この本では、女性歌人、女性作家の存在がいかに日本詩歌史において重要であったかも、詳細に論じられています。笠女郎や和泉式部や式子内親王の和歌を取り上げ、当時の宮廷貴族を中心とする統治構造のありようがこれらの和歌を生み出したこと、そして女手といわれた仮名文字の使用こそが、自己省察的であるとともに「人間の普遍的ヴィジョンにまで」届くような表現を生み出したことが強調されるのです。

 

20年以上の間隔を経てこの本を読んでいると、しばしば、水村美苗『日本語が亡びるとき』(ちくま文庫)に連想が飛びます。こちらのほうは、「十二歳で父親の仕事で家族とともにニューヨークに渡り、それ以来ずっとアメリカにも英語にもなじめず、親が娘のためにともってきた日本語の古い小説ばかりを読み日本に恋い焦がれ続け、それでいながらなんと二十年もアメリカに居続けてしまったという経歴」の持ち主による著作で、2008年に最初に発表され、2015年に文庫になりました。

 

サブタイトルに「英語の世紀の中で」と付されているように、英語が「普遍語」となるなかで、「現地語」を脱して「国語」となった「日本語」が、グローバル化の進展によって大きな岐路に立たされていることを論じています。日本語が、それまでの「現地語」から国家を担う「国語」へと展開し、その「国語」が8世紀以来、国家と国民の知的、倫理的、美的重荷を担い得てきたこと、しかし、グローバル化による「普遍語」としての英語の浸食が、そうした役割を日本語から喪失させようとしていることを、さまざまに論じています。とても分析的で、しかもその分析が明晰に叙述されています。

 

その明晰は、富岡多恵子のそれとも、金井美恵子のそれとも、須賀敦子のそれとも、佐野洋子のそれとも違います(皆、僕の好きな作家です)。違いはどこかと考えてみると、論理性の高さというか、論理の強靭さですね。こちらも、出版当時、読みながら感嘆しきり、だったことを思い出しました。

 

言語について書かれている本、日本語について書かれている本は山のようにありますが、このふたりの著作は、論理を軸にして文芸を論じ、文芸を論じて文化や思想に至っています。しばし心地よい時間を堪能しました。

 

学長  伊藤 正直