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【学長通信】テレビ創生期の頃

60年ほど前、小学低学年から中学のはじめにかけて、ラジオやテレビに子役として出演していました。NHK名古屋放送局、当時はJOCKといっていましたが、そこが運営していた名古屋放送児童劇団(現NHK名古屋児童劇団)に応募し、採用されたことがきっかけでした。劇団員は全員、毎週1回ないし2回、NHK名古屋放送局に集められ、発声練習を行い、演技指導を受けました。まだ放送局用のビデオがきわめて高価であったこともあって、テレビは全番組が生放送で、リハーサルも、時には夜遅くまでかかりました。

 

最初に出たテレビ番組は、NHK名古屋発の「太陽の子供たち」という子供向け連続ドラマで、愛知県蒲郡の児童養護施設の物語でした。この出演のため、坊ちゃん刈りだった頭髪を丸坊主にされ、からかわれるため、学校に行くのがしばらく嫌になりました。また、生放送でしたから、養護教員役の女優さんがセリフをとちって、放送終了後プロデューサーにこっぴどく叱られ、セットの陰で泣いていたことも強く記憶に残っています。「中学生日記」(僕が出ていた頃は「中学生次郎」というタイトルでした)にも出ましたが、この番組は、その後、出演者を一般から募るようになり、50年続いたNHK名古屋の看板番組となりました。

 

テレビは生放送でしたが、ラジオはテープ録音が一般的でしたから、名古屋放送児童管弦楽団(現NHK名古屋青少年交響楽団。こちらも当時NHK名古屋が運営しており、メンバー募集がありました)と共演で、ミュージカルを録ったこともありました。途中まではうまくいっていたのに、セリフの最後で「名古屋弁」が出てしまい、プロデューサーにかなり強く叱られました(ただし、どうした訳か録り直しはしませんでした)。NHKアーカイブスに全く記録が残っていないことが残念といえば残念ですが、かりに、残っていたとしても、恥ずかしくて観られない、聞けない、のではないかと思います。

 

1950年代の後半から60年代初めにかけての時期ですから、放送局の立場からみると、ラジオからテレビへの移行期にあたります。当時、テレビは映画や舞台より下位にみられており、一緒に出演していた大人の俳優さんたちは、舞台や映画への進出を夢見ていました。その後、皇太子殿下ご成婚や東京オリンピックを経て、テレビは全盛期を迎えます。ニュースの速報性は新聞を上回り、数々の優れたドラマやドキュメンタリーも生まれました。同時に、バラエティーショーや歌番組、スポーツ番組なども次々に登場しました。クレージーキャッツ、ドリフターズ、コント55号、中三トリオ、御三家、巨人・大鵬・卵焼きなど、テレビから生まれたお茶の間のスターたちは、ある世代以上の人々にとっては、憧れの中心的存在となりました。メディアの主役の交替、それを、その端っこに立って、子供の眼から見ていたといえるでしょう。

 

今また、メディアの構造は大きな変化のただ中にあるように思われます。新聞もテレビもほとんど見ない人たちが、ある世代以下ではかなりの数に達するそうです。そうした人たちにとっては、情報は、もっぱらスマホから得る、SNSが一番の受信・発信源となっているとのことです。スターやアイドルも、テレビ以外のところから数多く誕生しています。テレビが、メディアの主役としての地位を取り戻すことは果たして可能なのか、あるいは、そうした発想自体がすでに時代錯誤となっているのか、60年前のことを思い出しながら、そんなことを考えました。

 

学長  伊藤 正直